ちょっと気まずくなっていたが、レッスン室の前の寿瑪はあっけらかんとしたもので、僕のルーティンも大きく崩れることはなかった。安堵しつつ、練習を始める。毎日一人でこなしている空間に人がいるのは少し気になるが、集中が乱れることはない。
たった一時間程度でも指を鳴らす方が重要だ。なによりも来週にコンサートがあるから少しでも練習はした方が良い、と考えたところで僕は演奏を止めた。
「ねぇ」と寿瑪に声をかける。彼も集中しているのか、意図的なのか無視していたが、数回呼び続けたらやっと顔がこちらに向いた。もう目の端は赤くなかった。さっきのあれはなんだったんだ。
「日曜はついてくるの。スケジュール送ったの見てくれただろ」
一瞬眉をひそめた寿瑪はわずかに間を開けてからうなずいた。どちらに対して首肯したのだろう。
「見た。行く。会場でいい」
「もう少し詳しく話せる? 会場で待ち合わせでいいってこと?」
「そう」と短く返して、彼は画面に意識を戻している。
やりづらい。事前に訊いておかなかったらいきなり会場に待ち伏せされている状態になるからびっくりするところだった。はぁ、とわざとらしく嘆息してからもう一曲練習しようとしたが、口の中がなんだか苦い。もう一度横目で寿瑪を盗み見る。
気になるのだ。どうしても交通費とか、昼ごはんとか、細かい経費は自腹なのかどうか。リハーサルからいるだろうし、半日以上は会場にいなければならない。その間彼はずっと撮影するつもりなのか? そもそも密着ってどこからどこまでなの?
苦さを飲み込んで、うーっと喉の奥を震わせる。こんな邪念が多い中では練習したってパフォーマンスの上達にはつながりずらい。時間はもったいないが、僕はバイオリンを置いて体の向きごと寿瑪に向けた。
「移動手段はどうするつもりかな。お昼も。なんなら夕飯だって、会場入りの時間も見せてるよね。お節介なのはわかってるけど、お金がかかるものだし無理に来なくたっていいんだよ」
「無理に?」
「だって会場は千葉にあるんだから。ここからだとどれだけかかると思う? いくら賞を取るための制作物だからって身を削ることはないんだ」
「あぁ、なるほど」
撮影をやめて寿瑪が立ち上がった。ずい、とでかい体が近づいてきて肩が縮まる。自分よりも身長が高いと威圧感があるもので、どうしても緊張感が生まれるのだ。けっして怖がっているわけではない。
「叔父が送ってくれるから。そもそもそんな些末なこと気にするべきじゃないよ。それはきみの普通とも日常ともかけ離れてる」
「い、いや、だって気になる、」
「昇降口で声をかけてきたのも、あんなのやめてくれ。俺はアマデウスからしたら空気なんだ。話しかけるな」
「な、な、なん……!」
僕はただ心配してあげただけだ。なのに叱られる義理はない。おかしいだろ。話しかけるなだって?
だったら最初に挨拶してきたのはそっちじゃないか。きみはこれからずっと僕に密着するんだから気にするに決まってるだろうが!
「ふ、ふざ、うぅっ」
こちらだって文句の一つでも言ってやろうと口を開けるが、残念ながら脳も舌もうまく動かせず、ただうめいただけに終わってしまった。いまのは絶対ジキルがでてきたんだ。撮影のためになら対象である僕を、アマデウスだって言って賞賛していた僕をこけにするんだ。
悔しい。ちょっとでも心配しちゃったのがばかばかしく思え、鼻がツンと痛くなった。そっちこそ僕のペースを乱しているのに、この、だめだ。やっぱり出てこなかった。
だったらもういい。絶対に今後は気にしてあげないし、徹底的に無視してやる。それがお望みなんだからしょうがないんだ。
バチン、とケースのロックをわざと音を立てて閉じた。質問にだって答えてやるもんか。
「もう練習終わりの時間だっけ。本当にいつも通り?」
「知るか!」
その後の授業風景を撮りに来たのも休憩時間もずっとカメラは向けられていたが、寿瑪をいないものとして扱った。むしろ不自然さすらあった気がするが、僕も頑固な方だ。一度決めたことは守るタイプである。というか彼こそ自分の授業に出ていないが大丈夫なの……。あーもう、だからやめたんだってば。弁当の白飯を勢いよくかき込んで、楽譜を広げた。
僕のような子供が大人の楽団に混ざるというのは、気を遣わせることになるのは十分知っている。ソロで演奏するよりもずっと練習が必要になる。数日前に合わせたが、そのときに発見した問題点を直せているだろうか。僕のバイオリンが要なのだ、自信を持たなければ。楽曲の理解を深めるために、楽譜に挟んでいたソネットを読み込む。
ふとカメラが足元に置かれたままで、寿瑪がいなくなっていることに気づいた。だが僕は詩を読み続けた。
あの天才が撮りたい画、ってなんだろう。
他を圧倒する神に愛されし少年バイオリニストという姿はみんなが求めている。
でもきっとだれかは天才が苦労しているところや、人知れぬ努力を見たがる人もいるはずだ。
「恐れ、弱々しく逃げるも打ちのめされ──」
楽譜を閉じた。彼の言う通りだ。余計な思考に邪魔されるべきではない。僕は天才としてふるまう使命がある。迷うことなく、彼や人々が期待しているのは〝アマデウス〟だ。
空を眺めていた寿瑪が戻ってきたのがちらっと見えた。
たった一時間程度でも指を鳴らす方が重要だ。なによりも来週にコンサートがあるから少しでも練習はした方が良い、と考えたところで僕は演奏を止めた。
「ねぇ」と寿瑪に声をかける。彼も集中しているのか、意図的なのか無視していたが、数回呼び続けたらやっと顔がこちらに向いた。もう目の端は赤くなかった。さっきのあれはなんだったんだ。
「日曜はついてくるの。スケジュール送ったの見てくれただろ」
一瞬眉をひそめた寿瑪はわずかに間を開けてからうなずいた。どちらに対して首肯したのだろう。
「見た。行く。会場でいい」
「もう少し詳しく話せる? 会場で待ち合わせでいいってこと?」
「そう」と短く返して、彼は画面に意識を戻している。
やりづらい。事前に訊いておかなかったらいきなり会場に待ち伏せされている状態になるからびっくりするところだった。はぁ、とわざとらしく嘆息してからもう一曲練習しようとしたが、口の中がなんだか苦い。もう一度横目で寿瑪を盗み見る。
気になるのだ。どうしても交通費とか、昼ごはんとか、細かい経費は自腹なのかどうか。リハーサルからいるだろうし、半日以上は会場にいなければならない。その間彼はずっと撮影するつもりなのか? そもそも密着ってどこからどこまでなの?
苦さを飲み込んで、うーっと喉の奥を震わせる。こんな邪念が多い中では練習したってパフォーマンスの上達にはつながりずらい。時間はもったいないが、僕はバイオリンを置いて体の向きごと寿瑪に向けた。
「移動手段はどうするつもりかな。お昼も。なんなら夕飯だって、会場入りの時間も見せてるよね。お節介なのはわかってるけど、お金がかかるものだし無理に来なくたっていいんだよ」
「無理に?」
「だって会場は千葉にあるんだから。ここからだとどれだけかかると思う? いくら賞を取るための制作物だからって身を削ることはないんだ」
「あぁ、なるほど」
撮影をやめて寿瑪が立ち上がった。ずい、とでかい体が近づいてきて肩が縮まる。自分よりも身長が高いと威圧感があるもので、どうしても緊張感が生まれるのだ。けっして怖がっているわけではない。
「叔父が送ってくれるから。そもそもそんな些末なこと気にするべきじゃないよ。それはきみの普通とも日常ともかけ離れてる」
「い、いや、だって気になる、」
「昇降口で声をかけてきたのも、あんなのやめてくれ。俺はアマデウスからしたら空気なんだ。話しかけるな」
「な、な、なん……!」
僕はただ心配してあげただけだ。なのに叱られる義理はない。おかしいだろ。話しかけるなだって?
だったら最初に挨拶してきたのはそっちじゃないか。きみはこれからずっと僕に密着するんだから気にするに決まってるだろうが!
「ふ、ふざ、うぅっ」
こちらだって文句の一つでも言ってやろうと口を開けるが、残念ながら脳も舌もうまく動かせず、ただうめいただけに終わってしまった。いまのは絶対ジキルがでてきたんだ。撮影のためになら対象である僕を、アマデウスだって言って賞賛していた僕をこけにするんだ。
悔しい。ちょっとでも心配しちゃったのがばかばかしく思え、鼻がツンと痛くなった。そっちこそ僕のペースを乱しているのに、この、だめだ。やっぱり出てこなかった。
だったらもういい。絶対に今後は気にしてあげないし、徹底的に無視してやる。それがお望みなんだからしょうがないんだ。
バチン、とケースのロックをわざと音を立てて閉じた。質問にだって答えてやるもんか。
「もう練習終わりの時間だっけ。本当にいつも通り?」
「知るか!」
その後の授業風景を撮りに来たのも休憩時間もずっとカメラは向けられていたが、寿瑪をいないものとして扱った。むしろ不自然さすらあった気がするが、僕も頑固な方だ。一度決めたことは守るタイプである。というか彼こそ自分の授業に出ていないが大丈夫なの……。あーもう、だからやめたんだってば。弁当の白飯を勢いよくかき込んで、楽譜を広げた。
僕のような子供が大人の楽団に混ざるというのは、気を遣わせることになるのは十分知っている。ソロで演奏するよりもずっと練習が必要になる。数日前に合わせたが、そのときに発見した問題点を直せているだろうか。僕のバイオリンが要なのだ、自信を持たなければ。楽曲の理解を深めるために、楽譜に挟んでいたソネットを読み込む。
ふとカメラが足元に置かれたままで、寿瑪がいなくなっていることに気づいた。だが僕は詩を読み続けた。
あの天才が撮りたい画、ってなんだろう。
他を圧倒する神に愛されし少年バイオリニストという姿はみんなが求めている。
でもきっとだれかは天才が苦労しているところや、人知れぬ努力を見たがる人もいるはずだ。
「恐れ、弱々しく逃げるも打ちのめされ──」
楽譜を閉じた。彼の言う通りだ。余計な思考に邪魔されるべきではない。僕は天才としてふるまう使命がある。迷うことなく、彼や人々が期待しているのは〝アマデウス〟だ。
空を眺めていた寿瑪が戻ってきたのがちらっと見えた。
