朝、玄関を開けると爽やかな空気にまったく似合わない男が家の前に立っていた。
不審者かおばけかと思って心臓の脈が止まった。なにせ顔の色が真っ黒になっているし、読めない表情がさらにわからなくなっているし、うめき声をあげていてあまりに怖すぎたからだ。不審者も間違ってはいないけれど。
「おはようございます……」
寿瑪が僕の姿を見て、絞り出すように挨拶をしてきたので「おはよう」とこれでもかと笑顔を作り返せば、目をぎゅっとつむられた。僕の微笑みはまぶしかろう。
ランニングシューズのつま先を地面に突く。寿瑪もカメラを取り出して僕を撮影しようとするが、血圧が上がりきっていないようで猫背気味の背中がさらに丸まった。まさか起きてすぐにここに来たのだろうか。髪の毛の荒れ具合ももっとひどい様子だ。倒れられたら困るが、彼の普段がわからなすぎてなんともできなかった。
「走ってもいい?」と訊けば、彼は眉を八の字にしてちょっとだけまたうめいた。いい、ということだと受け取り走り出す。
僕もルーティンが壊されるのは嫌だし、いつも通りの姿を撮影したいと言っていたのを思い出したのでスピードはいつも通りを維持した。どうせ不摂生で体力もなさそうだし置いていってやろうと思ったのに、身長さのせいだろうか、食らいついてきて悔しい。だがペースを早めるわけにはいかず、なんなくカメラを構えている男をチラっとだけ睨んでおいた。
今日から二ヶ月間の密着撮影が始まる。だがまさか朝のランニングから彼がやってくるなんて想像もしていなかった。
そもそも家に来るなんて、住所は先生から聞いたんだろうがだったら昨日の夜にやり取りをしているとき教えてほしかった。ドアを開けて姿を見つけたとき、とんでもなく悲鳴をあげそうになったからだ。抑えられたのでご近所迷惑にはならなくて済んだ。
イヤホンから流れてくる軽快な音楽に集中する。カメラが気になるから、余計なものを遮断しなければ。集中力には自信があるけれど気になるものではある。
それにしてもこんな映像を撮ったって何に使うんだか。インタビューされたとしても今はどんなことにも答えられるとは思えなかった。ペースを乱さずにいたいし、イヤホンだって外すつもりもなく、朝の気持ちいい風を感じたい。二ヶ月の期間は本当に必要なのだろうか。きっと寿瑪監督に考えがあるとしても、なにを求められているのか意図が読めなかった。
ランニングを終えて、家に着くので振り返る。彼は息を切らしていても結局追いついてきた。カメラを構えながら走るなんてどんな曲芸だ。僕はバイオリンを弾きながら走れる気がしない。よく見れば手ブレ防止の道具がカメラに付けられていた。
「また学校で」
「う、うん。気をつけて」
呼吸を整えると、寿瑪は慣れた手つきで瞬く間にカメラをしまい駅がある方向へふらふらと去っていった。
なんというか、清々しいほどに彼は僕を撮影対象としか見ていないような。普段役者やスタッフに対しどんなディレクションをしているかは知らないが、あまりに言葉をかけられなさすぎて不安になる。
「自然体、か……」
変に身構えてしまっているのは僕の方だとまた悔しさが込上がってくる。こちらもプロとして、どんな相手であっても最高のパフォーマンスを発揮すべきだと思うし、敬意を払うべきだともわかっているが慣れぬことはうまくいかない。
いつまでもわがままに理想と違うなんて駄々をこねたらダメだ。ジキルでもハイドでも実際は作品の出来には関係ない。寿瑪という男はずっと彼一人なのだから。
いや。けどさ、アマデウスって呼んでくるわりには僕に敬意がなさそうじゃないか?
いつもと同じ時間に無事に学校に到着すると、昇降口に宣言通り彼もいた。ほかの生徒たちもおぼつかなさそうに立っている寿瑪を一瞥すると怖がって避けている。もう何度も特徴を説明するのも面倒くさいが、とにかく彼の様相が朝に似合わないからだ。芸術科のクラスメイトもぎょっと目を丸くしていた。
「驚かれてるけど、気にならないの」
予定と違うことだから、僕だって声をかけるのはなるべくしたくない。しかしそうしなければいけない気がしてつい呆れ声が出ていた。通り過ぎる生徒たちからの視線やコソコソと噂されているのは無視する。どちらにせよカメラのレンズはずっとこっちを向いているし。僕からの問いに対して寿瑪はため息で答えた。
「いつもは遅刻ギリギリだから、珍しがってるだけ」
「そう。だったら明日からはレッスン室の前で待ってなよ。迷惑になってるみたいだから」
「そういう日もあると思う」
足首がぐきっと折れかけた。咳ばらいをして、こちらの意図が伝わらなかったことにがっかりしつつげた箱に靴を入れる。上履きを下に落とすとちょうど寿瑪の足に当たってしまった。
「ごめん。そもそもそこでデクの棒しているからだよ」
急いで退かして履く。寿瑪からまた意味のわからない返しが来ると思ったのにまったく反応がなく、もしや怒り心頭したのか、と心配になり下から顔を覗き込んだ。
ひゅ、と喉を切るように息を吸った。彼の目が大きく開かれ、僕をじっと見つめていたのだ。それに目の端が真っ赤に染まっている。あぁ、クマもひどいものだ。まるで一週間以上は寝ていないのではと恐ろしくなる。
「え、ど、どうし」
思わずおびえたような声を出していて、あ、と口を手で押さえた。ただ驚いただけなのに怯えたとか変な誤解を招きそうな反応をしてしまった。周囲の生徒も怪訝な表情でこちらを気にしている。すぐに誤魔化すために彼の肩を叩いた。
僕は別に彼に対してなんとも感じてはいないんだから。
「け、血圧低いんだ~。ちょっと、なにか言えって」
僕の苦労もむなしく、寿瑪は大げさに肩を跳ねさせてカメラを仕舞うとどこかに走って行った。
残された側はこういうときどういう態度でいればいいのかさっぱり思いつかない。さらにこそこそと周りが話し始めたので、僕もいてもたってもいられずレッスン室へと急ぐことにした。
不審者かおばけかと思って心臓の脈が止まった。なにせ顔の色が真っ黒になっているし、読めない表情がさらにわからなくなっているし、うめき声をあげていてあまりに怖すぎたからだ。不審者も間違ってはいないけれど。
「おはようございます……」
寿瑪が僕の姿を見て、絞り出すように挨拶をしてきたので「おはよう」とこれでもかと笑顔を作り返せば、目をぎゅっとつむられた。僕の微笑みはまぶしかろう。
ランニングシューズのつま先を地面に突く。寿瑪もカメラを取り出して僕を撮影しようとするが、血圧が上がりきっていないようで猫背気味の背中がさらに丸まった。まさか起きてすぐにここに来たのだろうか。髪の毛の荒れ具合ももっとひどい様子だ。倒れられたら困るが、彼の普段がわからなすぎてなんともできなかった。
「走ってもいい?」と訊けば、彼は眉を八の字にしてちょっとだけまたうめいた。いい、ということだと受け取り走り出す。
僕もルーティンが壊されるのは嫌だし、いつも通りの姿を撮影したいと言っていたのを思い出したのでスピードはいつも通りを維持した。どうせ不摂生で体力もなさそうだし置いていってやろうと思ったのに、身長さのせいだろうか、食らいついてきて悔しい。だがペースを早めるわけにはいかず、なんなくカメラを構えている男をチラっとだけ睨んでおいた。
今日から二ヶ月間の密着撮影が始まる。だがまさか朝のランニングから彼がやってくるなんて想像もしていなかった。
そもそも家に来るなんて、住所は先生から聞いたんだろうがだったら昨日の夜にやり取りをしているとき教えてほしかった。ドアを開けて姿を見つけたとき、とんでもなく悲鳴をあげそうになったからだ。抑えられたのでご近所迷惑にはならなくて済んだ。
イヤホンから流れてくる軽快な音楽に集中する。カメラが気になるから、余計なものを遮断しなければ。集中力には自信があるけれど気になるものではある。
それにしてもこんな映像を撮ったって何に使うんだか。インタビューされたとしても今はどんなことにも答えられるとは思えなかった。ペースを乱さずにいたいし、イヤホンだって外すつもりもなく、朝の気持ちいい風を感じたい。二ヶ月の期間は本当に必要なのだろうか。きっと寿瑪監督に考えがあるとしても、なにを求められているのか意図が読めなかった。
ランニングを終えて、家に着くので振り返る。彼は息を切らしていても結局追いついてきた。カメラを構えながら走るなんてどんな曲芸だ。僕はバイオリンを弾きながら走れる気がしない。よく見れば手ブレ防止の道具がカメラに付けられていた。
「また学校で」
「う、うん。気をつけて」
呼吸を整えると、寿瑪は慣れた手つきで瞬く間にカメラをしまい駅がある方向へふらふらと去っていった。
なんというか、清々しいほどに彼は僕を撮影対象としか見ていないような。普段役者やスタッフに対しどんなディレクションをしているかは知らないが、あまりに言葉をかけられなさすぎて不安になる。
「自然体、か……」
変に身構えてしまっているのは僕の方だとまた悔しさが込上がってくる。こちらもプロとして、どんな相手であっても最高のパフォーマンスを発揮すべきだと思うし、敬意を払うべきだともわかっているが慣れぬことはうまくいかない。
いつまでもわがままに理想と違うなんて駄々をこねたらダメだ。ジキルでもハイドでも実際は作品の出来には関係ない。寿瑪という男はずっと彼一人なのだから。
いや。けどさ、アマデウスって呼んでくるわりには僕に敬意がなさそうじゃないか?
いつもと同じ時間に無事に学校に到着すると、昇降口に宣言通り彼もいた。ほかの生徒たちもおぼつかなさそうに立っている寿瑪を一瞥すると怖がって避けている。もう何度も特徴を説明するのも面倒くさいが、とにかく彼の様相が朝に似合わないからだ。芸術科のクラスメイトもぎょっと目を丸くしていた。
「驚かれてるけど、気にならないの」
予定と違うことだから、僕だって声をかけるのはなるべくしたくない。しかしそうしなければいけない気がしてつい呆れ声が出ていた。通り過ぎる生徒たちからの視線やコソコソと噂されているのは無視する。どちらにせよカメラのレンズはずっとこっちを向いているし。僕からの問いに対して寿瑪はため息で答えた。
「いつもは遅刻ギリギリだから、珍しがってるだけ」
「そう。だったら明日からはレッスン室の前で待ってなよ。迷惑になってるみたいだから」
「そういう日もあると思う」
足首がぐきっと折れかけた。咳ばらいをして、こちらの意図が伝わらなかったことにがっかりしつつげた箱に靴を入れる。上履きを下に落とすとちょうど寿瑪の足に当たってしまった。
「ごめん。そもそもそこでデクの棒しているからだよ」
急いで退かして履く。寿瑪からまた意味のわからない返しが来ると思ったのにまったく反応がなく、もしや怒り心頭したのか、と心配になり下から顔を覗き込んだ。
ひゅ、と喉を切るように息を吸った。彼の目が大きく開かれ、僕をじっと見つめていたのだ。それに目の端が真っ赤に染まっている。あぁ、クマもひどいものだ。まるで一週間以上は寝ていないのではと恐ろしくなる。
「え、ど、どうし」
思わずおびえたような声を出していて、あ、と口を手で押さえた。ただ驚いただけなのに怯えたとか変な誤解を招きそうな反応をしてしまった。周囲の生徒も怪訝な表情でこちらを気にしている。すぐに誤魔化すために彼の肩を叩いた。
僕は別に彼に対してなんとも感じてはいないんだから。
「け、血圧低いんだ~。ちょっと、なにか言えって」
僕の苦労もむなしく、寿瑪は大げさに肩を跳ねさせてカメラを仕舞うとどこかに走って行った。
残された側はこういうときどういう態度でいればいいのかさっぱり思いつかない。さらにこそこそと周りが話し始めたので、僕もいてもたってもいられずレッスン室へと急ぐことにした。
