学校の課題も終え、もろもろへの返信と確認も済ませると時刻は十一時を過ぎていた。疲れ切った体にはシャワーの温かさと柔らかく肌が湯に叩かれるのが気持ちがいい。
すっきりした体をいたわろうとベッドに倒れこんだ。充電をしていたスマホの角が頭に当たり、あ、ともぞもぞと動き手に取る。一か所だけ連絡するのを忘れていたのを思い出したからだ。
寿瑪とのトーク画面を開き、このために母から共有してもらった画像をトーク欄に貼り付け、文字を打ち込むのは億劫だからマイクのボタンを押した。もう指が重くてだるくてしょうがない。
「朝は五時に起きてランニング、七時に学校について朝練、カリキュラムは先生に訊いて、書くの面倒くさい。五限まで終わったらレッスンで、予定がなければジムに行く。十九時には家に帰ってご飯食べてまた練習。これが基本的な一日」
もう一度マイクマークを押し、文章に書きあげられたものを送信した。我ながらなんとも華がなく練習ばかりの日々である。
「休日も予定がなければ練習してる。でもコンサートとか公演があるから、それに合わせて変わるし、ちょうど今週は日曜日に管弦楽団にゲストとして参加するから忙しいかも」
もしかしてしばらくはそういう場にもついてくるのだろうか。だったら移動費用や経費は学校から出してもらえるのか自腹なのか、どちらにせよ大変だなと少し心配になる。いくら作品作りに必要だとしても、たかが高校生には大きい負担だろう。いまならまだ企画を中止することもできるはずだ。
ブブ、と耳元でスマホのバイブレーションが聞こえて枕にうずめていた顔をわずかに動かした。スタンプがひとつだけ送られてきている。クリエーティブなことなど知らない僕のお節介な心配も、すべてお見通しの上で覚悟していると言われたような気がして耳が熱くなった。外野からの無責任なアドバイスがどれだけ恥ずかしいものかわかっているのに、僕はそれをあの天才にむけてしまったことを悔いる。
『でも』と遅れて文字が送られてきた。書き込み中の表示がしばらく消えずにぴこぴこと動き続けた。
『朝きつ。映画おさめしてよかった』
帰り際にも言っていた言葉に引っかかる。映画おさめ、ってなんだろう。モーツァルトの旋律に惚けるときのような眠気に意識をただよわせていたせいで、うっかり呟いたものが音声入力されていたらしく送信されてしまった。あ、と慌てて消そうとしたが既読がついた。
『今日は五本。昨日は六本。休みの日ならもっと』
「まさか見た本数……?」
だとしたら一体どうやって時間を捻出しているんだ。映画ってだいたい二時間ほどあるはずで、六本なら十二時間から十三時間が必要になる。学校にいる間の八時間ほどは除くとしたら、一日に使える十六時間になるが、食事や睡眠などの時間も確保しなければいけない。計算が合わないじゃないか。
彼に初めて会ったとき、机に突っ伏してて寝ていたのを思い出した。クラスメイトからもほとんどその体勢だと聞いた。いつの間にか教室にいる。普段はふらっと消えてなにをしているのかだれも知らず、クラスメイトと会話しているところもほとんど見たことがない、と。だから寿瑪はおばけと呼ばれている。
『人間が一日に使える時間はたったの二十四時間しかない。それでも足りないのに、しばらくはきみに費やすからおさめてきた』
新調した弦を張り直したあとに指で弾くと、線の強度によりひきつるような痛みが指に残る。寿瑪は何気なく言ったのかもしれない。けれどその言葉は僕には柔らかくなっていた肌を引き裂かんと牙をむいた弦みたいだった。揺らして鳴らしたのは僕だ。
はぁ、とため息を長く吐いてからスマホの画面を消して布団を頭までかぶった。
どこか懐かしい匂いがに鼻ついた気がして、うっすらと意識が戻ってきた。
目をゆっくりあと開けるとかすんだ視界の先には子供のころに住んでいた家があった。自分の体も小さくなっているのが窓ガラス越しに写ったので気づき、わっと声をあげてみたが、なにをそんなに驚くことだったのかすぐにわからなくなった。
いつも通りにバイオリンと一緒に庭に出て、気持ちのいい春風に当たりながら踏面台に楽譜を置く。お気に入りのきらきら星を鼻歌交じりに演奏した。普段は散歩している犬が観客なのだけど、その日は違った。
見かけたことのない少年が棚の向こうからこちらをじっと眺めていた。
あ、と目があう。恥ずかしさが込みあがってきて思わず演奏を止めると、少年が慌てて手をばたつかせてから「気にしないで」と叫んだ。
「聞かせて。いまのはなに?」
「きらきら星……」
「それ、なんていうの」
「バイオリンだよ」
ジェスチャーで弓を弾く動きをした彼の問いに素直に答える。動作をまねして音を鳴らせば、少年の目が大きく開いて頬が赤くなった。
「映画で見た!」と彼が柵を掴んでまた叫んだ。
無理やり乗り越えてきて壊れたら怒られるのは僕だ。だから入口の方へ誘導して庭に招いた。彼は首も手足もひょろりと長くて、幼い言動にしては妙な色気というか、大人っぽさがあった。キレ長の目は黒髪にかかっているし、見えづらくないのかな。日に焼けた浅黒い肌が健康的で普段から外で遊んでいるのがわかる。対して僕は青白かった。けがをしないようにボール遊びなんてもってのほかだし、ほとんど室内で練習に明け暮れているから。
じろじろと観察するように見られるが不快感はなぜかない。からかうつもりではなく、純粋な興味を向けられているのが伝わってきたからだろう。それに彼は決してバイオリンに触ってこようとはしなかった。安心と信用につながったのかもしれない。だから用意していたお菓子をあげてみると、彼は顎の細さからは想像できなかった大きい口で食べた。
「なんの映画? 面白かった?」
「えっとね、アマデウスってやつ。音楽の映画だった」
「それなら知ってる! モーツァルトの話だ」
自分が唯一きちんと見たことのあるタイトルが出てきて喜びから、演奏をやめてバイオリンを頬から離す。少年も通じたのがうれしかったのか、何度も首を縦に振って笑ってくれた。前歯が抜けていた。
それならと僕は今度はモーツァルトの曲を披露してみる。少年が熱い拍手を送ってくれる。一生懸命聞いてくれる姿に胸の奥がジンジンと熱くなってきて、覚えたての曲をたくさん弾いた。曲名なんか知らなくても少年はどれにも同じ熱量で絶賛し、両手の親指と人差し指で四角形を作り、僕をその中におさめている。
なにをしているのか、問うのはなんだかためらってしまった。少年がとても真剣な目で枠越しに僕を見つめていてさらに胸がぎゅっと締まる感覚に戸惑う。
「アマデウス、どういう意味か知ってる?」
不意に訊かれて弓を止めた。少年が地面に座ろうとしていたので、バイオリンは机の上に置いて、慌てて父が設置してくれたブランコに連れて行き二人で腹を下ろす。
「天才って意味。神様から才能を与えられた人。お母さんが言ってた」
「へぇ、モーツァルトってすごいんだ。そういう人って現実にもいるのかな」
「え、あの」
現実にも、って。なんて言えばいいか困った。ならさっき弾いたのもやっぱりなにかはよく知らなかったらしい。
「実際にいた人だよ」と僕がもじもじしながら伝えれば、彼は首を傾げた。
「でも映画はフィクションだろ。役者の人が登場人物を演じてて、カメラで撮影してるんだよ。だからあれは現実じゃない」
「え? う、うーん。そういわれるとたしかに……でもあの話は実際にあったことだから、モーツァルトはいたんだって言いたくて……」
「あぁ、なるほど」と少年がうなずいてなにやらまた考え込んでいる。その横顔は子供らしさが引っ込み、楽譜を読み込む父と同じだった。だがその状態で黙り始めてしまったからブランコを揺らす。
こういうタイプの人のことを僕はよく知っている。どんな言菜をかけてもけっしてこっちに気づかないし、独自の世界で正解が出るまで悩み続けるのだ。だが少年は案外早くに思いついたらしい。
「だったらきみはモーツァルトなの?」
「ふん? なんで?」
「だってさっきのバイオリン、すごくうまかったから。音を聞いてただけなのにいろいろ見えたよ。すげーってなった。だからきみはモーツァルトだろ。アマデウスだ」
「ぼ、僕は違うよ。ただのかなとだよ。モーツァルトだなんて」
「かなとってアマデウスの名前?」
「アマ、ってもしやそれ僕のこと言ってるの? や、やめてね。絶対にだめだから」
「あはは、照れてる。俺の名前はね──」
言いかけたところで少年がパッと外の方へ顔を向けた。まるでこちらへの興味を一切なくしたみたいに立ち上がり、「いま行く!」とだれかに返事をしてから名残惜しさのかけらもなく走り去っていった。
残された僕はブランコから立ち上がり、置いていたバイオリンを手に取る。それは数分の間に妙に小さくなっていた。窓に写った自分の姿は背が伸び、きらきらと星が輝くようだった瞳には影が落ちていた。
すっきりした体をいたわろうとベッドに倒れこんだ。充電をしていたスマホの角が頭に当たり、あ、ともぞもぞと動き手に取る。一か所だけ連絡するのを忘れていたのを思い出したからだ。
寿瑪とのトーク画面を開き、このために母から共有してもらった画像をトーク欄に貼り付け、文字を打ち込むのは億劫だからマイクのボタンを押した。もう指が重くてだるくてしょうがない。
「朝は五時に起きてランニング、七時に学校について朝練、カリキュラムは先生に訊いて、書くの面倒くさい。五限まで終わったらレッスンで、予定がなければジムに行く。十九時には家に帰ってご飯食べてまた練習。これが基本的な一日」
もう一度マイクマークを押し、文章に書きあげられたものを送信した。我ながらなんとも華がなく練習ばかりの日々である。
「休日も予定がなければ練習してる。でもコンサートとか公演があるから、それに合わせて変わるし、ちょうど今週は日曜日に管弦楽団にゲストとして参加するから忙しいかも」
もしかしてしばらくはそういう場にもついてくるのだろうか。だったら移動費用や経費は学校から出してもらえるのか自腹なのか、どちらにせよ大変だなと少し心配になる。いくら作品作りに必要だとしても、たかが高校生には大きい負担だろう。いまならまだ企画を中止することもできるはずだ。
ブブ、と耳元でスマホのバイブレーションが聞こえて枕にうずめていた顔をわずかに動かした。スタンプがひとつだけ送られてきている。クリエーティブなことなど知らない僕のお節介な心配も、すべてお見通しの上で覚悟していると言われたような気がして耳が熱くなった。外野からの無責任なアドバイスがどれだけ恥ずかしいものかわかっているのに、僕はそれをあの天才にむけてしまったことを悔いる。
『でも』と遅れて文字が送られてきた。書き込み中の表示がしばらく消えずにぴこぴこと動き続けた。
『朝きつ。映画おさめしてよかった』
帰り際にも言っていた言葉に引っかかる。映画おさめ、ってなんだろう。モーツァルトの旋律に惚けるときのような眠気に意識をただよわせていたせいで、うっかり呟いたものが音声入力されていたらしく送信されてしまった。あ、と慌てて消そうとしたが既読がついた。
『今日は五本。昨日は六本。休みの日ならもっと』
「まさか見た本数……?」
だとしたら一体どうやって時間を捻出しているんだ。映画ってだいたい二時間ほどあるはずで、六本なら十二時間から十三時間が必要になる。学校にいる間の八時間ほどは除くとしたら、一日に使える十六時間になるが、食事や睡眠などの時間も確保しなければいけない。計算が合わないじゃないか。
彼に初めて会ったとき、机に突っ伏してて寝ていたのを思い出した。クラスメイトからもほとんどその体勢だと聞いた。いつの間にか教室にいる。普段はふらっと消えてなにをしているのかだれも知らず、クラスメイトと会話しているところもほとんど見たことがない、と。だから寿瑪はおばけと呼ばれている。
『人間が一日に使える時間はたったの二十四時間しかない。それでも足りないのに、しばらくはきみに費やすからおさめてきた』
新調した弦を張り直したあとに指で弾くと、線の強度によりひきつるような痛みが指に残る。寿瑪は何気なく言ったのかもしれない。けれどその言葉は僕には柔らかくなっていた肌を引き裂かんと牙をむいた弦みたいだった。揺らして鳴らしたのは僕だ。
はぁ、とため息を長く吐いてからスマホの画面を消して布団を頭までかぶった。
どこか懐かしい匂いがに鼻ついた気がして、うっすらと意識が戻ってきた。
目をゆっくりあと開けるとかすんだ視界の先には子供のころに住んでいた家があった。自分の体も小さくなっているのが窓ガラス越しに写ったので気づき、わっと声をあげてみたが、なにをそんなに驚くことだったのかすぐにわからなくなった。
いつも通りにバイオリンと一緒に庭に出て、気持ちのいい春風に当たりながら踏面台に楽譜を置く。お気に入りのきらきら星を鼻歌交じりに演奏した。普段は散歩している犬が観客なのだけど、その日は違った。
見かけたことのない少年が棚の向こうからこちらをじっと眺めていた。
あ、と目があう。恥ずかしさが込みあがってきて思わず演奏を止めると、少年が慌てて手をばたつかせてから「気にしないで」と叫んだ。
「聞かせて。いまのはなに?」
「きらきら星……」
「それ、なんていうの」
「バイオリンだよ」
ジェスチャーで弓を弾く動きをした彼の問いに素直に答える。動作をまねして音を鳴らせば、少年の目が大きく開いて頬が赤くなった。
「映画で見た!」と彼が柵を掴んでまた叫んだ。
無理やり乗り越えてきて壊れたら怒られるのは僕だ。だから入口の方へ誘導して庭に招いた。彼は首も手足もひょろりと長くて、幼い言動にしては妙な色気というか、大人っぽさがあった。キレ長の目は黒髪にかかっているし、見えづらくないのかな。日に焼けた浅黒い肌が健康的で普段から外で遊んでいるのがわかる。対して僕は青白かった。けがをしないようにボール遊びなんてもってのほかだし、ほとんど室内で練習に明け暮れているから。
じろじろと観察するように見られるが不快感はなぜかない。からかうつもりではなく、純粋な興味を向けられているのが伝わってきたからだろう。それに彼は決してバイオリンに触ってこようとはしなかった。安心と信用につながったのかもしれない。だから用意していたお菓子をあげてみると、彼は顎の細さからは想像できなかった大きい口で食べた。
「なんの映画? 面白かった?」
「えっとね、アマデウスってやつ。音楽の映画だった」
「それなら知ってる! モーツァルトの話だ」
自分が唯一きちんと見たことのあるタイトルが出てきて喜びから、演奏をやめてバイオリンを頬から離す。少年も通じたのがうれしかったのか、何度も首を縦に振って笑ってくれた。前歯が抜けていた。
それならと僕は今度はモーツァルトの曲を披露してみる。少年が熱い拍手を送ってくれる。一生懸命聞いてくれる姿に胸の奥がジンジンと熱くなってきて、覚えたての曲をたくさん弾いた。曲名なんか知らなくても少年はどれにも同じ熱量で絶賛し、両手の親指と人差し指で四角形を作り、僕をその中におさめている。
なにをしているのか、問うのはなんだかためらってしまった。少年がとても真剣な目で枠越しに僕を見つめていてさらに胸がぎゅっと締まる感覚に戸惑う。
「アマデウス、どういう意味か知ってる?」
不意に訊かれて弓を止めた。少年が地面に座ろうとしていたので、バイオリンは机の上に置いて、慌てて父が設置してくれたブランコに連れて行き二人で腹を下ろす。
「天才って意味。神様から才能を与えられた人。お母さんが言ってた」
「へぇ、モーツァルトってすごいんだ。そういう人って現実にもいるのかな」
「え、あの」
現実にも、って。なんて言えばいいか困った。ならさっき弾いたのもやっぱりなにかはよく知らなかったらしい。
「実際にいた人だよ」と僕がもじもじしながら伝えれば、彼は首を傾げた。
「でも映画はフィクションだろ。役者の人が登場人物を演じてて、カメラで撮影してるんだよ。だからあれは現実じゃない」
「え? う、うーん。そういわれるとたしかに……でもあの話は実際にあったことだから、モーツァルトはいたんだって言いたくて……」
「あぁ、なるほど」と少年がうなずいてなにやらまた考え込んでいる。その横顔は子供らしさが引っ込み、楽譜を読み込む父と同じだった。だがその状態で黙り始めてしまったからブランコを揺らす。
こういうタイプの人のことを僕はよく知っている。どんな言菜をかけてもけっしてこっちに気づかないし、独自の世界で正解が出るまで悩み続けるのだ。だが少年は案外早くに思いついたらしい。
「だったらきみはモーツァルトなの?」
「ふん? なんで?」
「だってさっきのバイオリン、すごくうまかったから。音を聞いてただけなのにいろいろ見えたよ。すげーってなった。だからきみはモーツァルトだろ。アマデウスだ」
「ぼ、僕は違うよ。ただのかなとだよ。モーツァルトだなんて」
「かなとってアマデウスの名前?」
「アマ、ってもしやそれ僕のこと言ってるの? や、やめてね。絶対にだめだから」
「あはは、照れてる。俺の名前はね──」
言いかけたところで少年がパッと外の方へ顔を向けた。まるでこちらへの興味を一切なくしたみたいに立ち上がり、「いま行く!」とだれかに返事をしてから名残惜しさのかけらもなく走り去っていった。
残された僕はブランコから立ち上がり、置いていたバイオリンを手に取る。それは数分の間に妙に小さくなっていた。窓に写った自分の姿は背が伸び、きらきらと星が輝くようだった瞳には影が落ちていた。
