バクン、とドアが閉まる音をしっかり聞いて丸椅子に腰を下ろす。防音室の密閉された空間はまさしく世間から隔絶されている気がして安心する。少しの間深呼吸をして、バイオリンを取り出した。軽くチューニングをして、ピチカートできらきら星を鳴らす。
まだ昼休みは終わっていないけれど、早く練習がしたくてだれかとご飯を食べたり話したりなどはまったくしない。避けている、と勘違いされるのが嫌だったから藤元さんにお願いして弁明をしてもらったが、きっと印象は良くなかっただろう。「天才は違うね」と言ってきた人は天然だったのか、やっかみだったのかは僕にはわからなかった。
興味を沸かすことすら煩わしい。そんなひまがあったら己の腕を磨く時間にあてた方が有意義だ。時間は誰にも平等に与えられているが、有限である。
運指の確認と訓練を済ませ、練習曲をいくつか演奏する。電子メトロノームが刻むリズムに合わせ、弓で弦を弾いたが感触が良くない。そろそろ弓毛を替える時期だ。音を確かめてみるが、あまり真面目に聞き込んでしまうと〝やつ〟が耳の裏に現れるから注意が必要だ。
パガニーニは奏者としての腕を得るために悪魔に魂を売った、という逸話がある。もちろん真偽はおろか正気の沙汰だとは思えない。だがそう信じられてしまうほど彼は名手だったということだ。
もし耳元のそばで邪魔するように軋み音を鳴らすやつの正体がパガニーニをそそのかした悪魔であったら、魂を渡せば頭上を増たらしく覆う天井を取り払ってくれるのだとしたら。考えることもあったが、残念ながらクリスチャンですらないのだからくだらない妄想でしかなかった。
僕のようなもののところにやってきて何の得がある。この軋みは僕から出ている音だ。
一通り弾き切ればちょうど昼休みが終わったころで、集中していたのかチャイムさえ聞こえなかった。いくら防音室だからといって放送は入るものなのに、これじゃなにかあっても逃げ遅れて僕だけ死んでしまうだろう。
バイオリンを拭こうとケースに手を伸ばしたところで、ふと外からなにかの気配を感じ取って脈拍がスタッカートになる。
ま、まさか本当に悪魔が来りて契約に? ……いやどう考えても先生がいらしたんだろ。
リズムを整えるために一度休符を挟んでから、僕はドアの方へしっかり視線を向けた。
しかしそのまま休符が連続した。楽譜に書いてあった音符がすべて落ちたように呼吸が止まり、さながら四分三十三秒が演奏されたかのよう。
唯一外が見えるようになっているドア。そこには悪魔じゃなくておばけが張り付いていた。
僕がそちらの存在に気づいたおかげかおばけが、癖なのか左右に二度ほど揺れてからドアノブに手をかけたのが見えたので「しまった」と呟く。中に入ってこられたら逃げ場がない。バイオリンを抱え込んで端っこに背中をぴったりとくっつける。容赦なくガチャ、とドアが開いた。鍵はかけられない仕様になっているのがこんなに恨めしくなるとは、枠に頭がぶつかりそうなほどぎりぎりをすり抜けて入ってきた寿瑪が頭を掻く。
「返事。なんでくれないかなって」
「あとで確認して送るつもりだった。あんな張り付いてたらさすがに驚くんだけど」
「ん? あー、音、聞こえてこないのか試してた。防音ってすごいね」
ズレにゾワゾワと鳥肌が立つ。タイミングとか、音とか、とにかくそろわずに進行しているのが気持ちが悪い。ごほんと咳をしつつ壁から少し体を離す。どうやら顎を掴んでくることはなさそうだ。
「用はそれだけですか。練習があるので出て行ってほしいんですけど」
「いや、せっかく来たし、俺も撮影の確認をしたい。スマホしかないや。嫌だよね」
「どうしてこっちに聞く」
そういうのはそちら側のこだわりだろ、とツンケンした態度を保った。顎の件で警戒するが、こちらに危害を加える気はないのはわかってはいる。こんなぼさぼさのでくの坊みたいな人に憧れを持っていてあまつさえ心の支えにしているだなんて悟られてたまるか、と反骨心を見せているだけだ。
この寿瑪とあのスズメはジキルとハイド的なものだと納得させている。もちろん、これは僕のわがままで同一人物だというのも理解している。
寿瑪は不服そうにスマホを構えてあれこれ動き回り、構図が決まったのか椅子を持って行って腰を下ろした。スマホの裏にはステッカーが所狭しと貼られている。なにかの映画のマスコット、だったっけ。題名だったり、彼のおばけと呼ばれるほどの静けさに比べたらとても賑やかだ。
ぽこんと録画開始の合図が聞こえたので思わず身構えれば、落ち着いた声のトーンをさらに落として「自然に」と言われた。こうして映像を撮られるのも初めてなのだ、意識するに決まっているじゃないか。だがもういい加減遊んでばかりいてはだめだ。譜面台にタブレットを置き、スマホからもらった音源を流す準備をする。
「それは?」と寿瑪が興味を示した。視線は画面に固定されているが、意識がこちらにあるというのが伝わったのが不思議だった。声色だろうか。
「ビバルディの四季。知ってる?」
冬の一節だけ奏でてみると寿瑪が顔をあげた。聞いたことがあるようだ。返事を待ってみる。
「知ってる。映画で使われてた。たとえば、」
そこでハ、と寿瑪が画面に視線を戻した。言葉も止まってしまう。なんだ、残念なの。せっかくハイドが顔を出してきたっていうのに、一瞬だけだった。新世界のシンバルかよ。
「いまのは冬。四季っていうくらいだから春、夏、秋もある。やっぱり映画が好きなんだ?」
「きみがクラシックを嫌いじゃなければ、そう」
「へぇ」とほくそえんでから、僕が知っている映画のテーマ曲をいたずらのつもりで弾いてみる。発表会で覚えたものだ。申し訳ないが、ほとんど映画鑑賞はできたためしがなく、こうした音楽を知らない限りは触れてこなかった。思った通り、寿瑪の顔の周りにちかちかと星が瞬き始める。
「スピルバーグ……」
温度感をともなった独り言だった。たしか監督の名前だったかな。どうせならアラン・デュカスにしておけばよかったと謎の反省が生まれてきたので演奏をやめる。さて、ジキルはいつになったら撮影を終えて帰るのかな。しかし気にしている暇もない。一コマ分は自主練習をする予定だから。
やっと音源を流し、電子メトロノームに合わせて春の第一楽章を始めた。四季のすべてをやると四十分にも及ぶため、通すのは時間が必要だ。そこまで付き合わせるつもりもない。頃合いを見てカメラを構えている彼を追い出そう。
寿瑪は画面に視線を合わせ、自然と呼吸を殺していた。配慮ではなく、おそらく理想の映像のためだろう。本当におばけになったみたいに微動だにせず、もしくは野生動物を狙うハンターのごとく静けさ。雑音のひとつも入れたくないとみた。助かるので無視して演奏を続けた。
それでもたまに彼の方を見ると、顔の周りには相変わらず星が散らついている。音色に合わせて色が変わっているような気がして面白く、うっかりすると変な癖を演奏に出してしまいそうだ。きっと本人は顔の近くがあんなに賑やかになっているとは知らないだろう。
なにせこれは僕がそう感じているだけだからだ。なんとなくそう考えて見たら楽しくて、つい癖づいて続けてしまっていた。でもこんなにはっきり感じたのは、彼が初めてかも。
長い演奏を終え、すぐにバイオリンに付いた汚れを拭きあげる。寿瑪も録画を止め、眉間にめいっぱいシワを寄せながら映像の確認を始めたらしい。
「外でやったら?」と声をかけてみれば、彼は首を軽く横に振った。
「ここ、集中できていい。画角も悪くない。アマデウスの生演奏も独り占めできたし、うれしい」
パチパチと拍手が送られてきた。礼をしつつ、楽譜をめくった。感情が動いてくれたのなら僕だってうれしい。とくに彼みたいな何を考えているのかよくわからない人に感想を貰えるのはなかなか栄養になるものだ。だが絆されてはダメ。時計を確認してから肩をすくめた。
「そらそろ自主練も終わりだから、帰ってください」
「え、やだ。まだ聞きたい」
「そもそも授業は入ってないの?」
「あ。忘れてた」
「わ、忘れてた?」
最初に聞かなかった僕も悪いが、まさかサボってきたのか!?
芸術科の時間割なんか把握も予想もできないし、そこは自分で管理しろよ、とメトロノームを止めてからドアを開ける。ピ、と外を指さしたが寿瑪は呆けて僕を見つめたままスマホから流れる音を聞いていた。
「いや早く教室に帰って先生に謝ってきなよ。撮影は明日からなんだし、きっと怒ってるんじゃないの。単位取れなくなるよ
」
「大丈夫大丈夫」と手をひらひら振って、彼はようやく重い腰を上げた。カバンを取ってゆっくり歩きだし、ドアを押さえていた僕の隣に来ると見下ろしてきた。ムカつく、なんて背が高いんだ。スタイルもいい。髪型さえ整えれば監督よりも俳優になれそうだ。
「しばらく見れなくなるから映画おさめしなきゃだった。じゃあ、また明日。よろしくね、アマデウス」
「その呼び方やめてって言ってる、あっ! ちゃんと聞け!」
寿瑪は小走りにレッスン室を出ていった。入れ替わりでやってきた先生が彼の後ろ姿にギョッと目を丸くしている。なんてマイペースなやつなんだ……。
まだ昼休みは終わっていないけれど、早く練習がしたくてだれかとご飯を食べたり話したりなどはまったくしない。避けている、と勘違いされるのが嫌だったから藤元さんにお願いして弁明をしてもらったが、きっと印象は良くなかっただろう。「天才は違うね」と言ってきた人は天然だったのか、やっかみだったのかは僕にはわからなかった。
興味を沸かすことすら煩わしい。そんなひまがあったら己の腕を磨く時間にあてた方が有意義だ。時間は誰にも平等に与えられているが、有限である。
運指の確認と訓練を済ませ、練習曲をいくつか演奏する。電子メトロノームが刻むリズムに合わせ、弓で弦を弾いたが感触が良くない。そろそろ弓毛を替える時期だ。音を確かめてみるが、あまり真面目に聞き込んでしまうと〝やつ〟が耳の裏に現れるから注意が必要だ。
パガニーニは奏者としての腕を得るために悪魔に魂を売った、という逸話がある。もちろん真偽はおろか正気の沙汰だとは思えない。だがそう信じられてしまうほど彼は名手だったということだ。
もし耳元のそばで邪魔するように軋み音を鳴らすやつの正体がパガニーニをそそのかした悪魔であったら、魂を渡せば頭上を増たらしく覆う天井を取り払ってくれるのだとしたら。考えることもあったが、残念ながらクリスチャンですらないのだからくだらない妄想でしかなかった。
僕のようなもののところにやってきて何の得がある。この軋みは僕から出ている音だ。
一通り弾き切ればちょうど昼休みが終わったころで、集中していたのかチャイムさえ聞こえなかった。いくら防音室だからといって放送は入るものなのに、これじゃなにかあっても逃げ遅れて僕だけ死んでしまうだろう。
バイオリンを拭こうとケースに手を伸ばしたところで、ふと外からなにかの気配を感じ取って脈拍がスタッカートになる。
ま、まさか本当に悪魔が来りて契約に? ……いやどう考えても先生がいらしたんだろ。
リズムを整えるために一度休符を挟んでから、僕はドアの方へしっかり視線を向けた。
しかしそのまま休符が連続した。楽譜に書いてあった音符がすべて落ちたように呼吸が止まり、さながら四分三十三秒が演奏されたかのよう。
唯一外が見えるようになっているドア。そこには悪魔じゃなくておばけが張り付いていた。
僕がそちらの存在に気づいたおかげかおばけが、癖なのか左右に二度ほど揺れてからドアノブに手をかけたのが見えたので「しまった」と呟く。中に入ってこられたら逃げ場がない。バイオリンを抱え込んで端っこに背中をぴったりとくっつける。容赦なくガチャ、とドアが開いた。鍵はかけられない仕様になっているのがこんなに恨めしくなるとは、枠に頭がぶつかりそうなほどぎりぎりをすり抜けて入ってきた寿瑪が頭を掻く。
「返事。なんでくれないかなって」
「あとで確認して送るつもりだった。あんな張り付いてたらさすがに驚くんだけど」
「ん? あー、音、聞こえてこないのか試してた。防音ってすごいね」
ズレにゾワゾワと鳥肌が立つ。タイミングとか、音とか、とにかくそろわずに進行しているのが気持ちが悪い。ごほんと咳をしつつ壁から少し体を離す。どうやら顎を掴んでくることはなさそうだ。
「用はそれだけですか。練習があるので出て行ってほしいんですけど」
「いや、せっかく来たし、俺も撮影の確認をしたい。スマホしかないや。嫌だよね」
「どうしてこっちに聞く」
そういうのはそちら側のこだわりだろ、とツンケンした態度を保った。顎の件で警戒するが、こちらに危害を加える気はないのはわかってはいる。こんなぼさぼさのでくの坊みたいな人に憧れを持っていてあまつさえ心の支えにしているだなんて悟られてたまるか、と反骨心を見せているだけだ。
この寿瑪とあのスズメはジキルとハイド的なものだと納得させている。もちろん、これは僕のわがままで同一人物だというのも理解している。
寿瑪は不服そうにスマホを構えてあれこれ動き回り、構図が決まったのか椅子を持って行って腰を下ろした。スマホの裏にはステッカーが所狭しと貼られている。なにかの映画のマスコット、だったっけ。題名だったり、彼のおばけと呼ばれるほどの静けさに比べたらとても賑やかだ。
ぽこんと録画開始の合図が聞こえたので思わず身構えれば、落ち着いた声のトーンをさらに落として「自然に」と言われた。こうして映像を撮られるのも初めてなのだ、意識するに決まっているじゃないか。だがもういい加減遊んでばかりいてはだめだ。譜面台にタブレットを置き、スマホからもらった音源を流す準備をする。
「それは?」と寿瑪が興味を示した。視線は画面に固定されているが、意識がこちらにあるというのが伝わったのが不思議だった。声色だろうか。
「ビバルディの四季。知ってる?」
冬の一節だけ奏でてみると寿瑪が顔をあげた。聞いたことがあるようだ。返事を待ってみる。
「知ってる。映画で使われてた。たとえば、」
そこでハ、と寿瑪が画面に視線を戻した。言葉も止まってしまう。なんだ、残念なの。せっかくハイドが顔を出してきたっていうのに、一瞬だけだった。新世界のシンバルかよ。
「いまのは冬。四季っていうくらいだから春、夏、秋もある。やっぱり映画が好きなんだ?」
「きみがクラシックを嫌いじゃなければ、そう」
「へぇ」とほくそえんでから、僕が知っている映画のテーマ曲をいたずらのつもりで弾いてみる。発表会で覚えたものだ。申し訳ないが、ほとんど映画鑑賞はできたためしがなく、こうした音楽を知らない限りは触れてこなかった。思った通り、寿瑪の顔の周りにちかちかと星が瞬き始める。
「スピルバーグ……」
温度感をともなった独り言だった。たしか監督の名前だったかな。どうせならアラン・デュカスにしておけばよかったと謎の反省が生まれてきたので演奏をやめる。さて、ジキルはいつになったら撮影を終えて帰るのかな。しかし気にしている暇もない。一コマ分は自主練習をする予定だから。
やっと音源を流し、電子メトロノームに合わせて春の第一楽章を始めた。四季のすべてをやると四十分にも及ぶため、通すのは時間が必要だ。そこまで付き合わせるつもりもない。頃合いを見てカメラを構えている彼を追い出そう。
寿瑪は画面に視線を合わせ、自然と呼吸を殺していた。配慮ではなく、おそらく理想の映像のためだろう。本当におばけになったみたいに微動だにせず、もしくは野生動物を狙うハンターのごとく静けさ。雑音のひとつも入れたくないとみた。助かるので無視して演奏を続けた。
それでもたまに彼の方を見ると、顔の周りには相変わらず星が散らついている。音色に合わせて色が変わっているような気がして面白く、うっかりすると変な癖を演奏に出してしまいそうだ。きっと本人は顔の近くがあんなに賑やかになっているとは知らないだろう。
なにせこれは僕がそう感じているだけだからだ。なんとなくそう考えて見たら楽しくて、つい癖づいて続けてしまっていた。でもこんなにはっきり感じたのは、彼が初めてかも。
長い演奏を終え、すぐにバイオリンに付いた汚れを拭きあげる。寿瑪も録画を止め、眉間にめいっぱいシワを寄せながら映像の確認を始めたらしい。
「外でやったら?」と声をかけてみれば、彼は首を軽く横に振った。
「ここ、集中できていい。画角も悪くない。アマデウスの生演奏も独り占めできたし、うれしい」
パチパチと拍手が送られてきた。礼をしつつ、楽譜をめくった。感情が動いてくれたのなら僕だってうれしい。とくに彼みたいな何を考えているのかよくわからない人に感想を貰えるのはなかなか栄養になるものだ。だが絆されてはダメ。時計を確認してから肩をすくめた。
「そらそろ自主練も終わりだから、帰ってください」
「え、やだ。まだ聞きたい」
「そもそも授業は入ってないの?」
「あ。忘れてた」
「わ、忘れてた?」
最初に聞かなかった僕も悪いが、まさかサボってきたのか!?
芸術科の時間割なんか把握も予想もできないし、そこは自分で管理しろよ、とメトロノームを止めてからドアを開ける。ピ、と外を指さしたが寿瑪は呆けて僕を見つめたままスマホから流れる音を聞いていた。
「いや早く教室に帰って先生に謝ってきなよ。撮影は明日からなんだし、きっと怒ってるんじゃないの。単位取れなくなるよ
」
「大丈夫大丈夫」と手をひらひら振って、彼はようやく重い腰を上げた。カバンを取ってゆっくり歩きだし、ドアを押さえていた僕の隣に来ると見下ろしてきた。ムカつく、なんて背が高いんだ。スタイルもいい。髪型さえ整えれば監督よりも俳優になれそうだ。
「しばらく見れなくなるから映画おさめしなきゃだった。じゃあ、また明日。よろしくね、アマデウス」
「その呼び方やめてって言ってる、あっ! ちゃんと聞け!」
寿瑪は小走りにレッスン室を出ていった。入れ替わりでやってきた先生が彼の後ろ姿にギョッと目を丸くしている。なんてマイペースなやつなんだ……。
