険悪なムードのまま解散となり、寝て起きても僕の腹はまだむかむかし続けていた。だが幸いなことにいろいろな準備や段取りがあるらしく、撮影はすぐには始められないそうだ。それに今日は合同授業もないので気楽だった。せっかくの憧れな人のイメージを壊すのは僕だってつらい。なのでいったん忘れておこう、とおばけを脳から追い出していた。

 一通りの授業が終わり、午後からは実技授業になるためクラスの子たちとも離れる。なので昼ごはんを終えてから急いでピアノコースの子を呼び止めた。学校で演奏する必要がある際にいつもお願いしている藤元という女生徒で、彼女は僕が聞いた中で一番バイリンとの合奏が上手だった。説明しなければならないことが多いから、つい早口になってしまう。

「定期演奏会の伴奏ね。もちろん喜んでお受けします。曲目は決まってるの?」

「候補がいくつかあるから相談させてほしい。練習の時間もあまり多くは取れないだろうし、いつもごめん」

「いいのいいの」と彼女は柔らかく笑みを作った。

 藤元さんは性格が良い、というか他の生徒よりも比較的に話しかけやすい人だった。手帳を広げてすぐにメモをかき込んでいるところも真面目だし紳士で好感が持てる。淑女よりも紳士という方が彼女には似合っているだろう。

 中身をちらと覗いてしまったが、彼女も多くのコンクールや演奏会が控えていた。お願いするのが申し訳なく感じて頭がかゆくなる。だが独奏はさすがに避けたいし、なによりピアノがいた方が音が豪華になって良い。本来ならオーケストラだって用意したいくらいだ。だがさすがに二ヶ月で人数をそろえるのはもちろん難しかった。彼らは彼らで別の演奏会の場が用意されている。

 プロに依頼するにもそこまで本格的なものを学校側も望んでいるわけではなく、あくまで学生同士で完結してほしいはずだ。お互いに単位におまけしてもらえる約束がなければ絶対に頼める気がしない。

「あと僕のドキュメンタリーも撮るんだってさ。芸術科の生徒で、おばけって呼ばれてる人がいるの知ってる?」

「一昨日急に立ち上がったあの人? ちょっと怖かったよね。映画コースの生徒なんだ。大丈夫なの?」

「どうだろう。でも先生は平気そうにしてたし、どうやら僕のことも前から知っているみたいで」

「小鐘くんは有名人の自覚があるのかどうなのかたまにわからないね」

 だから、と一言置いてからメッセージアプリを開いた。なんだかんだおばけと連絡が取れるように交換していたのだ。せざるを得なかっただけともいう。そこには簡易的な撮影スケジュールが送られてきていた。藤元さんに見せつつ、肩をすくめる。

「あんな見た目なのになんて丁寧な! あ、もしかしてさ、前に言ってた映画を撮ったのってこの人?」

「よく気づいたね」

「じゃないとあなたがこの話を受けるとは信じられなくって。なるほど、ならしょうがないか。私もたまに撮影されるってことだよね。ぜんぜん構わないよ。むしろ自慢できるし」

 彼女は常に楽観的に物事をとらえてくれるからとても助かる。正直このドキュメンタリーの話も即答で受けたのは間違いだったと後悔しかけていたくらいだが、なにか宣伝になるのならぜひ使ってほしい。これは賞に送るものになるそうだし、どの業界の関係者の目につくかは未知数だ。

「謝礼はどうしようか。前と同じ金額にする?」

「そもそも小鐘くんだって無償でしょ。だったら私もいらないよ。できれば明日までには曲、決めてね。候補を送ってくれるだけでも大丈夫だけど、全部は練習するの大変だから」

「わ、わかった。その、……またあとで連絡するね」

 言いかけた言葉を引っ込める。藤元さんはしびれを切らした友人たちに呼ばれていたし、僕が抱えている悩みを打ち明けるのは負担や迷惑になるのではとしり込みしたからだ。彼女だって僕の問題には気づいていないだろう。演奏家として中学の頃からの付き合いではあるが、それほど親しいとは言えなかった。

 後姿を見送り、改めてロッカーからバイオリンを取り出す。僕が弾かなければ物言わぬ楽器は、日を追うごとに重さを増しているようだった。

 ジャケットのポケットに入れていたスマホが震えたので、藤元さんからかなと確認する。しかし通知には「SUZUME」という名前と知らないアイコンが載っていた。げ、と口を曲げる。よりにもよってこのタイミングで連絡してくるとは。一体なんなんだ、と画面をにらみつけながらロックを解除した。

『一日のルーティン、もしくはスケジュールを送ってほしい』

 無駄の一切ない簡潔な文章だ。挨拶のひとつもなく、単刀直入に訊いてこなければ感心していただろう。既読マークをつけてしまったのにがっかりしつつ、スマホをポケットにしまい直して僕は予約を取っていたレッスン室に向かった。