憧れの人に会える。しかも同じ学校だったなんて、僕はだれが見ても明らかに浮足立っていた。書類を母に渡したり、マネージャーに送ったりしていたがみんなが「演奏できるのがそんなにうれしいのか」とさすがに困惑していた。違う違う、と僕はサプライズだと言わんばかりにドキュメンタリーを撮ってもらうことを発表したが、残念ながらみんなピンとは来なかったらしい。
夕食も風呂も済ませ、弓の手入れをしながら自然と鼻歌を奏でていた。タブレットで映画を流しながら愛器のメンテナンスを行うのが僕の日課だ。このときばかりは悩みも不安も美しい映像のおかげでかすみ、自分が演奏した音も素直に耳に入ってくる。
救いに感じていた。神様から許しを与えてもらえたかのごとく、己の未熟さを嘆く時間から離れることができる。これがなければ、僕はとっくにすべてを放り投げていたかもしれない。
口の中で名前を転がしてみる。サトウスズメ、漢字で書くと、佐藤寿瑪、本物の天才。
一体どんな人か妄想してしまう。きっとセンスがいいんだろうな。シューベルトよりメンデルスゾーンの方が好きそうだし、身長も僕より高いかな、大人っぽい見た目をしてて、俗世と交わらない雰囲気を持っていて、でも映像を見る限りきっと優しくて温かい人かも。芸術科の佐藤、あれ、そういえば今日聞いたな。
そうだ、人の名前を呼んで顔を見るなり出て行ったあの失礼な男も佐藤だった。身長は高いけれど猫背で、陰鬱なオーラの彼だ。
思い出して眉間にしわが寄る。おばけのせいで楽しい妄想がかき消されたじゃないか。大体佐藤という苗字は日本で一番多いとかいうし、彼は絶対に違うはずだ。だってスズメは天才なんだから、だれからも一目置かれていないと。まさかからかわれているだなんてこと、ない、よな。よりにもよっておばけなんて……。
たしかに彼も変な人そうだったけれど。とにかく明日には答え合わせができるのだから、そろそろ練習に集中しなければ、そうでなくても落ちている腕がさらにひどくなる。ソルフェージュの教材を開き、メトロノームをつけた。
そもそもスズメの方こそ、僕を覚えていてくれているのかな。だんだんと不安になってくる。僕は音楽を提供しただけで、実際に会ったりやり取りしたのは先生だけだった。彼の作品を僕は救いを見出すほど愛している。でもこれは一方的な想いなのかも、とメトロノームの振り子を眺めながらいつの間にか冷えてしまった肩を撫でた。
翌日になっても心は落ち着かないままで、授業もレッスンもあっという間に過ぎてしまった。いまは放課後で、スズメたちの到着を視聴覚室で待っているところだ。
時間も惜しいので軽く指慣らしでもしていようと気まぐれに弦を弾いてみる。そういえば定期演奏会でなにを演奏するかはまだ決めていなかった。ピチカートできらきら星を鳴らしてみるが、こういうので盛り上がるのは演奏家たちだけだ。それよりもやはり技巧重視の方が初心者にも受ける気がするし、はぁ、とため息が出た。
一人で悩んでいたってしょうがないので、頭の中を整理するためにパガニーニのカプリス第二十四番を弾く。連続する音の規則性を脳内の楽譜に当てはめ、体に叩き込んだリズムを崩さず音を鳴らすことに集中すれば、雲が風に流れていき、晴れやかな青空が広がるように脳の余計な思考も消えていく。指の移弦を正確に、軽やかにすればするほど音も美しく響く。
Var.9のピチカートが終わったところでドアが開く音がして、ハッと夢から覚めるように意識が現実に返ってきた。
「やめるんですか」
開けた人物本体よりも先に声が教室に入ってくる。担任ではなく、知らない男の声だった。バイオリンを机に置きつつ、声の主が入ってくるのを待ったのだがなぜか彼は足を踏み入れてこない。おや、と首を傾げる。生徒がだれもいないと勘違いして開けたのなら使用中だと教えなければなのだけれど、どうしたものかな。
「あの、佐藤さん、ですか?」とおそるおそるドアの向こうの彼に問いかけてみた。
「あー。はい。そうです。じゃそこにいるのはアマデウスだ」
「はい?」
よかった。合っていた。……いや、おかしな反応がなかったか。聞き間違いでなければ、僕のことだろうか。たしかにその異名をつけられているけれどわざわざ本人に向かってあだ名のように呼んでくる人なんかめったにいない。しかし訂正するのもやはり違うと感じていったん聞き流した。
「なんで入ってこないんですか?」
どうやら僕の問いがよほど気に入らなかったのか異様な沈黙が訪れる。
天才は変わっているというのはたまに聞くし、確証はないが彼がスズメだとしたら、もしかしなくてもやはり一般人とは感覚やセンスが違うのかも、とドキリとした。それとも先生を待っているだけかしら。静寂というのは演奏家にとって良い物でもあるし、ときに悪い物でもある。思わずバイオリンを構え直していた。なにもしていないこの時間の勿体なさったら、耐えられず弓を弦に滑らせる。
「さっきの、誰が作曲したやつですか」
ふと、彼の足先がドアから見えた。弓を弾けば足がすすす、と教室の中に滑って入ってくる。なにやら様子がおかしい、と弓を弦から離しみれば足が止まった。もう一度音を鳴らす。進む。膝が見えた。
「パガニーニ」と短く答えてVar.10の高音パートを再開した。ドアに手がかかった。
「聞いたことある人だ」と彼の声が大きくなった。
しまった、と冷汗が額に浮かんだ。ここからのパートはクライマックスも近いだけあって指や弓も忙しく反応ができない。入ってくるなら早くしてくれ、と結んだ口の中で懇願する。そもそもこちらが演奏しないと部屋に来ないとはどういうことだ。天才の考えなんかわかりっこなく、僕は演奏に力を入れた。するとスズメ(?)はようやく体をこちらの世界に現わしてくれたのだが、その姿に僕は音を盛大に外した。
「あ。天才でも失敗するんだ」
「な、なん、な、なに」
「どうも。本日はお日柄も良く。昨日ぶりですネ」
「なんでここにいるんだぁ!!」
振りかざした弓が風を斬る音を出した。その男を指す先端がわずかに震えている。
そこにいたのは、まさに昨日教室の隅で現実に存在をしているかも怪しい机に突っ伏した男、あげくに僕を見て教室から出ていった失礼な男、M組のおばけだった。
夕食も風呂も済ませ、弓の手入れをしながら自然と鼻歌を奏でていた。タブレットで映画を流しながら愛器のメンテナンスを行うのが僕の日課だ。このときばかりは悩みも不安も美しい映像のおかげでかすみ、自分が演奏した音も素直に耳に入ってくる。
救いに感じていた。神様から許しを与えてもらえたかのごとく、己の未熟さを嘆く時間から離れることができる。これがなければ、僕はとっくにすべてを放り投げていたかもしれない。
口の中で名前を転がしてみる。サトウスズメ、漢字で書くと、佐藤寿瑪、本物の天才。
一体どんな人か妄想してしまう。きっとセンスがいいんだろうな。シューベルトよりメンデルスゾーンの方が好きそうだし、身長も僕より高いかな、大人っぽい見た目をしてて、俗世と交わらない雰囲気を持っていて、でも映像を見る限りきっと優しくて温かい人かも。芸術科の佐藤、あれ、そういえば今日聞いたな。
そうだ、人の名前を呼んで顔を見るなり出て行ったあの失礼な男も佐藤だった。身長は高いけれど猫背で、陰鬱なオーラの彼だ。
思い出して眉間にしわが寄る。おばけのせいで楽しい妄想がかき消されたじゃないか。大体佐藤という苗字は日本で一番多いとかいうし、彼は絶対に違うはずだ。だってスズメは天才なんだから、だれからも一目置かれていないと。まさかからかわれているだなんてこと、ない、よな。よりにもよっておばけなんて……。
たしかに彼も変な人そうだったけれど。とにかく明日には答え合わせができるのだから、そろそろ練習に集中しなければ、そうでなくても落ちている腕がさらにひどくなる。ソルフェージュの教材を開き、メトロノームをつけた。
そもそもスズメの方こそ、僕を覚えていてくれているのかな。だんだんと不安になってくる。僕は音楽を提供しただけで、実際に会ったりやり取りしたのは先生だけだった。彼の作品を僕は救いを見出すほど愛している。でもこれは一方的な想いなのかも、とメトロノームの振り子を眺めながらいつの間にか冷えてしまった肩を撫でた。
翌日になっても心は落ち着かないままで、授業もレッスンもあっという間に過ぎてしまった。いまは放課後で、スズメたちの到着を視聴覚室で待っているところだ。
時間も惜しいので軽く指慣らしでもしていようと気まぐれに弦を弾いてみる。そういえば定期演奏会でなにを演奏するかはまだ決めていなかった。ピチカートできらきら星を鳴らしてみるが、こういうので盛り上がるのは演奏家たちだけだ。それよりもやはり技巧重視の方が初心者にも受ける気がするし、はぁ、とため息が出た。
一人で悩んでいたってしょうがないので、頭の中を整理するためにパガニーニのカプリス第二十四番を弾く。連続する音の規則性を脳内の楽譜に当てはめ、体に叩き込んだリズムを崩さず音を鳴らすことに集中すれば、雲が風に流れていき、晴れやかな青空が広がるように脳の余計な思考も消えていく。指の移弦を正確に、軽やかにすればするほど音も美しく響く。
Var.9のピチカートが終わったところでドアが開く音がして、ハッと夢から覚めるように意識が現実に返ってきた。
「やめるんですか」
開けた人物本体よりも先に声が教室に入ってくる。担任ではなく、知らない男の声だった。バイオリンを机に置きつつ、声の主が入ってくるのを待ったのだがなぜか彼は足を踏み入れてこない。おや、と首を傾げる。生徒がだれもいないと勘違いして開けたのなら使用中だと教えなければなのだけれど、どうしたものかな。
「あの、佐藤さん、ですか?」とおそるおそるドアの向こうの彼に問いかけてみた。
「あー。はい。そうです。じゃそこにいるのはアマデウスだ」
「はい?」
よかった。合っていた。……いや、おかしな反応がなかったか。聞き間違いでなければ、僕のことだろうか。たしかにその異名をつけられているけれどわざわざ本人に向かってあだ名のように呼んでくる人なんかめったにいない。しかし訂正するのもやはり違うと感じていったん聞き流した。
「なんで入ってこないんですか?」
どうやら僕の問いがよほど気に入らなかったのか異様な沈黙が訪れる。
天才は変わっているというのはたまに聞くし、確証はないが彼がスズメだとしたら、もしかしなくてもやはり一般人とは感覚やセンスが違うのかも、とドキリとした。それとも先生を待っているだけかしら。静寂というのは演奏家にとって良い物でもあるし、ときに悪い物でもある。思わずバイオリンを構え直していた。なにもしていないこの時間の勿体なさったら、耐えられず弓を弦に滑らせる。
「さっきの、誰が作曲したやつですか」
ふと、彼の足先がドアから見えた。弓を弾けば足がすすす、と教室の中に滑って入ってくる。なにやら様子がおかしい、と弓を弦から離しみれば足が止まった。もう一度音を鳴らす。進む。膝が見えた。
「パガニーニ」と短く答えてVar.10の高音パートを再開した。ドアに手がかかった。
「聞いたことある人だ」と彼の声が大きくなった。
しまった、と冷汗が額に浮かんだ。ここからのパートはクライマックスも近いだけあって指や弓も忙しく反応ができない。入ってくるなら早くしてくれ、と結んだ口の中で懇願する。そもそもこちらが演奏しないと部屋に来ないとはどういうことだ。天才の考えなんかわかりっこなく、僕は演奏に力を入れた。するとスズメ(?)はようやく体をこちらの世界に現わしてくれたのだが、その姿に僕は音を盛大に外した。
「あ。天才でも失敗するんだ」
「な、なん、な、なに」
「どうも。本日はお日柄も良く。昨日ぶりですネ」
「なんでここにいるんだぁ!!」
振りかざした弓が風を斬る音を出した。その男を指す先端がわずかに震えている。
そこにいたのは、まさに昨日教室の隅で現実に存在をしているかも怪しい机に突っ伏した男、あげくに僕を見て教室から出ていった失礼な男、M組のおばけだった。
