できあがったドキュメンタリー映画は惜しくも大賞を取ることはできなかった。ただ特別審査員賞に選ばれ、ミニシアターで二週間ほど上映されるそうだ。あのサトウスズメの新作として期待はされているのか小さく話題になっていた。ただ取材された主役としては残念な結果に終わり不満はある。反対に監督は満足げだった。
「俺が撮りたかったものは十分残せたと思う。良いって感じてくれた人もいたから賞がもらえたんだし」
蒸し暑い中にはのベンチに座って納得がいかないという僕の顔をつついて、寿瑪は嬉しそうに弁当箱を渡されるのを待っている。観念して彼のお望み通り作ってきた弁当を押し付けた。
撮影が終わっても寿瑪の昼ご飯担当を僕は続けていた。追加でゆるく運動も一緒にしている。なにせ寿瑪ってば、基本的にほとんど動かないのだ。放課後は映画を見に行くか、その資金を稼ぐために彼の叔父がやっているカフェでバイトをしているかだし、家に帰ったら気絶するまでサブスクで映画やドラマを見ている。つまりほとんど脳も目も休ませずに働かせている不健康児だった。だから授業もほとんど寝てしまうらしい。そんなのを続けていたら早くに死んでしまう。
だからトレーナーに相談してメニューを組み、少しずつ改造計画を進行している。昼はこうして一緒にいるのだからそのときだけでも変えてあげたかった。
「これうまい。ごぼうのやつ」
「よかったね。ほら、食べたらスクワットするよ」
「やだー」
強めに頭を叩けばよろけていた。体幹なし、筋力なし。ため息を出せば寿瑪が背を向けてくる。早食いもしがちだから止めようと肩を掴めば、もぞもぞと左右に揺れて猫背がさらに丸くなる。
「そんなにかまうなよ」と彼は聞こえるかどうか怪しいほど小さい声で呟いた。弁当を作らせておいてかまうなとはずいぶんな態度だ。でも僕は肩から手を離して引っ込める。
定期演奏会から早くも一か月が経った。夏休みもすぐそこまで来ている七月の最中、僕ら二人は仲が良いのか悪いのか、関係が少し複雑になってしまった。
彼のおかげで問題を乗り越えられた僕も相変わらず「自信」を自分で補うことはまだできず、寿瑪にお願いしている。大きなコンサートがあるときはだれもいなさそうな教室で抱きしめてもらってるのだ。赤ん坊みたいで嫌だがこれ以外方法がなくて仕方なく……。なのだけれど、演奏会でうっかり耳にした寿瑪の「大好き」という言葉が引っかかっていた。
あのときは演奏のことだろうとお互いに苦笑いして済ませた。忙しかったし、それどころじゃなかったから。僕だって流して終わろうと思っていたのに、この習慣ができてしまったがために意識せざるをえなくなっていた。
ためらいつつ背中に回る手は優しくて温かい。すっぽりと僕がおさまるほど彼は背も大きくて、なんだか良い匂いがするのだ。最初は汗だと思っていたけれど、その中に香ばしいパンの匂いに近いものがある。本能的に良い匂いと感じていて、鼻を押し付けて吸ってしまうときがある。そうするとすごく安心して、どんなに緊張していても心が落ち着く。でも寿瑪は普段からパンばかり食べているわけじゃない。だったらあれは何の匂いなんだろう。
寿瑪は寿瑪で僕の頭の匂いをよく嗅いでいる。気づいてないと思ってるっぽいがちゃんとわかってる。だって吸ってる音が聞こえるのだ。そのときぎゅうっと抱きしめる力が強くなって体の密着も深くなり苦しい。僕はどんな匂いがしているんだか。
食べ終わった弁当箱を受け取る。彼はよいしょと気だるげに立ち上がってスクワットの姿勢を取り、カウントを取りながら腰を下げた。
「いーち、にーい、さーん」
まだフォームもきちんと身に着いていないその姿をぼーっと眺めた。僕の提案をいやいやながらもやってくれるこの男が考えていることはまったく不明だ。皆目見当つかない。
たまにくれる視線が甘ったるいのとか、バリトンの響きが心地いいとか、クラスメイトと話してるとけん制してくるのとか、僕が遊んでほしいと頼めば映画よりも優先してくれる理由とか、壊れものを扱うみたいに大事に抱きしめてくれるのだって、なにもかも僕にはさっぱりわからないのだ。
だってまるでそれって、本当に好きなヤツにする態度じゃないの?
だったら寿瑪が零した「大好き」の意味が大きく変わってきそうで、不安になる。つまり、僕は怖いのかな。
いま僕らの関係を形容できる言葉はあるのか、そもそもないのか。音楽しか知らない僕には答えが出せずにいる。おそらく答えを持っているのは寿瑪だけだ。素直になれって言ったのは彼なのだし、頼ってみてもいいのかもしれない。もやもやした頭をさっさとすっきりさせたい。でなければ僕の場合、演奏に支障をきたしかねないからだ。
「なぁ、寿瑪」
「なにー? はち、きゅう」
「この前言ってた大好きって本当ならどういう意味だったの?」
「じゅっ…………、やべっ」
すっとぼけたまま逃げ出そうとしたので、すかさずすそを捕まえて体を地面に叩きつけさせた。痛そうだ。
「演奏のことじゃないだろ。だったらちゃんと訊かないと僕はまたぐるぐる悩むぞ」
「友達」
「少し違う気がする。僕は藤元さんの髪の匂いを吸う気は起きないし」
「す、ってない。吸ってるんじゃなくて。ちょうど顔が頭の上にあるだけだ。アーモンドの良い匂いがするとか思ってないから」
「そういう匂いなんだ。それで?」
引かずに問い詰めればかわいそうなほど動揺した寿瑪が足も手もばたつかせたあとに、すっくと立ちあがった。目元を桜色に染めて胃が痛そうな顔をしている。ふふ、と込みあがってきた笑いを素直に表に出せば、瞬間に僕の頭の中にとある楽曲が突然流れ出した。
あれ。なんだっけこれ。えーと、チャイコフスキー、だっけ。首を傾げると、答えを催促しているように見えたのか寿瑪が両手で拳を作って目もぎゅっと閉じた。
「聞いたら後悔するかも」
「後悔するなら元から抱きつかせろなんて言わないよ」
「わ、わかった。だったら怒らないで聞いてほしい」
「もちろん」とうなずく。
だめだ、楽曲の名前がどうにも思い出せない。第一バイオリンの弱奏から始まって、ゆっくりとバイオリンの独奏が始まるのが第一楽章だ。ここまで思い出しても曲名だけが出てこない。
「アマデウス、いや奏音」
寿瑪の声がオーケストラの音量が小さくなる。ごく、と唾を飲みこんで真剣な彼の瞳に向き合った。あだ名で呼ばれるよりもやっぱり名前の方が嬉しい。
「子どものときから、ずっとあこがれてたんだ。偶然おじさん家に遊びに行ったときに出会った音楽を教えてくれた男の子こと、忘れられなくて」
「それは前に聞いた」
「だったらお望み通り本題に入ってやろうじゃないか」
バイオリンの独奏が終わり華やかなオーケストラが帰ってくる。とても有名な部分だ。待って、これ、喉のそこまで来ているのに突っかかってるな。思い出せそうな気配がして、寿瑪の口に人差し指を立てる。再度バイオリンの独奏が──。
「ば、バイオリン協奏曲ニ長調だ!」
なんてことだ。こんな衝撃二回目だ。いま彼の言葉を聞いてこの曲が頭の中に鳴り響いたということは、つまり、そ、そういうことだよな。
僕はどうやら寿瑪に対して、特別な感情を抱いているらしい。たぶんそれは限りなく、というかほとんど恋愛というものだ。だから彼のそばにいるとこんなにも安心して落ち着くんだ。あの映画に恋していたんじゃなくって、その先にいる佐藤寿瑪という天才に恋をしていた。
驚きを隠せず手で口元を覆う。なんでそうなるのかって、だってこの曲はチャイコフスキーが、なんでいま手元にバイオリンがないんだ。この気持ちを弾いておかないと後悔しそうだってのに!
「ちょ、ちょっと! いきなりなにがどうあれば告白のタイミングで曲名を叫ばれるんだよ!」
「きみだって映画のタイトルを言えばいいじゃないか。いまの気持ちに合う最高の一作があるんじゃないの」
「へ? いや、さすがにそれはパッとは思いつかないというか、だから天才ってわけわかんねぇんだよ。せめて格好つかせてくれよ」
「どうぞ」
頭をこれでもかと横に振った彼がキリッと表情を引き締める。手を取られ、指が絡められた。いつも以上に熱くなっていて燃えそうだ。これがいまの僕の自信の源で、その理由は判明した通り。いつから僕は彼に想いを持っていたんだろう。同じく子どもの頃かな。
「好きだ。演奏を初めて聞いたとき、俺は奏音に恋をしたんです」
「せっかくだから片膝ついてよ。それで?」
寿瑪の顔が僕の目線よりも下に来る。ふふん、いい気持ちだ。
「付き合ってくれますか?」
「もちろん、喜んで」
そのまま低くなった彼の顔に近づいて唇を合わせる。柔らかい感触が触れた瞬間に、フィナーレが軽やかにそして華々しく鳴り響き、バイオリンの弓が最後の音を奏でた。客席からは大きな拍手があがりブラボーと賛美が送られる。
あ。これ、よく考えたら僕が十五歳のときにやって天井が見えた曲だった。なんだ、あれは天井じゃなくて寿瑪を探してたのか。
「俺が撮りたかったものは十分残せたと思う。良いって感じてくれた人もいたから賞がもらえたんだし」
蒸し暑い中にはのベンチに座って納得がいかないという僕の顔をつついて、寿瑪は嬉しそうに弁当箱を渡されるのを待っている。観念して彼のお望み通り作ってきた弁当を押し付けた。
撮影が終わっても寿瑪の昼ご飯担当を僕は続けていた。追加でゆるく運動も一緒にしている。なにせ寿瑪ってば、基本的にほとんど動かないのだ。放課後は映画を見に行くか、その資金を稼ぐために彼の叔父がやっているカフェでバイトをしているかだし、家に帰ったら気絶するまでサブスクで映画やドラマを見ている。つまりほとんど脳も目も休ませずに働かせている不健康児だった。だから授業もほとんど寝てしまうらしい。そんなのを続けていたら早くに死んでしまう。
だからトレーナーに相談してメニューを組み、少しずつ改造計画を進行している。昼はこうして一緒にいるのだからそのときだけでも変えてあげたかった。
「これうまい。ごぼうのやつ」
「よかったね。ほら、食べたらスクワットするよ」
「やだー」
強めに頭を叩けばよろけていた。体幹なし、筋力なし。ため息を出せば寿瑪が背を向けてくる。早食いもしがちだから止めようと肩を掴めば、もぞもぞと左右に揺れて猫背がさらに丸くなる。
「そんなにかまうなよ」と彼は聞こえるかどうか怪しいほど小さい声で呟いた。弁当を作らせておいてかまうなとはずいぶんな態度だ。でも僕は肩から手を離して引っ込める。
定期演奏会から早くも一か月が経った。夏休みもすぐそこまで来ている七月の最中、僕ら二人は仲が良いのか悪いのか、関係が少し複雑になってしまった。
彼のおかげで問題を乗り越えられた僕も相変わらず「自信」を自分で補うことはまだできず、寿瑪にお願いしている。大きなコンサートがあるときはだれもいなさそうな教室で抱きしめてもらってるのだ。赤ん坊みたいで嫌だがこれ以外方法がなくて仕方なく……。なのだけれど、演奏会でうっかり耳にした寿瑪の「大好き」という言葉が引っかかっていた。
あのときは演奏のことだろうとお互いに苦笑いして済ませた。忙しかったし、それどころじゃなかったから。僕だって流して終わろうと思っていたのに、この習慣ができてしまったがために意識せざるをえなくなっていた。
ためらいつつ背中に回る手は優しくて温かい。すっぽりと僕がおさまるほど彼は背も大きくて、なんだか良い匂いがするのだ。最初は汗だと思っていたけれど、その中に香ばしいパンの匂いに近いものがある。本能的に良い匂いと感じていて、鼻を押し付けて吸ってしまうときがある。そうするとすごく安心して、どんなに緊張していても心が落ち着く。でも寿瑪は普段からパンばかり食べているわけじゃない。だったらあれは何の匂いなんだろう。
寿瑪は寿瑪で僕の頭の匂いをよく嗅いでいる。気づいてないと思ってるっぽいがちゃんとわかってる。だって吸ってる音が聞こえるのだ。そのときぎゅうっと抱きしめる力が強くなって体の密着も深くなり苦しい。僕はどんな匂いがしているんだか。
食べ終わった弁当箱を受け取る。彼はよいしょと気だるげに立ち上がってスクワットの姿勢を取り、カウントを取りながら腰を下げた。
「いーち、にーい、さーん」
まだフォームもきちんと身に着いていないその姿をぼーっと眺めた。僕の提案をいやいやながらもやってくれるこの男が考えていることはまったく不明だ。皆目見当つかない。
たまにくれる視線が甘ったるいのとか、バリトンの響きが心地いいとか、クラスメイトと話してるとけん制してくるのとか、僕が遊んでほしいと頼めば映画よりも優先してくれる理由とか、壊れものを扱うみたいに大事に抱きしめてくれるのだって、なにもかも僕にはさっぱりわからないのだ。
だってまるでそれって、本当に好きなヤツにする態度じゃないの?
だったら寿瑪が零した「大好き」の意味が大きく変わってきそうで、不安になる。つまり、僕は怖いのかな。
いま僕らの関係を形容できる言葉はあるのか、そもそもないのか。音楽しか知らない僕には答えが出せずにいる。おそらく答えを持っているのは寿瑪だけだ。素直になれって言ったのは彼なのだし、頼ってみてもいいのかもしれない。もやもやした頭をさっさとすっきりさせたい。でなければ僕の場合、演奏に支障をきたしかねないからだ。
「なぁ、寿瑪」
「なにー? はち、きゅう」
「この前言ってた大好きって本当ならどういう意味だったの?」
「じゅっ…………、やべっ」
すっとぼけたまま逃げ出そうとしたので、すかさずすそを捕まえて体を地面に叩きつけさせた。痛そうだ。
「演奏のことじゃないだろ。だったらちゃんと訊かないと僕はまたぐるぐる悩むぞ」
「友達」
「少し違う気がする。僕は藤元さんの髪の匂いを吸う気は起きないし」
「す、ってない。吸ってるんじゃなくて。ちょうど顔が頭の上にあるだけだ。アーモンドの良い匂いがするとか思ってないから」
「そういう匂いなんだ。それで?」
引かずに問い詰めればかわいそうなほど動揺した寿瑪が足も手もばたつかせたあとに、すっくと立ちあがった。目元を桜色に染めて胃が痛そうな顔をしている。ふふ、と込みあがってきた笑いを素直に表に出せば、瞬間に僕の頭の中にとある楽曲が突然流れ出した。
あれ。なんだっけこれ。えーと、チャイコフスキー、だっけ。首を傾げると、答えを催促しているように見えたのか寿瑪が両手で拳を作って目もぎゅっと閉じた。
「聞いたら後悔するかも」
「後悔するなら元から抱きつかせろなんて言わないよ」
「わ、わかった。だったら怒らないで聞いてほしい」
「もちろん」とうなずく。
だめだ、楽曲の名前がどうにも思い出せない。第一バイオリンの弱奏から始まって、ゆっくりとバイオリンの独奏が始まるのが第一楽章だ。ここまで思い出しても曲名だけが出てこない。
「アマデウス、いや奏音」
寿瑪の声がオーケストラの音量が小さくなる。ごく、と唾を飲みこんで真剣な彼の瞳に向き合った。あだ名で呼ばれるよりもやっぱり名前の方が嬉しい。
「子どものときから、ずっとあこがれてたんだ。偶然おじさん家に遊びに行ったときに出会った音楽を教えてくれた男の子こと、忘れられなくて」
「それは前に聞いた」
「だったらお望み通り本題に入ってやろうじゃないか」
バイオリンの独奏が終わり華やかなオーケストラが帰ってくる。とても有名な部分だ。待って、これ、喉のそこまで来ているのに突っかかってるな。思い出せそうな気配がして、寿瑪の口に人差し指を立てる。再度バイオリンの独奏が──。
「ば、バイオリン協奏曲ニ長調だ!」
なんてことだ。こんな衝撃二回目だ。いま彼の言葉を聞いてこの曲が頭の中に鳴り響いたということは、つまり、そ、そういうことだよな。
僕はどうやら寿瑪に対して、特別な感情を抱いているらしい。たぶんそれは限りなく、というかほとんど恋愛というものだ。だから彼のそばにいるとこんなにも安心して落ち着くんだ。あの映画に恋していたんじゃなくって、その先にいる佐藤寿瑪という天才に恋をしていた。
驚きを隠せず手で口元を覆う。なんでそうなるのかって、だってこの曲はチャイコフスキーが、なんでいま手元にバイオリンがないんだ。この気持ちを弾いておかないと後悔しそうだってのに!
「ちょ、ちょっと! いきなりなにがどうあれば告白のタイミングで曲名を叫ばれるんだよ!」
「きみだって映画のタイトルを言えばいいじゃないか。いまの気持ちに合う最高の一作があるんじゃないの」
「へ? いや、さすがにそれはパッとは思いつかないというか、だから天才ってわけわかんねぇんだよ。せめて格好つかせてくれよ」
「どうぞ」
頭をこれでもかと横に振った彼がキリッと表情を引き締める。手を取られ、指が絡められた。いつも以上に熱くなっていて燃えそうだ。これがいまの僕の自信の源で、その理由は判明した通り。いつから僕は彼に想いを持っていたんだろう。同じく子どもの頃かな。
「好きだ。演奏を初めて聞いたとき、俺は奏音に恋をしたんです」
「せっかくだから片膝ついてよ。それで?」
寿瑪の顔が僕の目線よりも下に来る。ふふん、いい気持ちだ。
「付き合ってくれますか?」
「もちろん、喜んで」
そのまま低くなった彼の顔に近づいて唇を合わせる。柔らかい感触が触れた瞬間に、フィナーレが軽やかにそして華々しく鳴り響き、バイオリンの弓が最後の音を奏でた。客席からは大きな拍手があがりブラボーと賛美が送られる。
あ。これ、よく考えたら僕が十五歳のときにやって天井が見えた曲だった。なんだ、あれは天井じゃなくて寿瑪を探してたのか。

