いよいよ定期演奏会の本番がやってきた。結局逃げ出さずに済んだ僕はレッスン室で寿瑪に抱きしめられていた。
なぜこうなったかというと、とにかく触れてもらえれば自信がわくというのをいろいろ試してみたら一番冷静になれて落ち着いたのがこの形だったからだ。胸辺りに顔を埋める。寿瑪も恥ずかしがっていたけれど、どうやらなにか諦めたのか背中をさすってくれた。すぅ、と吸い込めば汗の匂いがする。不快じゃない。こんなところを誰かに見られたらまた良くない状態になりそうだけど、ドアに「準備中!」と紙を貼ったので覗いてくる不届き者はいないはずだ。
寿瑪の腕に力が入った。さらに体が密着して苦しくなり、酸素を求めて顔をあげると視線があった。目元が赤くなっているのがわかって笑いが漏れる。
「どう?」と訊かれたのでうなずいて、彼の背中を叩いて離してもらった。
「いけそう。だいぶ温まった」
指をぐーぱーと開いてバイオリンを取れば、寿瑪もカメラを構えた。最後のチューニングを済ませる。
「撮影もこれで終わりかぁ。そう思うとちょっと寂しいかも」
「へぇ。嫌がってたのに?」
「嫌がってはない」と口を尖らせて弓の先端を寿瑪に向けた。
「きみの最初の態度が悪かったから信用できなかっただけだ。まさか憧れの人がおばけなんてあだ名つけられてからかわれてるの、ショックだったし」
「今は?」
無視して制服のネクタイの位置を整える。いたずらっぽく上がっている口角が気に入らないので置いて行ってやろう。時計を確認してからレッスン室のドアを開けた。外に出れば藤元さんもちょうど準備が終わったようではちあう。
直前でリストを変えた僕を彼女は「わかってたからね」と呆れて許してくれた。どうせそうなるだろうと練習していたらしい。
「なにせ佐藤くんから念押しされてたので。本当にかなえちゃうなんて、彼、ちょっと変な人だね」
リハーサルで軽く合わせたときに耳打ちされたんだった。たしかに寿瑪は変なので激しくうなずいていると寿瑪が文句を言いたそうだったのでそっぽを向いたのだった。
「やっと弾くんだ、あの曲。小鐘くんが決めたんなら私は支えるだけだよ。はぁ、でもまさかあのおばけさんが突き動かしちゃうなんて立つ瀬がないなぁ。一応相棒ポジ狙ってたのに」
「初耳なんですが……」
「ふふ。ねぇ、小鐘くんは佐藤くんのどこがよかったの?」
急な質問に戸惑えば、藤元さんもしてやったりと言いたげに口元を手で隠してくすくすと笑う。含みのある聞き方にさらに混乱をあらわにした僕が相当おかしかったのか、藤元さんはついにお腹を押さえて「あはは!」と大きな声を出した。
「ごめんごめん。集中しないとね。行きましょう」
「う、うん。緊張は解れたよ」
「それは後ろで嫉妬してる人に言ってあげてくださーい」
そうだった。この様子も撮られているんだった。振り返れば、寿瑪は眉間のしわをこれでもかと濃くしていた。なんだその顔。とりあえず触らぬ神にたたりなしというので改めてなにも声をかけずに、藤元さんと先生のあとに続いてホールへ向かう。
客席には新入生だけでなく先生たちもところせましと押し寄せていた。袖から覗いた限りだと椅子がまったく足りていなさそうだ。
せっかく力が良い感じに抜けていたのに肩が強張ってしまう。だがすかさず寿瑪の大きな手が乗っかり揉んでくれたから安心した。レンズをどかして「大丈夫」と口の動きだけで伝えてくる。
呼び込みがかかり、藤元さんと一緒に舞台に出る。拍手で迎えられた。礼をしてから改めて観客たちを一瞥すれば、みんな期待に目を輝かせていてきれいだ。暗いのも相まってまるで星空のようにも感じる。それにすら数年間おびえていたなんて、もったいないことをした後悔の念が込みあがってきた。
いまから楽しめばいいんだ。言い聞かせる。説明が終わったので一呼吸置き、弓を弦の上に滑らせた。
どよめきはなんて気持ちが良いのだろう。挨拶代わりのカプリス第二十四番もホールに音が踊れば、バイオリンという楽器がどういうものか知らなくても圧倒できるのだ。今回はまさに技巧という技巧が詰まった曲をリストアップした。中でもカプリスはたった五分という中に技術がこれでもかと入っている。
大丈夫、鳴らせている。観客の顔を見ろ。自分ではなく、彼らが喜んでいるか、感動させられているか。僕はそれを信じればいい。
拍手が生まれる。軽く礼をして、もう一度バイオリンを構えた。次の曲に入ればまた息を飲む音が聞こえた。G線場のアリア、ツィゴイネルワイゼン、どれも連続で披露するのは少々やりすぎかもしれない。でもたまには大盤振る舞いだってしてみたいものだ。付き合ってくれている藤元さんにも大変な思いをさせているけれど、さすがピアノコース主席なだけあって伴奏の音色すらも美しい。寿瑪はきちんと撮ってくれているかな。曲の間にちら、と横目で確認する。暗くてよく見えなかった。
「次の曲が最後になります。短い時間ではありましたが、ご清聴くださりありがとうございました」
伝えれば観客がブーイングを飛ばしてきた。苦笑しつつ、こんなに惜しんでもらえたのなら成功できたと安堵に柔らかく包まれて力が抜けてしまいそうだ。ぐ、と膝で耐えてマイクを握りなおす。
「ラ・カンパネラという曲を演奏します。私が初めて人に知ってもらえたもので、……大事な曲です。鐘を鳴らすような表現がユニークでして、ぜひ楽しんでください」
再度拍手がホールを満たす。バイオリンを構え直し、息を吸った。
最初のファ#があれほど怖かったのに、寿瑪からもらった熱がその恐怖を燃やしていく。あとは身を任せるだけだ。練習してきた日々は裏切ったりはしない。体にこれでもかと叩き込み続けた移弦の動きも、弓も、リズムもすべてがずっと僕の中にある。
うっとりと見惚れる生徒と目が合った。にこ、と微笑めばさらに目じりが下がってため息を吐いている。
あとはもう心と衝動が赴くまま弓を滑らせていく。最後の瞬間まで楽しんでしまえ。この曲を一番うまく演奏できるのは僕だ。パガニーニすら負けはしない。
なにせ僕があこがれてやまない天才であり悪魔がそう言うのだから、絶対に感動させてやるんだ。
「ブラボー!」
飛んできた声に演奏が終わっていたと気づいた。慌てて姿勢を正して深々と腰を曲げる。藤元さんの方へ振り返ればうなずいたので、手を振りながら袖へと戻った。
すぐに寿瑪に駆け寄って「どうだった!」と感想を催促する。彼はいまにも泣きだしそうに顔をひしゃげていた。
「生で聞けてよかった……。やっぱりアマデウスが一番うまくって、きれいで、俺は大好きだよ」
「ありがとう。当然だろ、だれかさんが言うには僕は天才だからな。というか大好きって大げさだなぁ」
胸を撫でおろしながらからかえば、寿瑪の顔がみるみるうちに赤く染まっていっている。暗がりでもわかるほど真っ赤になったときには向こうで藤元さんが大爆笑していた。
え。まさか、いやいや。突然そんな。え? 大好きって、僕の演奏がだよな。
まるで大失態をおかしたみたいに口元を両手で押さえたものだからカメラが足元に落ちてしまう。商売道具をぞんざいに扱うなんてどうかしている。拾い上げようと思ったのだが、僕の体は動かなかった。その間に寿瑪がちゃんと自分で拾って傷がないか確認すると、冷汗を垂らしながら目をそらした。
「あ、だい、すきというのはそう! アマデウスの演奏が!」
「そ、そうだよね!」
沈黙のせいで割れんばかりの拍手が裏まで響く。残念ながらアンコールはできないので、先生が飛び出て行っていろいろ説明していた。
僕らはなおも固まったまま汗を垂らし続けている。
なぜこうなったかというと、とにかく触れてもらえれば自信がわくというのをいろいろ試してみたら一番冷静になれて落ち着いたのがこの形だったからだ。胸辺りに顔を埋める。寿瑪も恥ずかしがっていたけれど、どうやらなにか諦めたのか背中をさすってくれた。すぅ、と吸い込めば汗の匂いがする。不快じゃない。こんなところを誰かに見られたらまた良くない状態になりそうだけど、ドアに「準備中!」と紙を貼ったので覗いてくる不届き者はいないはずだ。
寿瑪の腕に力が入った。さらに体が密着して苦しくなり、酸素を求めて顔をあげると視線があった。目元が赤くなっているのがわかって笑いが漏れる。
「どう?」と訊かれたのでうなずいて、彼の背中を叩いて離してもらった。
「いけそう。だいぶ温まった」
指をぐーぱーと開いてバイオリンを取れば、寿瑪もカメラを構えた。最後のチューニングを済ませる。
「撮影もこれで終わりかぁ。そう思うとちょっと寂しいかも」
「へぇ。嫌がってたのに?」
「嫌がってはない」と口を尖らせて弓の先端を寿瑪に向けた。
「きみの最初の態度が悪かったから信用できなかっただけだ。まさか憧れの人がおばけなんてあだ名つけられてからかわれてるの、ショックだったし」
「今は?」
無視して制服のネクタイの位置を整える。いたずらっぽく上がっている口角が気に入らないので置いて行ってやろう。時計を確認してからレッスン室のドアを開けた。外に出れば藤元さんもちょうど準備が終わったようではちあう。
直前でリストを変えた僕を彼女は「わかってたからね」と呆れて許してくれた。どうせそうなるだろうと練習していたらしい。
「なにせ佐藤くんから念押しされてたので。本当にかなえちゃうなんて、彼、ちょっと変な人だね」
リハーサルで軽く合わせたときに耳打ちされたんだった。たしかに寿瑪は変なので激しくうなずいていると寿瑪が文句を言いたそうだったのでそっぽを向いたのだった。
「やっと弾くんだ、あの曲。小鐘くんが決めたんなら私は支えるだけだよ。はぁ、でもまさかあのおばけさんが突き動かしちゃうなんて立つ瀬がないなぁ。一応相棒ポジ狙ってたのに」
「初耳なんですが……」
「ふふ。ねぇ、小鐘くんは佐藤くんのどこがよかったの?」
急な質問に戸惑えば、藤元さんもしてやったりと言いたげに口元を手で隠してくすくすと笑う。含みのある聞き方にさらに混乱をあらわにした僕が相当おかしかったのか、藤元さんはついにお腹を押さえて「あはは!」と大きな声を出した。
「ごめんごめん。集中しないとね。行きましょう」
「う、うん。緊張は解れたよ」
「それは後ろで嫉妬してる人に言ってあげてくださーい」
そうだった。この様子も撮られているんだった。振り返れば、寿瑪は眉間のしわをこれでもかと濃くしていた。なんだその顔。とりあえず触らぬ神にたたりなしというので改めてなにも声をかけずに、藤元さんと先生のあとに続いてホールへ向かう。
客席には新入生だけでなく先生たちもところせましと押し寄せていた。袖から覗いた限りだと椅子がまったく足りていなさそうだ。
せっかく力が良い感じに抜けていたのに肩が強張ってしまう。だがすかさず寿瑪の大きな手が乗っかり揉んでくれたから安心した。レンズをどかして「大丈夫」と口の動きだけで伝えてくる。
呼び込みがかかり、藤元さんと一緒に舞台に出る。拍手で迎えられた。礼をしてから改めて観客たちを一瞥すれば、みんな期待に目を輝かせていてきれいだ。暗いのも相まってまるで星空のようにも感じる。それにすら数年間おびえていたなんて、もったいないことをした後悔の念が込みあがってきた。
いまから楽しめばいいんだ。言い聞かせる。説明が終わったので一呼吸置き、弓を弦の上に滑らせた。
どよめきはなんて気持ちが良いのだろう。挨拶代わりのカプリス第二十四番もホールに音が踊れば、バイオリンという楽器がどういうものか知らなくても圧倒できるのだ。今回はまさに技巧という技巧が詰まった曲をリストアップした。中でもカプリスはたった五分という中に技術がこれでもかと入っている。
大丈夫、鳴らせている。観客の顔を見ろ。自分ではなく、彼らが喜んでいるか、感動させられているか。僕はそれを信じればいい。
拍手が生まれる。軽く礼をして、もう一度バイオリンを構えた。次の曲に入ればまた息を飲む音が聞こえた。G線場のアリア、ツィゴイネルワイゼン、どれも連続で披露するのは少々やりすぎかもしれない。でもたまには大盤振る舞いだってしてみたいものだ。付き合ってくれている藤元さんにも大変な思いをさせているけれど、さすがピアノコース主席なだけあって伴奏の音色すらも美しい。寿瑪はきちんと撮ってくれているかな。曲の間にちら、と横目で確認する。暗くてよく見えなかった。
「次の曲が最後になります。短い時間ではありましたが、ご清聴くださりありがとうございました」
伝えれば観客がブーイングを飛ばしてきた。苦笑しつつ、こんなに惜しんでもらえたのなら成功できたと安堵に柔らかく包まれて力が抜けてしまいそうだ。ぐ、と膝で耐えてマイクを握りなおす。
「ラ・カンパネラという曲を演奏します。私が初めて人に知ってもらえたもので、……大事な曲です。鐘を鳴らすような表現がユニークでして、ぜひ楽しんでください」
再度拍手がホールを満たす。バイオリンを構え直し、息を吸った。
最初のファ#があれほど怖かったのに、寿瑪からもらった熱がその恐怖を燃やしていく。あとは身を任せるだけだ。練習してきた日々は裏切ったりはしない。体にこれでもかと叩き込み続けた移弦の動きも、弓も、リズムもすべてがずっと僕の中にある。
うっとりと見惚れる生徒と目が合った。にこ、と微笑めばさらに目じりが下がってため息を吐いている。
あとはもう心と衝動が赴くまま弓を滑らせていく。最後の瞬間まで楽しんでしまえ。この曲を一番うまく演奏できるのは僕だ。パガニーニすら負けはしない。
なにせ僕があこがれてやまない天才であり悪魔がそう言うのだから、絶対に感動させてやるんだ。
「ブラボー!」
飛んできた声に演奏が終わっていたと気づいた。慌てて姿勢を正して深々と腰を曲げる。藤元さんの方へ振り返ればうなずいたので、手を振りながら袖へと戻った。
すぐに寿瑪に駆け寄って「どうだった!」と感想を催促する。彼はいまにも泣きだしそうに顔をひしゃげていた。
「生で聞けてよかった……。やっぱりアマデウスが一番うまくって、きれいで、俺は大好きだよ」
「ありがとう。当然だろ、だれかさんが言うには僕は天才だからな。というか大好きって大げさだなぁ」
胸を撫でおろしながらからかえば、寿瑪の顔がみるみるうちに赤く染まっていっている。暗がりでもわかるほど真っ赤になったときには向こうで藤元さんが大爆笑していた。
え。まさか、いやいや。突然そんな。え? 大好きって、僕の演奏がだよな。
まるで大失態をおかしたみたいに口元を両手で押さえたものだからカメラが足元に落ちてしまう。商売道具をぞんざいに扱うなんてどうかしている。拾い上げようと思ったのだが、僕の体は動かなかった。その間に寿瑪がちゃんと自分で拾って傷がないか確認すると、冷汗を垂らしながら目をそらした。
「あ、だい、すきというのはそう! アマデウスの演奏が!」
「そ、そうだよね!」
沈黙のせいで割れんばかりの拍手が裏まで響く。残念ながらアンコールはできないので、先生が飛び出て行っていろいろ説明していた。
僕らはなおも固まったまま汗を垂らし続けている。

