ふり向いてくれよ、アマデウス

 寿瑪が何を言っているのか、音ではなく意味をともなった言葉なのかすら僕には理解できなかった。

 でもなにかが大きく変わろうとしている。僕の中のなにか、形容しがたいものがうまれそうなのだ。弾けた泡から飛び出たものを掴みたくて、ハッとバイオリンの弓を握った。

「僕が、敗北におびえてるって……?」

 信じられずに繰り返せば、寿瑪が力強くうなずいた。彼の額から汗を流れたが、そのまま深呼吸をしてから茫然としている僕に向かって静かに続けた。

「この先いくらだって負けることはある。才能があるからってかなわないことも出てくるはずだ」

 震えてる。手も、声も黒目も、寿瑪は震えながら僕へ伝えるために、一生懸命言葉を選びながら一つずつ想いを込めているってわかった。だから僕も黙って彼の言葉にある意味を必死に拾う。

「そのたび立ち止まってたらたまんないよ。やめちまえって自暴自棄になってたらさ、体も心もいくつあっても足りない。さっき俺に映画を撮る理由を訊いたよな。アマデウスはどうしてバイオリンを弾いてたんだ。きっときみは、自分にはこれしかないって信じてるはずだ」

「それは、その、」

 まるで卵の殻を内側かたつつくように振動となって伝わってくる。薄皮はもう破られていて、あと残すは固い卵殻だけ。彼と再会したときにも感じた無理やり雛鳥が生まれてきそうな衝動に背中がゾクゾクと粟立った。

 弾く理由はひとつしかなかった。僕という存在を知ってほしい。ほめて欲しい。かつてのきみが楽しそうに聞いていた姿をみんながしてくれるのが、嬉しかったんだ。

「苦しいのは全身全霊で頑張ってる証拠なんだ。でもそんなことになってるなんて知らなくて、もっと早くに気づけばよかった」

「寿瑪、待って」

「待たない」

 彼の目の奥が燃えている。もうまったくそらせなくなって、僕は吸い込まれるみたいにその燃えた目を見るしかない。反論のために口を開いても、殻をつつく振動が鼓動に変わって駆り立ててきて喉でつかえてしまう。血が激しく流れる。まるでせき止められていた水が溢れていくように冷えた指先が熱くなってきた。

 ──これ、知ってる。僕はこの感覚をすでに経験している。

 耐えきれない衝動が体の中を駆け巡る。寿瑪の声が耳朶を打つとどんどんスピードがあがっていって、僕の気持ちは置いていかれそうだ。吸い込む空気にすら熱気を感じた。

「だから、俺が自信をあげるよ」

「どうやって」

 ドキドキと跳ねる心臓のリズムをどの曲と似ているか探す。アンダンティーノ。違う、アッチェレランドだ。あぁ、なんてことだ。この指示がある作品といえば真っ先に思いつくのは、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」第四楽章じゃないか。そう、楽曲の盛り上がりが一番最高潮に達し、まさに絶望からすべて解き放たれ光を見出し美しく新しい世界へとはばたいていくような、あの、ドラマティックなあの曲!

 流れ出した音楽に全身の産毛がぶわっと逆立ち、僕は寿瑪の一歩近づいた。ピッコロの旋律がリードするように奏でられ、曲の速度は最後に向かい加速していく。いまにもバイオリンを持っていた手が弾きださんと震えだした。その手を寿瑪の手が再度掴んでくる。抵抗する隙もなく持ち上げられ、バイオリンが頬に当たっていた。たった一日ぶりの感触なのに溢れ出る気持ちが指を伝って木に注がれる。寿瑪から流れてくる熱だ。

 コンサートのときに背中を叩かれたときに得た熱と同じものだった。いや、違う。ろうそくなんてかわいいものじゃない。なんだよこれ、まるで悪魔の業火が目の前でくゆられているようだ。卵の殻の内側から出てきたのは雛じゃなくて、真っ赤に燃える炎だ。この男はおばけどころか悪魔じゃないか。

 はは、と乾いた笑いが出た。パガニーニ、こんなやつに逆らえるはずがないよ。

「弾いて。弾け。始まりの音は?」

 自然と弓を弦にあてていた。弦を押さえる指が自然とその形になる。フッと鼻で息を吸い、鳴らす音は決まっている。

「ほら、きれいに鳴っただろ」

 耳を新品に取り換えたみたいに素直にラの音が入ってくる。迷いというノイズの一切入っていないすっきりとした鮮明な青空が広がった感覚に目が熱くなる。久しぶりの自分の音色はこんなにも美しいなんて、忘れていた。

 朝日がバイオリンの弓を照らした。その先で寿瑪が僕よりも泣きそうになりながら微笑んでいた。指でフレームを作り、何度もうなずく。

「これが俺がずっと追ってきた大好きなアマデウスの姿だよ」