開いたドアの先にいた寿瑪が目を丸くして僕を見ていた。しばらくその場で固まっていたが思い出したように室内に入ってきてドアを閉じた。僕もその光景を眺めた。なぜかとてもゆっくりとした動作に感じた。
フレーム越しに眺める彼は新鮮だった。だってあの子と同じ黒髪で、ひょろっと手足が長くって、アンニュイな雰囲気も歳相応じゃない色気もまったく一緒だったからだ。どうして気づかなかったんだろう。けれど彼はすぐ眉を下げ、顔をうつむかせて床に視線をやった。
沈黙が生まれる。もともと僕もしゃべらず、寿瑪が口を結んでいるから。この部屋にこんな無音が続いたことはないかもしれない。
いい加減指の形を崩してまっすぐ寿瑪を見つめる。なんて言葉をかければいいかわからない。だって僕は彼からのアピールを全部無視していたらしいし、いまだってまだふわふわしている。記憶にいた少年と寿瑪がどんどん重なっている最中だった。
「その、」と口火を切ったのは寿瑪だった。
「まさかレッスン室にいるなんて思わなくって、ごめん」
謝られた意味が理解できず、首をかしげた。だけど違うだろ、と頬を軽くつねる。昨日逃げ出したのは僕の方じゃないか。だったら謝るのは僕の方で、あぁもう。頭も口も大きな泡が体の中で膨れたせいで邪魔だ。うまく思考してくれない。
「頼まれてもコンサートのシーンはカットできない。どんな音に聞こえたのかわからないけど、俺は最高の演奏だったって実際に聞いたときも編集中にも感動した」
「でも」と食い下がる。あんなひどい演奏が最高だったなんて言わないでくれ。きっと観客はがっかりしてしまう。
「聞きに来てた人たちもみんな喜んでた。あんな耳が痛くなるほどの拍手、忘れられるか?」
「会場の空気に酔っていただけかもしれない。聞きなおしたらきっとぜんぜん違うって驚くよ」
「アマ、っ! アマデウス、」
「だからそれで呼ばないでって子どものときにも言っただろ!」
叫べば、寿瑪が一歩引いた。手に持っていたなにかを強く抱きしめて口を魚みたいに開閉する。
「思い出したのか?」
うなずく。藤元さんのメッセージで衝撃的に結びついた瞬間に彼が部屋に来るなんてどうかしている。運命のいたずらなのか、イラ立ちで唇を噛む。このまま話していてもらちが明かない。椅子から立ち上がって部屋を出ていこうと一歩を踏み出したが、寿瑪になにかを突き出されて足を止めた。
「なに、」
「忘れてたから、持ってきた。こんな大事な物置いていくなよ。持ち運ぶの怖かったんだから」
見慣れたケースの色に早くなっていた脈が止まる。せっかく離れられると思っていたのに、それをこともあろうに寿瑪が持ってくるなんて、喉が一瞬で砂漠のように乾ききって空気を切る音が響く。
受け取ったら、また戻らなければならなくなる。あの一瞬の隙さえも許されず、張り詰めた糸をさらにナイフで削っていくみたいな世界にもう一度挑めというのか。吸った息を吐き出せずに詰まらせた。でも長くは続かず激しくむせ、後ずさったせいで椅子と足がぶつかりよろける。わ、と慌てて寿瑪が僕の肩を掴んでくれたおかげで転ばずに済んだが、そのまま壁に倒れたせいで逃げ場を失った。
「もう弾きたくないんだ?」
目をそらす。寿瑪が吹き出すように笑った。なんで笑うんだよ、普通そこは怒ったりするところのはずだ。
「なんだ、そうじゃないんならよかった。本気でやめちゃったらどうしようって気が気じゃなかったんだ。昨日の夜とか寝れなくって」
そらした目を彼の目元に合わせてみる。せっかく消えかけていたクマが復活していた。野菜とか肉とか栄養バランスを考えてしっかり管理していたのに、またやり直しだ。あ、と視線を足元に落とそうとしたのにケースとぶつかる。
「本気……」
「だったらここには来ない。俺があこがれている天才バイオリニストの小鐘奏音は音楽を捨てるなんてできない」
「なんで、そんなのわかるんだよ。なにも知らないくせに」
「俺が映画を捨てられなかったから」
「え、どういうこと?」
肩を掴んでいた手に力が入る。しかしパッと離れ、数回軽く叩かれると寿瑪が腕を組んでため息を吐いた。左右に数回揺れて観念したと言わんばかりに彼は椅子に座る。窓から差し込んだ朝日が寿瑪の顔を照らした。
僕にあこがれている、ってなに。そんな要素どこにあるのか考えても見つからなくて困惑する。そういえば、ドキュメンタリーを撮りたいと提案してきたのは寿瑪からだったと不意に思い出した。僕が有名人だという自覚はあったしそのせいだと思い込んでいたけれど、もしかして違うのか。
彼のここまでの人生なんてこれっぽっちも聞いてこなかった。僕と寿瑪をつないでいたのは十数分ほどの短編映画だけ、一緒に遊んだのも数週間だけ。撮影でともに過ごしていた方が長いほどで、そうだ、なぜ映画を撮ろうと決めたのかも──、知らないのは僕の方だった。
口を結んでしまった彼の代わりに、ぼくの口から声が出て空気の重い室内にこもる。
「寿瑪にとって、映画を撮るってなんなの」
「最高の一本を撮るための道のり」
戸惑った僕に、寿瑪が照れ笑いをした。
「というかまだ見つかってない。俺もコンペティションで賞を取ったことがあるんだけど、天才ってもてはやされてわからなくなった」
「……きみは天才じゃないか。本物の」
「どうかな。それから箸にも棒にも掛かってないし、俺のことはもうみんな忘れ始めてる頃だろ。あれ以上のものが撮れないならやめてもいいんだ。いまでもそう考える」
「でも、」
「きっかけ。たかが映画好きの悪ガキがどうして映画を撮ろうって始めたんだと思う?」
わかるわけがない。押し黙って彼の次の言葉を待つ。気に入らなかったのか寿瑪は口を尖らせたが、諦めて僕を指さしてきた。ビク、と肩が跳ねる。
「天才がいたからだよ。本物の天才を、才能を浴びたらいてもたってもいられなくなったんだ。目で見ているだけがもったいなくて、残しておきたかった。瑞々しい音も、生まれて初めてきれいで楽しいと感じた音楽も、全部思い出だけに留めておくのは惜しかった。でもあのときの俺には勇気が足りなかった」
「その天才って、僕のこと?」
「そうだよ」
寿瑪はうなずくと立ち上がって、ケースを拾い上げると留め具を外しバイオリンを見せてきた。手で誘導されるから一歩近づく。いまの愛器はあの頃とは当然別のものだ。それでも、僕の中でも彼と演奏した日々が鮮明によみがえってきていた。ためらった指先を伸ばしたが、一度は引っ込めてしまう。しかしその手を寿瑪に熱くなった手に取られ、爪先が木に触れた。
僕は、彼の期待するような天才ではもうない。音の歪みはいくら練習したって直せやしなかった。それどころか音楽を、これまでの人生も賞賛も捨ててしまおうとしたんだ。そんな僕にどうして目を輝かせているの。どうして彼の顔の周りに星がちかちかと光って見えるんだろう。
「どれか一つでも結果を残せばアマデウスに近づけるかもって頑張ってさ、気づいたら俺も天才だーとか適当なこと言われて。でもそれなら音楽を使わせてほしいって言って許されるかなってお願いしてみたらその望みがかなった。もうこれ以上のいいことなんて起きないだろうとやめようか迷ってたんだ。
まさか同じ高校に進学してたなんてマジで死ぬほどびっくりしたよ。でも俺はまた勇気が出せなかった。一年同じ敷地にいたのに声もかけられなくて、昔のこと覚えてないのはわかってたから」
「ご、ごめん……」
「いいんだ。名乗らなかった方が悪い。けど演奏会をやるかもって聞いて、チャンスはここしかないって思い切って声をかけたらあっさりオッケー出るし、かと思えばめちゃくちゃ警戒されてやっぱり天才ってわけわかんねぇの。けど俺はどうしてもアマデウスを撮りたかった。思い出したんだよ。最初のきっかけは小鐘奏音を撮りたいってことだったのを。ほかのだれでもない、俺がきみを一番大事にかっこよく最高に撮れる、って信じてたんだ」
「なんだよ、どんな自信なわけ?」
「俺には自信しかないんだよ、アマデウス。技術も才能ももってるヤツなんかには到底かなわなくって、ただ運がよかっただけのアマチュアで、神様にはそっぽむかれまくってて、あこがれた人にアイサツするだけで手汗だらけで、でも俺には自信がある」
「なにがいいたんだ、さっきから」
「音が変に聞こえるのは、心の問題だ」
ヒュ、と喉が鳴った。こころ、と音もなく繰り返した。
「アマデウスはきっといま、自信がないんだ。俺が見てきたきみはずっと神様から愛されてる。絶対に。その姿を撮ってきたのは俺だから間違いない。けどきみは一度大きく、それも一番傷つく方法で負けてしまった。だから、」
「勝手なこと言うなよ!」
「いやだ、言う。たった一回の敗北におびえてんじゃねぇよ、小鐘奏音!」
バチンッと体の中の泡がはじけたような音が、耳の奥からした。
フレーム越しに眺める彼は新鮮だった。だってあの子と同じ黒髪で、ひょろっと手足が長くって、アンニュイな雰囲気も歳相応じゃない色気もまったく一緒だったからだ。どうして気づかなかったんだろう。けれど彼はすぐ眉を下げ、顔をうつむかせて床に視線をやった。
沈黙が生まれる。もともと僕もしゃべらず、寿瑪が口を結んでいるから。この部屋にこんな無音が続いたことはないかもしれない。
いい加減指の形を崩してまっすぐ寿瑪を見つめる。なんて言葉をかければいいかわからない。だって僕は彼からのアピールを全部無視していたらしいし、いまだってまだふわふわしている。記憶にいた少年と寿瑪がどんどん重なっている最中だった。
「その、」と口火を切ったのは寿瑪だった。
「まさかレッスン室にいるなんて思わなくって、ごめん」
謝られた意味が理解できず、首をかしげた。だけど違うだろ、と頬を軽くつねる。昨日逃げ出したのは僕の方じゃないか。だったら謝るのは僕の方で、あぁもう。頭も口も大きな泡が体の中で膨れたせいで邪魔だ。うまく思考してくれない。
「頼まれてもコンサートのシーンはカットできない。どんな音に聞こえたのかわからないけど、俺は最高の演奏だったって実際に聞いたときも編集中にも感動した」
「でも」と食い下がる。あんなひどい演奏が最高だったなんて言わないでくれ。きっと観客はがっかりしてしまう。
「聞きに来てた人たちもみんな喜んでた。あんな耳が痛くなるほどの拍手、忘れられるか?」
「会場の空気に酔っていただけかもしれない。聞きなおしたらきっとぜんぜん違うって驚くよ」
「アマ、っ! アマデウス、」
「だからそれで呼ばないでって子どものときにも言っただろ!」
叫べば、寿瑪が一歩引いた。手に持っていたなにかを強く抱きしめて口を魚みたいに開閉する。
「思い出したのか?」
うなずく。藤元さんのメッセージで衝撃的に結びついた瞬間に彼が部屋に来るなんてどうかしている。運命のいたずらなのか、イラ立ちで唇を噛む。このまま話していてもらちが明かない。椅子から立ち上がって部屋を出ていこうと一歩を踏み出したが、寿瑪になにかを突き出されて足を止めた。
「なに、」
「忘れてたから、持ってきた。こんな大事な物置いていくなよ。持ち運ぶの怖かったんだから」
見慣れたケースの色に早くなっていた脈が止まる。せっかく離れられると思っていたのに、それをこともあろうに寿瑪が持ってくるなんて、喉が一瞬で砂漠のように乾ききって空気を切る音が響く。
受け取ったら、また戻らなければならなくなる。あの一瞬の隙さえも許されず、張り詰めた糸をさらにナイフで削っていくみたいな世界にもう一度挑めというのか。吸った息を吐き出せずに詰まらせた。でも長くは続かず激しくむせ、後ずさったせいで椅子と足がぶつかりよろける。わ、と慌てて寿瑪が僕の肩を掴んでくれたおかげで転ばずに済んだが、そのまま壁に倒れたせいで逃げ場を失った。
「もう弾きたくないんだ?」
目をそらす。寿瑪が吹き出すように笑った。なんで笑うんだよ、普通そこは怒ったりするところのはずだ。
「なんだ、そうじゃないんならよかった。本気でやめちゃったらどうしようって気が気じゃなかったんだ。昨日の夜とか寝れなくって」
そらした目を彼の目元に合わせてみる。せっかく消えかけていたクマが復活していた。野菜とか肉とか栄養バランスを考えてしっかり管理していたのに、またやり直しだ。あ、と視線を足元に落とそうとしたのにケースとぶつかる。
「本気……」
「だったらここには来ない。俺があこがれている天才バイオリニストの小鐘奏音は音楽を捨てるなんてできない」
「なんで、そんなのわかるんだよ。なにも知らないくせに」
「俺が映画を捨てられなかったから」
「え、どういうこと?」
肩を掴んでいた手に力が入る。しかしパッと離れ、数回軽く叩かれると寿瑪が腕を組んでため息を吐いた。左右に数回揺れて観念したと言わんばかりに彼は椅子に座る。窓から差し込んだ朝日が寿瑪の顔を照らした。
僕にあこがれている、ってなに。そんな要素どこにあるのか考えても見つからなくて困惑する。そういえば、ドキュメンタリーを撮りたいと提案してきたのは寿瑪からだったと不意に思い出した。僕が有名人だという自覚はあったしそのせいだと思い込んでいたけれど、もしかして違うのか。
彼のここまでの人生なんてこれっぽっちも聞いてこなかった。僕と寿瑪をつないでいたのは十数分ほどの短編映画だけ、一緒に遊んだのも数週間だけ。撮影でともに過ごしていた方が長いほどで、そうだ、なぜ映画を撮ろうと決めたのかも──、知らないのは僕の方だった。
口を結んでしまった彼の代わりに、ぼくの口から声が出て空気の重い室内にこもる。
「寿瑪にとって、映画を撮るってなんなの」
「最高の一本を撮るための道のり」
戸惑った僕に、寿瑪が照れ笑いをした。
「というかまだ見つかってない。俺もコンペティションで賞を取ったことがあるんだけど、天才ってもてはやされてわからなくなった」
「……きみは天才じゃないか。本物の」
「どうかな。それから箸にも棒にも掛かってないし、俺のことはもうみんな忘れ始めてる頃だろ。あれ以上のものが撮れないならやめてもいいんだ。いまでもそう考える」
「でも、」
「きっかけ。たかが映画好きの悪ガキがどうして映画を撮ろうって始めたんだと思う?」
わかるわけがない。押し黙って彼の次の言葉を待つ。気に入らなかったのか寿瑪は口を尖らせたが、諦めて僕を指さしてきた。ビク、と肩が跳ねる。
「天才がいたからだよ。本物の天才を、才能を浴びたらいてもたってもいられなくなったんだ。目で見ているだけがもったいなくて、残しておきたかった。瑞々しい音も、生まれて初めてきれいで楽しいと感じた音楽も、全部思い出だけに留めておくのは惜しかった。でもあのときの俺には勇気が足りなかった」
「その天才って、僕のこと?」
「そうだよ」
寿瑪はうなずくと立ち上がって、ケースを拾い上げると留め具を外しバイオリンを見せてきた。手で誘導されるから一歩近づく。いまの愛器はあの頃とは当然別のものだ。それでも、僕の中でも彼と演奏した日々が鮮明によみがえってきていた。ためらった指先を伸ばしたが、一度は引っ込めてしまう。しかしその手を寿瑪に熱くなった手に取られ、爪先が木に触れた。
僕は、彼の期待するような天才ではもうない。音の歪みはいくら練習したって直せやしなかった。それどころか音楽を、これまでの人生も賞賛も捨ててしまおうとしたんだ。そんな僕にどうして目を輝かせているの。どうして彼の顔の周りに星がちかちかと光って見えるんだろう。
「どれか一つでも結果を残せばアマデウスに近づけるかもって頑張ってさ、気づいたら俺も天才だーとか適当なこと言われて。でもそれなら音楽を使わせてほしいって言って許されるかなってお願いしてみたらその望みがかなった。もうこれ以上のいいことなんて起きないだろうとやめようか迷ってたんだ。
まさか同じ高校に進学してたなんてマジで死ぬほどびっくりしたよ。でも俺はまた勇気が出せなかった。一年同じ敷地にいたのに声もかけられなくて、昔のこと覚えてないのはわかってたから」
「ご、ごめん……」
「いいんだ。名乗らなかった方が悪い。けど演奏会をやるかもって聞いて、チャンスはここしかないって思い切って声をかけたらあっさりオッケー出るし、かと思えばめちゃくちゃ警戒されてやっぱり天才ってわけわかんねぇの。けど俺はどうしてもアマデウスを撮りたかった。思い出したんだよ。最初のきっかけは小鐘奏音を撮りたいってことだったのを。ほかのだれでもない、俺がきみを一番大事にかっこよく最高に撮れる、って信じてたんだ」
「なんだよ、どんな自信なわけ?」
「俺には自信しかないんだよ、アマデウス。技術も才能ももってるヤツなんかには到底かなわなくって、ただ運がよかっただけのアマチュアで、神様にはそっぽむかれまくってて、あこがれた人にアイサツするだけで手汗だらけで、でも俺には自信がある」
「なにがいいたんだ、さっきから」
「音が変に聞こえるのは、心の問題だ」
ヒュ、と喉が鳴った。こころ、と音もなく繰り返した。
「アマデウスはきっといま、自信がないんだ。俺が見てきたきみはずっと神様から愛されてる。絶対に。その姿を撮ってきたのは俺だから間違いない。けどきみは一度大きく、それも一番傷つく方法で負けてしまった。だから、」
「勝手なこと言うなよ!」
「いやだ、言う。たった一回の敗北におびえてんじゃねぇよ、小鐘奏音!」
バチンッと体の中の泡がはじけたような音が、耳の奥からした。
