無事に高校に進学して、早くも一年が経った。最初は周りに勧められた通りに留学するべきだったかと後悔していたが、先生たちの指導も悪くないし、慣れない外国語で勉強するよりはマシだなと自分を納得させた。音楽科は他クラスと建物ごと隔離されているので想像するような学校生活ではないけれど、レッスン室も使い放題だし、設備も整っていて進学して正解だったのだ。

 ただ結局解決策は見つけられず、相変わらずスランプは続いている。あの映画と出会ってから感じていた苦痛は少しだけ和らいだのが救いだった。

 バイオリニストという人生のレールだけが敷かれている僕にとって、映画に描かれていた世界は「もしかしたら」をくれる。音楽に出会っていなかった僕を映画の主人公と重ねていた。

 サトウスズメも同い年だから高校生になったと思うのだが、僕はネットが苦手であまり使わないから調べ方もさっぱりなのでその後は追っていない。性別すら分からない。先生に聞けば良かったけれどなぜだかできなかった。友達の一人もいれば助けてくれるのだろうけど、人見知りなせいで友人作りは失敗している。一応話すことはできるが、一年ほぼひとりぼっちだった。いいんだ。そのぶん練習時間がしっかりとれるのだから。

 しかし二年生からは選択教科のせいで普通科や芸術科の生徒たちとも混ざった授業が始まる。別に仲良くならなくたって問題ないのだが、週に一日はずっと同じ教室にいるので気まずくなるのは避けたい。それくらいは僕だって考えている。だがため息は吐いたって許されるだろう。

 とぼとぼと重い足取りで廊下を歩き、ようやく着いた教室のドアを開けると騒がしい声にすぐに踵を返したくなった。当然ながらだれも楽譜を叩いていないし、自分の世界に入っている人もいるにはいるが、ほとんどの人は仲良さそうに話をしたり教室の後ろの方で遊んでいた。

 僕たちに気づいた他の生徒たちが一斉にこちらに視線をよこしてきて、きゅっと肩に力が入った。

「小鐘奏音だ……」

 どこからか聞こえてきた呟きに、教室に入るのを少しためらってしまった。音楽科のみんなとは違い、こうして反応されるのは久しぶりで新鮮だった。

 僕はどうやらちゃんと有名人なようだ。そうなると音楽科棟が離れていてよかった、とつい安堵していた。いい加減後ろで人が入れず困っていたので意を決して教室に足を踏み入れる。

 興味を向けてくる視線を避けつつ、窓際で空いている席を探した。できれば一番後ろがよかったのだが、もう先客がいたのでその前に腰を下ろす。チラ、とうらめしく背後を確認すれば、男子生徒が突っ伏していた。長めの黒髪はぼさぼさで、気崩した制服もところどころよれている。どうやら眠っているらしく、規則正しい呼吸音が聞こえた。いや、実際は規則正しいとは言えない。BPMが一定じゃないから、と考え始めたところで我に返り、前に向き直った。なにを真剣に考察しているんだか。

 声をかけたそうにしている生徒たちを無視していると、ようやく教師がやってきてことなきを得た。


 授業さえ始まってしまえば、あれだけ浴びていた好奇の目はまったく気にならなくなるし、そもそもこちらに向けられることもない。窓から入ってくるまろやかな日差しを堪能しつつ、教師の話を聞きながら少しの眠気に身を任せるべきか悩んだ。最初の授業だから説明ばかりで退屈だ。

 教室内を見回してみれば、芸術科の生徒は制服も改造していたり、絵の具がついていたりとそれぞれキャラクターがあるようらしい。普通科の生徒はさすがに少なく、音楽科の人たちと変わらないように見えた。

 後ろのまだ眠り続けている生徒はどちらだろう。髪が長くてアクセサリーもついているから芸術の方かな。

 回ってきたプリントを差し出したが反応はもちろんない。困った。頭の上にそのまま置いていいかわからず揺らしながら、呼びかけるかも迷う。

「佐藤のやつここでも寝てんじゃん。ごめんね、置いていいよ。そいつたぶん昼まで寝てるから」

 困っていることを察したのか、隣の男子生徒が声をかけてきてくれた。彼の襟元には芸術科のピンがついているから、この眠りねずみ(アリスに出てくるやつだ)も彼らの仲間であっていた。言われた通りに置いてみると、案外バランス感覚がいいのか落ちたりはしなかった。教師もこちらを一瞥したが注意してはこず、なんだかもやついた気分だけが残った。

「なに、おばけちゃんまた寝てるんだ?」

「そうそう。困らせちゃってさぁ、印象悪くなるよな」

 あはは、と小声で生徒たちが笑いあっているが、おばけという単語に引っかかった。僕の疑問をすぐに勘づいたのか、彼らもにやけながら耳打ちをしてくる。

「こいつ、M組のおばけって呼ばれてんの。いつも寝てるし、授業とかにもいつの間にか来てこうやって後ろの席で突っ伏してるから、気味悪くってさ。一年経ってもだれかとしゃべってるところなんか見たことないし」

「へ、へぇ。大変ですね。でもおばけなんて、」

「てかキミ、小鐘奏音さんだよね。天才バイオリニストの! うひゃー、まさか生で見られるなんて思わなかった。同じ学校だとは聞いてたけど、かわいい~」

「は?」

 おばけなんかよりも聞き捨てならない言葉に産毛が逆立った。いま、かわいいって言ったか。僕を見て、背が小さいことを指して、童顔なこともからかってきたんじゃないだろうな。

 それだけはいっちばん言われたくない評価だ。身長も百六十はちゃんと超えているし、童顔なのはまだ十代なのだから仕方ない。なのにこういうやつらは自分の見た目を棚に上げて人のことを、自然と下に見てくる。何度それによって「天才」である僕が見た目でバカにされてきたことか、思い出しても腹立たしい。

 ガタ、と椅子が鳴る。僕ではなく後ろの席からだった。驚いて振り向けば、あのおばけが立ち上がり、猫背のまま僕を見下ろしていた。横で話していた生徒たちも静かになり、罰が悪そうに顔をそらしている。

「こがね……かなた……?」

 彼が呟く。髪の毛のせいで下から見上げてもどんな表情をしているのか判別できない。おばけ、というのは本当かもしれないとうっかり信じそうなほど陰鬱な雰囲気で、ひょろりと伸びた身長も怖さを倍増させてくる。

 これは返事をしたらだめなやつだ。さすがに先生も突然たちあがった彼に肩をすくめながら「座りなさい」と注意を飛ばしてきた。

 しかしおばけは無視してのろのろと千鳥足気味に歩き出し、教室を出て行ってしまった。残された生徒たちは愕然とし、教師は咳払いをしてから卓上の名簿になにか書き込んで、けれど何事もなかったように授業を再開した。


 耐え難い二コマ分の授業がやっと終わり、レッスン室の主に戻ろうと急ごうとしたところで担任と校長に呼び止められてしまった。笑顔、と言い聞かせて振り向くと担任に一枚の書類を渡される。

「六月に新入生向けの定期演奏会をやるんだが、ぜひ代表として小鐘くんに演奏をお願いしたい」

 はぁ、と気の抜けた返事をする。たしかに去年、オペラの歌唱を見た記憶がある。そりゃ当然僕だよなと書類を受け取って中身を読んだ。両親やマネージャーにもと同じ書類が数枚重ねられた。落とさないように気をつけながら、一通り目を通して教科書と一緒に抱え直した。

「確認してみます。僕は構いませんので、もし演目のリクエストがあれば」

「普段クラシックを聞かない子でもわかるようなやつはあるかな?」

 ピク、と片眉が跳ねる。そうだ、考えてみれば演奏会とは違って興味がない連中に聞かせねばならないのか。僕なら眠れる獅子を叩き起しても弓一本で従えさせられる自信くらいはまだあるけれど、たとえばなにかのタイアップによく使われるやつの方がよいだろう。

 クラシックに馴染みがないからで終わらせるのではなく、こういう機会に楽しさを伝えるのも僕たちの役目だ。いくつか候補はあるし、ピアノを担当してくれる生徒も探さなければならない。そちらもいつも練習に付き合ってくれる子に早めに相談しなければ。

「それともう一つ相談なんだが、この機会に小鐘くんのドキュメンタリー映画を撮りたいと芸術科の生徒から打診があってね。コンペティションに提出するためだというから本格的なものになるそうで、どうだろう」

「ドキュメンタリー、ですか?」

「そう」と担任がうなずく。もう一枚の紙をファイルから取って差し出してきた。そこには企画の概要が簡単にまとめられており、注意深く読み込む。

 僕を追った映像、ということだよな。概要には定期演奏会までの二か月間密着する、と書かれているが、それっぽっちで映画なんて撮れるのか専門外だから想像がつかない。

「ショートムービーだそうだから、そこまで大規模じゃないんだって。ぜひ小鐘くんを撮りたいと息巻いていたよ」

「あの、一体どなたが撮るんですか? あっちに知り合いなんていませんし、僕も集中をそがれるのは……」

「佐藤くんだ。佐藤寿瑪くん。聞いたことあるかい?」

「ハ。」

 先生からその名前が出た瞬間僕の呼吸が止まった。サトウ、スズメ、聞いたことあるもなにも、ほとんど毎日その名前を思い出さなかった日なんてなかった。

 ま、待てよ。もしかしたら同姓同名の人違いかも。んなわけあるか!

「え、え、あ、う、受けます! 取材でもドキュメンタリーでもなんでもやります!」

 僕は書類にさっさとサインして先生に突き返していた。こんな機会、逃したら絶対に一生後悔するに決まっている。