ふり向いてくれよ、アマデウス

 習慣というものは恐ろしい。バイオリンがなくたって朝は同じ時間に起きるし、気づいたら顔を洗ってランニング用の服に着替えていた。玄関前で靴を履いたときにようやく意味がないと気づいたくらいだ。それにくわえて母に呼び止められ、心配そうに声をかけられたのも大きいだろう。

 やっと離れられたのに、かといってなにもしないのは気持ちが落ち着かなかった。振り切って玄関を開けたが、もしかしたらの期待を抱いてしまう。そこに寿瑪がいるかもとどうしてか考えていた。もちろんいるはずもなく、昇りかけた陽が道を白く照らしているだけだ。一度深呼吸をしてから、地面を蹴った。

 音楽は聴かなかった。いや、聴けなかった。それでも無音にはならず、鳥のさえずりや風で揺れる葉とか、アンビエントというんだったか、自然が作り出す音やリズムを感じながら走る。気持ちはいい。しかし体にぽっかりと開いた空洞の穴に響いているだけだ。きちんと眠れなかったせいで疲労が溜まっているのか、普段の距離は走れずに引き返した。

 学校までは母が送ってくれた。行かなくてもいい、と気を使ってくれたが指揮者とバイオリン奏者の家なのだから目につくものすべてが音楽関連で、正直いたくなかった。すべてを壊したらきっと母だって怒るはずだし、学校にいた方が気がまぎれる。着くまでに顔を揉んで固くなった表情筋を解す。大丈夫、と言い聞かせた。なにが大丈夫なのかはわからなかった。

 げた箱で靴を履き替えて、足が真っ先に向かったのはやっぱりレッスン室だった。持ち物もないのになにをしにいくつもりなんだろうか。

 ドアを開けると、バコ、と空気が抜けるような音がして重く開く。拒まれなくてよかった、と安堵して空気がこもった室内に入った。

 ここにも寿瑪はいない。当然だ、約束があれば別だがもうほとんど撮影は終わっている。影を追うように、彼の座っていた場所に椅子を持って行って腰を下ろした。足を抱え込む。

 あんなに音がひどくなっていたことに気づけず、まだ才能の欠片があるようにふるまっていたことに対する罪悪感に押しつぶされそうだ。

 けれど大事なバイオリンを置いていったのに、焦ったり悲しんだりするどころかほっとしていた。練習しなくて済むんだ、と心の片隅で喜んでいた。

 そんな自分にあ然としたし、怒りも湧いたが、どうにも気持ちが片付き始めている。

 このままアマデウスという名前を返上してしまえるならそうしたい。僕は天才ではなくって、ただの奏音として生きていけるなら、それもうれしいことなのかもしれない。

「はは、なんだよそれ」

 渇いた笑いが自分から出て、口を押さえてから拳を握る。そもそも最初からアマデウスなんていなかったんじゃないか。

 たしかに僕をアマデウスと呼ぶ子はいたけど、それがあんな世間的なイメージになったのはどうしてだったかな。きっかけは忘れてしまった。

 無駄な思考に頭をフル回転させていると、タイミングが良いのか悪いのか、ポケットに入れていたスマホが震えた。一度は無視したが数回続いたのでわずらわしくなって取り出す。藤元さんから通知が入っていた。そうだ、演奏会を断るなら早くしないと。先生に言って吹奏楽部に譲ろう。そう考えつつロックを解除して、彼女にも伝なければとメッセージを開く。

『テスト終わったら伝えるって話したのに忘れちゃった。佐藤くんからの伝言』

 そんなのあったな、と呆ける頭で思い出す。

『二人とも昔から知り合いだったんだね。アマデウスって名前をつけたのは俺なんだ、って自慢してたよ。でも小鐘くんがそれを忘れてるみたいだからさびしがってた』

「え……?」

 スクロールしていた手を止めた。昔から知り合いって、僕は寿瑪と会ったことはない。ないはずだ。だって名前を知ったのは映画のBGMに使いたいと打診があったときで、実際に姿を見たときだってなにも懐かしさは感じなかった。

 アマデウスと大それた名前で僕を呼んだのは、あの映画が好きな神出鬼没の黒髪の男の子だけだ。

 庭先でバイオリンを弾いていると現れたあの子。名前も知らないし、夏休みの間だけの思い出だからしばらく夢だと信じていた。母が覚えていなければ実在していたとは思わなかっただろう。

 ……──あれ。

 ドク、と心臓が跳ねて血の流れが激しくなる。唾を飲みこむとこめかみが痛んだ。

 両手の人差し指と親指を使って四角い枠を作る。あの子が毎回やっていた仕草だ。何の意味があるか知らなかったが、寿瑪もよくやっていて気になり、理由を訊いた気がする。

『映画を撮るときの画角を見てるんだ』

 癖なんだよね、と照れくさそうに笑っていた。いまやってみると、指の間だけに焦点が絞られてフレームになっているのがよくわかる。少年も寿瑪もこの窓から僕のことをずっと見ていた。ドクドクと心臓が拍を打つ速度があがる。冷えていた指先が熱くなってくる。そしてフレーム外のぼやけていた部分になにか影が映り、ハッと視線を指と一緒に向けた。

 
『「アマデウス」』


 少年の声と寿瑪の声が重なった。