ふり向いてくれよ、アマデウス

 映画館を出るともう夕方に近いらしく、空が暗くなり始めていた。ビルの明かりが灯ってきているのはきれいだが、人の多さも増している。映画を見た後でまだぽわぽわとほてって浮ついたままの脳が夜風で冷えていくのを感じた。それから出てすぐ横にあるゲームセンターに入った。

 大きな音が多く、ワっと驚いて寿瑪の後ろに引っ付く。ごちゃごちゃのBGMや流行りの曲など節操もない店内にめまいがしそうだ。しかし寿瑪はやっぱり慣れた様子で、歩き回ってクレーンゲームの景品を吟味し始めている。もちろんこんなところに来たことのない僕は辺りを見回すだけで精いっぱいだし、彼が止まったのに気づかず背中に思い切りぶつかった。

「いたっ」と鼻をさすれば、振り返った寿瑪が心配そうな顔をしていた。それから鼻を優しく撫でられてつままれたので振り払う。

「なにするんだよ」

「面白い顔してたから、つい。これやろうよ」

 目の前にあるお菓子の袋が大量に詰まれたクレーンを指さす。なるほど、これを落とすゲームかと理解してショーケースの中を覗いた。おそるおそる百円を入れて動かしてみたが、アームがゆらゆらと揺れただけで爪が変なところに落ちて空振りする。簡単そうに見えたのに、もう一度チャレンジしても爪が袋を優しく撫でただけで終わった。その様子を寿瑪は録画していたようだ。あはは、と大笑いが聞こえたからそっちへ向けばスマホが向けられていた。

「撮るなって言ったのに!」

「じゃ今度は俺のこと撮ってて」

「え、ちょっと、わっ」

 スマホが無理やり渡され、慌てて構えた。人を撮るのなんて初めてで勝手がわからない。とりあえず寿瑪と筐体を一緒に画面内に映した。体幹を鍛えているから手ブレはしないけれど、緊張する。

 見て、と寿瑪が小銭を連続で入れるとアームを器用に動かす。筐体の横に回って真剣な目つきで中を観察しながら長い腕を生かし、横から伸ばして操作を続けるとアームが袋を掴んだ。思わず僕もスマホを掴んでいた手に力がこもる。ぐ、と袋がわずかに持ち上がる。しかし無慈悲にも袋は落ちて、爪がむなしく閉じながら穴の上に移動した。あーと落胆すれば、寿瑪が元の位置に戻って再挑戦する。今度はうまくいって袋がスムーズに穴に投下された。

「すごい!」

 拍手を盛大に送ると袋がぽいっと投げられ受け止めた。いろいろなお菓子が入っていて賑やかだ。あれ、というかいつも寿瑪がと食べているやつばかりじゃないか。勝手に袋を開けてスナックを取り出すと、寿瑪に奪われ中身をくわえながらゲームを再々挑戦している。

「……映画見たあとはゲームしてるんだ?」

 訊くととぼけた返事がきた。レバーは動き続けて袋が一つ二つと次々に穴へ落ちていく。すごいすごいとはしゃいでいると、寿瑪が自分のリュックに無理やり袋を押し込めた。ついでと言わんばかりに僕のかばんにもうまく入れてくる。こんなにいらないのだが、僕もはしゃいでいたのか笑いが止まらなくなってしまった。開けた袋の方から飴を取り出して舐める。甘くって一発で虫歯になりそうだ。

 あとはガチャガチャを回したり、レースゲームをしてみたり楽しんでから外に出た。すっかり暗くなっており、母から連絡が入ったのかスマホがポケットの中で震えた。これ以上遅くなるとしつこく電話がくるかもしれない。僕たちはいけないことをしているつもりになって、騒ぎながら駅に急いだ。


 ほくほくと温まった体の熱は、一緒に座ったせいで肩がぶつかるたびに温度が上がる。家までは少しかかるので、無言の時間が続いた。運よく座れたのもあって眠気がやってくる。うっかり寿瑪の肩に頭をあずけていた。揺れが気持ちいい。

「たまには人と見るのもいいな」と寿瑪がひそめた声で呟く。

「そうなの? 僕と見たってなにも楽しくないものだと……」

「話ができるだけでもじゅうぶん楽しい。音楽のこと教えてくれたろ。だからなにかないかなって」

 膝に置いていた手が揺れたときに寿瑪の太腿に触った。ハッと戻そうとしたが上から手が被せられる。あったかい。眠けがさらに強くなった。

「前から、本当は一緒に見に行きたいって考えてたんだ。でも練習の方が大事なのはよくわかってるし、ルーティンを崩させてまでそうしたかったわけじゃない」

 相槌を返す。耳を撫でるバリトンが優しい。前からっていつからのことだろう。言葉の裏に含みを感じて戸惑いが生まれた。昔から、とか彼はまるで昔馴染みみたいに話をする。でもあの短編映画を知るまで僕は佐藤寿瑪なんて名前の友人とは出会っていないはずだ。僕が有名人だったから一方的な親しみを持っていたりするのだろうか。

「だから今日だって断られると思ってたのに。こんな遅くまで遊んでるなんて意外だった」

「たまには、息抜きしたいときもあるから」

「そっか」と寿瑪が嬉しそうにうなずいた。まぶたが我慢できないほど重くなってきたから閉じる。

「あ、寝た。なら動画見せるのはあとででいいか」

 意識を手放す前にそんな言葉が聞こえてうっかり起きそうになる。どうやら一か月分の素材の編集が終わったらしい。もしかしてそれを見せるための口実にあそびにきたってこと?

 いや、そんなわけはないか。だってレッスン室だろうが昼ごはんのときだろうが機会はたくさんある。断られるつもりで誘ったのだとしたらわけがわからない。

 そうやって疑問はずっとつもり続けている。いつの間にかすっかり僕の身長を覆うほど高くなって、いまにも雪崩が起きそうだ。でもいまは眠くてうまく考えれらないし、呼吸がなだらかになっていく。

 頬にあたる彼の感触が僕を安心させているのかな。音が安定するのはもう十分にわかったけど、もしかしたらまた新しい効能が生まれている気がする。ずっと一緒にいるうちに寿瑪のそばにいるのが一番いいって洗脳されていたりして……。

 とくとくと心臓の鼓動が奥から聞こえてきた。この感情の名前ってなんだっけ。


 でこがひりひりと痛みだし、目が覚めた。擦ってみると寿瑪がデコピンの形をした手を見せてくる。やられた、起こすためにいたずらをされたらしい。むかついたので一言もしゃべらず電車を降りて、駅を出て家まで歩こうとしたのだが腕を引っ掴まれてつんのめる。もう時刻は十九時が近いのだからさっさと帰りたい。でも寿瑪が駅ビルにあるファーストフード店に僕を引っ張っていき、フライドポテトが目の間に置かれた。「おごりね」と水が入ったカップとともに寿瑪も椅子に座った。

「前半分ができたから確認して欲しいんだ。あとで提出しなきゃいけないし、よろしく」

 間髪入れる隙もなく再生ボタンが押された。僕の顔が全面に出てきてぎゅっと心臓が縮まる。インタビューから始まった。そういえばこんなのも撮ったな、と薄目で画面を眺める。

 寿瑪の構成がうまいからなのだろうと思うが、ひとつひとつの映像の切り取りに違和感がない。どんどんと自分の話だというのを忘れて、この少年の姿を追いたくなった。天才バイオリニストだと言われている彼がどんな日々を過ごしているのか、演奏会までどうしていくのかが丁寧に描かれていく。

 そしてあのコンサートのシーンが来た。緊張が大きくなってポテトを食べていた手が止まる。リハーサルの映像が流れ、客席で楽団を眺めている僕が彼に問う。

『さっきのアンサンブル、どうだった?』

 その顔は真剣そのものだった。妥協を一切許さない奏者の顔つきで、茶褐色の目が撮影者だけでなくこちらにも投げかけているみたいだった。いくつかシーンをはさみ、前半の集大成であろうコンサートが始まる。

「あ、」とかすれた声が喉から漏れた。

 自信満々に弾き始めた僕のバイオリンが鳴らした音が、あの日に耳にしたものとまったく異なっている。ひしゃげた楽器で無理やり弾いているかのような音は歪みを伴っていて、なぜだれも止めなかったんだと冷汗が背中に溢れた。

 違う。あの日は久しぶりに最高の演奏ができたはずだ。神様の指先がこちらの鼻に触れてくれた感触があったんだ。なのに、なんだこれ、視界がぐらつく。

 慌てて再生を止めた。全身が震えだして呼吸が浅くなる。

「アマデウス……?」

 不思議そうに寿瑪が首を傾げる。だが僕の様子が尋常ではないと気づいたのか席を立って横に来た。背中をさすろうとしたが、きっと色が変わるほど汗をかいていたのだろう。動揺の色が彼の顔に浮かぶ。

「奏音!」

 あ。初めて名前呼ばれたな。現実逃避のつもりか、変なことが頭をよぎったが顔を横に振ってスマホを寿瑪に押し付けた。

「こんなの、こんな下手な演奏が残るのは無理だ。ごめん、消して。こんなの僕の演奏じゃない」

「なに言ってるんだ。なにもおかしいところなんて、何度も練習で聞いてきた通り、いやそれ以上だった。急にどうしたんだよ」

「きみにはわからないんだ。うそだ、わからないの? 天才なのに、天才って」

 込みあがってきたものを押さえるように口元を手で押さえる。だめだ、このままここにいたら僕は恐ろしいことをしてしまいそうだ。かばんをひっつかみ、寿瑪の胸を押して彼を席から遠ざける。

「ごめん、アマデウスにはやっぱりなれない。ずっとだましてて、ごめん」

 意識が正常なうちになんとか謝れ、ほっとした。彼がなにか言い返す前に僕は逃げ出す。

 一心不乱に走り続け、家に帰ってきて玄関を開けたら母が待ち構えていたがすぐにぎょっとして抱きしめられた。そのときにやっとバイオリンを席に忘れていたのに気づいた。