ふり向いてくれよ、アマデウス

 放課後の撮影も順調に進む。音の歪は音楽の素人である彼には結局まったくバレることはなかった。「いつも通り上手だ」と万人と同じ言葉を吐かれるとぞっとするが、だれかに言われるよりはずっとマシだった。ちゃんとできている、と指標になっていたし、なによりも彼の望んだアマデウスでいられるならまだ大丈夫だと言い聞かせられる。だから演奏会の練習もあの夜以降は続けられていた。

 そしてついにテストの日がやってきたのだが、こちらはあまりうまくいかなかった。正直寿瑪を突っついたわりに自分は勉強ができていなかった。その結果はきちんと表れてしまった。テストの総合点数を自分たちで計算したところ寿瑪よりも低くなった。

「なんでそんなに高いんだよ」と憤る僕に、寿瑪がにやにやと笑う。

「ね、留年の心配なんかいらないだろ。さっさと遊びに行こう。見たい映画があるんだ」

「一緒に行くの?」

 驚愕すると、彼も同じくきょとんと固まった。テストも終わると午前中で授業は終わる。正直練習したい気持ちは強いのだが、映画と聞いて心が揺らいだ。このとき僕はバイオリンから逃げる方法を考え始めていたからだ。練習に明け暮れていた日々に疑問を抱いていた。

 ほかの子たちは普通に遊びに行っている。友達とゲームセンターに行ったり、カラオケに行ったり、誘っているところはよく教室で見ていた。僕はそれをすべて断っていた。だってそれよりも一曲でも多く練習するべきだと思っていたし、脅迫概念にとらわれていたのだろう。もっと腕が落ちたらどうしよう、と怖かった。

 でもいまとなっては、一日練習しなかったからといって後悔するほど下手にならなかったし、一日多く練習したって元に戻ることもなかった。

 それが現実だと気づいてしまうと簡単で、つまり本当にサボりたいのは僕だったということ。

「僕も一緒に行っていいのかな、って心配になっただけ。撮影するんだったら嫌だ」

「あぁ、」と寿瑪がうなずいて空になった弁当箱を包み直す。

「だったらカメラは回さない。写真くらいは許してよ」

「それが一番嫌なんだけど。なに見に行くの」

「着いてからのお楽しみ。ホームルーム終わったらげた箱で待ってて」

 言いたいことはすべて終わったらしく、寿瑪は相変わらず颯爽と校舎に姿を消した。後姿をため息交じりに見送って、手元の弁当箱を見つめる。

 映画を見るというのは、彼のテリトリーに入り込むことなのではないだろうか。

 そうだとするなら、なにか僕たちの関係性が変わろうとしている、と考えている僕は少しおかしいのかもしれない。

 最近寿瑪はよくしゃべる。おばけとからかわれていたのが噓みたいに表情も変わるようになった。猫背は変わらないけど、よく観察してみると顔立ちも悪くない。スタイルがいいのもあいまってずるいやつなのだ。もし、だれかにそれが暴かれたらと不安になるときがある。アマデウスなんて呼んできて懐いてくれているのは僕だけのはずだと、つい思ってしまう。合同授業のときはスンと澄まして僕の後頭部をずっと見ているみたいだし、生徒と話しているのはまだ見かけたことはなかった。

 だから、できるなら僕だけにそうするままでいてほしい。だって僕は彼がいないと音がうまく鳴らせなくなってきている。もし興味をなくされたら、鳥肌が立った。

 いい加減ベンチから立ち上がった。そろそろ準備をしに戻らなければならない時間だ。


 まっすぐ家に帰るかスタジオを借りるくらいしかしたことのない僕にとって、制服を着たまま人の多い賑やかな駅に降りるのは大変なハードルだ。思わず寿瑪の服の裾を掴んでいた。どんどん進んでしまう彼に置いていかれたら迷子になる。怖いに決まっている。待って、と声をかけるのすら人混みに圧倒されてできなかった。とにかくバイオリンケースも必死に抱えた。

 駅をさっさと出て、横断歩道もすぐに渡るとごちゃついた看板がたくさん壁に生えた大通りを闊歩する。高校生はほとんどおらず大人ばかりだ。いや、大人かも怪しいが、とにかく制服の人なんていなくって、じろじろと見られる。

「もうすぐ着くから」と寿瑪が振り向く。どこか興奮気味の声だし、目の端が赤くなっていた。最近わかったが、寿瑪はテンションがあがるとそうなるらしく、映画の曲を演奏すると同じ現象が起こる。

 そして言葉通りになにか怪物が見下ろす建物が目の前に現れた。映画館だというのはかろうじてわかったけれどやはりあれはなにか聞く暇もなく、あれよあれよと中に入ってエスカレーターをあがり、寿瑪は端末をいじって僕にチケットを差し出してきた。知らない名前の映画だ。

「リマスター上映やってて、絶対見たかったんだ。もしかしたらアマデウスにはつまらないかも」

「どういうつもりでそんなこと言うんだよ」

「でもクラシックが流れるから大丈夫かな。なんだっけ、曲名は忘れたけど。映像がとにかく綺麗で、ストーリーも良くて、やっとシアターで見る機会ができたんだ。付き合って」

 肩をすくめる。寿瑪は興奮するとこちらの話をまったく聞いてくれなくなるから仕方がない。急ごうとする彼を落ち着かせた。上映時間まではまだ余裕がある。映画館に来たのなんて小学生以来だ。もう少し中を見て回りたかった。

 グッズ売り場に行くと思い出したように寿瑪がパンフレットを買う。いつも忘れて通販をするそうだ。飲食も僕が買いたいと言わなければ飲み物すら持っていく気がなかったらしい。コーラとポップコーンを用意してもらったが「食べないと思うけど」と呆れられた。トイレに行って、やっと席が開いたので二人でゲートを抜ける。

 暗いシアター内を泳ぐように移動する寿瑪に何とかついていってふかふかの席に腰を下ろした。休む間もなく広告が始まりポップコーンを口に運んでいく。ちょうどいい塩加減だし、なによりバターがかかっていて重たい。これは絶対太るやつだ。栄養を考えると後悔するが、今日は無礼講ということにしている。

 隣の寿瑪をちら、と横目で観察する。すっかり静まり返り、広告にすら集中していた。おそらく次に鑑賞する映画を決めているのかもしれない。声はかけられず、僕も視線を正面に戻した。あ、と上映ルールで思い出し、慌ててスマホの電源を切った。

 映画はとても映像がきれいで、衣装デザインも素晴らしい。リマスター上映ということだけあって、劇場内にもファンが多く涙を流している人もいた。鼻をすする音が聞こえただけだがきっと泣いていたのだろう。たしかにポップコーンは食べられなくなった。些細なノイズを鳴らすのが恐ろしい。

 ふと聞きなれた音楽が耳に入ってきて、ハッと意識が画面に戻る。

 ──交響曲第7番イ長調,Op92。

 ベートーヴェン作曲のもので、第二楽章がテーマソングとして用いられていたおかげで、美しい旋律に映画から離れかけていた心が急に掴まれた。

 気づけば寿瑪も前のめりで画面に釘付けになっており、膝の上に頬をついて呼吸を殺しているし、暗いせいで不思議な感覚になる。

 映画館は寿瑪の神域だ。そこに僕が踏み入れることになにか理由があるのかも、と期待していたのだけれど、実際は違う。彼が音楽の素人であると同じで僕は映画の素人だということがまざまざと見せつけられた。彼と映画の間には強いつながりがあり、僕が触れられる場所は音楽の部分だけ。

 そうだ。寿瑪は天才なのだ。僕のような存在価値で悩む元・天才とは……。

 だれかに見られている気配にうっかり席を見回す。まさかの寿瑪と目が合った。

「どうし、」と驚いて話しかけた僕に、彼は人差し指を口元にあてて「しーっ」とジェスチャーをしてきた。

 あ、とすぐに画面に視線を戻した。なにそれ、心がざわつく。さっきまで映画にばっか意識を持っていったくせに不意に僕を気にするなんてどうかしている。

 踏み込めない、って思ったばかりだったのにひどいやつだ。

 エンドロールが流れる。最後までしっかり見終わり、劇場が明るくなった。隣には満足げに潤った顔で寿瑪が何度もうなずいていた。

「やっぱりちょっとわからなかった」

 劇場を出て、開いていた椅子に移動して残りのポップコーンを食べる。寿瑪が申し訳なさそうに眉を下げたので「ごめん」と謝った。そういえばコンサートに撮影として入ったときの彼もいまの僕と同じ感情だったのだろうか。ぬっと伸びてきた大きな手がポップコーンを大量に取っていく。

「あ! やめてよ、これ僕が買ったんだから!」

「早く食べきってほしいからいいじゃん。うわ、これ重たいな」

 もう、とバケツを抱え込んで残りをかきこんだからむせてしまった。