歪みは大きくなりばかりで、不安を押し殺していたらまったく眠れなかった。外が明るくなり、目覚ましが鳴って、絶望には音楽がかからないんだなと乾いた笑いが漏れる。いや、そもそもあれだけ頭の中に常に鳴り響いてた楽曲の一つも聞こえず、走り込みでイヤホンから流れてくるものも無音だった。
あと一か月。いまさら「やれません」なんてわがままが通るわけがない。むしろそこを強行するのがプロだ。メンタルや体調に左右されたらだめだろ。わかってる。
気を取り直して、朝いちばんに鳴らした音は昨晩よりもマシになっていた。安堵で倒れこみそうになるのをなんとかこらえ、メトロノームをつけた。素材は十分揃ったのか朝の撮影は終わっていて、一人きりのレッスン室がいやに広く感じる。それで気がつけた。
……寿瑪がいるときの方が、音が安定していたらしい。
そういえば彼との撮影が始まってからもう一か月が経つ。その間はノイズが薄っすらと、どんどん消えていっていた。あ、と今とメトロノームを止める。
いまは、ひどいものだった。楽譜をなぞっているだけで、彼が喜んだような音の情景は見えてこないだろう。がっくり肩を落として椅子に腰を下ろす。昨日からどれだけ寿瑪にそばにいてほしいんだ。恥ずかしくなってきたから、だれにでもなく誤魔化すためにきらきら星を弾く。
ふと、前に見た夢がよぎった。あれは夢ではなくて子供のころの記憶だ。すっかりしまい込んで忘れていたってのに寿瑪のせいで思い出した。
あの黒髪の男の子も、僕が弾いた曲を楽しそうに聞いていたんだっけ。僕もその反応がうれしくてたくさん披露した。鬼ごっこをしたりかくれんぼをしたりすればいいのに、夕方になるまでずっと僕の演奏を聴いていてくれたんだ。
でも会ったのは数回だけだし名前も聞き忘れてしまっていた。「アマデウス」と呼んだのは彼が最初だったな。大げさだしこそばゆかったけど、彼の前だけなら僕は天才でいられたのかもしれない。
映画が好きな男の子で──、どこかのだれかに似ている気もしなくはない。
まさかね、とバイオリンを片づけた。
昼休みになり、少し遅れたが中庭に向かう。窓から寿瑪がもう定位置になったベンチに座っているのが見えたので、驚かせてやるかと今日は別の出入り口を使った。気配を消すのはそこそこ得意だ。だから背後からそっと近づいていく。どのタイミングで声をかけよう、と伺うと彼がスマホを取り出してなにかを見始めた。こっそりと覗く。
げ。と声が出そうになったのをすんでで止めた。小さい画面には僕の写真が映っており、寿瑪は何度もスライドして見ていたのだ。いつの間に撮ったのかわからないやつもある。あ、いまのはこの前のコンサートのだ。一体どういうつもりでこんなの見てるんだ? しかもニヤニヤ笑っているし、変な声を出している。
正直ドン引きした。出会ったとき以来の熱の冷め方を覚えたが、おかしい人だとは僕もわかってきていたので無言で弁当を頭の上に置いてやった。
「へ!?」と寿瑪がスマホを放り投げて落ちそうになった弁当箱を手で押さえる。
「なん、かな、アマ、見、見てっ」
動揺して慌てている寿瑪をふっと馬鹿にしたように笑って正面に回り込み、落ちたスマホを拾い上げる。
「うわ、こんなにいろいろ隠し撮りしてたんだ。映像があるんだから写真なんていらなさそうなものだけど」
「つ、使うかは編集次第だから、素材はいくらあっても足らないくらいで、はは」
「へぇ。ちょっと、この寝顔どこで撮ったんだよ!恥ずかしいから絶対使うなよ!」
レッスン室で昼寝をしているときのなんとも幸せそうな自分のアホ面に悲鳴をあげる。だがスマホは寿瑪にパッと奪い取られてしまった。居心地悪そうに口を曲げながら彼は弁当箱を開けた。
「のり弁当だ。すげえ」
「話切り替えたな、まったく」
僕もようやく座って弁当を開ける。カメラさえ回っていなければ寿瑪は案外話をするタイプだと昨日学んだので、そこに改めて驚きはしない。やっぱりジキルとハイドが浮かんでくるがさすがにもうしつこいと自分に呆れ、白身魚を箸でつついた。
「あれ、楽譜見ないの。というか持ってきてすら、」
「テストが近いけど、寿瑪は勉強とかしてる?」
「……してると思えないだろ。そっちこそ話切り替えてるじゃん」
「授業出てるかすらしいもんね。朝もいつも眠そうだし、授業ほとんど寝てるらしいし。留年するよ」
「テストは勘でどうにかなるから。クラスも出席してれば大丈夫だってきいた。なにが言いたいわけ?」
ご飯をかきこんで、お茶で胃まで流す。寿瑪がぎょっと目を丸くしたのを見なかったことにして、わかりやすく笑顔を作った。
「僕の方が成績は上かもって自尊心を満たしてるんだよ。そもそもドキュメンタリーってこんなに毎日張り付いて撮影するものとは思えない。サボる口実なんだろ。僕のせいで留年になったら嫌だし心配しておこうかな」
「負けず嫌いなの、相変わらずだな」
「え?」
寿瑪はため息を吐き、食べきった弁当を包み直すと昨日の分と一緒に僕に押し付けてきた。わっと受け取って両手で抱える。
相変わらず、ってなに。まるで昔馴染みに言うみたいな態度に戸惑っていると、寿瑪が立ち上がってまた見下ろしてきた。太陽を背にしているから暗くて、彼の表情はわからなかった。ついさきほどのにやけ面が思い浮かんだが、たぶん違う顔をしているだろうとつま先が冷える。
同時にドキ、と心臓の脈が不自然に早くなった。しかしすぎに寿瑪は僕の傍からどいた。
「藤元さんだっけ、ピアノの子にちゃんと謝るよ。あと弁当うまかった」
「う、うん」
寿瑪はじっと僕を見つめてから、尻を叩くとスマホを取り出して首を傾げた。どうやらなにかのっぴきならない連絡があったのか、頭を掻いてから校舎の方へ歩いていこうとする。だから引き止めたくて、思わず裾を掴んでいた。
「放課後にまた撮影するんだよね? その、レッスン室には来ないでほしくって。集中したいから」
「わかった。そうだ。テスト終わったらどっか遊びに行かない?」
「いきなりなに……」
「せっかくだから。もちろん練習しないとなのはわかってるし、ちょっとだけでもどうかなって」
返答はすぐにはできなかった。口の中で言葉がまごつく。遊びに、って、僕と寿瑪が? その様子が想像できず固まってしまった。寿瑪はまたいたずらが成功したと言わんばかりにニヤっと口角を上げて、裾から僕の手を離したと気づいたときにはシャッター音が鳴っていた。
「ほんとさ、早く素直になればいいのに。このままだと俺の写真フォルダが埋まっちまいそうだなぁ。ばいばい、アマデウス」
いまの名前の呼び方は絶対バカにしてるだろ!
しかし叫ぶよりも早く、寿瑪は笑いながら校舎に入っていた。
放課後近くになって、藤元さんが僕の席に駆け寄ってきた。だれかに呼ばれていたのは見ていたが、どうやらちゃんと寿瑪が謝罪にきたようだ。
「あの、彼と初めてしっかり話しちゃった……。小鐘くんによろしくって」
「よかった、謝ってくれたんだ。怖かったよね」
肩を落として訊けば、藤元さんが少し頬を染めた。その反応の意図がわからず首を傾げる。
「怖い、というか変というか。アマデウスって呼ばれてるんだね。そうだ、あと一つ言ってほしいって頼まれてた」
「言ってほしい?」
「そう」と藤元さんが仰々しくうなずいた。しかしなにか迷うところがあるのか、口元を手で隠して目をそらされる。それから数秒待ったが彼女は頭を横に振って、くすくすと笑った。
「いまはまだ言わないでおこうかな。テストが終わったら教えてあげる」
「なにそれ。大丈夫なの?」
そんなことをしたら寿瑪に怒られるんじゃないのか。僕の心配をよそにスキップ気味に友人たちの元へ戻っていった。
あと一か月。いまさら「やれません」なんてわがままが通るわけがない。むしろそこを強行するのがプロだ。メンタルや体調に左右されたらだめだろ。わかってる。
気を取り直して、朝いちばんに鳴らした音は昨晩よりもマシになっていた。安堵で倒れこみそうになるのをなんとかこらえ、メトロノームをつけた。素材は十分揃ったのか朝の撮影は終わっていて、一人きりのレッスン室がいやに広く感じる。それで気がつけた。
……寿瑪がいるときの方が、音が安定していたらしい。
そういえば彼との撮影が始まってからもう一か月が経つ。その間はノイズが薄っすらと、どんどん消えていっていた。あ、と今とメトロノームを止める。
いまは、ひどいものだった。楽譜をなぞっているだけで、彼が喜んだような音の情景は見えてこないだろう。がっくり肩を落として椅子に腰を下ろす。昨日からどれだけ寿瑪にそばにいてほしいんだ。恥ずかしくなってきたから、だれにでもなく誤魔化すためにきらきら星を弾く。
ふと、前に見た夢がよぎった。あれは夢ではなくて子供のころの記憶だ。すっかりしまい込んで忘れていたってのに寿瑪のせいで思い出した。
あの黒髪の男の子も、僕が弾いた曲を楽しそうに聞いていたんだっけ。僕もその反応がうれしくてたくさん披露した。鬼ごっこをしたりかくれんぼをしたりすればいいのに、夕方になるまでずっと僕の演奏を聴いていてくれたんだ。
でも会ったのは数回だけだし名前も聞き忘れてしまっていた。「アマデウス」と呼んだのは彼が最初だったな。大げさだしこそばゆかったけど、彼の前だけなら僕は天才でいられたのかもしれない。
映画が好きな男の子で──、どこかのだれかに似ている気もしなくはない。
まさかね、とバイオリンを片づけた。
昼休みになり、少し遅れたが中庭に向かう。窓から寿瑪がもう定位置になったベンチに座っているのが見えたので、驚かせてやるかと今日は別の出入り口を使った。気配を消すのはそこそこ得意だ。だから背後からそっと近づいていく。どのタイミングで声をかけよう、と伺うと彼がスマホを取り出してなにかを見始めた。こっそりと覗く。
げ。と声が出そうになったのをすんでで止めた。小さい画面には僕の写真が映っており、寿瑪は何度もスライドして見ていたのだ。いつの間に撮ったのかわからないやつもある。あ、いまのはこの前のコンサートのだ。一体どういうつもりでこんなの見てるんだ? しかもニヤニヤ笑っているし、変な声を出している。
正直ドン引きした。出会ったとき以来の熱の冷め方を覚えたが、おかしい人だとは僕もわかってきていたので無言で弁当を頭の上に置いてやった。
「へ!?」と寿瑪がスマホを放り投げて落ちそうになった弁当箱を手で押さえる。
「なん、かな、アマ、見、見てっ」
動揺して慌てている寿瑪をふっと馬鹿にしたように笑って正面に回り込み、落ちたスマホを拾い上げる。
「うわ、こんなにいろいろ隠し撮りしてたんだ。映像があるんだから写真なんていらなさそうなものだけど」
「つ、使うかは編集次第だから、素材はいくらあっても足らないくらいで、はは」
「へぇ。ちょっと、この寝顔どこで撮ったんだよ!恥ずかしいから絶対使うなよ!」
レッスン室で昼寝をしているときのなんとも幸せそうな自分のアホ面に悲鳴をあげる。だがスマホは寿瑪にパッと奪い取られてしまった。居心地悪そうに口を曲げながら彼は弁当箱を開けた。
「のり弁当だ。すげえ」
「話切り替えたな、まったく」
僕もようやく座って弁当を開ける。カメラさえ回っていなければ寿瑪は案外話をするタイプだと昨日学んだので、そこに改めて驚きはしない。やっぱりジキルとハイドが浮かんでくるがさすがにもうしつこいと自分に呆れ、白身魚を箸でつついた。
「あれ、楽譜見ないの。というか持ってきてすら、」
「テストが近いけど、寿瑪は勉強とかしてる?」
「……してると思えないだろ。そっちこそ話切り替えてるじゃん」
「授業出てるかすらしいもんね。朝もいつも眠そうだし、授業ほとんど寝てるらしいし。留年するよ」
「テストは勘でどうにかなるから。クラスも出席してれば大丈夫だってきいた。なにが言いたいわけ?」
ご飯をかきこんで、お茶で胃まで流す。寿瑪がぎょっと目を丸くしたのを見なかったことにして、わかりやすく笑顔を作った。
「僕の方が成績は上かもって自尊心を満たしてるんだよ。そもそもドキュメンタリーってこんなに毎日張り付いて撮影するものとは思えない。サボる口実なんだろ。僕のせいで留年になったら嫌だし心配しておこうかな」
「負けず嫌いなの、相変わらずだな」
「え?」
寿瑪はため息を吐き、食べきった弁当を包み直すと昨日の分と一緒に僕に押し付けてきた。わっと受け取って両手で抱える。
相変わらず、ってなに。まるで昔馴染みに言うみたいな態度に戸惑っていると、寿瑪が立ち上がってまた見下ろしてきた。太陽を背にしているから暗くて、彼の表情はわからなかった。ついさきほどのにやけ面が思い浮かんだが、たぶん違う顔をしているだろうとつま先が冷える。
同時にドキ、と心臓の脈が不自然に早くなった。しかしすぎに寿瑪は僕の傍からどいた。
「藤元さんだっけ、ピアノの子にちゃんと謝るよ。あと弁当うまかった」
「う、うん」
寿瑪はじっと僕を見つめてから、尻を叩くとスマホを取り出して首を傾げた。どうやらなにかのっぴきならない連絡があったのか、頭を掻いてから校舎の方へ歩いていこうとする。だから引き止めたくて、思わず裾を掴んでいた。
「放課後にまた撮影するんだよね? その、レッスン室には来ないでほしくって。集中したいから」
「わかった。そうだ。テスト終わったらどっか遊びに行かない?」
「いきなりなに……」
「せっかくだから。もちろん練習しないとなのはわかってるし、ちょっとだけでもどうかなって」
返答はすぐにはできなかった。口の中で言葉がまごつく。遊びに、って、僕と寿瑪が? その様子が想像できず固まってしまった。寿瑪はまたいたずらが成功したと言わんばかりにニヤっと口角を上げて、裾から僕の手を離したと気づいたときにはシャッター音が鳴っていた。
「ほんとさ、早く素直になればいいのに。このままだと俺の写真フォルダが埋まっちまいそうだなぁ。ばいばい、アマデウス」
いまの名前の呼び方は絶対バカにしてるだろ!
しかし叫ぶよりも早く、寿瑪は笑いながら校舎に入っていた。
放課後近くになって、藤元さんが僕の席に駆け寄ってきた。だれかに呼ばれていたのは見ていたが、どうやらちゃんと寿瑪が謝罪にきたようだ。
「あの、彼と初めてしっかり話しちゃった……。小鐘くんによろしくって」
「よかった、謝ってくれたんだ。怖かったよね」
肩を落として訊けば、藤元さんが少し頬を染めた。その反応の意図がわからず首を傾げる。
「怖い、というか変というか。アマデウスって呼ばれてるんだね。そうだ、あと一つ言ってほしいって頼まれてた」
「言ってほしい?」
「そう」と藤元さんが仰々しくうなずいた。しかしなにか迷うところがあるのか、口元を手で隠して目をそらされる。それから数秒待ったが彼女は頭を横に振って、くすくすと笑った。
「いまはまだ言わないでおこうかな。テストが終わったら教えてあげる」
「なにそれ。大丈夫なの?」
そんなことをしたら寿瑪に怒られるんじゃないのか。僕の心配をよそにスキップ気味に友人たちの元へ戻っていった。
