ふり向いてくれよ、アマデウス

 お礼を言いたかっただけなのに失敗したし、寿瑪と別れてからも自問自答が続いていて午後の授業はほとんど上の空だった。
 ずっと彼の声が鼓膜を震わせている。『アマデウスなら弾ける』。まさか、僕があの曲を弾く機会があるって?

 信じられない。だってもう鐘を鳴らす筋力はなくなっているはずなんだ。

 ペンを回しつつ、窓から中庭を眺めた。さきほどまでいた場所だが、いまはだれもいないので鳥たちが楽しそうに飛んでいる。
 僕は、どうしたいんだろう。

 こんなに何度も考えているなんておかしい。彼に曲名を言われるまで一切考えてこなかったのに、演奏リストを決めようとするとずっと頭の隅に浮かんでいる。

 ため息を吐いた。あともう一押しでもされたら練習してしまいそうだ。頑なに嫌がっていたのがうそのように、寿瑪のあの黒い目とレンズ越しに焚きつけられている気がする。ハ、と意識が授業に戻ったときにはチャイムが鳴っていた。


 けれど現実は思っていた以上に過酷だった。

 一度触れてしまった栄光の切れ端は、遠ざかっていた頃よりもずっと強く、まぶしくて、痛々しくもがく僕をあざ笑っていた。


 寿瑪の言葉を信じてみようと久しぶりにラ・カンパネラの楽譜を開く。なにも変わることはないのに不思議と昔よりも音符が凛と背筋を伸ばして整然と並んでいるように見えた。眠りながらだって演奏できた相棒と呼べる曲だ。息を吸って、最初の音を鳴らそうとしたその瞬間だった。

 完ぺきにチューニングした。寸前に弾いたラの音はきれいに鳴っていたし、暗譜に頼ってもいない。指の位置だってなにも間違っていなかった。

 なのに、僕の耳には始まりのファ#の音が、ひどく歪な不協和音として入ってきた。

 いつもうっすらと聞こえていた引っかき音とまったく異なっていることも、意図しない音色が出てしまったことにも驚いてバイオリンを頬から離した。いまにもどろどろに溶け落ちて僕の手を焼くマグマになったかと錯覚し、机に置き距離を取る。

「なん、なんで」

 恐怖のあまり体を抱きしめる。震えが止まらず、胃から混み上がってきたものが喉を焼いた。腕から口元に手を移して出ないようにこらえる。

 ──弾けない。弾けなくなった。

 カチカチと歯がぶつかりあった。うそだ。こんなの嘘に決まってる。

「他、ほかの曲、カプリス……!」

 もう一度バイオリンにすがりつき、弓を構えた。最初の一音でまたあの不協和音が聞こえたら、と僕の恐怖が大きくなり弦に当てようとしても手が止まる。

 背中が冷たくなった。寿瑪が触れて温かくなったそこに悪魔が手を伸ばしてきているみたいに、ヒヤ、と嫌な感触が走った。

「わ、あ、あぁぁっ」

 焦燥感に駆られて鳴らした音は酷いものだったが、きちんとラの音だった。

 そして僕はその日初めてレッスンのすべてを放り出した。


 夜、布団にこもっているとスマホの通知が来た。確認すると寿瑪からで、明日は放課後に密着するというものだった。返信はせずに布団の外に投げて膝を抱えながら背を丸める。

 素直になりなよ、なんて簡単に言われてできるものか。

 僕は、僕自身だって認めたくないのだ。頭ではわかっている。弾けない僕に価値はない。みんなが期待しているような才能なんてとっくになかったんだと、気づいしまいそうになるのをずっと誤魔化してきた。

 嫌だった。

 見破られるのが、それがテーマに据えられるのも、暴かれるのも、凡人になりたくない。

 明日からどんな顔して会えばいい。いっそ撮影は中止にするべきだ。演奏会も断った方が。

「助けて、寿瑪……」

 彼がくれた温かさが、恋しい。