ふり向いてくれよ、アマデウス

 授業が終わり、ちょっとだけの休憩時間を各々好きに過ごしている光景を横目で流しつつ、窓に寄りかかっていたピアノコースの藤元さんに声をかけた。コンサートも終わったからいよいよ本格的に定期演奏会の準備に入る頃合いだが、まだ曲目をきちんと決めていなかった。藤元さんと話をしていた子たちも空気を読んでやめてくれたので彼女たちに割り込む。

「送ってくれたリストは一通り練習してるよ」

「ありがとう。決めていかないととは思ってるんだけど、最後の曲がどうしても決めきれなくて」

「え?」と藤元さんがタブレットを取り出してリストを表示する。

「カプリス二十四番、G線場のアリア、ツィゴイネルワイゼン、あと一つは死の舞踏とかじゃないの?」

「その選択肢もあるよ」

 もじもじと手を組んでいる僕に藤元さんもなにか察したのか、僕の手元を見つめてくる。視線に含まれた意味を考える前に彼女から答えがにじんだ。

「ラ・カンパ……」と彼女が呟きかけたがハッと口をつぐんで不自然な笑顔を作る。前からお互いを知っているからこそその言葉に含みを持たせられたのだろう。うなずいて、二人で教室を出た。

 廊下の端に進んで窓の縁に同時に寄りかかる。妙な沈黙を生まれたせいで罪悪感から嫌な唾の飲み方をしたしまった。そのせいで変な音が鳴ったが、藤元さんが息を吹きだすように笑ったのでこちらの緊張も和らぐ。

「小鐘奏音が国際コンクールで結果を残し、その名前も相まっていつの間にか代表曲って言われるようになったのがラ・カンパネラ」

「なんで説明口調なんだ?」

「改めて考えてみるとできすぎだよね。もともとお父様のせいで注目されてたけれど、もちろんすごい演奏があったから結果がある」
 眉をひそめた彼女の感情を読み取りつつ、腕を組んで唸る。

「それなのに、あなたはあの曲を捨ててしまった」

 ラ・カンパネラの訳は「鐘」。パガニーニが作曲したもので本来であればオーケストラと合奏するものだ。クライスラーによりピアノとバイオリンのために編曲されたものを僕は十歳のときに演奏をした。

 世界でも名をはせていた指揮者である父を持つ僕がほかの子どもよりも注目されていたのは事実だし、環境がよかったのも認める。しかしそれまでに多くのジュニアコンテストで勝ち上がっていた実力も裏打ちとなり、年齢制限の枠が特別に免除されとある権威のある国際コンクールに参加することとなった。

 自分よりもいくつも年上の人たちに混ざり、見事演奏しきった僕は三位という結果を得る。もちろん一位でなければ意味がないはずだった。しかし周りはすでにプロとして活躍していたり、最高峰の音楽大学でしのぎを削る人たちだ。三人でならんだときの身長差なんていまでも大笑いできる。背後に掲げられた日本国旗を見て、父が涙ぐんでいたのも覚えている。

 そんなだったから、僕の意に反して大変な騒ぎになった。テレビにとり上げられ、生放送で演奏し、ゲストとしていくつものコンサートに呼ばれ、求められるのはラ・カンパネラばかり。

 もちろんこの曲は好きだ。けれど、喜ばれているのは僕が子供だからだということもうすうす気づいていた。ほかのコンクールでその曲を弾かずに一位を取ってもカンパネラを演奏するよう頼まれた。何度も何度も鐘を鳴らして腕は筋肉痛だった。けれどブームは何年も続かず、人は飽きる。いつしかこの細腕で鐘を鳴らさなくても良くなり、僕も次第に弾かなくなっていく。

 もちろんまったく演奏しなかったわけじゃない。というのも、中学生になり久しぶりに弾いたものが寿瑪の映画に使われたのだから。まだ己の天井が迫ってくる前、栄光は空に届くと信じていたときだった。

『でもアマデウスはもう弾いていないって聞いた』

 寿瑪の声が脳内に反響した。ぶる、と体が震えたので腕を抱きしめる。僕が天才だと絶賛されたきっかけも、天才ではないのかもしれないと恐怖を抱いたきっかけもこの曲だった。


 とあるコンクールに久しぶりに参加した僕は選曲を失敗していた。

 十分に練習したから演奏自体はうまくできていたし申し分なかったのだがなにかが会場や観客、審査員とかみ合っていなかった。それこそ「アマデウス」という大きな枷がよくない結果をもたらしたのかもしれない。つまり期待に応えられなかったのだ。

 一位間違いなしと言われた大会で無様にも二位の結果に終わり、そして僕を破った青年が演奏したのがラ・カンパネラ──。

 あまりにもうまかった。十歳そこらの少年が弾くよりもずっと重厚感があり、安定していて美しかった。気づけば袖で僕は泣いていた。あの曲は僕のものなんかではない。おこがましいふるまいをしていたと自覚させられた。

 そうして小鐘奏音は、二度と鐘に触れることはできなくなった。


 思い出を振り払うように頭を横に振る。寿瑪が見た演奏というのは学生コンサートで弾いたものだろう。何度もいろんな場所でやっているからどこでだって鑑賞できたはずだ。褒めてもらえるのは嬉しいが、苦い記憶にはできるだけ蓋をしておきたい。藤元さんにも横暴な監督からわがままを言われていると伝えるのはしのびなく、曖昧な微笑みを浮かべて会話を終わらせるに努める。

「小鐘くんが無理だと思うなら、まだ休ませてていいと思う。向き合わなきゃいけないときはいつか来るかもだけど、きっとまだ今じゃないんだよ」

「藤元さん……」

 ね、と彼女の明るい声と笑顔にはマイナスイオンか日差しの温かさがあるのかもしれない。うっかり手を組んでお祈りを捧げそうになっていたのだが、そのせいで廊下の向こうからユダが近づいているとは気づかなかった。

 そろそろ休憩も終わるし教室に戻ろう、と窓から体を離す。気持ちが軽くなってきたので腕を回しつつ、冗談交じりに僕は声色を弾ませた。

「なら締めの曲はやっぱり愛の喜びかな。CMとかでも耳馴染みがあるだろうし」

「いいね! シチリアーノとかも好きだけど、最後に持ってくるのはちょっと違いそうだもんね」

「だめだ」

 しかし僕と藤元さんの間を鋭い否定と長い腕が遮った。

 一瞬の出来事に二人で悲鳴もあげられずに石みたいに固まる。事態を把握できず、驚嘆の表情を腕越しに見合わせた。ゆっくりと腕の持ち主を確認しようと目玉を横に動かせば、そこにはいるべきではない人物が息を切らせて立っていた。

「す、寿瑪!?」

 僕の頭がようやく動いて名前が飛び出る。窓から腕が離れて、猫背の彼が藤元さんを見下ろした。心なしか普段よりも重苦しい雰囲気をまとっている、ような。藤元さんもやっと悲鳴を短くあげ、肩を強張らせる。

「あの曲じゃないと、だめなんだ。アマデウスを撮るって決めたときからあれ以外ないんだ。ほかの曲じゃ意味がない。きみになにがわかる」

「その、えっと、でも無理やりはよくないから!」

「そもそもきみ、だれ」

 にらんできた視線に堪えられなかったらしく、藤元さんが僕の背後に逃げてきた。しかし寿瑪も諦めが悪く、すっと音もなく動いて彼女の首根っこを掴もうとしてきたので慌ててやめさせた。

「伴走を担当してくれるんだよ!」

 叫べば寿瑪の腕が引く。はぁ、と安堵するが藤元さんは恐怖の限界がきたのか教室に駆け込んでいった。なんてことをするんだ。まさか乱暴しようとしていたんじゃないだろうな。きつくにらみ返せば、寿瑪ががっくりと肩を落としてなにか呟いていた。耳をこらしても聞き取れず、再度声をかけようとすれば彼は踵を返した。

「ごめん」

 謝罪だけははっきり聞こえた。そのまま去ろうとするので、うっかりジャケットのすそを掴んで引っ張る。たしかに藤元さんにした態度は人としてもクリエイターとしてもあまりにもよろしくないものだった。それはきちんと彼女自身に謝るべきだが、その場は僕が改めてセッティングするとして、彼がここにいるということは撮影のはずだ。しかし手元にはカメラの一つも持っておらず、一体なにをしにきたんだろう。伝えるべきことがあればメッセージアプリで十分なのに。

 そういえば、僕自身伝えていなかったことがあったのを思い出した。コンサートの日に彼がもたらしてくれた幸運についてだ。なぜかはずかしくてすぐ帰ってしまったので忘れていた。

 胡乱な目をしながら振り返ってきたので少し身を引いてしまう。

「あっ、と、日曜はありがとう。あと昼も持ってきてないよな」

「昼、あぁ。あれ本気だったんだ」

 寿瑪の分の昼食を僕が用意するという約束のことだ。今日はお試しもかねてしっかり作ってきてある。そしてお礼も兼ねていた。

「ところでなんでここに来たの? 芸術科とぜんぜん棟が違うのに。いまからだと授業遅刻するぞ」

「あー、なんでだっけ。勘?」

 相変わらず意味がまったくわからない。がしがしとわずらわしそうに頭を掻いて、寿瑪は僕の手を優しく剥がすと体を引きずるように廊下を歩いて行った。