とくにそのあとは寿瑪と話す機会はなく、楽団や家族と一緒にいたのですぐに本番の時間となった。
衣装に着替えると、寿瑪の顔に星が浮く。あれ、と目を凝らした。普段は演奏してるときにしか出ないものがなぜこんなときに出ているんだろう。見間違いかと軽く目を擦ってもう一度確認するとやはりない。僕も昂っているから見間違えたんだな。髪型もセットしてもらい、いよいよ出番に備える。よし、と鏡に笑顔を作れば寿瑪に声をかけられた。
「小鐘クン、素材用に写真撮りたいんだけど」
「はい? どこに使うつもりで?」
「それは編集にならないとわからない。たぶん必要だと思うから」
ぐい、と顔が近づいた。スマホを構えている彼の迫力に気圧されしぶしぶ了承すると、ここぞとばかりに母と二人で数枚写真を撮っていた。なにか騙されたような気がしなくもないが、だったら僕のスーツの写真なんて欲しがる理由もなかろう。納得させ、弓を振る。
「準備お願いします」とスタッフが楽屋に駆け込んできた。目で合図を送れば、寿瑪も僕の後ろについて楽屋を出る。
「緊張してる?」
「してない。練習してきたからね」
たった二週間程度だが、彼にも十分聞かせきたから納得できるだろ。技術は申し分ないはずだ。楽団とは数回しかセッションできていないが、これまでも合わせてきた経験があるので心配はいらない。自信はあるが、こんなときに嫌な質問だなと苦笑した。
思えば、なぜリハーサルのあとに寿瑪に意見を聞こうとしたのだろう。
こめかみがまた痛み出した気がして軽く撫でたのだが、どうやら本当に気のせいだったらしい。ただマッサージしただけになった。もう袖に来ているのだから呼吸を整えないとなのにいまいち緊張感が足らない。
振り向けばレンズが僕をとらえていた。ゾク、と背筋に緊張が走る。いままでは意に介してもいなかったカメラが、違う。カメラ越しに伝わる寿瑪の視線を意識してしまっている。そうだ。僕はあこがれの天才に自分がどう見えているのか知りたいんだ。だから僕の演奏を最高だと評してくれた彼に、あのアンサンブルがどう聞こえたのか、望んだ通りの演奏ができていたのか問うていた。
拍手が聞こえ、肩が跳ねた。指揮者が僕を呼び込んでいる。コンサートに意識を戻さねば。短く息を吐き、唾を飲みこんでかかとを鳴らした。大丈夫だ。こんなことで焦ってはいけない。笑顔を作る。
「楽しみにしてる」
歩き出した瞬間に寿瑪が囁いてきた。一緒に背中に温かいもの触れ、彼が手を添えてきたのがわかったときには袖から舞台に出ていた。拍手がさらに強くなり、僕は所定の位置について礼をする。バイオリンを構え、チューニングのためにラを弾いた。楽団が続く。
あれ──。
背中に熱が灯っているとわかったのは春の第一楽章の最初の音を鳴らしたときだった。ろうそくの火が揺れているような、柔らかな温かさが肩甲骨の間からゆっくりと生まれていく。その温もりは肩の方へ、腕にそして指先へ血の流れに乗り広がった。
指が柔らかい。練習の際に感じていた歪みが正しい位置にハマっていき、耳の奥からパチンとなにかがはじけた感覚に一瞬戸惑う。制御できなければ音も世界も僕の知らない世界へ飛んで行ってしまいそうだ。地面に足をはりつけるために力を籠めた。
寿瑪が見ている。ついさっきまではなにか恐ろしい、見透かされているのではと感じていた。
なのにいまはその目からなにかが流れてきているという錯覚さえあった。
音がこんなにも響いている。なんだこれ、変だ。素直に音色が耳に入ってきて、気持ちのいい伸びやかな声はあまりにも久しぶりだった。
あれだけどうしようもできなかった耳をつんざくほどの雑音が混じっていたはずなのにと動揺を隠しつつ、演奏を続ける。なにがあったのかまったくわからず、けれどそれを悟られてはまずい。まだあとどれだけ楽章が残っているんだ。集中しろ、と自分に言い聞かせた。
頭の中で、春のソネットが、ニンフや小鳥たちを連れて駆け回っている。
万雷の拍手の中、一礼をして袖まで下がる。僕の姿が消えたあとも観客は手を叩き続けていたが、数秒後にはさざなみが引くように落ち着いていった。
寿瑪のカメラはずっと僕をとらえたままだ。汗を拭ってから背中に意識を持っていけば、もう熱は冷めていた。あれは勘違いだったのだろうか。駆け寄ってきた主催たちと握手を交わしてパイプ椅子に腰を下ろす。水を飲んだところで寿瑪も一度カメラを止めた。
顔をあげれば、彼の頬が赤くなっているのに暗闇なのに気づいた。パチパチと瞬いている星が現れている。なにか言いたげな雰囲気だったが、ここでおしゃべりをするわけにもいかない。なにせまだ楽団の演奏を聞いていたいから。このあとに出番も残っている。
けっして寿瑪の顔をもう一度は見づらいとか、そういう理由ではないのだ。
だが彼は空気を読まずに隣に腰を下ろしてきた。げ、と口が引きつる。なんだか寿瑪の体から熱波がでているのか妙に熱い。
「やっぱりすごいな」と恍惚とした表情で言われ、バイオリンを思わず抱きかかえる。
「練習であんなに聞いたのに、本番が一番音の迫力があって、きれいで、真正面から撮れないのが残念だった」
「……ありがとう」
返事を絞り出した。僕は彼からの賛辞を素直に受けめるのを拒んでいる。
ここ数年の僕にとって、コンサートは周りからの評価と自分が感じている違和感とのズレを無理やりに自覚と認識をさせてくるものだった。だけど今日は違う。違ってしまった。
だって僕も同じ気持ちだったからだ。あんな神様の光に触れるような演奏はもう絶対にできないと心が折れかけていた。この道しか進むことが許されていないと嘆いていたのに。
神様の指先がほんの少しだけ僕の鼻先に、久しぶりに触れてくれた。そしてその指先を導いたのが、もう一人の天才といわれた彼だった。
だから悔しい。僕だって今の演奏に体が震えるほど感動しているのだ。素直に喜びたいに決まっている。そのきっかけが僕があこがれてきた天才だというのだって嬉しいはずなのに、なにかが阻んでいる。
ちら、と浸っている寿瑪を横目で確認した。小さくため息を吐く。
どうしよう、なんだかまともに顔が直視できない。
衣装に着替えると、寿瑪の顔に星が浮く。あれ、と目を凝らした。普段は演奏してるときにしか出ないものがなぜこんなときに出ているんだろう。見間違いかと軽く目を擦ってもう一度確認するとやはりない。僕も昂っているから見間違えたんだな。髪型もセットしてもらい、いよいよ出番に備える。よし、と鏡に笑顔を作れば寿瑪に声をかけられた。
「小鐘クン、素材用に写真撮りたいんだけど」
「はい? どこに使うつもりで?」
「それは編集にならないとわからない。たぶん必要だと思うから」
ぐい、と顔が近づいた。スマホを構えている彼の迫力に気圧されしぶしぶ了承すると、ここぞとばかりに母と二人で数枚写真を撮っていた。なにか騙されたような気がしなくもないが、だったら僕のスーツの写真なんて欲しがる理由もなかろう。納得させ、弓を振る。
「準備お願いします」とスタッフが楽屋に駆け込んできた。目で合図を送れば、寿瑪も僕の後ろについて楽屋を出る。
「緊張してる?」
「してない。練習してきたからね」
たった二週間程度だが、彼にも十分聞かせきたから納得できるだろ。技術は申し分ないはずだ。楽団とは数回しかセッションできていないが、これまでも合わせてきた経験があるので心配はいらない。自信はあるが、こんなときに嫌な質問だなと苦笑した。
思えば、なぜリハーサルのあとに寿瑪に意見を聞こうとしたのだろう。
こめかみがまた痛み出した気がして軽く撫でたのだが、どうやら本当に気のせいだったらしい。ただマッサージしただけになった。もう袖に来ているのだから呼吸を整えないとなのにいまいち緊張感が足らない。
振り向けばレンズが僕をとらえていた。ゾク、と背筋に緊張が走る。いままでは意に介してもいなかったカメラが、違う。カメラ越しに伝わる寿瑪の視線を意識してしまっている。そうだ。僕はあこがれの天才に自分がどう見えているのか知りたいんだ。だから僕の演奏を最高だと評してくれた彼に、あのアンサンブルがどう聞こえたのか、望んだ通りの演奏ができていたのか問うていた。
拍手が聞こえ、肩が跳ねた。指揮者が僕を呼び込んでいる。コンサートに意識を戻さねば。短く息を吐き、唾を飲みこんでかかとを鳴らした。大丈夫だ。こんなことで焦ってはいけない。笑顔を作る。
「楽しみにしてる」
歩き出した瞬間に寿瑪が囁いてきた。一緒に背中に温かいもの触れ、彼が手を添えてきたのがわかったときには袖から舞台に出ていた。拍手がさらに強くなり、僕は所定の位置について礼をする。バイオリンを構え、チューニングのためにラを弾いた。楽団が続く。
あれ──。
背中に熱が灯っているとわかったのは春の第一楽章の最初の音を鳴らしたときだった。ろうそくの火が揺れているような、柔らかな温かさが肩甲骨の間からゆっくりと生まれていく。その温もりは肩の方へ、腕にそして指先へ血の流れに乗り広がった。
指が柔らかい。練習の際に感じていた歪みが正しい位置にハマっていき、耳の奥からパチンとなにかがはじけた感覚に一瞬戸惑う。制御できなければ音も世界も僕の知らない世界へ飛んで行ってしまいそうだ。地面に足をはりつけるために力を籠めた。
寿瑪が見ている。ついさっきまではなにか恐ろしい、見透かされているのではと感じていた。
なのにいまはその目からなにかが流れてきているという錯覚さえあった。
音がこんなにも響いている。なんだこれ、変だ。素直に音色が耳に入ってきて、気持ちのいい伸びやかな声はあまりにも久しぶりだった。
あれだけどうしようもできなかった耳をつんざくほどの雑音が混じっていたはずなのにと動揺を隠しつつ、演奏を続ける。なにがあったのかまったくわからず、けれどそれを悟られてはまずい。まだあとどれだけ楽章が残っているんだ。集中しろ、と自分に言い聞かせた。
頭の中で、春のソネットが、ニンフや小鳥たちを連れて駆け回っている。
万雷の拍手の中、一礼をして袖まで下がる。僕の姿が消えたあとも観客は手を叩き続けていたが、数秒後にはさざなみが引くように落ち着いていった。
寿瑪のカメラはずっと僕をとらえたままだ。汗を拭ってから背中に意識を持っていけば、もう熱は冷めていた。あれは勘違いだったのだろうか。駆け寄ってきた主催たちと握手を交わしてパイプ椅子に腰を下ろす。水を飲んだところで寿瑪も一度カメラを止めた。
顔をあげれば、彼の頬が赤くなっているのに暗闇なのに気づいた。パチパチと瞬いている星が現れている。なにか言いたげな雰囲気だったが、ここでおしゃべりをするわけにもいかない。なにせまだ楽団の演奏を聞いていたいから。このあとに出番も残っている。
けっして寿瑪の顔をもう一度は見づらいとか、そういう理由ではないのだ。
だが彼は空気を読まずに隣に腰を下ろしてきた。げ、と口が引きつる。なんだか寿瑪の体から熱波がでているのか妙に熱い。
「やっぱりすごいな」と恍惚とした表情で言われ、バイオリンを思わず抱きかかえる。
「練習であんなに聞いたのに、本番が一番音の迫力があって、きれいで、真正面から撮れないのが残念だった」
「……ありがとう」
返事を絞り出した。僕は彼からの賛辞を素直に受けめるのを拒んでいる。
ここ数年の僕にとって、コンサートは周りからの評価と自分が感じている違和感とのズレを無理やりに自覚と認識をさせてくるものだった。だけど今日は違う。違ってしまった。
だって僕も同じ気持ちだったからだ。あんな神様の光に触れるような演奏はもう絶対にできないと心が折れかけていた。この道しか進むことが許されていないと嘆いていたのに。
神様の指先がほんの少しだけ僕の鼻先に、久しぶりに触れてくれた。そしてその指先を導いたのが、もう一人の天才といわれた彼だった。
だから悔しい。僕だって今の演奏に体が震えるほど感動しているのだ。素直に喜びたいに決まっている。そのきっかけが僕があこがれてきた天才だというのだって嬉しいはずなのに、なにかが阻んでいる。
ちら、と浸っている寿瑪を横目で確認した。小さくため息を吐く。
どうしよう、なんだかまともに顔が直視できない。
