ふり向いてくれよ、アマデウス

 そして日曜になり、コンサート当日になった。天気はあいにくの雨でいつまでも暗いからか気も重くなる。開演時間は夕方からだが、会場には午前中に到着した。車を降りてすぐに寿瑪の姿を発見する。母が困ったようにこちらを伺った。

「挨拶してもいいのかしら。奏音くんを撮ってくれてる子であってる?」

 ほぼ毎朝毎夕家の近くまで来ているが、母が応対することはないので実は二人には面識がない。悩んでから「そうだね」と苦笑した。隠しているつもりもないし、今日は一日張り付かれるのだから些細なことでも気を使うべきだ。

「なんというか、ワイルドな感じなのね。でもお父さんも芸大時代はあんな感じだったわ、ふふ」

「いやそういうのいいから」

 こそこそと小声で話しつつ近づく。機材を確認しているから彼はこちらに気づいておらず、脅かしてやろうと画策したのだが、母が天然だったせいで失敗に終わった。

「おはようございます。本日はよろしくお願いします。奏音くんの母です」

「あ、おはようございます。お邪魔します」

 むしろ驚愕したのは僕の方だった。クラスメイトとも話す姿がまれな寿瑪が社交的な挨拶をすぐに返せている。うっかりむせてせき込みそうになったのを我慢し、僕も挨拶を放った。しかし今度はぎこちなく返された。

「雨なのに大変ねえ。一人でセッティングするの? あとでお父さん呼んでこようかしら?」

「いえ、手伝ってくれる人はいますので。小鐘先生に力仕事をさせたなんて怒られてしまいますから」

「あら、あの人のことも知ってるの。うれしいわ」

 はは、と寿瑪が愛想よく笑った。ぎょっと目を丸くした僕を横目で見てくる。その目の奥はなにも笑ってはいなかったが、僕も母と同じ意見だ。父を知っているなんて、一度も話したことはなかったのに。ちょうど母に電話がかかってきて、楽屋まで寿瑪と二人で行くよう置いていかれた。

 気まずい。天気のせいにするが、空気が重苦しく呼吸が浅くなっていた。すぐに深呼吸を繰り返す。寿瑪も笑顔を消しているし、重そうな機材の入ったカバンを複数個かついで先に進みだしている。ぐ、と喉が鳴った。

 僕はあの荷物一つまともに運べるか怪しい。猫背は変わらないが、身長の高さや体の大きさの違いを出会ったとき以来はっきりと比較してしまい、不摂生なくせに、と口の中で悪態をついた。こっちはバイオリンケース以上に重い物なんか持たせてもらえない。

「ちょ、ちょっと。なんで父のことわかったの」

「有名な指揮者だって、アマデウスを調べたときに出てきた」

「そうか、そうだよね。あとアマデウスって家族の前では絶対呼ばないでほしいんだけど」

 無視される。いや、楽屋に着いて早々にカメラのセットを始めたからたぶん耳に入らなかった可能性が高い。僕も一息つく間もなくホールの責任者や主催者、イベンターにと挨拶が続く。寿瑪も同様に話しかけられ、なにか細かい打合せをしていたが、お互いに準備を終えると急ぎ足でホールにリハーサルを向かった。

 撮影係として高校生が出てきたから、楽団の大人たちもざわついていた。おそらく先にセッティングをしていたシュッとした男性がディレクターだと思っていたのだろう。その人は寿瑪の叔父だそうで、明るそうな雰囲気があまりに似ていなかった。しかし気にしているひまももちろんなく、僕が参加する楽曲の合わせが始まる。うん、大きな問題はなさそうだ。自分の音を意識しすぎなければ、きれいな音が出る。

 礼とよろしくお願いしますと頭を下げながら移動し、ホールの客席に腰を落ち着けた。楽団の演奏を眺めていると、寿瑪も隣に座る。

「さっきのアンサンブル、どうだった」

 ふと問いかけていた。寿瑪が向けていたレンズがわずかに揺れる。

「あれだけ練習してただけあって、さすがだと、」

「そう。わかった。ありがとう」

 打ち切るように言葉を返す。どうやらズレはでなかったようだ。ズキ、とこめかみが痛んだので軽く押さえてから、始まった次の曲に意識を研ぎ澄ませる。さすがプロだ。自分よりも経験値が高いことが格段に演奏に出ていた。

 バイオリンを撫でながら音の行方を目で追った。大きなホールの壁にしみていく。まだ観客は数人だけなので響きが鮮明できれいだと浸りたくなる。

「アマ、」

 なにか言いかけた寿瑪の声はまたも打ち切られていた。後ろから母が呼びに来て、楽屋に戻ることになったからだった。


 無理やり承諾させて寿瑪にケータリングの弁当を食べさせる。小食なわけではないらしく、残しはしなかった。どうやら本当に食事そのものに興味がわかない、もしくはわずらわしいと思っているのだろう。いかにも天才っぽい思考だ。明日から何を食べさせてやろうかな、ふふふ。

 バイオリンのメンテナンスを終えてから、ソネットを広げるとレンズをどかして寿瑪が覗き込んできた。

「時々読んでるこれ、なに」

 相変わらず自分からは話しかけてくる監督様を冷えた目で見つめる。触られては困るので訳文も載っている本日のパンフレットを彼の前まで滑らせた。

「四季には十四編からなる詩がついてるんだよ。それゆえにこの曲は無声の、管弦によるオペラと言われてるんだ」

「へえ」と寿瑪が片眉をあげる。

「本とか読まないの。シェイクスピアとか」

「俺が好きなのは映画だけだから。ロミオとジュリエットも十二夜も観たけど、本では読まない」

 今度はこちらが相槌を返す。脚本とか書いたりしないのだろうか。僕には映画のことはさっぱりだ。そして詳しく聞くほど彼と話を続ける気も起きず、ソネットに目を戻した。だがちょうど読み始めたところを寿瑪は音読し始めた。響くバリトンが部屋の空気を揺らした。その姿に違和感が生まれる。

 彼は、自分の撮る映像の中から己を徹底的に排除しているはずだからだ。インタビューも必要最低限に収めるつもりなのは伝わっている。しゃべったとてカット前提だろう。なのに読み上げてしまったら消すのが大変になるのでは、と勝手に心配になった。

 普段は他人の声では再生されない文章だ。抑揚のつけ方、句読点の位置、感情の載せ方、なぜか耳が寿瑪の声を拾おうと必死になっている。なんて僕は貪欲なのだろう。異なった視点や解釈を聞きたかった。表現の幅が広がるのではないかと、突破口を無意識のうちに期待しているらしい。

 なによりも寿瑪が表現する世界がどんなものか知りたい。彼の視線の先にある景色は、あの映画の世界そのものだろうから。だったらこのソネットにどんなイメージを持つのだろう。教えて欲しい……。

 紙から顔をあげて僕は寿瑪に視線を送っていた。

「アマ、」と寿瑪がまた何か言いかけた。けれど空気の読めない父が電話を鳴らしてきたので外に出る。

 ──いや、なにが突破口だよ。

 バクバクと心臓がうるさく拍を早くしている。胸を撫でて落ち着かせようとしたが、なかなかいうことをきかない。雨じゃなければ気分転換に散歩に行くのに、降りやみはしなさそうだ。よく考えたら散歩に行っても絶対彼はついてくるじゃないか。はぁ、とため息が出る。