ふり向いてくれよ、アマデウス

 そんな状態であっという間に一週間が経っていた。寿瑪の空気であろうという努力はすさまじく、こちらで気にしないと決めたらほとんど視界に入ることはなかった。これは僕だけでなく、クラスメイトも同様らしくだれもカメラが回っている意識を持たなくなっていった。

 プロ意識、というやつなのだろう。おかげで邪念は消え、練習に集中できている。コンサートもついにあと二日で開催されるので、仕上げは佳境に入っていた。

 寿瑪が自分のクラスの授業にまったく参加していないのは相変わらず気になるが、些末なことなんだから訊く義理もない。僕もどうしてこんなに彼への心配が残っているのか不思議だった。


「いつも一人で食べてるんだな」

 突然話しかけられ、唐揚げを落としかけた。無事に弁当箱の中に着地してくれたので何事もなかったように食べ、一度無視する。だって話しかけるなと向こうから怒ってきたのだ。こちらが無視して当然である。

 しかし言われた言葉が引っかかり、じろ、と寿瑪をにらんだ。そうだよ、いつも一人で食べてますがなにか悪いですか。へ、と鼻を鳴らして続きを食べきった。

 そういえば彼も彼で昼ごはんはパンやおにぎりとか健康に悪そうな食事をしている。無駄な肉がついていない体をしているとうらやましさを感じていたが、不摂生なのはダメだ。演奏家だって体が資本なのだから。

 ぐるぐる考えて無視している僕に、寿瑪は気にせず続けた。

「ストイックだなと思って。このあとすぐ練習に行くから、クラスメイトと話してる時間もない」

「よく見てるんだね」

 当然だろ、という視線を避けて弁当箱を片付ける。友達がいないんだとからかわれるものだと思っていたから意外だった。一週間でもわかるものらしい。喜ぶのは悔しいので、ツンと澄ました顔のままベンチから立つ。あれ、いま普通に会話してたな。カメラが止まってるから?

 寿瑪が来るまでは教室の隅や空き教室で昼食をとっていたが、画面映えがきれいな方がいいと勝手に中庭で食べるようになった。ほかの生徒たちもいるが、時間をずらしているから目立ったりはしない。遠くにはしゃぐ声や、鳥のさえずりが聞こえる緑の庭は建物に囲まれていて風も少なく、居心地がいいと知れてよかった。

「きみだってお昼ご飯それだけなんだ?」

 レンズがこちらを外れ、寿瑪が映像チェックをし始めたのでここぞとばかりに訊いてみた。彼の作業していた手が一瞬止まる。

「食べないと怒られるから仕方なく。人間の体って不便だよね」

 呆れた。まさか不便ときたか。食事に興味なさそうだとは思っていたが、まさか体のシステムそのものに文句があったとは驚いた。彼の横に置いてある丸められたパンの袋を眺めた。たったこれだけしか食べないなんて信じられず、しかもきっと夜も朝もないがしろにしているはずだ。ストイックなのはそちらの方こそだろう。瘦せ気味の腕に手を伸ばしていた。

 すり、と肌を撫でてみる。寿瑪が猫のように腰をベンチから浮かせた。カメラを抱きかかえておびえたように体を震わせている。なんだその反応は、面白いじゃないか。

「な、なに、しっ」

「冷えてるね。ご飯をきちんと摂ってないから血糖値が低いんだ。それでよく仕事ができると思ってるな」

「関係ない。別にこれだけでも十分生きていけるし」

 ンン、とひっくり返りかけた喉を整えてから寿瑪が頭を横に振る。ふぅん、と相槌を打ってさらに横に尻を動かして彼に近づいた。短い悲鳴のようなものが聞こえて寿瑪の位置がずれる。そのまま尻を詰めていけば、逃げ続けた彼はベンチから落ちていた。状況がわからず目を点にしながら長い足を放り出している。

「朝はおにぎりとみそ汁と鮭とかからあげ。朝のレッスンのあとにパンをつまむこともある。お昼はお弁当。これは栄養バランスに気を使って野菜と鶏肉とかタンパク質が中心だけど、量は見た通り大きめの弁当箱を使ってる。午後のレッスンとジムのあとはおにぎり。家に帰って夕飯を食べてまたレッスン」

「いきなりなんだよ」

「僕の一日の食事量。ちゃんと撮影できた?」

 問えば、あ、と寿瑪が焦ったようにカメラを確認する。だがさっき止めていたのは確認していたので撮れているわけがない。がっかりしている姿に思わず笑いが噴き出しそうになったのをこらえ、上からのぞき込んだ。どこか悔しそうな顔をしている。髪の毛も全部後ろに流れているから表情がはっきり見えた。

 また目の端が赤くなっている。それにクマは前よりも薄いし、血色は相変わらず悪いが、肌の色のトーンが明るくなってきている気がした。あともう少しなにか手を加えればもっとよくなるのに、例えばやはり食事は重要だ。

 寿瑪が起き上がろうとしたので急いでベンチの反対の隅へ移動した。

「お金がないからそんなものを食べているのかと思ってた」

「はぁ、興味がないだけ。でもアメリカの映画に出てくるボックス型の食べ物とかは気になるけど、あとピザとか」

 また映画だ。だが僕も今回は引き下がるつもりはなかった。だって彼はこの僕の貴重な二か月を共にする人だ。だったら最高のパフォーマンスをしてくれなければ困る。そしてそここそ僕がこの天才に付け入る隙なのではないかと思いついた。

 カメラに傷が入っていないか確認し終えたのか、安堵したような空気を醸し出している寿瑪をじっと見つめた。こちらの視線に気づいて彼も振り向くが、眉間のしわが濃い。

 これでも弁当は自分で準備している。ただ栄養とかは独学だったから試してみたくなった。この不健康男子がどこまで変わるのか。食事がどれほど人間にとって大事なのが思い出させてやらねばと使命感がわいてくる。まるで自分が人間ではないと言いたげな口ぶりにちょっとむかついたのだ。僕はこんなに努力して頑張ってるのに、ずるい。

「だから来週からお昼持ってこないでくれる?」

「は? だからって、どこからのだから?」

「一緒に作ってくるから。朝と夜は好きにしていいよ。あ、チャイム」

 寿瑪はいい加減授業にでないといけないらしく、このあとはレッスン室まではついてこない。それをいいことに僕はさっさと片付けて逃げるように走って中庭を後にした。なにか彼が叫ぼうとしたが、パンだけだったのが災いしたらしく激しくむせている。ふふんと笑ってやった。


 渡り廊下の窓から庭を眺めてみた。寿瑪はベンチに座ったまま頭を抱えている。僕が弁当持ってくるのがそんなに嫌なのかよ。だったらいい嫌がらせになるな、と自分を納得させた。

 関わるなとこちらの手を叩いてきた天才への八つ当たりは爽快だった。引っかかっていたものがすっきりとれたような気分だ。よし、今後はむしろどんどん絡んでやろう。僕の溜飲も下がるし、そういうからかいはまるで友達にするみたいだ。

「──友達?」

 こぼれた言葉が足元に落ちる。窓から距離を取り、ガラスに映った自分の驚いた顔にさらに拍子抜けした。もちろん彼は違うのだとわかっている。けれど、いつからそう呼べる相手がいなかったっけ。考えた瞬間に耳の裏をだれかに撫でられる感触があり、追い払うためにパシッと叩いた。