小鐘奏音(こがねかなと)

 日本クラシック界に現れたある天才バイオリニストの少年の名である。

 三歳の頃にレッスンを始めると、瞬く間に才能を開花させジュニアコンテストの賞をいくつも獲得し、十歳にして国際コンクールでも絶賛を受けた。

 海外のニュース誌にも取り上げられ、その年の最も優秀な人物の一人にも選ばれる。CDもいくつも売上げ、チケットは即完、クラシックを知らなかった層にも名を轟かせた。


 たった十歳の子どもが、だ。


 暗く、広いコンサートホールは小さい体にどれほど恐怖を与えたか。弓を弦にあてがい、一呼吸をすれば観衆は静まり返る。観衆千名が飲んだ息、それすらも音になり、うっすらと冷たくなった会場をたゆたって僕の耳朶を撫でてくる。まるで悪魔の眠りを妨げまいと呼吸が殺された緊張感は、ツンと前に出したつま先から髪の毛の先までを覆った。

 わずらわしい。不快だ。跳ね返す。邪魔だから。

 ひとたび弓で弾けば、この僕のバイオリンから生まれた音色は静寂が作り出した空気を切り裂き、悪魔どころか人々の目を覚まさせる。

 ──『アマデウス』。

 みなが僕をそう賞賛した。自我も曖昧なほど小さな少年は才を見出され、神に愛されし者という壮大な異名をつけられた。

 もちろん僕は答え続けた。天才と褒めそやされることはなにも間違っていないと本気で信じていたし、十五歳で有名オーケストラのコンサートマスターに抜擢されたときはすべてを手に入れたつもりになった。僕の音楽がホールを超え、空に舞い、天上に届いた気がしたのだ。

 神から祝福を受けたかのように目の前が光りに満ち、観客の息遣いすら、いままで邪魔だと感じていたすべての物が消えて、初めて僕は美しいバイオリンの歌を聞いた。

 けれど、まさにその瞬間がピークだった。

 僕は、モーツァルトにはなれないと悟ってしまった。



 自分の理想とする音が鳴らせなくなった。

 どれだけ練習に費やしても、指がつるまで弓を弾いても完璧な音が出ない。あのコンサートで聞いた声で歌ってくれない。

 きっと取るに足らない、いやとても小さな違和感、ズレなのだろう。なにせそう感じているのは僕だけだった。常に厳しく指導してくる両親ですら日を重ねるごとに「素晴らしい」「上手になってきている」とほめてくる。

 一体彼らの耳にはなにが届いているんだ。

 収録でも、コンサートでも、練習でもまるで耳の横で板を爪で引っ掻かれているみたいな音が混じり、苦痛がどんどんひどくなってきている。どうしてだれも気づいてくれない!

 あのコンサートホールで僕が見たのは己の限界だったのだろう。

 天才という言葉の重みはこの未熟な細くもろい肩ではとても背負えるものではなかった。

 彼らは十代という幼さを信仰しているだけだ。このまま僕はこの道を進むべきなのかもわからない。でも僕にはバイオリンを弾くことしか、もはやそれしか僕を僕たらしめるものはなく、いまさらどうすればいいかなんて。


 
「──たくん、奏音くん。それで、君の楽曲を使いたいって申請があったのを覚えているかな?」

 先生に訊かれ、ハッと現実に戻ってきた。頭を軽く振ってから、僕は笑顔を取り繕ってうなずいた。

「はい。覚えています」

 たしか半年ほど前のことだったはずだ。ある学校の生徒が自主映画を作っていて、同い年の僕の演奏したものをBGMに使いたいと話があった。その演奏動画は学校のチャンネルにあげていたものだったから、先生たちも大慌てになったんだっけ。断る理由はないし、僕はふたつ返事で了承していた。

「その映画ができたから送ってくれたんだ。もし時間があるなら見てあげて欲しい」

「もちろんです。うれしいな、僕も映画に使用されたことはまだなくって」

 愛想笑いを続ける。先生も嬉しそうにいそいそと準備をし始めているが、本当は一刻も早く練習に戻りたい。だがこういう縁や付き合いも大切だと両親からきつく言われているし、なによりもその映画を撮った人物のことも少し気になってはいた。

 サトウスズメ、という可愛らしい名前だったはず。その人もまた天才と呼ばれているらしい。

 若干十三歳のときに制作した短編映画が、有名なコンペティションで審査員特別賞を取ったと一時期話題になっていたので、僕でも知っていた。だから楽曲を提供するのにも抵抗はなかった。

 そんな彼の作品はどんなものか、少なからず興味はあった。

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 天才。

 いうのはたやすい。その言葉の意味を理解していればだれにもかれにも言うべきものじゃない。


 目の前で流れる何事でもない風景や人々の営みを切り取ったショートフィルムは、知らない町を映しているのに懐かしさを感じたし、なによりも僕自身がその光景をいま、その画の中に入って実際に見ていると錯覚する。少女の背を追って繰り広げられるストーリーは一切の無駄がない。ドキュメンタリーというのだろうか、それすら僕には判断がつかないのに、美しいシーンに自分の一番美しかった頃の音色が合わさった。体の奥が熱くなって、ただ茫然と口から零していた。


 ──天才だ、と。