転校生が来るらしいと、俺が教室に入ると、クラス中が騒いでいた。いつもの笑顔(愛想笑い)を顔に貼り付けて、俺は自分の席につく。
窓際の一番後ろ。卒業まであと二ヶ月と迫ったこの時期に、俺は『最高』の席に当たった。
窓の外の景色を眺め、先生の喋り声を子守歌に…………とはいかなくて、昼過ぎ、昼食を食べ終えた頃をピークに迫り来る睡魔と闘いながら、授業を聞くのだ。
『最高』の席だろ?
運のない自分に、つくづく呆れちゃうよ……。まぁ、廊下側の寒い席よりいいけどねと、せめてもの負け惜しみを呟いてみると、少しだけ気が紛れた。
「おはよ~、巽!」
中学三年にしては甲高い少年の声が、教室の入口から聞こえてきた。俺を名指しで挨拶してくる奴は、一人しかいない。朝からなんでそんなにテンションが高いんだよと、俺が呆れながら声がした方を向くと、そこにいたのは案の定、友人の佐藤裕伸だった。
「転校生……」
「知ってるから」
俺は何かを言いかけた裕伸の言葉を、苛立った声で遮った。
「ふっえぇ!」
裕伸がよく分からない奇声を発し、わざとらしく驚いてみせる。
「さっすが巽!情報がはえーな!!」
目を丸くして言う裕伸を、俺は冷めた目で見つめた。
「眠いから黙っててくれ」
どんなにそっけない態度をとっても、彼は怒ったりせず、しつこいほどに接してくる。根が優しいからなのか、ただ単に鈍感なだけなのか、それは俺も分からない。現に、今もそうだ。黙っててくれと頼んだはずなのに、懲りずに彼は話しかけてきた。
「じゃ、巽、これは知ってるか?」
机に突っ伏そうとした俺を無理矢理引き上げ、裕伸はニヤッと笑った。
「はいはい。『神のまにまに』だろ」
めんどくさい。俺は全力でその感情を表現した口調で呟いた。
『神のまにまに』
一見わけのわからないこの言葉は、今このクラス、いや、学年中で流行っている言葉だ。
『このたびは ぬさもとりあへず 手向山 もみぢのにしき 神のまにまに』という、百人一首にも選ばれている菅原道真の句からきている。
「神のまにまに」は、「神のみこころのままに」という意味らしい。去年、学年行事で百人一首大会なるものを行った時、なぜか一部の生徒にこの句が大受けして、『神のまにまに』という部分だけが一人歩きし、日常生活の会話に使われるようになったというわけだ。
学校という組織に所属していると、どうしてこんなどうでもいいようなことばかりが定期的に流行るのだろうか。ついこのあいだまでは、ショート動画を撮影するために、男子も女子も、禁止されているはずのスマホを持ち込んで、至るところで撮影をしていた。隣のクラスの一派が先生に見つかって、スマホを没収される事件が起こったあとはそのブームは急速に廃れたが、今度は校則にも違反していない別のものが流行りはじめた、というわけだ。
「ばーか!違うよ」
俺の思いなどつゆ知らず、裕伸は笑いながらそう言った。まあ、確かに違うか。会話の流れからして、『神のまにまに』は明らかにおかしいもんなと、俺は思い直した。
「じゃ、なんなんだよ……」
俺はいかにもくだらないというような態度で聞いたが、本心では気になっていた。「早く教えろよ」と言いたい衝動をぐっとこらえ、裕伸の顔を見た。
「その転校生、関西人なんだって!」
「ふうん……」
あくまでも興味が無いというふりをした俺の頭に、たこ焼きが現れた。俺にとっては関西といえば、たこ焼きというイメージしかないのだ。
「本場の関西弁が聞けるんだな!まさに『神のまにまに』だぜ!」
結局シメはそれですか、裕伸くん。どうやら神のみこころのままに関西弁を聞くらしい。意味が分からねえよ。
チャイムが鳴って、裕伸がいそいそと自分の席に戻っていった後、しばらくして、担任の中井が教室に顔を見せた。二十代半ばの彼は、生徒からも人気のある優しい教師だ。茶色がかった髪を短く整えて、今日も黒いスーツ姿で現れた。
「おはようございます!」
号令がかかり、ホームルームが始まった。いつも以上に、クラス中の視線が中井に注がれる。中井はいつもと同じように長々と話をしている。それが焦れったい。
ホントに転校生なんかいるのだろうかと、クラス中が思い始めた時だった。
「じゃあ、みんなも薄々気付いているかもしれないけれど、転校生を紹介するぞ」
中井がそう言って扉に駆け寄り、外にいる誰かに声をかけた。
「入ってきなさい」
視線が扉に集まる。これほどに注目される今日の扉。あれに感情があれば、今頃赤面しているだろう。しかし、注目しているのは扉なんかではないということに、気付いてほしい。
あぁ、神のまにまに。……ごめんなさい。
転校生の足が、教室と廊下の境界線を跨ぎ、俺達のクラスに入ってきた。転校生は、男だった。俺が抱いた転校生への第一印象は、「背ェたけぇ!」多分、俺より頭一つ分大きいだろう。いや、もうちょっとかな。少し緊張した面持ちで、奴はこちらを向いた。緊張しているのにうつむかないんだなと思って、ちょっと感心する。
「神戸から、こっちへやってきました、佐井祐介です。」
奴は、中井が黒板に名前を書くのと合わせて、しっかりとした大きな声で、そう言った。こうべ……確か、好きな曲の歌詞に出てくる場所だな。俺は自分が好きなアーティストの曲を連想した。女の人が、駄目だと分かっていても、男に恋心を抱いてしまうという歌だ。それにしてもあいつ、すごく遠い所からやってきたんだなと、俺は思った。
「佐井君は、ご両親の仕事の都合でこちらにやってきた。卒業まであと少ししかないが、みんな仲良くするんだぞ!」
中井が笑みを浮かべてそう言った。
「じゃ、佐井君、あそこの空いてる席に座ってくれ」
「あそこの空いてる席」って、俺の隣じゃん!
通路を挟んだ隣の席しか、このクラスに空いている席はない。つまり、俺がどう言おうとも(別に何も言わないけど)、必然的に奴の席は俺の隣になるのだ。ゆっくりと、佐井がこちらにやってくる。もはやクラス中の視線が彼の動向に注目していた。奴は今、どんな気持ちで歩いているのだろうか。周りの注目を浴びて、だけど何も言えなくて。恥ずかしいだろうな。俺だったら耐えられないかもしれないな。
一時間目が終わった後の休み時間、佐井は転校生恒例の質問攻めに合った。もちろん、俺も輪の中に入り、話を聞いていた。
「どこから来たの?」と、もう分かりきった質問をする女子生徒にも、佐井は笑顔で答えていた。
「神戸はな、ええとこやで!オレが住んどったところは、山と海に挟まれとって、どっちも近くにあるから、なんか得した気分になるねん。それでな、方角を言うとき、北、南やなくて、山側、海側って言うほうが伝わるねん」
聞かれていないことまで饒舌に喋っている佐井の顔を見ていると、俺にはもう彼がクラスに馴染んだかのようにも見えた。
「神のまにまにやな!」
突然、裕伸が下手な関西弁でボケた。いきなり何を言ってんだよ、空気読めよと俺は裕伸を睨んだが気付かれなかった。佐井が一瞬、戸惑ったような表情をしたが、すぐに「あぁ!菅原道真の句やんな?」と、裕伸を見た。
「おっ、キミ、なかなか物知りだな!」
裕伸が嬉しそうな顔をする。
「おい巽、オマエより偉いんじゃね?」
裕伸に言われて、俺は思わず「うっせぇ!」とムキになってしまった。
卒業まで、あと二ヶ月。たった二ヶ月しかないけれど、そのあいだに俺はこの佐井祐介ってやつと仲良くなれそうな気がした。
佐井が転校してきてから一週間が経ったある日の事。
陽が長くなってきたグラウンドで、俺は風を浴びていた……なんて、カッコつけてみたけど、裕伸や佐井と一緒にグラウンドの片隅にしゃがみ込んで、運動部のやつらの練習風景を見ているだけだ。夏までは、俺たちもあの輪の中に入っていた。部活を引退して、いよいよ受験一色モードに差し迫ったときのことは今でもよく覚えている。後輩たちが部活に勤しむ姿を見ていると、もうあそこには戻れないんだなあと、ちょっと寂しくなったりもする。
「なあ、お前ら、高校どうするんや」
正面から当たってくる冷たい風に、佐井は目を細めた。
「どうするって……行くけど」
裕伸が佐井を振り返った。俺もついでにうなずいてみた。
「そりゃそうやけど、どこの高校行くん?……オレ、まだこのへんのこと分からんから正直悩んでるんや」
「佐井は前の学校で成績どれくらいだった?」と、俺は聞いてみた。決していいアドバイスが出来るという保証はないけれど少しでも役に立てたらいいなと思ったのだ。
「ああ、まあ、そこそこってとこやな。中の上ぐらい」
そう言うと佐井は、苦笑いを浮かべた。
「神戸って、どんなところか知らないけど、地域ごとに頭の善し悪しが分かれているわけじゃないから、ここでもそこそこの高校行けるんじゃないか?」
こんなのアドバイスじゃねえなと、言いながら俺は思った。
「そこそこだったら、俺らの行く高校でいいじゃん。せっかく仲良くなったんだし、この友情が二ヶ月ぽっちで終わっちまうなんて、なんか勿体ないだろ」
突然、裕伸が口を挟んだ。ちなみにやつが今、「行く」と断言したのは、やつはもう推薦で合格しているからだ。俺もまぁ、そこに行くつもりだけど、一般入試はまだなんだよな。
今はもう、受験までラストスパートって感じ。俺も推薦入試にしていれば、裕伸のようにちょっとした優越感に浸れたのかなと思うと、少しだけ悔しくなった。
「……裕伸の言葉はうれしいんやけどな」
なぜか、佐井は言葉を濁らせた。
「どうかしたのか?」
裕伸が佐井のうつむきがちな顔を、覗き込むように見た。
「あ、いや……」
「言いたくないなら言わなくていいだろ。 裕伸も、聞くな」
これが助け船を出すってやつかな。俺が言うと、裕伸は小さな声で「ごめん」と謝った。
「いずれ、二人には言うつもりやけど、今は言われへん……ごめん、オレ……帰る」
佐井はそう言い残すと、足早に俺達の元から立ち去っていった。
「変なの……」
裕伸が、呟く。確かに変だ。「ワケあり」ってやつだという事は、なんとなく分かる。
その後、俺達も「なんだったんだろうな」と、首をかしげながら、それぞれの家路についたのだった。
二月が終わりに近付いて来た頃、ほとんどの教科で教科書の授業が全て終了した。こんなに早く終わってどうするのだろうと思っていたけど、残りの授業は受験対策プリントなんてものをするらしい。別に対策なんてもの、こんなに張り切ってしなくても、俺達が各自でやるのにな。教育って、わかんねえや。
神のまにまに、おとなしく教師に従うしかないのか……(今、俺の事、馬鹿だって思っただろ?)。
あの日から俺は密かに佐井の事を気にしている。別に変な意味じゃなくて、友達として、だけど。表面上はあいつ、いつもと変わらないんだけど、俺は知ってるんだ。授業中、うかない顔をして小さくため息ばかりついているのを。
なんかあったのかなあと首をかしげながら、俺は流れる時をただ過ごすのだ。
「なんかあったの?」と、こちらから聞くような馬鹿な事はしない。いくら俺みたいなアホでも、あいつがため息の理由を話したくないってことくらい分かるから。いつか、気が向いた時に、その気があるならポツリと教えてくれればいい。
そんなふうに思うことにしていた。お互いに刺激し合わないのが、ベストだって思ったんだ。それなのにある日の昼休み、裕伸が聞いてしまった。
「なあ、佐井ぃ、オマエ最近どうしちゃったんだ?」
俺はびっくりして、箸で挟んでいたタコさんウインナーを落としそうになった。こいつ、もうちょっと人に気を遣うとか、空気を読むとか、出来ないのかよ。
呆れた目つきで俺は裕伸を睨んだ。タコさんウインナーを口に放り込みながら睨んだせいか、全く気付かれなかった。
「ああ、いろいろあってな」
しかし佐井も、表情ひとつ変える事なくそう答える。こいつも、アホや。いや、アホだ。嫌なら無理に話さなくてもいいのに。どうも最近、佐井の関西弁が移ってしまったようだ。
「受験のことか!」
裕伸が、一口コロッケをつつきながら言った。カレー味のやつだ。俺も好きなやつ。
「そやけど、今、親父ともめててな……」
佐井がぼんやりと空中を見つめて話しはじめた。こいつ、もしかして聞いて欲しかったのかな。
「へえ!親父さん、こええのか?」
「こわいというか、自己チューというか。まあ、とにかくウザイ」
「差し支えなければ、その悩みをお聞かせたもう」
妙におどけた様子で、裕伸が言った。その言葉遣いが正しいのかどうかは、俺には分からないけど、空気読めよな。
「つかまつり候」
佐井、ノリ良すぎ。まぁ、これも合ってるのかは分からないけど、さすがは関西人だ。
「してお主は、なにゆえ悩んでおるのじゃ?」
ほらほら、裕伸が調子に乗り出した。でもおもしろいから、俺は黙っていることにする。
「父上は、『お前は工業高校に行け』と申すのじゃ」
俺の気の利いたはからいはなんだったんだろうと思うぐらい、どんどん佐井は不満を話し始めた。核心を突き始めたのはいいけど、時代劇もどきはいつまで続けるんだろうか。
「しかし、わしは、友達とおなじ普通科の高校に行きたいと言った。大学に行くつもりじゃからな。その瞬間、父上は『抜かせっ!』と怒鳴りたてまつられたのじゃ!」
もう、むちゃくちゃだ。真剣な話のはずなのに、おもしろすぎる。佐井は『友達とおなじ普通科の高校に行きたい』と言ったらしい。裕伸はサラッと流したが、俺はちょっと嬉しかった。……いや、めちゃくちゃ嬉しかった。
「それで父君と争っているわけじゃな?」
「その通りじゃ、裕伸殿」
ここで会話が途切れた。いや、しかし、話の内容のシリアスさを微塵も感じさせないおもしろさ。この二人が漫才をやったら、いいところまで行けるんじゃないだろうか。二人で漫才の学校に行けばいいのにと、俺は心の中で勝手に二人の進路を変えた。
「自分の人生に口出しされると、ムカつくよなあ」
ふざけながらも、ちゃんと話の内容を把握している点、裕伸はよく出来ている。だとすると、深刻なムードを避けるために、わざと裕伸はふざけたんだろうか。
「ほんまそれ! いや、父親の言い分も分かんねん。オレやって自分の家のことくらい、知っとるつもりやしな。親はオレに工業高校で技術を身につけて、はよ働いてほしいと思っとるみたいやけど、オレはオレの人生ってもんがあるやん。オレが将来やりたいことは今はたしかにないけど、おまえらと一緒の高校には行きたいからな。ワガママ通させてくれやって、正直思っとるよ」
佐井は、晴れ晴れとした表情になっていた。ずっと自分の中で燻っていた思いを口に出来たからだろうか。
「よっしゃ、オレ、頑張るわ。自分の言い分を貫き通してやるっ!」
「おっ!応援するぞ!」
裕伸がわざわざ身を乗り出して、佐井と握手を交わした。いいよな、男の友情は。俺、なんだか仲間外れだよ……。俺は落ち込む一方で、やっぱり佐井は話を聞いて欲しかったんだなと、やつのスッキリしたような表情を見て思った。
家の自分の部屋で、三平方の定理について調べるため、数学の参考書を読んでいる時だった。
突然、机の端に置いてあったスマホが鳴った。端末に手を伸ばすと、画面には佐井の名前が表示されていた。
「もしもし」
画面を押すなり、受話器の向こうから佐井の声がこれでもかとばかりに聞こえてきた。あまりに大きな声だったので、音割れをしていた。
「はい。そんなに叫ばなくても聞こえますよ」
「オレ、親父とケンカしてもうた!」
かなり慌てた佐井の声が、俺の耳に飛び込んできた。俺のからかいの言葉など、聞いてもいないようだった。
「はあ?」
そんなことでいちいち電話するなよと言いたかったけど、喉まで出かかったその言葉を飲み込んで、佐井の話を聞いてやろうと思い直す。
「親父とケンカ。もう、家の中がむちゃくちゃなんや。オレ、ハッとなった時にはリビングの様子が一変しとって……母親が、怪我してもうた……」
「それで、俺にどうしたらいいかって相談か?」
「そや。お前は他のやつらよりませてるし、なんか、相談に乗ってくれそうやったから。ゴメンな。……巻き込んでもて」
謝るくらいなら、初めから頼るなよ。
「いや、別にいいけど」
心とは裏腹なことを言う、お人好しな俺。
「オレ、なんか自分が家庭崩壊させてもたみたいで、オレが意地にならんかったらこんなこと起こらんかったのにって後悔してる」
「おいおい、家庭崩壊だなんて大袈裟だな」
「そやけど、ホンマにそんな感じなんや。お受験戦争って言うんかな」
いや、違うと思うぞ。親子げんかって言うんだろ。
「オレが投げたお茶碗で母親がおでこに怪我したし、オレが暴れたせいで親父が鼻血を出した。……オレ、サイテーやな。自分の親に手ぇ出すなんて」
「今、どこにいるんだ?」
「部屋。自分の」
「そっか。……何もお前だけが悪いんじゃないだろ?」
はあ……。もう、三平方の定理なんかどうでもいいや。佐井が心配だ。
「いや、オレが悪い。親父の言うことを黙って聞いとったらこんなことにはならなかったんやから」
「それ、本気で言ってんのか?」
「え?」
佐井の声が一オクターブ上がった。
「お前、裕伸と言ってなかったか?『自分の言い分を貫き通してやる』って」
「言うたで。でもその結果がこれや」
佐井がここまで自分を責めるなんて、だいぶやり合ったんだろうな。 親父さんと。
「あの決意がそれっぽっちのことで崩れるんだな」
俺も何言ってんだろ。佐井を励ますどころか、なんか攻めている感じがする。だけど、口から出る言葉は止まらない。
「自分の人生は、自分で決めるんじゃなかったのか?」
「そう思とったけど、やっぱり無理やわ。オレ、まだ未成年やもん」
「だからなんだってんだよ!!」
思わず、俺はそう怒鳴っていた。少し間を空けて、平常心を取り戻す。いつもとは違う、煮え切らない態度の佐井に腹が立っている自分に驚いて、ちょっと気まずくなった。
「ご、ごめん。だけどな、未成年だからとか、成人だからとか、そういうのは関係ないと思うぞ。歳がどうであれ、みんなおなじ人間なんだ。みんなそれぞれの道がある。誰にも真似出来ない、道がな」
自分で選んだ道だから、後悔したくない。
神戸の歌を歌った、俺の好きな歌手も別の曲で同じような事を歌っていた。俺もその歌のように、後悔はしたくない。そんでもって、みんなにも、自分だけの道を歩いていってほしい。
たかが十五歳のガキだけど、それが俺の考えだ。世間知らずもいいとこだなって、笑われても仕方ないかもしれない。でも、俺はそう言われても気にしない。世間知らずなのは百も承知だから。
「……そっか、そうやんな」
電話の向こうから安堵のため息が聞こえた。
「巽の言う通りや。オレも未成年やけど、そんな事で自分の道を諦めたくない。親に謝って、頼み込むわ。……やっぱ、お前に相談して良かった。サンキューな。……じゃ、明日学校で」
「頑張れよ」
俺がそう言うと、電話は切れた。部屋に再び静寂が訪れる。これで良かったのかな。なんか、自分の考えを押し付けたみたいなだけのような気がしないでもない。
まあ、いっか。
時計を見ると、九時を過ぎたところだった。スマホをベッドに放り投げて、うんと背伸びをする。
俺も、頑張らなきゃな……。
数学と理科。最大の苦手科目である、この二つは特に。
次の日、学校へ行くと、門の所で佐井に出くわした。お互いにはにかんだような笑みを見せあって、並んで歩きはじめた。
「どうだった?」
「オレ」
同時に言って、また照れくさくなる。
「オレ、許してもらった」
そう言う佐井は、満面の笑顔だった。
「普通科の高校、受けさせてもらえる。オレ、最初は感情的になって、大変なことやらかしてもたけど、土下座までして頼み込んでん。オレがあんなんになって、親もだいぶびびっとったけど、それくらいオレが本気なんやなって分かってくれた。どうしても昨日までに決着をつけんとあかんかったから、オレも必死で。……今日までやもんな、志願変更」
「そうだっけ」
俺は志願変更なんかするつもりなかったから、そんなもの知らない。
「巽と裕伸が行く高校にする。高校行ってもよろしくな!」
「その前に卒業して、受験に合格しなきゃ」
俺の言葉に、二人はケラケラと笑ったら、朝から何を笑っているんだと言わんばかりの視線を感じた。
「おはよう!」
教室に入ると、裕伸が駆け寄ってきた。何も知らない彼を見て、俺と佐井はまた笑った。
なんだか無性におかしい。
「な、なんだよ」
不思議そうに言う裕伸。だけど、教えてあげない。昨日のことは、俺と佐井の、二人だけの秘密だから。
「別に何もないよ」
そう言う俺を、裕伸は一瞥した。なんだよ、その目。
「裕伸はやっぱり、殿様みたいやな!」
「はあ?」
佐井が上手いこと話をそらした。
これからも、俺たち三人はずっとこんな調子なんだろう。だけど、それでいい。それが、楽しいから。
世の中には、変わらなければならないものもあるけど、それと同じくらい、変わらなくていいものも沢山ある。
三人が変わらず一緒にいるためには、まず受験勉強を頑張らなきゃ。
これからが、最後の勝負だ。きっとみんな、気合いを入れまくっているはずだから、俺だって何がなんでも負けられない。
未来のために。
自分のために。俺は負けず嫌いだから。
お受験戦争。みんなが栄光をつかみとれますように。ん? みんなが勝ったら戦争じゃなくなるな。まあ、細かい事は気にしない。
学問の神様も言ってるじゃん。
神のまにまに。
頑張れば、きっと報われるさ。
窓際の一番後ろ。卒業まであと二ヶ月と迫ったこの時期に、俺は『最高』の席に当たった。
窓の外の景色を眺め、先生の喋り声を子守歌に…………とはいかなくて、昼過ぎ、昼食を食べ終えた頃をピークに迫り来る睡魔と闘いながら、授業を聞くのだ。
『最高』の席だろ?
運のない自分に、つくづく呆れちゃうよ……。まぁ、廊下側の寒い席よりいいけどねと、せめてもの負け惜しみを呟いてみると、少しだけ気が紛れた。
「おはよ~、巽!」
中学三年にしては甲高い少年の声が、教室の入口から聞こえてきた。俺を名指しで挨拶してくる奴は、一人しかいない。朝からなんでそんなにテンションが高いんだよと、俺が呆れながら声がした方を向くと、そこにいたのは案の定、友人の佐藤裕伸だった。
「転校生……」
「知ってるから」
俺は何かを言いかけた裕伸の言葉を、苛立った声で遮った。
「ふっえぇ!」
裕伸がよく分からない奇声を発し、わざとらしく驚いてみせる。
「さっすが巽!情報がはえーな!!」
目を丸くして言う裕伸を、俺は冷めた目で見つめた。
「眠いから黙っててくれ」
どんなにそっけない態度をとっても、彼は怒ったりせず、しつこいほどに接してくる。根が優しいからなのか、ただ単に鈍感なだけなのか、それは俺も分からない。現に、今もそうだ。黙っててくれと頼んだはずなのに、懲りずに彼は話しかけてきた。
「じゃ、巽、これは知ってるか?」
机に突っ伏そうとした俺を無理矢理引き上げ、裕伸はニヤッと笑った。
「はいはい。『神のまにまに』だろ」
めんどくさい。俺は全力でその感情を表現した口調で呟いた。
『神のまにまに』
一見わけのわからないこの言葉は、今このクラス、いや、学年中で流行っている言葉だ。
『このたびは ぬさもとりあへず 手向山 もみぢのにしき 神のまにまに』という、百人一首にも選ばれている菅原道真の句からきている。
「神のまにまに」は、「神のみこころのままに」という意味らしい。去年、学年行事で百人一首大会なるものを行った時、なぜか一部の生徒にこの句が大受けして、『神のまにまに』という部分だけが一人歩きし、日常生活の会話に使われるようになったというわけだ。
学校という組織に所属していると、どうしてこんなどうでもいいようなことばかりが定期的に流行るのだろうか。ついこのあいだまでは、ショート動画を撮影するために、男子も女子も、禁止されているはずのスマホを持ち込んで、至るところで撮影をしていた。隣のクラスの一派が先生に見つかって、スマホを没収される事件が起こったあとはそのブームは急速に廃れたが、今度は校則にも違反していない別のものが流行りはじめた、というわけだ。
「ばーか!違うよ」
俺の思いなどつゆ知らず、裕伸は笑いながらそう言った。まあ、確かに違うか。会話の流れからして、『神のまにまに』は明らかにおかしいもんなと、俺は思い直した。
「じゃ、なんなんだよ……」
俺はいかにもくだらないというような態度で聞いたが、本心では気になっていた。「早く教えろよ」と言いたい衝動をぐっとこらえ、裕伸の顔を見た。
「その転校生、関西人なんだって!」
「ふうん……」
あくまでも興味が無いというふりをした俺の頭に、たこ焼きが現れた。俺にとっては関西といえば、たこ焼きというイメージしかないのだ。
「本場の関西弁が聞けるんだな!まさに『神のまにまに』だぜ!」
結局シメはそれですか、裕伸くん。どうやら神のみこころのままに関西弁を聞くらしい。意味が分からねえよ。
チャイムが鳴って、裕伸がいそいそと自分の席に戻っていった後、しばらくして、担任の中井が教室に顔を見せた。二十代半ばの彼は、生徒からも人気のある優しい教師だ。茶色がかった髪を短く整えて、今日も黒いスーツ姿で現れた。
「おはようございます!」
号令がかかり、ホームルームが始まった。いつも以上に、クラス中の視線が中井に注がれる。中井はいつもと同じように長々と話をしている。それが焦れったい。
ホントに転校生なんかいるのだろうかと、クラス中が思い始めた時だった。
「じゃあ、みんなも薄々気付いているかもしれないけれど、転校生を紹介するぞ」
中井がそう言って扉に駆け寄り、外にいる誰かに声をかけた。
「入ってきなさい」
視線が扉に集まる。これほどに注目される今日の扉。あれに感情があれば、今頃赤面しているだろう。しかし、注目しているのは扉なんかではないということに、気付いてほしい。
あぁ、神のまにまに。……ごめんなさい。
転校生の足が、教室と廊下の境界線を跨ぎ、俺達のクラスに入ってきた。転校生は、男だった。俺が抱いた転校生への第一印象は、「背ェたけぇ!」多分、俺より頭一つ分大きいだろう。いや、もうちょっとかな。少し緊張した面持ちで、奴はこちらを向いた。緊張しているのにうつむかないんだなと思って、ちょっと感心する。
「神戸から、こっちへやってきました、佐井祐介です。」
奴は、中井が黒板に名前を書くのと合わせて、しっかりとした大きな声で、そう言った。こうべ……確か、好きな曲の歌詞に出てくる場所だな。俺は自分が好きなアーティストの曲を連想した。女の人が、駄目だと分かっていても、男に恋心を抱いてしまうという歌だ。それにしてもあいつ、すごく遠い所からやってきたんだなと、俺は思った。
「佐井君は、ご両親の仕事の都合でこちらにやってきた。卒業まであと少ししかないが、みんな仲良くするんだぞ!」
中井が笑みを浮かべてそう言った。
「じゃ、佐井君、あそこの空いてる席に座ってくれ」
「あそこの空いてる席」って、俺の隣じゃん!
通路を挟んだ隣の席しか、このクラスに空いている席はない。つまり、俺がどう言おうとも(別に何も言わないけど)、必然的に奴の席は俺の隣になるのだ。ゆっくりと、佐井がこちらにやってくる。もはやクラス中の視線が彼の動向に注目していた。奴は今、どんな気持ちで歩いているのだろうか。周りの注目を浴びて、だけど何も言えなくて。恥ずかしいだろうな。俺だったら耐えられないかもしれないな。
一時間目が終わった後の休み時間、佐井は転校生恒例の質問攻めに合った。もちろん、俺も輪の中に入り、話を聞いていた。
「どこから来たの?」と、もう分かりきった質問をする女子生徒にも、佐井は笑顔で答えていた。
「神戸はな、ええとこやで!オレが住んどったところは、山と海に挟まれとって、どっちも近くにあるから、なんか得した気分になるねん。それでな、方角を言うとき、北、南やなくて、山側、海側って言うほうが伝わるねん」
聞かれていないことまで饒舌に喋っている佐井の顔を見ていると、俺にはもう彼がクラスに馴染んだかのようにも見えた。
「神のまにまにやな!」
突然、裕伸が下手な関西弁でボケた。いきなり何を言ってんだよ、空気読めよと俺は裕伸を睨んだが気付かれなかった。佐井が一瞬、戸惑ったような表情をしたが、すぐに「あぁ!菅原道真の句やんな?」と、裕伸を見た。
「おっ、キミ、なかなか物知りだな!」
裕伸が嬉しそうな顔をする。
「おい巽、オマエより偉いんじゃね?」
裕伸に言われて、俺は思わず「うっせぇ!」とムキになってしまった。
卒業まで、あと二ヶ月。たった二ヶ月しかないけれど、そのあいだに俺はこの佐井祐介ってやつと仲良くなれそうな気がした。
佐井が転校してきてから一週間が経ったある日の事。
陽が長くなってきたグラウンドで、俺は風を浴びていた……なんて、カッコつけてみたけど、裕伸や佐井と一緒にグラウンドの片隅にしゃがみ込んで、運動部のやつらの練習風景を見ているだけだ。夏までは、俺たちもあの輪の中に入っていた。部活を引退して、いよいよ受験一色モードに差し迫ったときのことは今でもよく覚えている。後輩たちが部活に勤しむ姿を見ていると、もうあそこには戻れないんだなあと、ちょっと寂しくなったりもする。
「なあ、お前ら、高校どうするんや」
正面から当たってくる冷たい風に、佐井は目を細めた。
「どうするって……行くけど」
裕伸が佐井を振り返った。俺もついでにうなずいてみた。
「そりゃそうやけど、どこの高校行くん?……オレ、まだこのへんのこと分からんから正直悩んでるんや」
「佐井は前の学校で成績どれくらいだった?」と、俺は聞いてみた。決していいアドバイスが出来るという保証はないけれど少しでも役に立てたらいいなと思ったのだ。
「ああ、まあ、そこそこってとこやな。中の上ぐらい」
そう言うと佐井は、苦笑いを浮かべた。
「神戸って、どんなところか知らないけど、地域ごとに頭の善し悪しが分かれているわけじゃないから、ここでもそこそこの高校行けるんじゃないか?」
こんなのアドバイスじゃねえなと、言いながら俺は思った。
「そこそこだったら、俺らの行く高校でいいじゃん。せっかく仲良くなったんだし、この友情が二ヶ月ぽっちで終わっちまうなんて、なんか勿体ないだろ」
突然、裕伸が口を挟んだ。ちなみにやつが今、「行く」と断言したのは、やつはもう推薦で合格しているからだ。俺もまぁ、そこに行くつもりだけど、一般入試はまだなんだよな。
今はもう、受験までラストスパートって感じ。俺も推薦入試にしていれば、裕伸のようにちょっとした優越感に浸れたのかなと思うと、少しだけ悔しくなった。
「……裕伸の言葉はうれしいんやけどな」
なぜか、佐井は言葉を濁らせた。
「どうかしたのか?」
裕伸が佐井のうつむきがちな顔を、覗き込むように見た。
「あ、いや……」
「言いたくないなら言わなくていいだろ。 裕伸も、聞くな」
これが助け船を出すってやつかな。俺が言うと、裕伸は小さな声で「ごめん」と謝った。
「いずれ、二人には言うつもりやけど、今は言われへん……ごめん、オレ……帰る」
佐井はそう言い残すと、足早に俺達の元から立ち去っていった。
「変なの……」
裕伸が、呟く。確かに変だ。「ワケあり」ってやつだという事は、なんとなく分かる。
その後、俺達も「なんだったんだろうな」と、首をかしげながら、それぞれの家路についたのだった。
二月が終わりに近付いて来た頃、ほとんどの教科で教科書の授業が全て終了した。こんなに早く終わってどうするのだろうと思っていたけど、残りの授業は受験対策プリントなんてものをするらしい。別に対策なんてもの、こんなに張り切ってしなくても、俺達が各自でやるのにな。教育って、わかんねえや。
神のまにまに、おとなしく教師に従うしかないのか……(今、俺の事、馬鹿だって思っただろ?)。
あの日から俺は密かに佐井の事を気にしている。別に変な意味じゃなくて、友達として、だけど。表面上はあいつ、いつもと変わらないんだけど、俺は知ってるんだ。授業中、うかない顔をして小さくため息ばかりついているのを。
なんかあったのかなあと首をかしげながら、俺は流れる時をただ過ごすのだ。
「なんかあったの?」と、こちらから聞くような馬鹿な事はしない。いくら俺みたいなアホでも、あいつがため息の理由を話したくないってことくらい分かるから。いつか、気が向いた時に、その気があるならポツリと教えてくれればいい。
そんなふうに思うことにしていた。お互いに刺激し合わないのが、ベストだって思ったんだ。それなのにある日の昼休み、裕伸が聞いてしまった。
「なあ、佐井ぃ、オマエ最近どうしちゃったんだ?」
俺はびっくりして、箸で挟んでいたタコさんウインナーを落としそうになった。こいつ、もうちょっと人に気を遣うとか、空気を読むとか、出来ないのかよ。
呆れた目つきで俺は裕伸を睨んだ。タコさんウインナーを口に放り込みながら睨んだせいか、全く気付かれなかった。
「ああ、いろいろあってな」
しかし佐井も、表情ひとつ変える事なくそう答える。こいつも、アホや。いや、アホだ。嫌なら無理に話さなくてもいいのに。どうも最近、佐井の関西弁が移ってしまったようだ。
「受験のことか!」
裕伸が、一口コロッケをつつきながら言った。カレー味のやつだ。俺も好きなやつ。
「そやけど、今、親父ともめててな……」
佐井がぼんやりと空中を見つめて話しはじめた。こいつ、もしかして聞いて欲しかったのかな。
「へえ!親父さん、こええのか?」
「こわいというか、自己チューというか。まあ、とにかくウザイ」
「差し支えなければ、その悩みをお聞かせたもう」
妙におどけた様子で、裕伸が言った。その言葉遣いが正しいのかどうかは、俺には分からないけど、空気読めよな。
「つかまつり候」
佐井、ノリ良すぎ。まぁ、これも合ってるのかは分からないけど、さすがは関西人だ。
「してお主は、なにゆえ悩んでおるのじゃ?」
ほらほら、裕伸が調子に乗り出した。でもおもしろいから、俺は黙っていることにする。
「父上は、『お前は工業高校に行け』と申すのじゃ」
俺の気の利いたはからいはなんだったんだろうと思うぐらい、どんどん佐井は不満を話し始めた。核心を突き始めたのはいいけど、時代劇もどきはいつまで続けるんだろうか。
「しかし、わしは、友達とおなじ普通科の高校に行きたいと言った。大学に行くつもりじゃからな。その瞬間、父上は『抜かせっ!』と怒鳴りたてまつられたのじゃ!」
もう、むちゃくちゃだ。真剣な話のはずなのに、おもしろすぎる。佐井は『友達とおなじ普通科の高校に行きたい』と言ったらしい。裕伸はサラッと流したが、俺はちょっと嬉しかった。……いや、めちゃくちゃ嬉しかった。
「それで父君と争っているわけじゃな?」
「その通りじゃ、裕伸殿」
ここで会話が途切れた。いや、しかし、話の内容のシリアスさを微塵も感じさせないおもしろさ。この二人が漫才をやったら、いいところまで行けるんじゃないだろうか。二人で漫才の学校に行けばいいのにと、俺は心の中で勝手に二人の進路を変えた。
「自分の人生に口出しされると、ムカつくよなあ」
ふざけながらも、ちゃんと話の内容を把握している点、裕伸はよく出来ている。だとすると、深刻なムードを避けるために、わざと裕伸はふざけたんだろうか。
「ほんまそれ! いや、父親の言い分も分かんねん。オレやって自分の家のことくらい、知っとるつもりやしな。親はオレに工業高校で技術を身につけて、はよ働いてほしいと思っとるみたいやけど、オレはオレの人生ってもんがあるやん。オレが将来やりたいことは今はたしかにないけど、おまえらと一緒の高校には行きたいからな。ワガママ通させてくれやって、正直思っとるよ」
佐井は、晴れ晴れとした表情になっていた。ずっと自分の中で燻っていた思いを口に出来たからだろうか。
「よっしゃ、オレ、頑張るわ。自分の言い分を貫き通してやるっ!」
「おっ!応援するぞ!」
裕伸がわざわざ身を乗り出して、佐井と握手を交わした。いいよな、男の友情は。俺、なんだか仲間外れだよ……。俺は落ち込む一方で、やっぱり佐井は話を聞いて欲しかったんだなと、やつのスッキリしたような表情を見て思った。
家の自分の部屋で、三平方の定理について調べるため、数学の参考書を読んでいる時だった。
突然、机の端に置いてあったスマホが鳴った。端末に手を伸ばすと、画面には佐井の名前が表示されていた。
「もしもし」
画面を押すなり、受話器の向こうから佐井の声がこれでもかとばかりに聞こえてきた。あまりに大きな声だったので、音割れをしていた。
「はい。そんなに叫ばなくても聞こえますよ」
「オレ、親父とケンカしてもうた!」
かなり慌てた佐井の声が、俺の耳に飛び込んできた。俺のからかいの言葉など、聞いてもいないようだった。
「はあ?」
そんなことでいちいち電話するなよと言いたかったけど、喉まで出かかったその言葉を飲み込んで、佐井の話を聞いてやろうと思い直す。
「親父とケンカ。もう、家の中がむちゃくちゃなんや。オレ、ハッとなった時にはリビングの様子が一変しとって……母親が、怪我してもうた……」
「それで、俺にどうしたらいいかって相談か?」
「そや。お前は他のやつらよりませてるし、なんか、相談に乗ってくれそうやったから。ゴメンな。……巻き込んでもて」
謝るくらいなら、初めから頼るなよ。
「いや、別にいいけど」
心とは裏腹なことを言う、お人好しな俺。
「オレ、なんか自分が家庭崩壊させてもたみたいで、オレが意地にならんかったらこんなこと起こらんかったのにって後悔してる」
「おいおい、家庭崩壊だなんて大袈裟だな」
「そやけど、ホンマにそんな感じなんや。お受験戦争って言うんかな」
いや、違うと思うぞ。親子げんかって言うんだろ。
「オレが投げたお茶碗で母親がおでこに怪我したし、オレが暴れたせいで親父が鼻血を出した。……オレ、サイテーやな。自分の親に手ぇ出すなんて」
「今、どこにいるんだ?」
「部屋。自分の」
「そっか。……何もお前だけが悪いんじゃないだろ?」
はあ……。もう、三平方の定理なんかどうでもいいや。佐井が心配だ。
「いや、オレが悪い。親父の言うことを黙って聞いとったらこんなことにはならなかったんやから」
「それ、本気で言ってんのか?」
「え?」
佐井の声が一オクターブ上がった。
「お前、裕伸と言ってなかったか?『自分の言い分を貫き通してやる』って」
「言うたで。でもその結果がこれや」
佐井がここまで自分を責めるなんて、だいぶやり合ったんだろうな。 親父さんと。
「あの決意がそれっぽっちのことで崩れるんだな」
俺も何言ってんだろ。佐井を励ますどころか、なんか攻めている感じがする。だけど、口から出る言葉は止まらない。
「自分の人生は、自分で決めるんじゃなかったのか?」
「そう思とったけど、やっぱり無理やわ。オレ、まだ未成年やもん」
「だからなんだってんだよ!!」
思わず、俺はそう怒鳴っていた。少し間を空けて、平常心を取り戻す。いつもとは違う、煮え切らない態度の佐井に腹が立っている自分に驚いて、ちょっと気まずくなった。
「ご、ごめん。だけどな、未成年だからとか、成人だからとか、そういうのは関係ないと思うぞ。歳がどうであれ、みんなおなじ人間なんだ。みんなそれぞれの道がある。誰にも真似出来ない、道がな」
自分で選んだ道だから、後悔したくない。
神戸の歌を歌った、俺の好きな歌手も別の曲で同じような事を歌っていた。俺もその歌のように、後悔はしたくない。そんでもって、みんなにも、自分だけの道を歩いていってほしい。
たかが十五歳のガキだけど、それが俺の考えだ。世間知らずもいいとこだなって、笑われても仕方ないかもしれない。でも、俺はそう言われても気にしない。世間知らずなのは百も承知だから。
「……そっか、そうやんな」
電話の向こうから安堵のため息が聞こえた。
「巽の言う通りや。オレも未成年やけど、そんな事で自分の道を諦めたくない。親に謝って、頼み込むわ。……やっぱ、お前に相談して良かった。サンキューな。……じゃ、明日学校で」
「頑張れよ」
俺がそう言うと、電話は切れた。部屋に再び静寂が訪れる。これで良かったのかな。なんか、自分の考えを押し付けたみたいなだけのような気がしないでもない。
まあ、いっか。
時計を見ると、九時を過ぎたところだった。スマホをベッドに放り投げて、うんと背伸びをする。
俺も、頑張らなきゃな……。
数学と理科。最大の苦手科目である、この二つは特に。
次の日、学校へ行くと、門の所で佐井に出くわした。お互いにはにかんだような笑みを見せあって、並んで歩きはじめた。
「どうだった?」
「オレ」
同時に言って、また照れくさくなる。
「オレ、許してもらった」
そう言う佐井は、満面の笑顔だった。
「普通科の高校、受けさせてもらえる。オレ、最初は感情的になって、大変なことやらかしてもたけど、土下座までして頼み込んでん。オレがあんなんになって、親もだいぶびびっとったけど、それくらいオレが本気なんやなって分かってくれた。どうしても昨日までに決着をつけんとあかんかったから、オレも必死で。……今日までやもんな、志願変更」
「そうだっけ」
俺は志願変更なんかするつもりなかったから、そんなもの知らない。
「巽と裕伸が行く高校にする。高校行ってもよろしくな!」
「その前に卒業して、受験に合格しなきゃ」
俺の言葉に、二人はケラケラと笑ったら、朝から何を笑っているんだと言わんばかりの視線を感じた。
「おはよう!」
教室に入ると、裕伸が駆け寄ってきた。何も知らない彼を見て、俺と佐井はまた笑った。
なんだか無性におかしい。
「な、なんだよ」
不思議そうに言う裕伸。だけど、教えてあげない。昨日のことは、俺と佐井の、二人だけの秘密だから。
「別に何もないよ」
そう言う俺を、裕伸は一瞥した。なんだよ、その目。
「裕伸はやっぱり、殿様みたいやな!」
「はあ?」
佐井が上手いこと話をそらした。
これからも、俺たち三人はずっとこんな調子なんだろう。だけど、それでいい。それが、楽しいから。
世の中には、変わらなければならないものもあるけど、それと同じくらい、変わらなくていいものも沢山ある。
三人が変わらず一緒にいるためには、まず受験勉強を頑張らなきゃ。
これからが、最後の勝負だ。きっとみんな、気合いを入れまくっているはずだから、俺だって何がなんでも負けられない。
未来のために。
自分のために。俺は負けず嫌いだから。
お受験戦争。みんなが栄光をつかみとれますように。ん? みんなが勝ったら戦争じゃなくなるな。まあ、細かい事は気にしない。
学問の神様も言ってるじゃん。
神のまにまに。
頑張れば、きっと報われるさ。



