コーヒーが冷めるまで、謎は置いておく

 カウンターの上に置かれた破片は、今なお、沈黙を守っているように見えた。

 白い磁肌に走る、鋭い断面。
 その縁に残る金彩だけが、無言のまま事実を告げている。

 陶器のはずなのに、それはまるで肉を裂いた傷口のようだった。
 俺はそれを見下ろしながら、ようやく気づいた。

 この事件は、もう「俺の仕事」の内側に踏み込んでしまっているのだ、と。

 喫茶店は、ただの場所ではない。
 人が、気持ちを置きにくる場所だ。
 傷を抱えたまま入ってくる人もいれば、行き場をなくして辿り着く者もいる。

 それでも――俺は、この場所を“逃走禁止区域”にはしたくなかった。
 誰に対しても、だ。

「真壁」
 名を呼ぶ声が、自分のものとは思えないほど遠かった。
「……俺はさ」

 言葉が、ひどく重い。

「この店に、事件が持ち込まれるなんて思ってなかった」
 真壁は黙っている。
「……佐々木さんのこと……普通の客だと思ってた。
 話しやすくて、ちょっと不器用で……ただの、常連候補だって」

 短く、息を吐く音。

「――思っていた、じゃないな」
 真壁は淡々と、訂正した。
「思いたかった。……違うか」

 胸の奥に、鈍い痛みが走る。

「新しい店の話を振ったとき、骨董の話をしたとき、“無くしたもの”の話に逸らされたとき。お前は、違和感を感じていた」

 破片を見つめたまま、俺は動けなかった。

「それでも無視した」
「……無視、じゃない」

 思ったより、低い声が出た。

「……信じたかったんだ」
 視線を上げる。

「客を犯人だと決めつけたまま、コーヒーなんて出せないだろ」
 唇が、わずかに震えた。
「そんなことした瞬間……俺は、この店を壊す」

 言葉に、少しだけ力を込める。

「……それに。
 俺は、人を信じていたい」

 真壁がこちらを向いた。
 その目は、驚くほど冷たかった。

「感情論だ」
「分かってる」
 その言葉を返したあと、俺は何も言えなくなった。
 代わりにミルに手をかけた瞬間、わずかに指が震えた。

 ――落ち着け。

 豆を挽く音が、妙に大きく店内に響く。
 いつも通りのはずの手つきが、今日はどこかぎこちない。

 フィルターに粉を移しながら、息を整える。
 これは、客のための一杯じゃない。
 自分のための、区切りだ。

 湯を注ぐと、白い泡がゆっくりと膨らんだ。
 まるで胸の奥に溜まった何かが、浮かび上がるように。

 この店で、人を疑うということ。
 それが、何を壊すのか。
 それでも、逃げずに踏み込むなら。

 俺は、もう「店主」でいるしかない。

 カップを置く音が、やけに静かに響いた。

「感情論だ」
 真壁が、もう一度言う。
「だが……」

 一拍、置いて。

「逃げではない」
 俺は、顔を上げた。

「……俺は」
 喉が鳴る。
「……佐々木さんが嘘をついてるなら……俺の店で、俺が、直接確かめる」

 口にした瞬間、覚悟は引き返せないものになった。

「お前自身が裁かれる覚悟か」
「違う」
 
 首を振る。

「……確かめるだけだ」
 壊れた事実を、暗いところに押し込めない。
「……知らないふりで、店を開ける方が……俺には、よっぽど、罪だ」

 しばらく沈黙が落ちた。
 秒針の音だけが、異様に大きく聞こえる。

「……やはり、お前は事件向きじゃない」
 真壁は低く言った。
「感情が邪魔をする」

 だが――。

「……だが」
 一拍。
「店主には、向いている」

 胸の奥が一気に熱くなった。

「俺より、客に誠実だ。
 論理より、人間を見ている」

「お前に言われると、妙に効くな」
「事実だからな。
 ……だから、俺は隣にいる」

 目を逸らしながら紡がれる不器用な、その一言になぜか救われた気がした。

「お前が“場”を張れ」
「……」
「俺は、“真実”を張る」

 カウンターの上で、割れた陶器が淡く光った。

「……これはもう、共犯だろ」
「違う」

 即座に否定される。

「共同責任だ」

 静かだが、確かな声。

「どちらかが壊れても……もう片方が立っていれば、勝ちだ」

 それは初めて聞く、真壁なりの“信頼”の形だった。

 俺は、スマホを握る。
 画面に浮かぶ、佐々木の名前。

「……呼ぶよ」
「それでいい」
「――“被害者の店”じゃなく」
「……」
「“店主の場所”で、決着をつけろ」

 指先が、わずかに震えた。
 呼び出し音が、鳴る。

 二コール。
 三コール。

「……あ、癒川さん?」

 聞き慣れた声。

「夜分に、すみません」
 息を、一度整える。
「……少し、店で、話しませんか」

 電話を切る。

 カウンターの向こうで、真壁が立っている。

「……呼んだ」
「聞こえていた」

 だが、その表情は――いつも以上に厳しい。

「さあ、開廷といこう」

 二人、並んで立つ。

 同じ店にいて、立っている場所は違う。

 それでも、今だけは同じ側だった。