インターハイ地区予選大会、決勝戦。
 その日、予定よりもだいぶ早く目覚めてしまった俺は、軽く汗でもかこうかと、まだ薄暗い朝のグラウンドへ早朝ランニングに出かけた。
 緑に囲まれた俺たちの高校のグラウンドは、この時間帯は湿った大気の匂いが甘くて清しい。
 酸素濃度の濃い空気を胸いっぱいに吸い込みながら、ゆっくりと何周かジョグでまわっていると、ふと誰かがこちらに近づいて来るのが目に入った。
(……あ)
「内海!」
 どうやら実際の太陽が昇る前に、先に我らが地上の太陽がお目見えしてしまったようだ。
「空木先輩、どうしてここに?」
「きっと内海と同じ理由だと思うぞ!」
 こんな人でも、緊張で朝早く目が覚めてしまうことがあるのだろうか?
「そうでしたか。先輩も早く……」
「昨日は緊張しすぎて、一睡もできなかったんだ!」
 まさかのオールナイト!
「えっ! ちょっと先輩大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。体はちゃんとさっきまで布団で休めていたからな。頭はどうせいつも使い物になっていないから問題はない!」
「そういう問題じゃないでしょうが! ボーッとしてふらついたりとか……」
「心配するな。アドレナリンはギンギンに出ているっぽいから、レースの間は死んでも持たせる。終わったらぶっ倒れるかもしれんから、その時は骨だけでも拾ってくれ」
 いつも通りの明るい口調だが、どうにも自虐がいつも以上に多いのが気になった。
 よく見ると、にっこり作った笑顔の下で、先輩の指先が微かに震えているのが見えた。
(あ……)
 この人、今本当に緊張してるんだ。
(そりゃあそうか……)
 今日のレースでもし上位三校に入れたら、俺たちは県大会への出場切符を得ることになる。インターハイ、全国大会はまだまだ遥か先だが、一つの大会を勝ち抜いて次に進めるというだけでも、十分誇らしいことである。そしてそれが、三年間ずっと夢見てきたチーム戦で叶うかもしれないのだ。
(……勝ちたいな)
 勝ちたい。勝たせてやりたい。このただひたすらに純粋で真っ直ぐな、俺たちの太陽を。
「大丈夫。緊張の仕方は人によって様々だ。俺はたまたま寝られなかったが、他の選手たちもきっと何かしらの緊張トラブルと戦っているはずだ。腹を下すやつもいるだろうし、早く目が覚めてしまったやつもいることだろう」
 それは俺のことです、先輩。
「それから、いまだに過去に囚われていて、真っ直ぐ走れないやつとか」
 俺が思わず顔を上げると、先輩はクマのできた目元を細めて、じっと俺のことを見ていた。
「俺のところまで真っ直ぐ走って来い。脇目なんか振らないで。そしたら左右の白線なんか怖くないだろう?」
 この人のおかげで、俺はトラックを真っ直ぐ走ることができる。じゃあどうすれば、この人の手の震えを止めてやることができる?
「……俺はもう、肝心なところで逃げません」
 そう決意を込めて伝えると、先輩はちょうど今登ってきた太陽と同じくらい明るくにっこりと笑った。

 当初の予想通り、やはり決勝戦の緊張感は半端なかった。
 残っているのは県大会出場常連校や、部活に力の入ってるような高校ばかりで、応援の力の入り方が予選とはまるで違っていた。
(まぁ、そもそもうちはスタメンすら助っ人でまかなってるような部だし、応援がいないのなんて最初から分かりきってることなんだけど……)
「内海!」
 聞き覚えのある声にぎょっとして振り返ると、応援席の方から高丘がこちらに向かって大きく手を振っていた。
「えっ、あれっ? あっそうか、お前もそういえば陸上部……」
「そうだけど、今日は内海の応援に来たんだよ」
「ええっ? 何で?」
「俺、昨日の決勝戦で県大会出場決まったんだ。1500メートル走の方で。で、今日は同じ部活のリレーメンバーの応援に来てる」
「それ別に俺の応援じゃないじゃん」
「リレーのやつらとは仲悪いから、内海のチームを応援するよ」
「なんじゃそりゃ」
 思わず吹き出すと、高丘も嬉しそうにあははっと笑った。
「……でも本当は、できれば1500の方で一緒に走りたかった」
 彼の中では、あの事件はすでに過去のものとなっているのだ。許すのだってかなりの労力が必要だったはずなのに、こいつはそれができるだけの器を持っていたということなのだろう。
 眩しいものを見せつけられているようで、俺は思わず高丘から視線を逸らしていた。綺麗なものと並べられると、自分の醜さがより際立つようで、いたたまれない気持ちになった。
「……ありがとう。でも、俺はまだ……」
「内海、何やってんだ! 早くこっち来い!」
 空木先輩に大声で呼ばれて、俺はビクッと飛び上がると、慌てて高丘に背を向けてその場から逃げるように走り去った。1500と真正面から向き合う勇気は、まだ持てずにいる。
(そうだ。今は、ただ……)
 ただ、この大舞台で、白線の間を真っ直ぐ走り抜けるだけ。今はまだ、それだけできれば十分だろう。

 パアン! と号砲が鳴った瞬間、一走の選手たちが一斉に飛び出してくる。
 今日の早良も抜群のスタートダッシュを決めていた。一年のくせに恐ろしいほど肝が座っている。
「ハイッ!」
 バトンパスもピッタリ噛み合っている。しかしやはり決勝戦だ。予選ほどトントン拍子にはいかず、俺にバトンが回ってきた時、鷹野先輩はかなり順位を落としてしまっていた。
(当然だ。決勝まで残ってるような学校のエースどもと戦ってるんだからな)
「ハイッ!」
 それでも諦めるつもりは微塵もない。
 バトンパスは完璧。鷹野先輩は速度を落とさず、俺は最高速度に達した最高のタイミングでバトンをもらえた。このままカーブに突っ込んでいく。
 隣のレーンの選手に並んだ瞬間、一瞬あの日の情景が目の前に蘇った。
(……いや、あの時、押されたことにしたかった俺は、もうここにはいない)
 隣の選手を抜くのと同時に、過去の情景が霧が晴れるようにさあっと消えていき、その向こうに空木先輩の姿がはっきりと見えた。
 カーブから直線に突入する。あともう少し。心臓と肺をフル稼働させ、これ以上ないくらい手足を激しく動かして、俺のゴール――空木先輩の腕へと、ロケットのように突っ込んで行く。
 ゴールが間近に迫った時、再び左側の白線が、俺の意識を引きつけようとした。
 左側の白線と、目の前の太陽。どっちの引力の方が強い?
(そんなの、太陽の方が強いに決まってんだろ!)
「ハイッ!」
 勢い余って声が裏返ったが、そんなことは全く気にならなかった。強い引力に引っ張られて、俺は空木先輩の腕に飛び込むように、思いっきり彼の右手にバトンを押し込んだ。
 彼が100メートル先のゴールに向かって離れて行っても、引力の余韻は残ったままだった。
 俺がふらふらと歩いている間に、とっくに全てのアンカーはゴールして、県大会への出場校が決定していた。
 しかし結果なんかどうでも良かった。今、俺にとって重要なことは、そんな些細なことなどではなかったのだ。
 空木先輩の背中が見える。小さく肩で息をしながら、激しく酷使した心臓を落ち着けるかのように、ゆっくり小走りで前へ進んでいる。
 まるで引力に引き寄せられるかのように、俺はジリジリと先輩の背後に近づいて行くと、いきなり後ろからガバッと抱きついた。
「うおっ!」
 初めて出会った日、先輩に後ろから抱きつかれた俺は、かろうじて地面に倒れないように踏ん張ったが、先輩は漫画みたいに綺麗に前方へバターンと倒れた。
「おまっ、内海! 俺寝不足だって言ったろ?」
「そんなの知ったこっちゃありませんよ」
 そうだ。この人の引力が強すぎるのが悪い。白線の側でうずくまっていたのに引っ張り上げられて、俺はまた走り出さずにはいられない体にされてしまった。
「す、すみません、空木先輩。俺、めっちゃ抜かれて……」
 ボロボロ泣いている鷹野先輩と、そんな先輩を慰めるように肩を支えながらこちらへやってきた早良が合流して、俺たちはもう一度一つになった。
「心配するな。アンカーの俺も抜かれた」
「もー、何やってんすか先輩」
 鷹野先輩にも笑顔が戻って、俺はこのチームでリレーを走れたことを、心から誇りに思えたのだった。

 見ないように目を逸らしていた時はずっと心に引っかかっていたのに、勇気を出して真っ直ぐ向き合ってからは、不思議なほど過去のトラウマは薄れていった。
(むしろ今は、あの時の弱さごと自分を認めてやってもいいんじゃないかって、そんなふうにすら思えるようになった気がする)
「せんせー、俺らまだ一年なのに、もう進路希望調査なんかするんですか?」
 クラスの誰かが不満そうにそう質問し、担任がすかさずゆる〜く答える。
「な〜んか三年生で宇宙飛行士になりたいとか言い出した生徒がいたらしくてな。そんなの一年の時からみっちり指導せんと間に合わんだろ? だから今年から、進路指導は一年から行うことになったんだ」
 それ、完全に空木先輩のせいじゃん。
 配られた進路希望の用紙に視線を落として、俺はしばし考え込んだ。
 中学の時、大事な場面で失敗するのを恐れて、俺はこの定員割れした高校への進学を決めた。そこで思いもよらない出会いがあって、結果的に自分の選択は正しかったのだと、今はそうはっきりと断言できる。
(だけど、次は……)
「えーっ! 内海、結構ハイレベルな大学狙ってるんだね」
 後ろから早良に覗かれて、反射的に隠そうとした俺だったが、思い直してむしろピラッと持ち上げた紙を堂々とかざして見せた。
「いいじゃん。宇宙飛行士になりたい人だっているんだから。このうちの学校に」
「まぁ、確かにそれもそうか」
 地区予選で敗退して、空木先輩の高校最後の夏は終わった。今は理工学部入学に向けて猛勉強中らしい。たまに部活に顔を出してくれるので聞いたところ、とりあえず何があっても部屋の掃除はしないことにしたらしい。普通に普段はすればいいのに。
 進路希望を提出した後、途中まで早良と連れ立って歩いて、部室の前で別れた。サッカー部の部室は今日も賑やかだが、陸上部の方は相変わらずしいんと静かだ。
 着替えを終えると、俺は中距離用のスパイクを持ってグラウンドに出た。やはりこっちのスパイクの方が、履き慣れていて足に馴染む。
「あっ、先輩」
 相変わらず暑苦しい見た目の空木先輩がラインカーを引いている姿が目に入って、俺は自然と顔が綻ぶのを感じた。
「今日も来てくれたんですね。勉強大丈夫ですか?」
「ああ、頑張ってるぞ! ただたまに無性にラインが引きたくなるんだ」
「それ勉強が嫌になった時、掃除する代わりにライン引いてるだけじゃないですか?」
「い、言われてみれば確かに!」
「何やってんすか」
 先輩の夏は終わった、と言っても、季節はまだまだ真夏日が続いている。目に痛いほど青い空の下で、俺は今さっき先輩が引いてくれたばかりの、真新しい白線の向こう側に立った。
 肝心なところで失敗するかどうかなんて、もうどうでもよかった。
 俺はこれからも、何度だって走る。
 先輩が見せてくれた、真っ直ぐな道の先へ。

 終わり。