いよいよインターハイ出場をかけた、地区予選の日程が間近に迫ってきた。
練習も最終調整の段階に入ってきており、俺たちは正式に走順を決めて、バトンパスの練習に日々明け暮れていた。
その日、空木先輩の思いつきで、急遽ゼッケンの授与式が部室で行われることになった。スタメンしかいない部で、緊張感も何もないイベントなのだが。
「早良、お前は鷹野が見込んだ通り、うちのチームで一番スタートダッシュが早い。出だしでドンと差をつける一走を任せられるのはお前しかいない!」
「はい!」
陽キャ同士の二人はこんな場面でもしっかり噛み合っていて、見ていてなんだか安心感がある。
「続いて二走、鷹野!」
「やだなぁ、この謎の授与式みたいな茶番」
鷹野先輩は若干恥ずかしそうに文句を垂れながらも、受け取ったゼッケンを満更でもなさそうな表情で眺めていた。
「続いて三走、内海!」
「……はい」
いくら恥ずかしくても、後輩の分際で先輩が発案したゼッケンの授与式を拒否するわけにはいかない。
俺が渋々ゼッケンを受け取りに行くと、空木先輩がこそっと俺の耳元で囁いた。
「タイム的には内海の方が俺より速いから、本当はアンカーを任せようか悩んだんだ。でも……」
分かってる。俺はアンカーとして待つ空木先輩のところまで、脇目も振らずに真っ直ぐ走って行ってバトンを繋ぐ。そのための三走だ。
「……どうしても、この俺が大トリを飾りたかったんだ!」
「え〜っ!」
たまらず大声を上げた俺に、鷹野先輩と早良が驚いて振り返る。
「どうした内海。三走に何か問題でもあった?」
「いや、別に特に問題があるわけでは……」
別に、元々自分は三走のつもりだったし、理由なんかぶっちゃけどうでもよかったんだけど……でも何となく釈然としない!
「でも本当に良かったよ。空木先輩の夢が、最後の最後でちゃんと叶って」
先に部室から飛び出して行った二人の陽キャに構わずゆっくり準備をしていると、同じく落ち着いて靴紐を締めていた鷹野先輩がボソッとそんなことを口にした。
「俺、実は去年も声かけられてたんだけど、入学したてでサッカー部も入ったばかりだったしでさ、一回断ったんだ」
「そうだったんですね」
「うん。でもその後一年間、一人でグラウンドを走ってる先輩を見るたびにずっと気になってて。他の一年にも声かけて断られてる場面も何度も見たし」
グラウンドに向かって並んで歩きながら、鷹野先輩はかつてを思い返すかのように遠い目をしていた。
「たった一人でも、自分の信じた道を諦めないで突き進むその背中を、いつのまにか目で追ってる自分がいてさ。俺にはそんな純粋なひたむきさってなかったから、単純にすごいなって思って」
その話を聞いて、俺はとんでもない勘違いをしていたことに気がついた。以前グラウンドを走る空木先輩の姿を想像したとき、俺はてっきり背中を丸めて寂しそうに走っているものだとばかり思っていた。
でも今の話から察するに、きっと彼はシャキッと背筋を伸ばして、一人でも堂々とグラウンドを駆け抜けていたのだろう。そうでなければ、その背中で他人を感動させることなど、きっとできなかったはずである。
「それで二年に進級した節目の時期に、思い切って自分から協力したいって申し出たんだ。ほら、尊敬する人には近づきたいって思うものでしょ? 一度断った手前、めっちゃ恥ずかしかったんだけど……」
「めちゃくちゃ喜ばれたでしょう?」
すかさず俺が口を挟むと、鷹野先輩は当時を思い出したかのようにふふっと笑った。
「うん、めっちゃお礼言われた」
「あの人に対して恥ずかしいとか思う必要ないですよね。あの人が一番恥ずかしい人ですから」
「確かに」
そう言いながら、鷹野先輩はグラウンドの空木先輩に視線を投げた。当の恥ずかしい人はアンカーのゼッケンに浮かれていたのか、ラインカーをひっくり返してラインパウダーを辺りにぶちまけ、早良と一緒に大騒ぎしているところだった。
(……良かった。俺冷静な先輩と一緒に出てきて)
「でもみんな恥ずかしいのって嫌だからさ、先に全部それを引き受けてくれる空木先輩に救われてる人って、きっといっぱいいると思うんだよね」
「すまん鷹野! 白い粉ぶちまけちまった!」
「鷹野先輩! 内海助けて! 白い粉が……」
「ちょっと白い粉白い粉うるさい! ここはヤバい取引所ですか!」
今さっき空木先輩を褒めていたのと同じ口で、悪態をつきながら駆け出した鷹野先輩の背中に向かって、俺は思わず小声でボソリと呟いていた。
「そうですね。多分俺も、その救われた人たちの中の一人なのかもしれません」
地区予選大会一日目。決勝に進出できるのは8校のみだ。予選は3レース行われるため、各レースの上位2校と、それ以外のチームの中からタイム上位2校が決勝に進出することができる。
三走のメンバーの待機場所で準備しながら、俺は赤茶色のタータントラックに白く浮かび上がった白線をじっと眺めていた。近年青タータンの競技場が増えているらしいが、俺にとって馴染み深いのはやはりこの赤タータンだ。
(大丈夫だ。俺はただ、脇目も振らずに空木先輩の所まで走って行って、バトンを渡すだけだ。俺に求められているのはたったそれだけのことなんだから、余計なことは考えずにそれだけに集中しろ)
しかし、考えてはいけないと思えば思うほど雑念が湧いてきて、人間の思考とはままならないものだと痛感する。
(あ、あの選手も助っ人っぽいな。どれくらい練習してきたのかな)
うちもサッカー部との連合軍だけど、バトンパスはかなり練習した。リレーというのは不思議な競技で、最終タイムを人数で割った時、個人のベストタイムを上回っていたりする。それはバトンパスの時に、二走以降の選手がテイクオーバーゾーンで助走をつけていて、クラウチングスタートより速く飛び出すことができるからだ。
(つまり、個々人の走力で多少負けていても、バトンパスが神がかっていれば勝てる可能性があるってことだ)
うちはチームの半分が助っ人だし、俺も空木先輩も本来中長距離が専門だ。部内でスタメン争いを勝ち抜いてきた、生粋のスプリンター軍団が相手では非常に分が悪い。
(でも、同じように助っ人を頼んでるようなチームにだったら……)
勝てるんじゃないだろうか? いや、勝ちたい! あの中三の夏以降味わっていない、勝利という名の甘い果実を……
「内海!」
ハッとして顔を上げると、四走の待機場所から空木先輩がこちらに向かって大きく手を振っていた。
(え? 何だって? なんか言ってる?)
わざわざ両手を口に当てて、空木先輩は溢れんばかりの笑顔を浮かべながら、俺に向かって口パクで何か伝えようとしている。
(いや、この距離で唇の動きなんか読めるか! 俺の視力どんだけ良いと思われてんの?)
口の動きでは何を伝えたいのかさっぱり分からなかったが、先輩の性格や現在の状況から推察することはできた。
お・れ・の・こ・と・だ・け・み・て・ろ
おおかたそんなところで間違いないだろう。
(ええ、ええ、そうでしたね。分かってますよ!)
両手を上に上げて大きな丸印を作って見せると、空木先輩は満足そうに頷いてから自分の調整に戻って行った。
(そうだ。余計なことは考えるな。落ち着いて、先輩のところまで真っ直ぐ走るだけ)
見慣れた熱苦しい笑顔を見たら、緊張して固くなっていた体のこわばりが、何だか少しだけ取れたような気がした。
(拍子抜けして緊張感がなくなったってだけかもしれないけど……)
理由は何にせよ、レース前に緊張がほぐれたのは良いことだ。俺は深く息を吸って気持ちを切り替えると、他の二人のメンバーの様子も確認した。鷹野先輩も早良も、陸上の大会に出るのはおそらく初めてのはずだったが、サッカーで試合慣れしているせいか、二人ともさほど緊張しているようには見えなかった。
(陸上は初心者同様の二人が堂々としてるってのに、経験者の俺がビビってどうする!)
それでも待ち時間の間に膝が震えてくるたびに、俺は空木先輩の姿をこっそり確認してなんとか時間を潰していた。
「……位置について」
いよいよ、俺にとっては高校最初の、空木先輩にとっては高校最後の、夏の大会が始まる。
「用意」
クラウチングスタートの姿勢を取っていた、早良の腰がさっと上がる。
パアンッ! と号砲がなった瞬間、一走の選手たちが一斉に赤タータンのレーンの中へ飛び出して行った。
(よし! 速い!)
鷹野先輩が見込んだ通り、早良のスタートダッシュは陸上部も顔負けのスピードを誇っていた。
(こいつは反射神経がずば抜けてるのもあるけど、おそらく“耳”がいい)
早良の一走の走りは、スタートダッシュも含めて、地区予選の一回戦なら十分通用するレベルだった。
「ハイッ!」
続いてバトンは二走の鷹野先輩に渡った。
(上手い!)
サッカー部でも親交が深いせいか、この二人は練習でもいつも息ぴったりだったのだが、このプレッシャーのかかる大会本番でも、見事なバトンパスの連携を見せてくれた。
二走は、バックストレートをほぼ直線で一気に駆け抜けられる区間だから、走力のあるエース級の選手が集まっていることが多い。それでも息の合ったバトンパスで、お互いが最高速度で受け渡しができたというのもあり、俺にバトンが回ってきた時は上位3校になんとか食い込んでいた。
(来た!)
「ハイッ!」
パシッと綺麗にバトンが俺の右手に渡る。すぐに左手に持ち替えて、目の前のレーンに集中した。
(うわっ)
余計なことを考えている余裕なんか無いのに、急に左側の白線が存在感を増したような気がした。
これを踏んだらまた失格になる。しかも今回は俺だけじゃなくて、チーム全員が……
「内海!」
空木先輩の声が聞こえた気がして、俺ははっと顔を上げた。
(空耳か?)
もしかしたら、さっき準備中に聞こえた声が、土壇場でフラッシュバックしただけかもしれない。
俺のことだけ見てろ。
(よくもそんな恥ずかしいこと、堂々と言えたもんですね)
こわばりかけていた手足に、さっと温かい血液が巡って余裕が戻って来る。
カーブの向こうに、空木先輩の姿が見えた。心配そうな表情の瞳とバチリと目が合う。
分かってますって。あんただけ見てれば良いんでしょ。
心が軽くなるのと同時に、左端の白線の存在感がすうっと薄れていった。
「ハイッ!」
最後のバトンが綺麗に渡って、空木先輩が鉄砲玉のように飛び出していく。
リレーの一区画分の時間なんて、側から見ればほんの一瞬に過ぎない。俺が荒い息を整えている間に、アンカーの選手たちが次々にゴールへと飛び込んで行き、見事二位でレースを終えた俺たちは、地区予選の決勝戦に出場する権利を得た。
「ちゃんと真っ直ぐ走れたな」
空木先輩が俺に向かって拳を突き出してきたため、俺もそれに応えるように腕を上げて拳同士をコツンと合わせた。
(良かった。とりあえず最悪の失敗はせずに済んだ)
まずは一勝。小さな成功だけど、俺にとっては久方ぶりの大いなる一歩だ。
だが、決勝戦に出てくるのはスピード上位の学校ばかり。観客の声援にも熱が入り、プレッシャーはおそらく桁違いになるはずだ。
そして、決勝戦の上位3校のみが地区予選突破校となり、次の県大会に出場できるのである。
(……今度こそ、俺は先輩の腕まで辿り着けるんだろうか。白線じゃなく、あの腕に――決勝のゴールで)
練習も最終調整の段階に入ってきており、俺たちは正式に走順を決めて、バトンパスの練習に日々明け暮れていた。
その日、空木先輩の思いつきで、急遽ゼッケンの授与式が部室で行われることになった。スタメンしかいない部で、緊張感も何もないイベントなのだが。
「早良、お前は鷹野が見込んだ通り、うちのチームで一番スタートダッシュが早い。出だしでドンと差をつける一走を任せられるのはお前しかいない!」
「はい!」
陽キャ同士の二人はこんな場面でもしっかり噛み合っていて、見ていてなんだか安心感がある。
「続いて二走、鷹野!」
「やだなぁ、この謎の授与式みたいな茶番」
鷹野先輩は若干恥ずかしそうに文句を垂れながらも、受け取ったゼッケンを満更でもなさそうな表情で眺めていた。
「続いて三走、内海!」
「……はい」
いくら恥ずかしくても、後輩の分際で先輩が発案したゼッケンの授与式を拒否するわけにはいかない。
俺が渋々ゼッケンを受け取りに行くと、空木先輩がこそっと俺の耳元で囁いた。
「タイム的には内海の方が俺より速いから、本当はアンカーを任せようか悩んだんだ。でも……」
分かってる。俺はアンカーとして待つ空木先輩のところまで、脇目も振らずに真っ直ぐ走って行ってバトンを繋ぐ。そのための三走だ。
「……どうしても、この俺が大トリを飾りたかったんだ!」
「え〜っ!」
たまらず大声を上げた俺に、鷹野先輩と早良が驚いて振り返る。
「どうした内海。三走に何か問題でもあった?」
「いや、別に特に問題があるわけでは……」
別に、元々自分は三走のつもりだったし、理由なんかぶっちゃけどうでもよかったんだけど……でも何となく釈然としない!
「でも本当に良かったよ。空木先輩の夢が、最後の最後でちゃんと叶って」
先に部室から飛び出して行った二人の陽キャに構わずゆっくり準備をしていると、同じく落ち着いて靴紐を締めていた鷹野先輩がボソッとそんなことを口にした。
「俺、実は去年も声かけられてたんだけど、入学したてでサッカー部も入ったばかりだったしでさ、一回断ったんだ」
「そうだったんですね」
「うん。でもその後一年間、一人でグラウンドを走ってる先輩を見るたびにずっと気になってて。他の一年にも声かけて断られてる場面も何度も見たし」
グラウンドに向かって並んで歩きながら、鷹野先輩はかつてを思い返すかのように遠い目をしていた。
「たった一人でも、自分の信じた道を諦めないで突き進むその背中を、いつのまにか目で追ってる自分がいてさ。俺にはそんな純粋なひたむきさってなかったから、単純にすごいなって思って」
その話を聞いて、俺はとんでもない勘違いをしていたことに気がついた。以前グラウンドを走る空木先輩の姿を想像したとき、俺はてっきり背中を丸めて寂しそうに走っているものだとばかり思っていた。
でも今の話から察するに、きっと彼はシャキッと背筋を伸ばして、一人でも堂々とグラウンドを駆け抜けていたのだろう。そうでなければ、その背中で他人を感動させることなど、きっとできなかったはずである。
「それで二年に進級した節目の時期に、思い切って自分から協力したいって申し出たんだ。ほら、尊敬する人には近づきたいって思うものでしょ? 一度断った手前、めっちゃ恥ずかしかったんだけど……」
「めちゃくちゃ喜ばれたでしょう?」
すかさず俺が口を挟むと、鷹野先輩は当時を思い出したかのようにふふっと笑った。
「うん、めっちゃお礼言われた」
「あの人に対して恥ずかしいとか思う必要ないですよね。あの人が一番恥ずかしい人ですから」
「確かに」
そう言いながら、鷹野先輩はグラウンドの空木先輩に視線を投げた。当の恥ずかしい人はアンカーのゼッケンに浮かれていたのか、ラインカーをひっくり返してラインパウダーを辺りにぶちまけ、早良と一緒に大騒ぎしているところだった。
(……良かった。俺冷静な先輩と一緒に出てきて)
「でもみんな恥ずかしいのって嫌だからさ、先に全部それを引き受けてくれる空木先輩に救われてる人って、きっといっぱいいると思うんだよね」
「すまん鷹野! 白い粉ぶちまけちまった!」
「鷹野先輩! 内海助けて! 白い粉が……」
「ちょっと白い粉白い粉うるさい! ここはヤバい取引所ですか!」
今さっき空木先輩を褒めていたのと同じ口で、悪態をつきながら駆け出した鷹野先輩の背中に向かって、俺は思わず小声でボソリと呟いていた。
「そうですね。多分俺も、その救われた人たちの中の一人なのかもしれません」
地区予選大会一日目。決勝に進出できるのは8校のみだ。予選は3レース行われるため、各レースの上位2校と、それ以外のチームの中からタイム上位2校が決勝に進出することができる。
三走のメンバーの待機場所で準備しながら、俺は赤茶色のタータントラックに白く浮かび上がった白線をじっと眺めていた。近年青タータンの競技場が増えているらしいが、俺にとって馴染み深いのはやはりこの赤タータンだ。
(大丈夫だ。俺はただ、脇目も振らずに空木先輩の所まで走って行って、バトンを渡すだけだ。俺に求められているのはたったそれだけのことなんだから、余計なことは考えずにそれだけに集中しろ)
しかし、考えてはいけないと思えば思うほど雑念が湧いてきて、人間の思考とはままならないものだと痛感する。
(あ、あの選手も助っ人っぽいな。どれくらい練習してきたのかな)
うちもサッカー部との連合軍だけど、バトンパスはかなり練習した。リレーというのは不思議な競技で、最終タイムを人数で割った時、個人のベストタイムを上回っていたりする。それはバトンパスの時に、二走以降の選手がテイクオーバーゾーンで助走をつけていて、クラウチングスタートより速く飛び出すことができるからだ。
(つまり、個々人の走力で多少負けていても、バトンパスが神がかっていれば勝てる可能性があるってことだ)
うちはチームの半分が助っ人だし、俺も空木先輩も本来中長距離が専門だ。部内でスタメン争いを勝ち抜いてきた、生粋のスプリンター軍団が相手では非常に分が悪い。
(でも、同じように助っ人を頼んでるようなチームにだったら……)
勝てるんじゃないだろうか? いや、勝ちたい! あの中三の夏以降味わっていない、勝利という名の甘い果実を……
「内海!」
ハッとして顔を上げると、四走の待機場所から空木先輩がこちらに向かって大きく手を振っていた。
(え? 何だって? なんか言ってる?)
わざわざ両手を口に当てて、空木先輩は溢れんばかりの笑顔を浮かべながら、俺に向かって口パクで何か伝えようとしている。
(いや、この距離で唇の動きなんか読めるか! 俺の視力どんだけ良いと思われてんの?)
口の動きでは何を伝えたいのかさっぱり分からなかったが、先輩の性格や現在の状況から推察することはできた。
お・れ・の・こ・と・だ・け・み・て・ろ
おおかたそんなところで間違いないだろう。
(ええ、ええ、そうでしたね。分かってますよ!)
両手を上に上げて大きな丸印を作って見せると、空木先輩は満足そうに頷いてから自分の調整に戻って行った。
(そうだ。余計なことは考えるな。落ち着いて、先輩のところまで真っ直ぐ走るだけ)
見慣れた熱苦しい笑顔を見たら、緊張して固くなっていた体のこわばりが、何だか少しだけ取れたような気がした。
(拍子抜けして緊張感がなくなったってだけかもしれないけど……)
理由は何にせよ、レース前に緊張がほぐれたのは良いことだ。俺は深く息を吸って気持ちを切り替えると、他の二人のメンバーの様子も確認した。鷹野先輩も早良も、陸上の大会に出るのはおそらく初めてのはずだったが、サッカーで試合慣れしているせいか、二人ともさほど緊張しているようには見えなかった。
(陸上は初心者同様の二人が堂々としてるってのに、経験者の俺がビビってどうする!)
それでも待ち時間の間に膝が震えてくるたびに、俺は空木先輩の姿をこっそり確認してなんとか時間を潰していた。
「……位置について」
いよいよ、俺にとっては高校最初の、空木先輩にとっては高校最後の、夏の大会が始まる。
「用意」
クラウチングスタートの姿勢を取っていた、早良の腰がさっと上がる。
パアンッ! と号砲がなった瞬間、一走の選手たちが一斉に赤タータンのレーンの中へ飛び出して行った。
(よし! 速い!)
鷹野先輩が見込んだ通り、早良のスタートダッシュは陸上部も顔負けのスピードを誇っていた。
(こいつは反射神経がずば抜けてるのもあるけど、おそらく“耳”がいい)
早良の一走の走りは、スタートダッシュも含めて、地区予選の一回戦なら十分通用するレベルだった。
「ハイッ!」
続いてバトンは二走の鷹野先輩に渡った。
(上手い!)
サッカー部でも親交が深いせいか、この二人は練習でもいつも息ぴったりだったのだが、このプレッシャーのかかる大会本番でも、見事なバトンパスの連携を見せてくれた。
二走は、バックストレートをほぼ直線で一気に駆け抜けられる区間だから、走力のあるエース級の選手が集まっていることが多い。それでも息の合ったバトンパスで、お互いが最高速度で受け渡しができたというのもあり、俺にバトンが回ってきた時は上位3校になんとか食い込んでいた。
(来た!)
「ハイッ!」
パシッと綺麗にバトンが俺の右手に渡る。すぐに左手に持ち替えて、目の前のレーンに集中した。
(うわっ)
余計なことを考えている余裕なんか無いのに、急に左側の白線が存在感を増したような気がした。
これを踏んだらまた失格になる。しかも今回は俺だけじゃなくて、チーム全員が……
「内海!」
空木先輩の声が聞こえた気がして、俺ははっと顔を上げた。
(空耳か?)
もしかしたら、さっき準備中に聞こえた声が、土壇場でフラッシュバックしただけかもしれない。
俺のことだけ見てろ。
(よくもそんな恥ずかしいこと、堂々と言えたもんですね)
こわばりかけていた手足に、さっと温かい血液が巡って余裕が戻って来る。
カーブの向こうに、空木先輩の姿が見えた。心配そうな表情の瞳とバチリと目が合う。
分かってますって。あんただけ見てれば良いんでしょ。
心が軽くなるのと同時に、左端の白線の存在感がすうっと薄れていった。
「ハイッ!」
最後のバトンが綺麗に渡って、空木先輩が鉄砲玉のように飛び出していく。
リレーの一区画分の時間なんて、側から見ればほんの一瞬に過ぎない。俺が荒い息を整えている間に、アンカーの選手たちが次々にゴールへと飛び込んで行き、見事二位でレースを終えた俺たちは、地区予選の決勝戦に出場する権利を得た。
「ちゃんと真っ直ぐ走れたな」
空木先輩が俺に向かって拳を突き出してきたため、俺もそれに応えるように腕を上げて拳同士をコツンと合わせた。
(良かった。とりあえず最悪の失敗はせずに済んだ)
まずは一勝。小さな成功だけど、俺にとっては久方ぶりの大いなる一歩だ。
だが、決勝戦に出てくるのはスピード上位の学校ばかり。観客の声援にも熱が入り、プレッシャーはおそらく桁違いになるはずだ。
そして、決勝戦の上位3校のみが地区予選突破校となり、次の県大会に出場できるのである。
(……今度こそ、俺は先輩の腕まで辿り着けるんだろうか。白線じゃなく、あの腕に――決勝のゴールで)



