どんなに空木先輩が熱くチーム戦への理想を語っても、リレーに出場するにはメンバーが最低四人は必要だ。現時点で俺たちはまだ、最初の出場条件すら満たしていなかった。
 にも関わらず、だ。
「聞いて驚け! 近隣校との合同合宿が決まったぞ!」
 放課後、一番乗りで部室に着いた俺が、さっそく着替えようと制服のズボンを下ろしかけた、その時であった。
 いきなりボロボロの扉を開け放った空木先輩に高らかにそう宣言されて、俺は慌ててズボンを思いっきり上に引き上げた。
「ちょっと先輩! いきなり開けないで下さいよ! せめてノックとか……」
「なに女子みたいなこと言ってんだ?」
「だって、この部室の前って普通に人が通るじゃないですか! ズボン下げてる時に女子が通ったらどうしてくれるんですか!」
「出血大サービスだと思えばいいだろ」
「逆に訴えられちゃいますよ!」
「そんなことより合宿だ!」
 俺は不信感に目を細めながら、自信に満ち溢れた様子の空木先輩の顔を見上げた。
「合同合宿って、そもそも俺たちメンバーすらまだそろっていませんけど」
 俺がそう指摘するのと同時に、部室のドアの外から鷹野先輩がひょこっと顔を覗かせた。
「それが実は、今日そろったんだな」
「ええっ!」
 俺が今日一番に驚いた声を上げたため、空木先輩が不満そうにふくれっ面をした。
「いやいや、合宿の方がビッグニュース……」
「鷹野先輩! メンバーって一体誰なんですか?」
 興奮しながらそう尋ねる俺に、鷹野先輩がぷっと吹き出し、空木先輩は諦めた様子で小さく肩をすくめた。
「サッカー部の後輩を一人誘ってみたら、快く引き受けてくれてさ。内海のクラスメイトだと思うんだけど……」
「俺だよ!」
 鷹野先輩の後ろから同じようにひょっこりと顔を覗かせたのは、同じクラスの早良湊斗であった。
「早良……君?」
「早良でいいよ! クラスメイトだろ〜?」
「でかした鷹野! いい感じに光属性のメンバーを連れてきたな!」
 褒めるところそっち?
「鷹野は腹の読めないミステリアスキャラだし、内海は毒舌陰キャだし、こんな闇属性寄りのメンバーを果たして俺一人でまとめられるのか、正直不安だったんだ。陽キャが一人いてくれるだけで全然違うだろ?」
(一番個性が強烈な、無自覚系天然熱血キャラにそこまで言われたくないっつーの!)
 しかも、何気に的確にそれぞれのキャラを言い当てているところがまた腹が立つ。
「なんかよく分かりませんけど、ありがとうございます!」
 深く考えなくて素直なところとか、確かに空木先輩との相性は良さそうである。
「……あの、マジでキャラで引っ張ってきたんですか?」
 着替えながらこそっと鷹野先輩に確認すると、先輩は笑いながら首を振った。
「まさか! 部活の練習の時に彼が一番スタートダッシュが速かったからさ。一走にいいんじゃないかと思っただけだよ」
 さすがは鷹野先輩。ちゃんと彼の適正を見抜いてから勧誘してきたようであった。
「で、合宿の話だが!」
 ようやく自分の話を聞いてもらえる空気になったのを悟ってから、空木先輩が改めて合同合宿の話を持ち出した。
「うちはご覧の通り最低人数しかいないから、校内で完結した練習試合ができない。それで他校の合宿に混ぜてもらうことにしたんだ。元々は仮メンバーを他校の助っ人に頼むつもりだったんだが、ちょうどうちだけでメンバーが揃って、完璧に合宿参加に相応しい条件が整った」
 運動靴の紐をキュッと締めて、空木先輩は荘厳な表情ですっとその場に立ち上がった。
「それではいざ、合同合宿へ!」
「えっ! まさか今から?」
「今週の土曜日からだよ」
 こそっと鷹野先輩に指摘されて、俺はうっかり雰囲気重視の空木先輩の言葉を間に受けてしまったことに気がついた。
(しまった! この人にとっては、すでに心は“いざ行かん”状態なだけなんだった!)
 どうやら俺は、知らず知らずのうちにこの“無自覚系天然熱血キャラ”に、無自覚に手のひらの上で転がされ始めているようであった。

 合宿地は豊かな森に囲まれた山間の施設で、すぐ側に立派な陸上競技場を併設していた。周りに何もない空気の綺麗な土地で、都会の喧騒から離れて集中してトレーニングに取り組めるというのが売りの施設らしい。
(……まぁ、それならぶっちゃけど田舎のうちの高校でよかったんじゃね? って話なんだけど)
 当然俺たちの目的は、綺麗な空気でも都会の喧騒から離れることでもないわけで、俺ももちろんそこをはき違えるつもりはない。
「相手方はもうグラウンドで練習してるみたいだぞ! 俺たちも早く行こう!」
 空木先輩の声に、俺たちはあてがわれた大部屋に荷物を放り投げると、スパイクを持って慌ててグラウンドへと向かった。
「おはようございます! 本日はよろしくお願いします!」
 たった四人だけで短い列を作って挨拶すると、グラウンドのあちこちに散らばっている相手校の選手たちが次々にこちらを振り返った。
「集合!」
 主将らしき人物の掛け声に、選手たちは素早い動きでさっと集まってくると、ピシッと綺麗な列を作った。きちんと統制の取れた動きからして、普段から厳しい指導を受けている様子だ。
 ふと視線を感じてそちらに目をやった俺は、見覚えのある顔を見つけて思わずひゅっと息を呑んだ。
高丘俊輝(たかおかとしき)!)
 相手も当然俺に気がついていて、俺たちの視線は数秒間一直線につながっていた。
「こちらこそ、本日はよろしくお願いします」
 たった四人しかいない相手にも関わらず、相手校の主将は礼儀正しくそう言って頭を下げた。
「驚いたわ。まさかこんなところで再会するなんて」
 軽い挨拶が終わって選手たちが再びグラウンドに散らばりだした時、中学時代の知り合い――高丘俊輝が俺の元へと駆け寄ってきた。
「あ、いや……」
 思わず逃げ腰になっていた俺の後ろから、「興味津々です!」と顔に書かれたような空木先輩と早良が、ぐいっと身を乗り出してきた。
「うちのエースの知り合いですか! 元チームメイトとか?」
「ちょっと、空木先輩!」
 慌てて熱苦しい先輩を追い返そうと手を上げたが、時すでに遅し。
「いえ、他校でいつも戦ってた好敵手って感じです。中学三年の最後の大会でちょっと揉めて、それ以降一度も会ってなかったんですけど」
 高丘はそう言いながら、俺の持っている短距離用のスパイクに視線を落とした。
「もしかして、辞めちゃったの? 中距離走」

「……で、昼間の知り合いは一体なんの話をしていたんだ?」
 その夜、大部屋に布団を敷いている時、やっぱり空木先輩が空気を読まずに昼間の話題を口にしてきた。
「空木先輩、さすがにそれは聞かない方が……」
 空気を読んだ鷹野先輩が横から止めようとしたが、空木先輩は断固たる表情でブンブンと大きく首を振っている。
「いいや、これは絶対に聞いておかないといけないことだ」
「どうしてですか?」
「なんとなく」
 出たよ、この深く考えない感覚人間!
 俺が意地でも話すもんかとそっぽを向いていると、いきなり背中にボフッと衝撃が走った。
「なっ!」
「合宿といえばやっぱり枕投げだろ!」
 足元に転がっている白い枕に気がついて、俺は反射的にぱっとそれを拾い上げた。
「さあ投げ返せ! 枕も会話もキャッチボールだ!」
 誰がお前の幼稚な挑発になんか乗るか。これはあれだ……その、防御用だ!
「先輩! それ枕投げじゃなくてキャッチ枕です!」
 早良がそうツッコミを入れながら、律儀に次の枕を空木先輩に手渡した。
「おっ、なんかさっきの枕と手触りが違うな」
「それはストローを輪切りにしたみたいなやつがいっぱい入った、ジャリジャリした枕です!」
「よし、話さないなら一方的にどんどんぶつけるぞ!」
 その言葉通り、空木先輩は次々に俺に向かって、手当たり次第に枕を投げつけてきた。ジャリジャリのやつは当たると地味に痛くて、俺はだんだん腹が立ってきた。
「……中三最後の県大会決勝戦で、最後に競ってたのがあいつでした!」
 俺は持っていたふわふわの白い枕を、思いっきり空木先輩めがけて投げつけた。
「それでうちの顧問が、もしかしたら俺があいつに押されたんじゃないかって気になったらしく、結果発表が行われるまでの時間に俺たちに確認を取ったんです」
 誰にも知られたくない、苦い記憶。それを無理にほじくり出そうとする空木先輩の無神経さに怒りが湧き上がってくる。
「あいつはもちろん押してないって言いました。でも俺は、夢中で走ってたから記憶が曖昧で、もしかしたら押されたかもって、そう言ってしまったんです」
 その時の驚愕した高丘の表情は、今でも俺の脳内に焼きついている。
「その後正式に結果が発表されて、俺は失格となりました。レースをしっかり外から見ていた運営が、俺は勝手に自滅したんだと判断したということです」
「なんだ、そんなことか。必死で走ってたら記憶が無くなってただなんてよくあることだ。俺も一年の時初めて出場した3000メートル走で、最初の1000メートルを走った記憶がすっかり消え去ってて、一人だけ4000メートル走るところだったんだ」
「それは……ペース配分ミスったのでは?」
「ああ、当然最下位だった!」
「よくあることで済まされる問題じゃないんです!」
 勝手に和みかけていた空木先輩の顔面めがけて、俺はジャリジャリの枕を全力投球した。
「記憶があやふやだった中で、俺は自分の失態をあいつのせいにしようとしたんですよ。押されたことにしてしまった方が楽だから、無意識にそっちへ逃げようとしたんです!」
 空木先輩が遠慮がちにポーンと投げ返してきたジャリジャリ枕を、俺は再び在らん限りの力を込めて投げつけた。
「表彰台を逃した悔しさは、時間と共に薄れていきました。でもあの時の、自分の“弱さ”に気づいてしまった絶望は、ずっと俺の心に残ったまま消えていかないんです。自分は卑怯で矮小な心の弱い人間だから、いつも肝心な場面で失敗するんだって、呪いのようにいつまでも俺に付き纏って離さないんです」
「なるほど、言いたいことはよく分かった!」
 そう言いながら、空木先輩はいきなりジャリジャリの枕を思いっきり壁に向かって投げつけた。壁に打ち付けられた瞬間、枕がパーンと破裂して、小さなストロー状の詰め物が辺り一面にバラバラッと散らばった。
「意味はよく分からなかったけどな!」
「また結局分からなかったんですか!」
「ちょっと、今はそれどころじゃないでしょうが! 早良君、早く箒と塵取りもらってきて!」
 珍しく鷹野先輩が金切り声を上げ、早良が慌てて大部屋を飛び出していく。そんな半透明のストローがばら撒かれたカオスな空間で、なぜか空木先輩は堂々とした足取りで俺の方へと近づいてきた。
「何をそんなに悩んでいるのかはよく分からなかったが、内海が過去に囚われて苦しんでいるというのはよく分かった」
 あまりにも純粋な瞳にまっすぐ見つめられて、俺は思わず一歩あとずさろうとした。が、先輩は俺が逃げられないように、両手でがっしりと俺の肩を掴んできた。
「人間なら誰だって楽な方に逃げたがるものだ。俺も試験前になると急に部屋の掃除をしたくなるタイプだ」
「……試験勉強してくださいよ」
「なぁ、内海は一体何を恐れている? また白線を踏んで失格になるのが怖いのか?」
 そういうわけじゃ……言いかけて俺は口をつぐんだ。それも恐れていることの一つに含まれるのではないかとふっと気がついたからだ。
「もしそうなら、今度走るときはさ、俺のところまで真っ直ぐ走って来い。脇目なんか振らないで。そしたら左右の白線なんか怖くないだろう?」
 俺は一瞬ポカンとして、目の前の熱苦しい男の顔を思わずじっと見つめた。
「……先輩が美人マネージャーだったら良かったのに」
「なんだと? これでも俺はクラスではイケメンの部類だと評判の……」
「イケメン先輩! いいからさっさと掃除してください! あと施設の人に謝ってきて!」
「はい! すんませんっした!」
 鷹野先輩に怒鳴られながら大部屋を飛び出して行った空木先輩の後ろ姿を眺めながら、俺は先ほど先輩が言った言葉をもう一度胸の中で反芻していたのだった。