高校ではもう陸上はやらない。絶対に走ったりなんかしない――そう心に決めていた。
だからわざわざこんなど田舎の、陸上部のない、しかも定員割れしていた高校を選んで進学したっていうのに。
なのになぜ俺は今、雑草のまばらに生えた砂地のグラウンドを、全力疾走しているのだろう。
「待て〜! 絶対に逃さんぞ!」
なぜならそれは、この暑苦しい男――高校三年生の空木大志に、全力で追われているからである。
(くそっ! さっきから結構長いこと走ってるのに、全然振り切れない! 一体どんな体力してやがるんだ?)
そもそも、俺はどうしてこの三年の先輩に追われることになってしまったのか。
「内海陽真です。よろしくお願いしまひゅ」
やっべ、また大事なところで噛んだ!
高校に入学して、初対面の人たちの前で行う最初のプレゼンテーションである自己紹介。ここでの印象が、クラスメイトたちの中で俺のイメージ像を作り上げることになる。
(薔薇色の高校生活のための最初の一歩。絶対に失敗できない場面だったのに……)
同情笑いを浮かべた女子や、白けた表情の男子の拍手をパラパラと受けながら、俺は恥ずかしさに真っ赤になりながらそそくさと自分の席に着いた。
「内海〜、まだ名前しか言ってないぞ。趣味でも特技でも中学時代の部活でも何でもいいから、なんか自己紹介しろ〜」
担任の先生に緩い口調でそう指摘されて、俺は慌ててもう一度立ち上がった。
「えっと、特技は……」
走ること……は辞めた。中学時代の部活なんて絶対に明かしたくない。でもじゃあ趣味が何かあるかと言われると、即答できるほどハマっているものなんか一つも無い。
「……あ、歩くことです」
「いや、そんなの誰だってできるだろ!」
クラスメイトの誰かがツッコミを入れて、教室にどっと明るい笑い声が溢れた。
「はい、じゃあ次!」
「早良湊斗です。中学ではサッカーをやっていて……」
なんとか自己紹介を終えてホッとした俺は、他のクラスメイトの自己紹介を上の空で聞き流しながら、窓の外のグラウンドに視線を向けた。
雑草があちこちに点々と生え、あまり手入れの行き届いていないグラウンドでは、紺色の体操服を着た上級生たちが体力測定を行っていた。自己紹介が終わったら、一年生の俺たちも着替えてあそこに合流することになっている。
「高校生にもなって体力測定とか、バカバカしいよな」
真新しい体操服に腕を通しながら、クラスメイトの誰かがぶつくさ呟いている。全くもって同感だ。別に体力測定で全国一位だろうが、大学進学に有利でもなければ就職で優遇されるわけでもない。
「特に持久走。あれかったるいよな」
「1500メートルを5分以内で10点満点だって」
「マジで? よく分からんけど、5分なら俺、もしかしていけるんじゃね?」
「そうなの? 5分ってどれくらいのスピードなん?」
「なんかよく分からんけど」
「何なんその根拠のない自信」
ピクッ、と思わず俺の膝が、クラスメイトの軽口に反応する。
本当に何も分かっていない。1500メートルを5分以内で走るのに、中距離走者たちが一体どれ程の時間と努力を費やしているのか。
(そんなに簡単に切れるもんじゃないぞ。なめんなよ、5分の壁を)
ただのちょっとした出来心、闘争心だった。その壁を越える努力を知らない人間に、誰にでも簡単に手の届く高みであると見当違いな発言をされるのは、たとえ冗談だったとしても自分のプライドが許さなかったのだ。
(あいつら、見てろよ……)
1500メートル走は、スピードと持久力の両方が求められる中距離走だ。100メートル走を走るスピードで最初から飛ばせばスタミナ切れを起こすし、かと言って3000メートル越えの長距離走のつもりではどんどん追い抜かれていく。速さと体力のバランスを見極めながらのペース配分が重要になってくる競技なのだ。
(要は全くのど素人が、まともに走り切れるような距離じゃないってことだ)
案の定、意気揚々と最初に飛び出して行った連中は、すぐにガス欠を起こしてガタンとペースを落としていたり、その辺の草むらにしゃがみ込んだりしている。
(まぁ、長距離走に比べたら、断然最初からガンガン飛ばしてはいるんだけど)
少し苦しくなってきたところを耐えて、峠を越えた先に、ふっと体が軽くなって力が漲ってくるフェーズが訪れる。
セカンドウィンド。この爽快感がたまらない。まともに走る訓練をしたことのない連中は、きっとこの背中を押す風の存在すら知らずに、最初の峠でしんどくなって諦めるのだろう。
息が上がる。肺が焼ける。
でも、最後のストレートで一瞬だけ――胸の奥が、懐かしくてしょうがない高揚で満たされた。
「5分14秒!」
タイム係の先輩が思わず声を裏返らせた。
「……は? マジで? おい見ろよ、一年で五分切り寸前だぞ」
そんな囁き声が周りから聞こえてきたが、俺的にはイマイチなタイムだった。まあ、まともに準備運動もしていない状態で、鈍った体でいきなり走ったことを考えれば上出来だろう。
記録をつけてくれていたのは、先に体力測定を終えた三年の先輩たちであった。
「あ、ありがとうございます」
鉛筆で俺の用紙にタイムを書き込んでくれた先輩にお礼を言って、用紙を受け取ろうとした、その時だった。
用紙の上に見覚えのない紙が乗っていることに気がついて、俺は不審げに目を細めながらその紙を取り上げた。
『入部届 陸上部 陸上部部長 空木大志より』
「えっ?」
思わず紙を取り落とすと、その先輩……空木大志はゆっくりと腰を屈めて、地面に落ちた紙を拾い上げた。
「君、素人じゃないだろう? 陸上の経験があるならぜひとも我が陸上部へ!」
「ええっ? うちって確か、陸上部はなかったんじゃ……」
「あるぞ! かろうじて俺が一人で存続させている。だから君は部員第二号だ!」
「いやいや。経験があろうがなかろうが、俺は高校では陸上はやらないって決めてるんです」
そうきちんと断ったにも関わらず、空木先輩は全く引き下がる気配を見せずにニコニコと微笑んでいる。
「俺は君の走りに惚れ込んだんだ。もちろんその脚にもだ。まるで陸上の神様に愛されて生まれてきたかのような、綺麗な筋肉のつき方をしている。君なら世界的なスプリンターになるのも夢じゃない!」
「いや、俺の専門中距離なんですけど」
「いいじゃないか! スピードと持久力共に持ち合わせた中距離走者。まさに俺の理想の存在だ!」
そう言いながら、空木先輩は俺の用紙を机に置いて、陸上部の入部届けをきちんと折ってポケットに入れると、軽く手足を回し始めた。
「ちなみに俺の専門は長距離だ。追いかけっこをするならどっちが有利かな?」
「え?」
「君が逃げ切れば潔く諦めるが、俺に捕まったら陸上部に入部してもらう! 10秒だけ待つから走れ! それ、1、2……」
「ええええ〜?」
考えるより先に体が反応した。気がついた時には、俺は全ての種目が終わってがらんとしたグラウンドに向かって一目散に駆け出していた。
(……いや、てかルールは? 俺はいつまで逃げ続ければいいんだ?)
そして冒頭の追いかけっこに繋がるというわけである。
「とあっ!」
「ぎゃあっ!」
後ろから思いっきり飛びつかれるように捕まって、俺は危うく顔面からグラウンドに倒れ込むところだった。
(嘘だろ? マジで追いつかれちまった……)
「はい、入部届け」
折り目のついた入部届けをピラッと目の前にかざされて、俺はペシッとそれを手で弾いて地面に叩きつけた。
「そんな強引な勧誘聞いたことありません! 俺は入部なんか絶対にしませんからね!」
「頼むよ〜、リレーのメンバーを探してるんだ」
「は? リレー?」
全くもって意味が分からず、俺は思わず素っ頓狂な声を上げていた。
「何言ってるんですか? 俺中距離専門って言いましたよね? ていうか先輩も長距離が専門だって……」
「よくぞ聞いてくれた!」
嬉しそうなドヤ顔が無性に腹立つ。
「俺はこの二年間、ずっと一人で陸上部を続けてきた。陸上は野球やサッカーと違って一人でもできるスポーツだが、俺は入部した当初からチーム戦に憧れていた。高校最後の一年、どうしても今年はチームで大会に出場したいんだ」
空木先輩の演説には熱がこもって非常に暑苦しく、どちらかというと冷めている俺には迷惑以外の何物でもなかった。
「理想は駅伝だったが、長距離ってのはみんな敬遠しがちでハードルが高い。その点短距離のリレーなら助っ人で出てやってもいいと言ってくれる二年生を見つけることができた。あと二人メンバーが必要なんだ。できればちゃんと走る訓練を受けたことのある人間が」
「先輩の言いたいことはよく分かりましたが、それは俺には全く関係のない話です。ご自分の夢とやらのために、無関係な人間を巻きこむのはやめていただけますか?」
先輩に対して言い方が失礼だったか、と俺は一瞬焦ったが、空木先輩は全く気にする様子も見せずに、再び地面に落ちた入部届けを拾い上げた。
「無関係じゃないと思うぞ。君には理由が必要なんじゃないかと思って」
「……え?」
「本当は走りたくて走りたくて仕方がないんだろう?」
その言葉に、俺の両膝が再びピクリと反応した。
(違う。そうじゃない。だって俺はもう二度と……)
だからわざわざこんなど田舎の、陸上部のない、しかも定員割れしていた高校を選んで進学したっていうのに。
なのになぜ俺は今、雑草のまばらに生えた砂地のグラウンドを、全力疾走しているのだろう。
「待て〜! 絶対に逃さんぞ!」
なぜならそれは、この暑苦しい男――高校三年生の空木大志に、全力で追われているからである。
(くそっ! さっきから結構長いこと走ってるのに、全然振り切れない! 一体どんな体力してやがるんだ?)
そもそも、俺はどうしてこの三年の先輩に追われることになってしまったのか。
「内海陽真です。よろしくお願いしまひゅ」
やっべ、また大事なところで噛んだ!
高校に入学して、初対面の人たちの前で行う最初のプレゼンテーションである自己紹介。ここでの印象が、クラスメイトたちの中で俺のイメージ像を作り上げることになる。
(薔薇色の高校生活のための最初の一歩。絶対に失敗できない場面だったのに……)
同情笑いを浮かべた女子や、白けた表情の男子の拍手をパラパラと受けながら、俺は恥ずかしさに真っ赤になりながらそそくさと自分の席に着いた。
「内海〜、まだ名前しか言ってないぞ。趣味でも特技でも中学時代の部活でも何でもいいから、なんか自己紹介しろ〜」
担任の先生に緩い口調でそう指摘されて、俺は慌ててもう一度立ち上がった。
「えっと、特技は……」
走ること……は辞めた。中学時代の部活なんて絶対に明かしたくない。でもじゃあ趣味が何かあるかと言われると、即答できるほどハマっているものなんか一つも無い。
「……あ、歩くことです」
「いや、そんなの誰だってできるだろ!」
クラスメイトの誰かがツッコミを入れて、教室にどっと明るい笑い声が溢れた。
「はい、じゃあ次!」
「早良湊斗です。中学ではサッカーをやっていて……」
なんとか自己紹介を終えてホッとした俺は、他のクラスメイトの自己紹介を上の空で聞き流しながら、窓の外のグラウンドに視線を向けた。
雑草があちこちに点々と生え、あまり手入れの行き届いていないグラウンドでは、紺色の体操服を着た上級生たちが体力測定を行っていた。自己紹介が終わったら、一年生の俺たちも着替えてあそこに合流することになっている。
「高校生にもなって体力測定とか、バカバカしいよな」
真新しい体操服に腕を通しながら、クラスメイトの誰かがぶつくさ呟いている。全くもって同感だ。別に体力測定で全国一位だろうが、大学進学に有利でもなければ就職で優遇されるわけでもない。
「特に持久走。あれかったるいよな」
「1500メートルを5分以内で10点満点だって」
「マジで? よく分からんけど、5分なら俺、もしかしていけるんじゃね?」
「そうなの? 5分ってどれくらいのスピードなん?」
「なんかよく分からんけど」
「何なんその根拠のない自信」
ピクッ、と思わず俺の膝が、クラスメイトの軽口に反応する。
本当に何も分かっていない。1500メートルを5分以内で走るのに、中距離走者たちが一体どれ程の時間と努力を費やしているのか。
(そんなに簡単に切れるもんじゃないぞ。なめんなよ、5分の壁を)
ただのちょっとした出来心、闘争心だった。その壁を越える努力を知らない人間に、誰にでも簡単に手の届く高みであると見当違いな発言をされるのは、たとえ冗談だったとしても自分のプライドが許さなかったのだ。
(あいつら、見てろよ……)
1500メートル走は、スピードと持久力の両方が求められる中距離走だ。100メートル走を走るスピードで最初から飛ばせばスタミナ切れを起こすし、かと言って3000メートル越えの長距離走のつもりではどんどん追い抜かれていく。速さと体力のバランスを見極めながらのペース配分が重要になってくる競技なのだ。
(要は全くのど素人が、まともに走り切れるような距離じゃないってことだ)
案の定、意気揚々と最初に飛び出して行った連中は、すぐにガス欠を起こしてガタンとペースを落としていたり、その辺の草むらにしゃがみ込んだりしている。
(まぁ、長距離走に比べたら、断然最初からガンガン飛ばしてはいるんだけど)
少し苦しくなってきたところを耐えて、峠を越えた先に、ふっと体が軽くなって力が漲ってくるフェーズが訪れる。
セカンドウィンド。この爽快感がたまらない。まともに走る訓練をしたことのない連中は、きっとこの背中を押す風の存在すら知らずに、最初の峠でしんどくなって諦めるのだろう。
息が上がる。肺が焼ける。
でも、最後のストレートで一瞬だけ――胸の奥が、懐かしくてしょうがない高揚で満たされた。
「5分14秒!」
タイム係の先輩が思わず声を裏返らせた。
「……は? マジで? おい見ろよ、一年で五分切り寸前だぞ」
そんな囁き声が周りから聞こえてきたが、俺的にはイマイチなタイムだった。まあ、まともに準備運動もしていない状態で、鈍った体でいきなり走ったことを考えれば上出来だろう。
記録をつけてくれていたのは、先に体力測定を終えた三年の先輩たちであった。
「あ、ありがとうございます」
鉛筆で俺の用紙にタイムを書き込んでくれた先輩にお礼を言って、用紙を受け取ろうとした、その時だった。
用紙の上に見覚えのない紙が乗っていることに気がついて、俺は不審げに目を細めながらその紙を取り上げた。
『入部届 陸上部 陸上部部長 空木大志より』
「えっ?」
思わず紙を取り落とすと、その先輩……空木大志はゆっくりと腰を屈めて、地面に落ちた紙を拾い上げた。
「君、素人じゃないだろう? 陸上の経験があるならぜひとも我が陸上部へ!」
「ええっ? うちって確か、陸上部はなかったんじゃ……」
「あるぞ! かろうじて俺が一人で存続させている。だから君は部員第二号だ!」
「いやいや。経験があろうがなかろうが、俺は高校では陸上はやらないって決めてるんです」
そうきちんと断ったにも関わらず、空木先輩は全く引き下がる気配を見せずにニコニコと微笑んでいる。
「俺は君の走りに惚れ込んだんだ。もちろんその脚にもだ。まるで陸上の神様に愛されて生まれてきたかのような、綺麗な筋肉のつき方をしている。君なら世界的なスプリンターになるのも夢じゃない!」
「いや、俺の専門中距離なんですけど」
「いいじゃないか! スピードと持久力共に持ち合わせた中距離走者。まさに俺の理想の存在だ!」
そう言いながら、空木先輩は俺の用紙を机に置いて、陸上部の入部届けをきちんと折ってポケットに入れると、軽く手足を回し始めた。
「ちなみに俺の専門は長距離だ。追いかけっこをするならどっちが有利かな?」
「え?」
「君が逃げ切れば潔く諦めるが、俺に捕まったら陸上部に入部してもらう! 10秒だけ待つから走れ! それ、1、2……」
「ええええ〜?」
考えるより先に体が反応した。気がついた時には、俺は全ての種目が終わってがらんとしたグラウンドに向かって一目散に駆け出していた。
(……いや、てかルールは? 俺はいつまで逃げ続ければいいんだ?)
そして冒頭の追いかけっこに繋がるというわけである。
「とあっ!」
「ぎゃあっ!」
後ろから思いっきり飛びつかれるように捕まって、俺は危うく顔面からグラウンドに倒れ込むところだった。
(嘘だろ? マジで追いつかれちまった……)
「はい、入部届け」
折り目のついた入部届けをピラッと目の前にかざされて、俺はペシッとそれを手で弾いて地面に叩きつけた。
「そんな強引な勧誘聞いたことありません! 俺は入部なんか絶対にしませんからね!」
「頼むよ〜、リレーのメンバーを探してるんだ」
「は? リレー?」
全くもって意味が分からず、俺は思わず素っ頓狂な声を上げていた。
「何言ってるんですか? 俺中距離専門って言いましたよね? ていうか先輩も長距離が専門だって……」
「よくぞ聞いてくれた!」
嬉しそうなドヤ顔が無性に腹立つ。
「俺はこの二年間、ずっと一人で陸上部を続けてきた。陸上は野球やサッカーと違って一人でもできるスポーツだが、俺は入部した当初からチーム戦に憧れていた。高校最後の一年、どうしても今年はチームで大会に出場したいんだ」
空木先輩の演説には熱がこもって非常に暑苦しく、どちらかというと冷めている俺には迷惑以外の何物でもなかった。
「理想は駅伝だったが、長距離ってのはみんな敬遠しがちでハードルが高い。その点短距離のリレーなら助っ人で出てやってもいいと言ってくれる二年生を見つけることができた。あと二人メンバーが必要なんだ。できればちゃんと走る訓練を受けたことのある人間が」
「先輩の言いたいことはよく分かりましたが、それは俺には全く関係のない話です。ご自分の夢とやらのために、無関係な人間を巻きこむのはやめていただけますか?」
先輩に対して言い方が失礼だったか、と俺は一瞬焦ったが、空木先輩は全く気にする様子も見せずに、再び地面に落ちた入部届けを拾い上げた。
「無関係じゃないと思うぞ。君には理由が必要なんじゃないかと思って」
「……え?」
「本当は走りたくて走りたくて仕方がないんだろう?」
その言葉に、俺の両膝が再びピクリと反応した。
(違う。そうじゃない。だって俺はもう二度と……)



