絶対に楽しかったと言わせてやると意気込んだ夜から、一ヶ月。
俺と依人の仲にめちゃくちゃな進展があったかと問われると、とくになく。
しいて言えば、依人が部屋にいる時間が増えたかな、という程度の変化ではあるんだけど。
かまいたければ好きにしろとの許可を得た俺は、そこそこ楽しく後輩ブラザーとの日常を謳歌していた。
いや、だって、最初の一ヶ月、本当に我慢してたんだよ。
「あれ、依人くんじゃん」
二時間目と三時間目のあいだの休み時間。
俺の机でプリントをしていた沢見が、「ほら、あれ」と窓の外を指さした。
俺の席は窓際のうしろから二番目で、沢見はその前。少し前の席替えでゲットした特等席である。
視線を向けると、沢見の言うとおり、移動教室らしい一年生の集団があった。依人は集団の最後、少し離れたところをひとりで歩いている。
「あ、本当だ。依人~」
うれしくなってぶんぶん手を振ると、依人が上を向いた。
あっというまに依人の視線は外れたものの、飄々とした様子から一転して早歩きになっている。わかりやすい変化に、はは、と笑みがこぼれた。
「また『うぜ』って顔してる。歩くのもめっちゃ速くなってるし。やば、かわい。なぁ、あれ、かわいくない?」
「あのさぁ、夏」
くふくふ笑う俺に、沢見が呆れた顔で首を傾げる。
「夏がかわいいって思ってるんなら、それはぜんぜんいいんだけど。今年の爆発大賞、依人くんが一番ポイント高いらしいよ。知ってた?」
「まだやってんの、それ」
数少ない寮の娯楽のひとつ、自由参加の賭けごっこ(さすがに金銭は賭けないけど)。
沢見の言った『爆発大賞』は、慣れない寮生活に最初に音を上げる新入生は誰かを賭けるというものだ。
ポイントが溜まっているということは、依人が一番「そうなりそう」と目されているということ。
下手したらいじめになるからやめようよって春休みにも念押ししたんだけどな。気の合わない胴元を恨みがましく思いつつ、俺はぼやいた。
「っていうか、疑問なんだけど。みんな人のかわいいブラザーをなんだと思ってんの。ガチで」
「夏のかわいいブラザーをなんだと思ってるっていうか、うざ絡みされてかわいそうって同情してるんじゃない? 依人くんに」
「…………」
「あと、純平が『体育祭の準備、もっと和気藹々とやってほしいねんけどなぁ』って泣いてたよ」
「いや、なんで、そんなに声真似うまいの。怖いんだけど」
依人のツンケンした言動に言及されると、指導すべき立場の先輩ブラザーとしては微妙に気まずいものがある。
論点をずらした俺だったが、直後に本物の純平の声が落ちてきた。
「それ、ほんま笑いごとやないんやけど」
「純平」
いや、笑ってはないんだけど、との突っ込みは呑み込み、近寄ってきた純平を見上げる。
今月末にある体育祭は、体育委員会と寮生委員会が主導で運営をしている。
所属する生徒は忙しく、準備期間中の純平は取り扱い注意なのだった。なんというか、忙しさで余裕が失せているという点で。
その純平が、「なぁ」とじとりとした声を出す。
「え、なに?」
「なにやないて。夏さん、かわいいブラザーにちゃんと説明してくれへんかな。なんで六月末にある体育祭が寮別対抗なんか、知っとるやんね?」
「え、ああ、……うん」
それは、もちろん、知っているけれど。静かな怒りのオーラに、俺はぎこちなく頷いた。
「新入生が寮に馴染むために、わざわざ寮別になってんねんで。本番もやけど、準備とか、準備とか、準備とかで仲良うなるために」
「まぁ、俺らもそれで仲良くなったしね。なんか、夏、それまできょどきょどしてたし」
「やめて、沢見。黒歴史」
ほがらかな今の俺だけを俺として覚えておいてほしい。ふざけて顔を覆った俺の肩を、ぽんと純平が掴む。そこそこ強い力だった。
「それはどうでもええんやけど」
「あ、うん、ごめん」
慌てて顔から手を離し、謝罪する。ふざけたら駄目なやつと悟ったからだ。
「ほんま頼むで、ブラザー」
「…………うん。その、それはもちろん」
どうにかしてくれ、との心境がにじんだ要請に神妙に首肯したものの、請け負った俺の声は、びっくりするくらい上滑りしていて。
他人ごとの顔でやりとりを聞いていた沢見は、堪え切れなかったふうに噴き出していた。
俺と依人の仲にめちゃくちゃな進展があったかと問われると、とくになく。
しいて言えば、依人が部屋にいる時間が増えたかな、という程度の変化ではあるんだけど。
かまいたければ好きにしろとの許可を得た俺は、そこそこ楽しく後輩ブラザーとの日常を謳歌していた。
いや、だって、最初の一ヶ月、本当に我慢してたんだよ。
「あれ、依人くんじゃん」
二時間目と三時間目のあいだの休み時間。
俺の机でプリントをしていた沢見が、「ほら、あれ」と窓の外を指さした。
俺の席は窓際のうしろから二番目で、沢見はその前。少し前の席替えでゲットした特等席である。
視線を向けると、沢見の言うとおり、移動教室らしい一年生の集団があった。依人は集団の最後、少し離れたところをひとりで歩いている。
「あ、本当だ。依人~」
うれしくなってぶんぶん手を振ると、依人が上を向いた。
あっというまに依人の視線は外れたものの、飄々とした様子から一転して早歩きになっている。わかりやすい変化に、はは、と笑みがこぼれた。
「また『うぜ』って顔してる。歩くのもめっちゃ速くなってるし。やば、かわい。なぁ、あれ、かわいくない?」
「あのさぁ、夏」
くふくふ笑う俺に、沢見が呆れた顔で首を傾げる。
「夏がかわいいって思ってるんなら、それはぜんぜんいいんだけど。今年の爆発大賞、依人くんが一番ポイント高いらしいよ。知ってた?」
「まだやってんの、それ」
数少ない寮の娯楽のひとつ、自由参加の賭けごっこ(さすがに金銭は賭けないけど)。
沢見の言った『爆発大賞』は、慣れない寮生活に最初に音を上げる新入生は誰かを賭けるというものだ。
ポイントが溜まっているということは、依人が一番「そうなりそう」と目されているということ。
下手したらいじめになるからやめようよって春休みにも念押ししたんだけどな。気の合わない胴元を恨みがましく思いつつ、俺はぼやいた。
「っていうか、疑問なんだけど。みんな人のかわいいブラザーをなんだと思ってんの。ガチで」
「夏のかわいいブラザーをなんだと思ってるっていうか、うざ絡みされてかわいそうって同情してるんじゃない? 依人くんに」
「…………」
「あと、純平が『体育祭の準備、もっと和気藹々とやってほしいねんけどなぁ』って泣いてたよ」
「いや、なんで、そんなに声真似うまいの。怖いんだけど」
依人のツンケンした言動に言及されると、指導すべき立場の先輩ブラザーとしては微妙に気まずいものがある。
論点をずらした俺だったが、直後に本物の純平の声が落ちてきた。
「それ、ほんま笑いごとやないんやけど」
「純平」
いや、笑ってはないんだけど、との突っ込みは呑み込み、近寄ってきた純平を見上げる。
今月末にある体育祭は、体育委員会と寮生委員会が主導で運営をしている。
所属する生徒は忙しく、準備期間中の純平は取り扱い注意なのだった。なんというか、忙しさで余裕が失せているという点で。
その純平が、「なぁ」とじとりとした声を出す。
「え、なに?」
「なにやないて。夏さん、かわいいブラザーにちゃんと説明してくれへんかな。なんで六月末にある体育祭が寮別対抗なんか、知っとるやんね?」
「え、ああ、……うん」
それは、もちろん、知っているけれど。静かな怒りのオーラに、俺はぎこちなく頷いた。
「新入生が寮に馴染むために、わざわざ寮別になってんねんで。本番もやけど、準備とか、準備とか、準備とかで仲良うなるために」
「まぁ、俺らもそれで仲良くなったしね。なんか、夏、それまできょどきょどしてたし」
「やめて、沢見。黒歴史」
ほがらかな今の俺だけを俺として覚えておいてほしい。ふざけて顔を覆った俺の肩を、ぽんと純平が掴む。そこそこ強い力だった。
「それはどうでもええんやけど」
「あ、うん、ごめん」
慌てて顔から手を離し、謝罪する。ふざけたら駄目なやつと悟ったからだ。
「ほんま頼むで、ブラザー」
「…………うん。その、それはもちろん」
どうにかしてくれ、との心境がにじんだ要請に神妙に首肯したものの、請け負った俺の声は、びっくりするくらい上滑りしていて。
他人ごとの顔でやりとりを聞いていた沢見は、堪え切れなかったふうに噴き出していた。

