※
「あれ、夏やん」
「あ、こんばんは、桐生先輩」
風呂上がり、部屋に向かってひとり歩いていた俺は、一階の談話室を通り過ぎようとしたところで足を止めた。
お察し案件の気はするが、「一緒にお風呂」の要望は、依人にきっぱり断られている。
『いや、なんで、ブラザーだからって一緒に風呂入んないといけないんですか。意味がわからない』
『え、でも、大浴場だし。どうせ入るんだから一緒でよくない? 一緒に入ってるとこ多いよ? とくに最初のほうは』
『意味がわからない』
粘った俺を切り捨てた依人の目はめちゃくちゃ冷たかったわけだが、さておいて。まばらに人のいる談話室に足を踏み入れる。
「純平に道長くんだ。なにやってんの?」
ちなみに、道長くんは純平のブラザーの一年生だ。純平たちのテーブルに広がるプリントに気づき、俺は「いいなぁ」と素直に羨んだ。
「勉強教えてるんだ」
「教えるいうほどでもないんやけど、道くんが談話室使ってみたいけど、ひとりは緊張する言うから。それやったら一緒にそっちでプリントやろかって」
「え、かわいい」
上級生も出入りする談話室の利用に緊張するという発想も、その不安を同室のブラザーに打ち明けて、ついてきてもらっている現状も。
俺の感嘆を受け、純平の後輩ブラザーである道長くんは、えへへと照れ笑いを浮かべた。
「ちょっと緊張しちゃって。純平先輩に甘えちゃいました」
「え、かわ。やば、マジで道長くんかわいいね」
うちのブラザーと大違いの、初々しい素直な態度。ちょっと前まで中学生でしたという感じの線の細さも小ささも、新入生として百点すぎる。
「かわいいんは同意するけど、勢いヤバいからやめたって。道くんちょっと引いとるし」
「あ、ごめん。かわいさに感動して、つい」
純平の苦笑いに、前のめりになっていた姿勢を正す。
「道長くんもごめんね」
「ぜんぜん、大丈夫です」
にこにこほほえむ道長くんは、やっぱりめちゃくちゃかわいかった。しつこく感動する俺に、純平が呆れた顔で口を挟む。
「道くんがかわいいんはわかったけど、自分、依人くんは? 一緒やないん」
「……たぶん、自習室」
「たぶんって、どこ行ってんのか知らんの?」
「だって、俺が聞いても『ちょっと』しか言わないし。すぐ出てくし。部屋にいてくんないし」
「部屋におってくれんって、なに、ウケるんやけど。あんだけ仲良うしたい言うて、しおりまでつくっとったのに。夏、部屋追い出しとるん? こわ」
「今の俺の話のどこをどう取ったらそうなんの! もっと喋りたいに決まってるじゃん。宿題だって俺も教えてあげたいのに」
だが、依人にまったくその気がないのだった。
『授業どうだった?』
『わかんないとこあったら、教えるけど』
『困ってたら即座に助けるのが、ブラザー制度のいいところで!』
すべて依人を寮室で出迎えるたびに訴えていることだが、返事は毎度変わらず「いりません」。
強心臓と評判の俺の心も、さすがにちょっとひび割れ始めている。
「去年、海先輩にいっぱい話聞いてもらったし、宿題も教えてもらったから。俺もしてあげたかったのに、あいつ、『いりません』しか言わないんだもん」
「もしかしたらなんですけど」
自棄になってぶちまけた愚痴に、道長くんは控えめに首を傾げた。かわいい。
「高見くん、入試トップの特待生なので、勉強はすごく簡単なのかもしれないです」
「マジで?」
「マジでって知らんかったん?」
「いや、特進は知ってたけど、トップとまでは」
純平の驚いた表情が居た堪れず、俺はもごもご呟いた。
うちの学園は、特別進学クラスひとつと一般クラスふたつの三クラス編成で、どの学年も一組が特別進学クラスになっている。
だから、一年一組と聞いた時点で、依人が特別進学クラスであることは知っていた。でも。
「参考書はあやしいかもだけど、教科書だったらいけるんじゃないかなって」
「まぁ、教科書は一緒やでなぁ。参考書はレベチやけど」
と言ったところで、純平が堪え切れなかったように噴き出した。
「あかん、ヤバい。夏、そのレベルでコミュケーション破綻してたんや」
「笑わないで、俺の心がガチで死ぬから」
「ごめん、ごめん。でも、大変そうやな。夏、コミュ力強いのにね」
「だって、依人、俺がなに聞いても『うぜ』みたいな顔しかしないんだもん」
心の底からの訴えに、道長くんがにこにこと「教室でもそんな感じですよ」と暴露する。
「あ、同じクラスなんだ……」
「はい。なので、毎日一緒なんですけど。あ、でも、安心してください。さすがにクラスで『うぜ』みたいな顔はしてないですから。『関わんないでください』程度です。みんな『そっかぁ』って感じですけど」
「依人くんや~~」
「だから大変なんだってば、本当に!」
「大変はわかったけど、夏はええの?」
他人事と言わんばかりに大笑いしていた純平が、からかう顔になる。
「なにが」
「なにがって、どこにおるんか把握しとらんで。どうするん? 依人くんが隠れて煙草吸っとったら」
依人が煙草。想像して、俺はさーっと青ざめた。焦ってぶんぶんと首を振る。
「いや、…………いや、いやいや。さすがにしないだろ。高一だよ? 高一。ちょっと前まで中学生だったんだよ?」
「高一でも中学生でも吸うやつは吸うやろ」
「あの、もしそういうことが見つかったらどうなるんですか?」
「良くて停学やなぁ」
「停学……」
「あのなぁ、道くん」
ほぉと呟いた道長くんに、純平がここぞと寮の規則の説明を開始した。人のブラザーをだしにして説明するなと言いたい。
「ここは基本、生徒の自主性を尊重しとるわけやけど。生徒の自主性を尊重するということは、信頼されているということです。その信頼を裏切ると、罰がある。寮での素行不良は、寮生委員会からガツンと指導が入るので要注意」
「純平先輩、寮生委員ですもんね」
「そう、そう。気をつけんとあかんよ、道くん。注意一回でイエロー、二回でレッド。まぁ、レッド言うても寮の罰掃除やけどな。消灯時間に間に合わん、くらいのかわいいもんやったら」
したり顔で続けたところで、純平はちらりと俺を見た。
「ブラザー制度、同室は一蓮托生。とくに下級生のやらかしは、上級生の連帯責任。いやぁ、俺の道くんはいい子でよかったわぁ」
説明口調で言いながら、純平がこれ見よがしに道長くんの頭を撫でる。正直、めちゃくちゃ羨ましい。だが、それ以上に。
「いや、べつに、俺の依人も悪い子じゃないんで!」
自分が言う分には言わせてくれという感じだが、第三者に言われるとムカッとくるものがある。
「じゃあね! おやすみ!」
勢いのまま言い放ち、俺はくるりと背を向けた。
「夏、からかうんおもろすぎる~」という腹の立つ台詞は聞かなかったことにして。のしのしと階段を上り、自室の扉を開ける。
「ただいまー……って、いないんだよなぁ、やっぱり」
部屋の奥にある二段ベッドを見やり、俺は呟いた。完全にひとりごとである。
まぁ、いないと思ってたけど。あーあ、と溜息を吐き、壁際に並びで設置されている勉強机の椅子を引く。
……後輩のブラザーと並んで勉強したかったんだけどな。まぁ、でも、自習室のほうが集中できるっていうやつもいるし。
寮の自習室は、いつもそれなりに混み合っている。依人も自習室派閥なんだろうと思うことにして、俺は参考書を開いた。
だが、まったく集中できない。参考書の同じページを開いたままもやもやしていると、今度は純平の顔が浮かんだ。
うちの道くんはかわいくてよかったわぁと言わんばかりだった、デレデレしたあの顔である。
……ちょっとかわいくないだけで、依人も悪い子じゃねぇっつの。
そう。依人にだって、いいところのひとつやふたつ。数えようとしたところで、俺は固まった。いいところ。
次々とよみがえる入寮式からの怒涛の日々に、はっと頭を振る。
「いや、いやいやあるだろ。ひとつやふたつ……!」
まずはなんだ。顔がいいか。最初に浮かんだ長所がそれってどうなんだという気はしたが、背に腹は代えられない。
「あとは、えー……と、朝は、うん。きっちり起きる」
それだけじゃなく、自分のことはぜんぶ自分でやる。
ランドリーの使い方も、俺が教える隙がなかったレベルで完璧。自立しているところも、間違いなくいいところだ。
……そうだよな。俺がかまえなくて残念がってるだけなんだし……って、ん?
そこまで考えて、俺は再び固まった。
俺がかまいたがりでなければ、「手のかからない後輩ブラザーと俺」の関係でうまくいっていたのでは、とのビジョンが浮かんだからである。
依人がいない理由、俺がうざいから、だったらどうしよう。
「……いや、どうしようっていうか、まぁ、わかってたんだけどさぁ」
ぽそりとひとりごちて、俺は背もたれに体重を預けた。続けて、あーあ、と諦め半分で呟く。
薄々わかってはいたんだけど。結局、これ、「後輩ブラザーと仲良くしたい」っていう俺の欲求を、依人に押しつけてるだけなんだよな。
「三〇七ー、揃ってるー?」
コンコンと響いたノックの音に、ビクッと肩が揺れる。ぼーっとしていたことに気づき、俺は慌てて時計を確認した。
「え、やば」
二十二時三分。すなわち、寮生委員の点呼である。
二段ベッドの下段に猛スピードで偽装工作を施し、バタバタと部屋のドアを開く。
「ごめん、お待たせ。えっと、依人、ちょっと疲れたって言って、もうベッド入っちゃって」
「あ、そうなの?」
同級生の寮生委員が、ひょいと俺の背後を覗き込む。
盛り上がった布団をじっと見つめること数秒、まぁ、いいや、とそいつは点呼表にチェックをつけた。
「疲れたって体調悪いとかではなくて? 医務室必要?」
寮母さんは各寮に常駐していて、体調が悪いときは医務室で薬を貰ったり、病院に連れて行ってもらう仕組みになっている。
そこまでの事態ではないと俺は必死に首を振った。
「あ、えっと、そういう体調悪いじゃないみたいだし、様子見で大丈夫。疲れたんじゃないかな、ほら、寮生活もそろそろ二週間だし、ね?」
「……なら、いいけど。まぁ、新入生なんだし、桐生がちゃんとブラザーとして気にしてあげてね」
「もちろん!」
俺の返事にあっさり納得した背中を見送り、そろそろと部屋のドアを閉める。
バレなかった安堵で、俺は深々と息を吐き出した。
……純平じゃなくてよかった……。
今日の点呼当番が純平だったら、完全にアウトだった。絶対、中まで確認に入ってた。
はじめて点呼を誤魔化した罪悪感を抱えたまま、きっちり十分経過を待って、もう一度ドアを開ける。
誰もいないことを確認し、俺はそっと廊下に出た。
……っていうか、本当、どこ行ったんだ、あいつ。
部屋にいないのは日常でも、消灯時間を守らなかったことははじめてだ。
自習室は点呼の前に施錠されるし、談話室や食堂、大浴場、ランドリーといったところにいたら、見回りの寮生委員が戻るように声をかけるだろう。
ほかの誰かの部屋という選択は、依人の希薄な交友関係を鑑みるにありえない。
まさか外じゃないだろうな、と。一抹の不安を抱きつつ、念のために三階の談話室を確認する。だが、やはり依人はいなかった。
近くのトイレも見てみたものの、姿はなし。
「ええ……」
八方塞がりの状況に、俺は情けない声をこぼした。
ほかの階にいる可能性もあるんだろうけど、はっきり言って、行き場所の見当がつかない。
まぁ、でも、あたりまえか。内心で、俺は自嘲した。だって、俺は依人のことをなにも知らないんだし。
溜息まじりに髪を掻きやって、周囲を見渡す。そのとき、ふと非常階段の扉が目についた。
『どうするん? 依人くんが隠れて煙草吸っとったら』
頭に浮かんだ純平の声に、ドキドキと胸が鳴る。いや、まさか。でも、一番吸いやすそうだよな。においも消えそうだし。
……いや、いやいやいや、違うから!
疑惑を打ち消し、意を決して少し硬い扉を押す。
冷たい風がぶわっと吹きつけ、ぱちぱちと瞬いた先、踊り場で外を見ていたらしい背中が振り返った。
「よっ……」
呼びかけを呑み込み、音を立てないように扉を閉める。
怪訝そうな顔をしているが、一発アウトなことをしていた気配はない。確認した事実に、俺はずるずるしゃがみ込んだ。
「た、煙草じゃなかった……!」
「あんた、俺のことなんだと思ってるんですか、マジで」
「消灯時間になっても帰ってこない上に、非常階段にいるのはそこそこの問題児だよ! 点呼誤魔化したのなんてはじめてなんだけど、俺」
呆れたような声を出される覚えはない、と小さく息を吐いて、立ち上がる。
「俺、一応、真面目を心がけて生活してるんだけど。っていうか、そもそもの注意だけど、消灯時間までには帰ってこようよ。なにやってんの」
「ああ、はい。ブラザー制度は一蓮托生なんでしたっけ」
「それもあるけど、心配するだろ。時間になっても帰ってこなかったら」
「心配? ブラザーが煙草吸ってたら、先輩も叱られるんですか?」
「……黙認したら、そうかもね」
イラッとしたものの、俺は依人の隣に立つことを選んだ。
手すりを背に、改めて視線を向ける。手すりに肘をついて外を眺める横顔は、なんだかどうにもつまらなさそうだ。
なんでそういう顔ばっかりするんだろうなぁと思いつつ、俺は話しかけた。
「さっきも聞いたけど、なんで今日は戻らなかったの? 今までずっと消灯時間には帰ってたじゃん」
「べつに」
俺のほうを見ようともしないまま、依人が答える。
「なんとなくですけど」
「なんとなくって……」
取りつく島のない態度に、俺は鼻白んだ。だが、同じ土俵に乗ってもしかたがない。心を落ち着け、やんわり提案する。
「あのさ。俺がうるさいのが嫌なんだったら、控えめにするし。だから、消灯時間は守ってくれないかな」
「控えめ?」
「いや、ちょっとうざかったのかなって思って。依人が静かなほうがいいなら、その、合わせるし。だから、ごめん」
謝ると、ふっと笑う気配がした。でも、やっぱり、俺のほうに依人の視線は向かなくて。なにもない夜空を眺めたまま、依人が言う。
「仲良くしたかったんじゃないんですか、俺と」
「そりゃ、したかったけど。というか、今もしたいけど」
絶妙に嫌味だったが、俺は本心を返した。
「入学したばかりのブラザーが、……依人が落ち着く部屋になることのほうが大事だから」
そう、今さらかもしれないけれど、一応反省したのである。「へぇ」と淡々と相槌を打った依人に、ここぞと言い募る。
「なんていうかさ、俺は誰かと喋んのが好きなタイプだし、去年も海先輩と喋る時間が楽しかったんだけど。部屋でどう過ごしたいかは人それぞれだと思うし」
「急にしおらしいこと言うじゃないですか」
「だから反省したんだって!」
鼻で笑われ、俺は内心で地団太を踏んだ。謝ったら絶対に許せという話ではないが、マジでかわいくない。
はぁと溜息を吐いて、「とにかく」と主張する。
「依人が安心して『ただいま』って帰ってこれる部屋にしたいなって思ったの。それだけ。まぁ、規則は守ってほしいけど」
「それも、先輩がブラザーの先輩にしてもらってうれしかったことなんですか?」
「ん? うん、まぁ」
はじめて興味を持った雰囲気に、俺は戸惑いながら頷いた。
「海先輩、めちゃくちゃいい人でさ。入ったばっかのころは俺も緊張してたし、いろいろあったんだけど、海先輩のおかげでめちゃくちゃ楽しくなったっていうか。だから、俺も」
「へぇ」
依人を楽しくできたらいいなと思ってて、と続けようとした台詞と、冷めた声が重なる。
「たしかに、なんか異常に仲良さそうでしたもんね」
「異常にって。こんなもんだよ、こんなもん。さっき、純平も談話室で道長くん撫でてたけど、道長くん嫌そうじゃなかったよ」
「うわ、マジでここ全員距離感異常じゃないですか」
「こっちが『うわ』なんだけど。なんでそういう言い方するかな。べつにいいじゃん、ブラザーなんだから。っていうか、依人、純平って誰かわかる?」
さすがに同じクラスの道長くんはわかると信じたい。コミュケーション能力を測る目論見だったのだが、依人はさらりと正解を叩き出した。
「関西弁の人でしょ」
「なんだ、ちゃんと覚えてんじゃん」
拍子抜けした声を出した俺に、依人が呆れたふうに言い足す。
「そりゃ、さすがにわかるでしょ。歓迎会の司会もうるさかったし」
なにを思い出したのか、夜を眺める依人の瞳がゆるんだ気がした。
横顔から視線を外し、軽く首をうしろに反らす。コンクリートの天井と、隙間から覗く夜空を見つめながら、もう一度考える。
俺に対する初日の意味不明な牽制や、道長くんから聞いた教室の様子で判断しても、依人が周囲に壁をつくっていることは事実だ。でも――。
……本当に人が嫌いなやつは、人の名前なんて覚えないと思うんだよな。
距離を取ろうとしている理由は、知らないけど。姿勢を戻し、俺は「依人」と呼びかけた。依人の視線が動き、ようやく目が合う。
あ、なんだ。こっち見れんじゃん。そう思った瞬間。俺の手は依人の頭に伸びていた。
「なんすか、それ」
自分の頭にぽすりと置かれた手に、依人が訝しげな顔をする。
「あ、えっと」
俺も驚いたレベルの無意識だったので、返す言葉がない。
流れた沈黙のヤバさに、俺はもう片方の手も伸ばして依人の頭をかき混ぜる暴挙に出た。
「依人も実際に体験してみたらどうかなって。ほら、物は試しっていうか、やってみないとわかんないじゃん」
「…………」
「あ、待って、待って、待って!」
黙り込んだ依人に、焦って言い募る。下手を打った自覚はあるものの、これ以上、俺の評価をマイナスにしたくない。
「マジでちょっと待って、褒めるから」
「褒めるからって」
「えっと、たぶん、今もけっこう嫌なんだと思うけど、ちゃんと我慢してえらい!」
「いや、ちょ」
「あと、えー……と、朝もちゃんと起きてえらいし、勉強もがんばっててえらい。うん。慣れない環境でがんばってえらい!」
完全に引いている雰囲気に、俺は滑ったことも自覚した。再び沈黙が流れ、ぎこちない調子で依人が言う。
「意味がわからない」
「ごめん、俺もちょっとわかんない……」
素直に認めて、俺は依人から手を離した。
いや、マジで意味わかんないことしたな、と呆れたものの、はっとして言い添える。
「あ、でも、えらいって思ったのは本当なんだけど」
「は?」
「だって、はじめての環境でちゃんと生活してるだけでえらいと思うし。それに、ほら、同室のブラザーがうざいと、なかなかストレスなんじゃないかなって……、いや、うん、ごめん」
褒めた言葉に嘘はないと言いたかっただけのはずが、思いのほかダメージを受けてしまった。
なんというか、うざいところがある自覚も一応あったので。
「マジごめん」
パンと両手を合わせ、依人に頭を下げる。
「あの、でも、本当にこれから気をつけるようにするし」
「…………べつに、死ぬほどうざいとまでは思ってないです」
「へ?」
予想外の台詞に顔を上げると、依人はふいと視線を外した。苦虫を噛み潰したような雰囲気で「帰ります」と宣言する。
「え、帰りますって、ちょっと、依人!」
あっというまにツンケンした態度に戻った背中を追いかけながら、なんか、あれだな、と俺は思った。
呆れまじりの、でも、じわじわとむず痒い気持ちで。
こんなことを言ったら怒りそうだけど、弱み(ではぜんぜんないと思うけど)を隠したがるところとか。
自分からはいいくせに、こっちからの接触には戸惑うところとか。
ぜんぶ含めて、なんか、すげぇ繊細な野生動物って感じ。
「あれ、夏やん」
「あ、こんばんは、桐生先輩」
風呂上がり、部屋に向かってひとり歩いていた俺は、一階の談話室を通り過ぎようとしたところで足を止めた。
お察し案件の気はするが、「一緒にお風呂」の要望は、依人にきっぱり断られている。
『いや、なんで、ブラザーだからって一緒に風呂入んないといけないんですか。意味がわからない』
『え、でも、大浴場だし。どうせ入るんだから一緒でよくない? 一緒に入ってるとこ多いよ? とくに最初のほうは』
『意味がわからない』
粘った俺を切り捨てた依人の目はめちゃくちゃ冷たかったわけだが、さておいて。まばらに人のいる談話室に足を踏み入れる。
「純平に道長くんだ。なにやってんの?」
ちなみに、道長くんは純平のブラザーの一年生だ。純平たちのテーブルに広がるプリントに気づき、俺は「いいなぁ」と素直に羨んだ。
「勉強教えてるんだ」
「教えるいうほどでもないんやけど、道くんが談話室使ってみたいけど、ひとりは緊張する言うから。それやったら一緒にそっちでプリントやろかって」
「え、かわいい」
上級生も出入りする談話室の利用に緊張するという発想も、その不安を同室のブラザーに打ち明けて、ついてきてもらっている現状も。
俺の感嘆を受け、純平の後輩ブラザーである道長くんは、えへへと照れ笑いを浮かべた。
「ちょっと緊張しちゃって。純平先輩に甘えちゃいました」
「え、かわ。やば、マジで道長くんかわいいね」
うちのブラザーと大違いの、初々しい素直な態度。ちょっと前まで中学生でしたという感じの線の細さも小ささも、新入生として百点すぎる。
「かわいいんは同意するけど、勢いヤバいからやめたって。道くんちょっと引いとるし」
「あ、ごめん。かわいさに感動して、つい」
純平の苦笑いに、前のめりになっていた姿勢を正す。
「道長くんもごめんね」
「ぜんぜん、大丈夫です」
にこにこほほえむ道長くんは、やっぱりめちゃくちゃかわいかった。しつこく感動する俺に、純平が呆れた顔で口を挟む。
「道くんがかわいいんはわかったけど、自分、依人くんは? 一緒やないん」
「……たぶん、自習室」
「たぶんって、どこ行ってんのか知らんの?」
「だって、俺が聞いても『ちょっと』しか言わないし。すぐ出てくし。部屋にいてくんないし」
「部屋におってくれんって、なに、ウケるんやけど。あんだけ仲良うしたい言うて、しおりまでつくっとったのに。夏、部屋追い出しとるん? こわ」
「今の俺の話のどこをどう取ったらそうなんの! もっと喋りたいに決まってるじゃん。宿題だって俺も教えてあげたいのに」
だが、依人にまったくその気がないのだった。
『授業どうだった?』
『わかんないとこあったら、教えるけど』
『困ってたら即座に助けるのが、ブラザー制度のいいところで!』
すべて依人を寮室で出迎えるたびに訴えていることだが、返事は毎度変わらず「いりません」。
強心臓と評判の俺の心も、さすがにちょっとひび割れ始めている。
「去年、海先輩にいっぱい話聞いてもらったし、宿題も教えてもらったから。俺もしてあげたかったのに、あいつ、『いりません』しか言わないんだもん」
「もしかしたらなんですけど」
自棄になってぶちまけた愚痴に、道長くんは控えめに首を傾げた。かわいい。
「高見くん、入試トップの特待生なので、勉強はすごく簡単なのかもしれないです」
「マジで?」
「マジでって知らんかったん?」
「いや、特進は知ってたけど、トップとまでは」
純平の驚いた表情が居た堪れず、俺はもごもご呟いた。
うちの学園は、特別進学クラスひとつと一般クラスふたつの三クラス編成で、どの学年も一組が特別進学クラスになっている。
だから、一年一組と聞いた時点で、依人が特別進学クラスであることは知っていた。でも。
「参考書はあやしいかもだけど、教科書だったらいけるんじゃないかなって」
「まぁ、教科書は一緒やでなぁ。参考書はレベチやけど」
と言ったところで、純平が堪え切れなかったように噴き出した。
「あかん、ヤバい。夏、そのレベルでコミュケーション破綻してたんや」
「笑わないで、俺の心がガチで死ぬから」
「ごめん、ごめん。でも、大変そうやな。夏、コミュ力強いのにね」
「だって、依人、俺がなに聞いても『うぜ』みたいな顔しかしないんだもん」
心の底からの訴えに、道長くんがにこにこと「教室でもそんな感じですよ」と暴露する。
「あ、同じクラスなんだ……」
「はい。なので、毎日一緒なんですけど。あ、でも、安心してください。さすがにクラスで『うぜ』みたいな顔はしてないですから。『関わんないでください』程度です。みんな『そっかぁ』って感じですけど」
「依人くんや~~」
「だから大変なんだってば、本当に!」
「大変はわかったけど、夏はええの?」
他人事と言わんばかりに大笑いしていた純平が、からかう顔になる。
「なにが」
「なにがって、どこにおるんか把握しとらんで。どうするん? 依人くんが隠れて煙草吸っとったら」
依人が煙草。想像して、俺はさーっと青ざめた。焦ってぶんぶんと首を振る。
「いや、…………いや、いやいや。さすがにしないだろ。高一だよ? 高一。ちょっと前まで中学生だったんだよ?」
「高一でも中学生でも吸うやつは吸うやろ」
「あの、もしそういうことが見つかったらどうなるんですか?」
「良くて停学やなぁ」
「停学……」
「あのなぁ、道くん」
ほぉと呟いた道長くんに、純平がここぞと寮の規則の説明を開始した。人のブラザーをだしにして説明するなと言いたい。
「ここは基本、生徒の自主性を尊重しとるわけやけど。生徒の自主性を尊重するということは、信頼されているということです。その信頼を裏切ると、罰がある。寮での素行不良は、寮生委員会からガツンと指導が入るので要注意」
「純平先輩、寮生委員ですもんね」
「そう、そう。気をつけんとあかんよ、道くん。注意一回でイエロー、二回でレッド。まぁ、レッド言うても寮の罰掃除やけどな。消灯時間に間に合わん、くらいのかわいいもんやったら」
したり顔で続けたところで、純平はちらりと俺を見た。
「ブラザー制度、同室は一蓮托生。とくに下級生のやらかしは、上級生の連帯責任。いやぁ、俺の道くんはいい子でよかったわぁ」
説明口調で言いながら、純平がこれ見よがしに道長くんの頭を撫でる。正直、めちゃくちゃ羨ましい。だが、それ以上に。
「いや、べつに、俺の依人も悪い子じゃないんで!」
自分が言う分には言わせてくれという感じだが、第三者に言われるとムカッとくるものがある。
「じゃあね! おやすみ!」
勢いのまま言い放ち、俺はくるりと背を向けた。
「夏、からかうんおもろすぎる~」という腹の立つ台詞は聞かなかったことにして。のしのしと階段を上り、自室の扉を開ける。
「ただいまー……って、いないんだよなぁ、やっぱり」
部屋の奥にある二段ベッドを見やり、俺は呟いた。完全にひとりごとである。
まぁ、いないと思ってたけど。あーあ、と溜息を吐き、壁際に並びで設置されている勉強机の椅子を引く。
……後輩のブラザーと並んで勉強したかったんだけどな。まぁ、でも、自習室のほうが集中できるっていうやつもいるし。
寮の自習室は、いつもそれなりに混み合っている。依人も自習室派閥なんだろうと思うことにして、俺は参考書を開いた。
だが、まったく集中できない。参考書の同じページを開いたままもやもやしていると、今度は純平の顔が浮かんだ。
うちの道くんはかわいくてよかったわぁと言わんばかりだった、デレデレしたあの顔である。
……ちょっとかわいくないだけで、依人も悪い子じゃねぇっつの。
そう。依人にだって、いいところのひとつやふたつ。数えようとしたところで、俺は固まった。いいところ。
次々とよみがえる入寮式からの怒涛の日々に、はっと頭を振る。
「いや、いやいやあるだろ。ひとつやふたつ……!」
まずはなんだ。顔がいいか。最初に浮かんだ長所がそれってどうなんだという気はしたが、背に腹は代えられない。
「あとは、えー……と、朝は、うん。きっちり起きる」
それだけじゃなく、自分のことはぜんぶ自分でやる。
ランドリーの使い方も、俺が教える隙がなかったレベルで完璧。自立しているところも、間違いなくいいところだ。
……そうだよな。俺がかまえなくて残念がってるだけなんだし……って、ん?
そこまで考えて、俺は再び固まった。
俺がかまいたがりでなければ、「手のかからない後輩ブラザーと俺」の関係でうまくいっていたのでは、とのビジョンが浮かんだからである。
依人がいない理由、俺がうざいから、だったらどうしよう。
「……いや、どうしようっていうか、まぁ、わかってたんだけどさぁ」
ぽそりとひとりごちて、俺は背もたれに体重を預けた。続けて、あーあ、と諦め半分で呟く。
薄々わかってはいたんだけど。結局、これ、「後輩ブラザーと仲良くしたい」っていう俺の欲求を、依人に押しつけてるだけなんだよな。
「三〇七ー、揃ってるー?」
コンコンと響いたノックの音に、ビクッと肩が揺れる。ぼーっとしていたことに気づき、俺は慌てて時計を確認した。
「え、やば」
二十二時三分。すなわち、寮生委員の点呼である。
二段ベッドの下段に猛スピードで偽装工作を施し、バタバタと部屋のドアを開く。
「ごめん、お待たせ。えっと、依人、ちょっと疲れたって言って、もうベッド入っちゃって」
「あ、そうなの?」
同級生の寮生委員が、ひょいと俺の背後を覗き込む。
盛り上がった布団をじっと見つめること数秒、まぁ、いいや、とそいつは点呼表にチェックをつけた。
「疲れたって体調悪いとかではなくて? 医務室必要?」
寮母さんは各寮に常駐していて、体調が悪いときは医務室で薬を貰ったり、病院に連れて行ってもらう仕組みになっている。
そこまでの事態ではないと俺は必死に首を振った。
「あ、えっと、そういう体調悪いじゃないみたいだし、様子見で大丈夫。疲れたんじゃないかな、ほら、寮生活もそろそろ二週間だし、ね?」
「……なら、いいけど。まぁ、新入生なんだし、桐生がちゃんとブラザーとして気にしてあげてね」
「もちろん!」
俺の返事にあっさり納得した背中を見送り、そろそろと部屋のドアを閉める。
バレなかった安堵で、俺は深々と息を吐き出した。
……純平じゃなくてよかった……。
今日の点呼当番が純平だったら、完全にアウトだった。絶対、中まで確認に入ってた。
はじめて点呼を誤魔化した罪悪感を抱えたまま、きっちり十分経過を待って、もう一度ドアを開ける。
誰もいないことを確認し、俺はそっと廊下に出た。
……っていうか、本当、どこ行ったんだ、あいつ。
部屋にいないのは日常でも、消灯時間を守らなかったことははじめてだ。
自習室は点呼の前に施錠されるし、談話室や食堂、大浴場、ランドリーといったところにいたら、見回りの寮生委員が戻るように声をかけるだろう。
ほかの誰かの部屋という選択は、依人の希薄な交友関係を鑑みるにありえない。
まさか外じゃないだろうな、と。一抹の不安を抱きつつ、念のために三階の談話室を確認する。だが、やはり依人はいなかった。
近くのトイレも見てみたものの、姿はなし。
「ええ……」
八方塞がりの状況に、俺は情けない声をこぼした。
ほかの階にいる可能性もあるんだろうけど、はっきり言って、行き場所の見当がつかない。
まぁ、でも、あたりまえか。内心で、俺は自嘲した。だって、俺は依人のことをなにも知らないんだし。
溜息まじりに髪を掻きやって、周囲を見渡す。そのとき、ふと非常階段の扉が目についた。
『どうするん? 依人くんが隠れて煙草吸っとったら』
頭に浮かんだ純平の声に、ドキドキと胸が鳴る。いや、まさか。でも、一番吸いやすそうだよな。においも消えそうだし。
……いや、いやいやいや、違うから!
疑惑を打ち消し、意を決して少し硬い扉を押す。
冷たい風がぶわっと吹きつけ、ぱちぱちと瞬いた先、踊り場で外を見ていたらしい背中が振り返った。
「よっ……」
呼びかけを呑み込み、音を立てないように扉を閉める。
怪訝そうな顔をしているが、一発アウトなことをしていた気配はない。確認した事実に、俺はずるずるしゃがみ込んだ。
「た、煙草じゃなかった……!」
「あんた、俺のことなんだと思ってるんですか、マジで」
「消灯時間になっても帰ってこない上に、非常階段にいるのはそこそこの問題児だよ! 点呼誤魔化したのなんてはじめてなんだけど、俺」
呆れたような声を出される覚えはない、と小さく息を吐いて、立ち上がる。
「俺、一応、真面目を心がけて生活してるんだけど。っていうか、そもそもの注意だけど、消灯時間までには帰ってこようよ。なにやってんの」
「ああ、はい。ブラザー制度は一蓮托生なんでしたっけ」
「それもあるけど、心配するだろ。時間になっても帰ってこなかったら」
「心配? ブラザーが煙草吸ってたら、先輩も叱られるんですか?」
「……黙認したら、そうかもね」
イラッとしたものの、俺は依人の隣に立つことを選んだ。
手すりを背に、改めて視線を向ける。手すりに肘をついて外を眺める横顔は、なんだかどうにもつまらなさそうだ。
なんでそういう顔ばっかりするんだろうなぁと思いつつ、俺は話しかけた。
「さっきも聞いたけど、なんで今日は戻らなかったの? 今までずっと消灯時間には帰ってたじゃん」
「べつに」
俺のほうを見ようともしないまま、依人が答える。
「なんとなくですけど」
「なんとなくって……」
取りつく島のない態度に、俺は鼻白んだ。だが、同じ土俵に乗ってもしかたがない。心を落ち着け、やんわり提案する。
「あのさ。俺がうるさいのが嫌なんだったら、控えめにするし。だから、消灯時間は守ってくれないかな」
「控えめ?」
「いや、ちょっとうざかったのかなって思って。依人が静かなほうがいいなら、その、合わせるし。だから、ごめん」
謝ると、ふっと笑う気配がした。でも、やっぱり、俺のほうに依人の視線は向かなくて。なにもない夜空を眺めたまま、依人が言う。
「仲良くしたかったんじゃないんですか、俺と」
「そりゃ、したかったけど。というか、今もしたいけど」
絶妙に嫌味だったが、俺は本心を返した。
「入学したばかりのブラザーが、……依人が落ち着く部屋になることのほうが大事だから」
そう、今さらかもしれないけれど、一応反省したのである。「へぇ」と淡々と相槌を打った依人に、ここぞと言い募る。
「なんていうかさ、俺は誰かと喋んのが好きなタイプだし、去年も海先輩と喋る時間が楽しかったんだけど。部屋でどう過ごしたいかは人それぞれだと思うし」
「急にしおらしいこと言うじゃないですか」
「だから反省したんだって!」
鼻で笑われ、俺は内心で地団太を踏んだ。謝ったら絶対に許せという話ではないが、マジでかわいくない。
はぁと溜息を吐いて、「とにかく」と主張する。
「依人が安心して『ただいま』って帰ってこれる部屋にしたいなって思ったの。それだけ。まぁ、規則は守ってほしいけど」
「それも、先輩がブラザーの先輩にしてもらってうれしかったことなんですか?」
「ん? うん、まぁ」
はじめて興味を持った雰囲気に、俺は戸惑いながら頷いた。
「海先輩、めちゃくちゃいい人でさ。入ったばっかのころは俺も緊張してたし、いろいろあったんだけど、海先輩のおかげでめちゃくちゃ楽しくなったっていうか。だから、俺も」
「へぇ」
依人を楽しくできたらいいなと思ってて、と続けようとした台詞と、冷めた声が重なる。
「たしかに、なんか異常に仲良さそうでしたもんね」
「異常にって。こんなもんだよ、こんなもん。さっき、純平も談話室で道長くん撫でてたけど、道長くん嫌そうじゃなかったよ」
「うわ、マジでここ全員距離感異常じゃないですか」
「こっちが『うわ』なんだけど。なんでそういう言い方するかな。べつにいいじゃん、ブラザーなんだから。っていうか、依人、純平って誰かわかる?」
さすがに同じクラスの道長くんはわかると信じたい。コミュケーション能力を測る目論見だったのだが、依人はさらりと正解を叩き出した。
「関西弁の人でしょ」
「なんだ、ちゃんと覚えてんじゃん」
拍子抜けした声を出した俺に、依人が呆れたふうに言い足す。
「そりゃ、さすがにわかるでしょ。歓迎会の司会もうるさかったし」
なにを思い出したのか、夜を眺める依人の瞳がゆるんだ気がした。
横顔から視線を外し、軽く首をうしろに反らす。コンクリートの天井と、隙間から覗く夜空を見つめながら、もう一度考える。
俺に対する初日の意味不明な牽制や、道長くんから聞いた教室の様子で判断しても、依人が周囲に壁をつくっていることは事実だ。でも――。
……本当に人が嫌いなやつは、人の名前なんて覚えないと思うんだよな。
距離を取ろうとしている理由は、知らないけど。姿勢を戻し、俺は「依人」と呼びかけた。依人の視線が動き、ようやく目が合う。
あ、なんだ。こっち見れんじゃん。そう思った瞬間。俺の手は依人の頭に伸びていた。
「なんすか、それ」
自分の頭にぽすりと置かれた手に、依人が訝しげな顔をする。
「あ、えっと」
俺も驚いたレベルの無意識だったので、返す言葉がない。
流れた沈黙のヤバさに、俺はもう片方の手も伸ばして依人の頭をかき混ぜる暴挙に出た。
「依人も実際に体験してみたらどうかなって。ほら、物は試しっていうか、やってみないとわかんないじゃん」
「…………」
「あ、待って、待って、待って!」
黙り込んだ依人に、焦って言い募る。下手を打った自覚はあるものの、これ以上、俺の評価をマイナスにしたくない。
「マジでちょっと待って、褒めるから」
「褒めるからって」
「えっと、たぶん、今もけっこう嫌なんだと思うけど、ちゃんと我慢してえらい!」
「いや、ちょ」
「あと、えー……と、朝もちゃんと起きてえらいし、勉強もがんばっててえらい。うん。慣れない環境でがんばってえらい!」
完全に引いている雰囲気に、俺は滑ったことも自覚した。再び沈黙が流れ、ぎこちない調子で依人が言う。
「意味がわからない」
「ごめん、俺もちょっとわかんない……」
素直に認めて、俺は依人から手を離した。
いや、マジで意味わかんないことしたな、と呆れたものの、はっとして言い添える。
「あ、でも、えらいって思ったのは本当なんだけど」
「は?」
「だって、はじめての環境でちゃんと生活してるだけでえらいと思うし。それに、ほら、同室のブラザーがうざいと、なかなかストレスなんじゃないかなって……、いや、うん、ごめん」
褒めた言葉に嘘はないと言いたかっただけのはずが、思いのほかダメージを受けてしまった。
なんというか、うざいところがある自覚も一応あったので。
「マジごめん」
パンと両手を合わせ、依人に頭を下げる。
「あの、でも、本当にこれから気をつけるようにするし」
「…………べつに、死ぬほどうざいとまでは思ってないです」
「へ?」
予想外の台詞に顔を上げると、依人はふいと視線を外した。苦虫を噛み潰したような雰囲気で「帰ります」と宣言する。
「え、帰りますって、ちょっと、依人!」
あっというまにツンケンした態度に戻った背中を追いかけながら、なんか、あれだな、と俺は思った。
呆れまじりの、でも、じわじわとむず痒い気持ちで。
こんなことを言ったら怒りそうだけど、弱み(ではぜんぜんないと思うけど)を隠したがるところとか。
自分からはいいくせに、こっちからの接触には戸惑うところとか。
ぜんぶ含めて、なんか、すげぇ繊細な野生動物って感じ。



