待ちに待った新入生の入寮日、昼。
 明日の入学式を前に入寮したかわいい後輩ブラザー、もとい高見依人くんを伴って案内していた寮の廊下を、俺は慌てて引き返していた。
 揃って物陰に隠れ、どうにか一息吐いたタイミングで、依人くんが言う。
「桐生先輩、ブラザー制度ってやたら力説してましたけど。あれ、ゲイの隠語かなんかだったんですか?」
「違う、違う、違う!」
 怪訝そうな問いかけを、俺は全力で否定した。
「さっき説明したよね? ブラザー制度は、二年生が同室になった新入生を『学園内の兄』としてサポートするシステムなの。本当、それだけ!」
「じゃあ、なんなんですか、さっきのあれ。談話室のカップルみたいなの」
 依人くんが首を伸ばし、角の向こう、数メートル先の談話室を指さした。
 はじめて部屋で会ったとき、「すげぇイケメンな子が来たな……」と驚いた依人くんの顔は、今や見事に呆れ返っている。
「寮の歓迎会の前に案内してあげる~とか言って人のこと連れ回した挙句、談話室に人影が見えた瞬間、すげぇ勢いでUターンしましたよね」
「いやぁ、その」
 全体的に棘がすごい。うっかり目が泳いだものの、依人くんの言うことに間違いがあるわけではないのだった。
 新入生のブラザーに寮を案内しようと張り切ったのは俺で、談話室から流れる甘い空気を察知して焦って引き返したのも、まぁ、俺だ。だが、しかし。
「べつに全員がそういうわけじゃなくて、あのふたりが特殊事例っていうか。うん、特殊事例だな」
「特殊事例。談話室でいちゃついてんのがですか?」
「いちゃ……、いや、えっと、一応、寮内異性……というか、不純交友は禁止なんだけど」
 角の先を凝視する依人くんは、理解不能といった雰囲気だ。
 そんなに嫌がらなくてもいいと思うんだけどな。
 不思議に感じつつ、俺も首を伸ばす。談話室の様子を確認していると、依人くんが「ほら」と鬼の首を取ったように指摘した。
「なんか、頭撫でてるじゃないですか」
「ええ……、まぁ、撫でてるけど。あれくらいセーフじゃない?」
「ほかにいくらでも座るとこあるのに、ソファーに並んで座ってますけど」
「仲が良かったら、べつにあるんじゃない?」
 まぁ、あのふたりに関して言えば、付き合っているわけだけど。俺も去年のブラザーだった先輩とあのくらいの距離で座ることはある。
 甘い空気に焦って物陰に撤退したものの、べつに大丈夫だった気がしてきたな。
 あっさり首肯した俺に、依人くんの声が低くなる。
「異常に距離も近い」
「ええ、……でも、まぁ」
「しかも、今、手ぇ握りませんでした?」
「いやぁ、でも……」
「っていうか、マジでなんなんですか、あの空気。クソ甘くないですか? 男同士なのに」
「依人くんさぁ」
 どんどんきつくなっていく口調に、俺はたまらず制止をかけた。
「いきなり目撃してびっくりした気持ちはわかるけど、そこまで嫌そうな声出さなくてもいいんじゃない?」
 マイルドな言い方を選んだつもりだったが、依人くんがむっと眉を寄せる。説教くさいと思ったのかもしれない。
 ……いや、でもなぁ。
 不満そうな様子に、俺は、うーん、と言葉を探した。
 なんというか、うちの高校は男子校で、おまけに全寮制なので。
 興味本位に「男同士のカップルっているんでしょ?」と聞かれることは、珍しい話じゃない(帰省してるとき限定だけど)。
 だから、依人くんの過剰反応も、事前になにか言われて身構えた末のものと思えば、擁護することはぜんぜんできる……んだけど。
「まぁ、ほら、人の嗜好ってそれぞれじゃん。ブラザー制度はあくまで心の絆なんだけど、なかには付き合い出すペアもいて――って、ちょっと!?」
「なんですか?」
「なんですかっていうか、いや……」
 きみが「もう興味は消えました」とばかりに、丸めて首のあたりをぽんぽん叩いてるその冊子。
 俺が春休みにせっせと手作りした『この学園と寮で楽しく過ごすためのワンポイント情報集』なんだけど。
 ……いや、でも、つくったのは俺の勝手だしな。
 感謝の強要はよろしくない。そう言い聞かせることで、俺はぐっと呑み込んだ。
 気分を切り替え、「とにかく」と話を終わらせにかかる。
「害はないから。あとうちの名物カップルなんで。依人くんも見慣れてくんないかな」
「見慣れてくんないかなって」
「あ、ふたり移動したね。おいで、おいで」
 不納得気味の声をスルーして、俺は談話室に足を踏み入れた。本来の目的の寮案内である。
「はい。そんなわけで、ここが四階の談話室です」
 ソファーや椅子、小さな机が点在する空間を示し、依人くんに笑いかける。
「歩きながらも説明したけど、二階と三階が一年生と二年生がペアで入ってる寮室で、四階と五階が三年生の寮室。三年生になると受験もあるから個室になるんだよね」
 依人くんは無言だったが、俺はがんばって説明を続けた。めげてたまるかという意地でしかない。
「えっと、俺と依人くんは三階だけど、それ以外の階の談話室も好きに使っていいから、先輩たちとも自由に交流してね。まぁ、けっこうみんな一階の一番広い談話室に集まるんだけど」
 一階には食堂があるし、大浴場もあるし、ランドリーもある。一階の談話室がたまり場になるのは、自然の成り行きというやつだ。
「それで、人が来ない談話室でいちゃついてたんですか、あの人ら」
「あの、依人くん」
 嫌そうな声を出すくせに、なんで、そこに話を戻すかな。
 突っ込みたい気持ちを脇に置き、恐る恐る呼びかける。またしてもとんでもなく棘のある言い方だったからだ。
「そういうの苦手なの? 場所は選んだほうがいいと思うし、あとでちゃんと言っとくけど。男同士とかそういうのは個人の自由じゃない?」
「世間一般的に考えて、ふつうじゃないと思いますけど。名物カップルっていう意味もわからない」
「あー……、うん。はい」
 なるほどね、と俺は生ぬるく頷いた。頭が固いというべきか、なんというべきか。
 依人くんの言うとおり、たしかに世間のメジャーではないと思うけど、そこまで嫌がらなくてもいいだろうに。
 ……でも、ちゃんと伝えたほうがいいよな。先輩ブラザーだし、俺。
 身長もほとんど変わらないし、かわいくない気配もしているが、念願の待ちに待ったブラザーだ。
 しらっとした顔に向かい、「あのさ」と切り出す。
「そういうふうに考えるのも個人の自由だと思うけど、本人たちに言わないでやってね。それはマナーだと思うよ。その、……なんていうか、それこそ世間一般の」
「桐生先輩って」
「あ、最初にも言ったけど、夏でいいよ。桐生って呼びにくくない? ここ、わりとみんな名前で呼ぶし」
「……夏先輩って」
 お、素直、と喜んだのもつかのま。依人くんはまったくかわいくないことを言ってのけた。
「わりと偽善者っすよね。脳内お花畑でもいいですけど、なんか、すげぇ平和な世界で生きてそう」
「…………」
「あと、その『くん』づけ、すげぇ気持ち悪いんで。ふつうに苗字がいいんですけど、どうしても名前で呼びたいんだったら、せめて呼び捨てにしてください」
 黙って聞いてたら、悪口ばっかりすげぇぺらぺら喋るじゃん。依人くんを見つめたまま、俺は完全に沈黙した。
 いや、マジで。ここに至るまでに俺が振った「依人くんの趣味ってなに?」みたいな仲良くなりたいトークには、「とくに」と「べつに」の二択だったくせにさぁ。
 でも、ここで爆発したら、依人くんの思うつぼな気がする。
 野生の本能で察し、俺はにこりとほほえんだ。似非くさかったかもしれないが、よしとしてほしい。
「じゃあ、依人」
「なんですか?」
「そろそろ歓迎会に行こうか。一階の食堂で、寮生みんなでやるんだよ」
 薄々気づいていたものの、きみはけっこうかわいくないね、との本心も、相手はかわいいブラザーの新入生、俺は先輩、と言い聞かせることで抑え込む。
 ……でも、本当、会ったばかりの先輩に「偽善者」とかよく厨二ムーブなこと言えるよな。
 というか、だ。平和な世界に生きていてなにが悪い。今年も楽しく過ごしたいと決めているだけである。
 心の中で言い返し、少しすっきりしたところで、俺は階段に向かって歩き出した。