翌日の放課後、春原湊は自分でも驚くほど落ち着かない心を抱えていた。
階段を上がる足取りは落ち着いているようで、それでもどこか早足になっている。胸の奥のざわめきは、昨日から消えていない。
――陽真に、勝ちたい。
その感情を自分が持つ日が来るなんて、数ヶ月前の湊には想像できなかった。
将棋は好きだが、本気でぶつかるのは苦手だ。
勝てば誰かを傷つけるかもしれない。
その考えがいつも湊を守りに徹させ、距離を置かせ、負けて終われば全て丸く収まる――と思い込んできた。
けれど昨日、陽真に言われた。
『逃げてるだけだろ。勝っても負けても、本気に意味があるんだよ』
胸の内にあった古い流れが止まり、代わりに熱が流れ込み始めたような感覚。
湊はその熱を握りしめるように拳を強く握り、将棋部のドアに手をかけた。
引き戸を横に滑らせると、陽真がそこにいた。
「……あ、湊」
いつもと同じように、陽真は明るく声をかけてくる。
しかしその表情にどことなく緊張が混じっていることを、湊はすぐに理解した。
「今日、早いんだな」
「そっちこそ。いつもより……来るの早くね?」
互いに言いながら、どこかぎこちない。
妙に意識し合っている、それがはっきり分かる。
陽真の手元、机の上には一つの将棋盤が置かれていた。
まるで「準備はできてる」と言わんばかりに。
「二人とも、今日の空気……なんか刺さってるね」
窓際で棋譜を並べていた白鳥佐久人部長が、微笑しながらつぶやく。
後輩の西園寺琉青も顔だけこっちに向けて目を丸くしていた。
「先輩たち、僕、部室の外で待ってたほうが良いですか?」
「いや、いていいよ。けど……ちょっと席外すわ。邪魔しちゃ悪いしな」
白鳥はそっと棋譜ノートを閉じると、出入口へ向かった。
琉青も「がんばってください!」とだけ残し、慌てて後に続く。
ドアが閉まると、部室に静けさが戻った。
陽真が湊をまっすぐ見つめる。
「湊」
「……なに」
「今日さ。本気でやろうぜ」
その言葉を待っていたように、湊の胸は強く脈打った。
「……うん。陽真に、勝ちたい」
言った瞬間、陽真の目がかすかに揺れる。
驚き、喜び、緊張――さまざまな感情が混ざって、やがて笑みに変わった。
「……やっと言ったな。ずっと待ってたよ、その言葉」
二人は向かい合って座り、盤を挟んで視線を交わす。
呼吸すら慎重にしないと揺れてしまいそうな静気が満ちた。
「先手後手、どっち?」
「……陽真からで」
「いいね」
陽真が一枚の駒を手に取る。
その瞬間、湊は喉が乾いていくのを感じた。
これまで何度も対局してきたはずなのに、今日は違う。空気が違う。
カチリ、と駒が置かれる。
――対局開始。
◇◇◇
最初に飛び込んできたのは、陽真らしい鋭い攻めだった。
まるで一直線に道を切り裂くような力強い一手。
(こんな……序盤から、くるんだ)
だが湊は逃げなかった。
深呼吸し、駒を持つ指を落ち着け、受け止めるように一手を返す。
カチリ、カチリと、駒音が続く。
その音が心臓の鼓動よりも鮮明に聞こえるほど、湊の感覚は研ぎ澄まされていく。
(陽真……本気で来てくれてる)
不思議な感覚だった。
強い攻めをされても嫌ではない。
押しつぶされるような圧も、不思議と苦ではない。
むしろ――嬉しい。
(陽真、俺を……ちゃんと相手として見てくれてる)
一手一手が熱を帯び、盤上が戦場のように輝き出す。
「湊……今日、全然違うじゃん」
陽真が息を乱しながら言う。
「昨日の一手、忘れられなかったんだよ。あの攻め……お前の本気の色が見えた」
「……俺も。陽真に負けたくないって、初めて思った」
言葉を交わしながらも、駒の音は止まらない。
互いを理解しようとする会話と、互いを倒し合う駒音。
矛盾した行動なのに、不思議としっくりくる。
互いが互いを求めてぶつかり合う――そんな不思議な対局だった。
◇◇◇
中盤をすぎた頃、湊の心にふと迷いが差した。
(もし、ここで俺が勝ったら……陽真、嫌な気持ちになるんじゃ……?)
その瞬間、視界が少しだけ曇る。
いつもの“引き”の感覚が顔を出し、手が止まりそうになる。
だが――
「湊」
陽真が、まっすぐに名前を呼んだ。
「迷ってる顔、分かるんだよ、お前の。昨日も今日もな」
「……っ」
「いいから来いよ。お前の本気、まだ全然見えてない」
陽真の言葉が、曖昧な影を払いのけるように湊の胸に刺さる。
彼は駒を強く握りしめ、震える指で盤に叩きつけた。
――パシン。
いつもより強い音だった。
自分でも驚くほど、攻める一手だった。
(勝ちたい――本気で)
その瞬間、湊の中で何かが鮮やかに変わった。
心の奥にあった弱さの殻が割れるような感覚がした。
◇◇◇
最終盤。
湊の指は震え、陽真の指も汗ばむ。
互いの顔には疲労と興奮が混ざっていた。
「……はぁ、っ……湊、ここまで来るとか、マジで思ってなかった」
「……俺も。こんな熱い勝負……初めて」
局面は一手差で陽真が優勢。
湊は最後の望みに賭けて攻めるが――
「これで……終わりだ」
陽真がそっと駒を置く。
カチリ。
その音が、湊の心に静かに染みこんでいった。
「……参りました」
言った瞬間、視界が滲む。
悔しさが胸の奥で大きく脈動する。
(悔しい……負けたくなかった……こんな気持ち、初めてだ……)
湊は唇を噛みしめ、両手で顔を覆いそうになる。
けれど、その前に陽真の声が届いた。
「湊、今日の対局……マジで最高だった」
陽真は咲くように笑っていた。
勝ったはずなのに、どこか嬉しそうで、どこか誇らしげで。
「お前さ。悔しがってる顔、初めて見た」
「……笑うなよ」
「笑ってねーよ。すげぇなって思って」
陽真は勝者の余裕でも、相手を慰める優しさでもなく、
“対等なライバル”として湊を見ていた。
「今日の湊……本気で戦ってくれただろ。俺、それが何より嬉しい」
湊は胸が熱くなり、言葉が出なくなる。
悔しさも、嬉しさも、全部ごちゃ混ぜになって、自分でも整理できなかった。
◇◇◇
家に帰ると、リビングの電気がついていた。
父・遼が残業帰りにカップ麺を食べている。
いつもなら自分の部屋にすぐ籠もる湊だが、今日は何となく父の前に座った。
「……ただいま」
「おう。お疲れ」
遼は何気なくテレビを消す。
湊の表情から何かを感じ取ったのだろう。
「どうした、将棋、負けたか?」
湊は一瞬、驚いた。
まるで全て見透かされているようだった。
「……うん。悔しい、って……初めて思った」
「悔しい、か」
遼は湊の頭をぐしゃりと撫でた。
それは子どもの頃以来の感触で、湊の胸がじんとする。
「良い負け方してきたな」
「え……?」
「悔しいって気持ちはな、強くなるには必要だ。俺も昔、負けて眠れなかった夜があったよ」
その言葉に、湊の呼吸が止まりそうになる。
「……父さんも、同じ気持ちだったの?」
「ああ。俺も完璧じゃねぇよ。勝てなくて悔しかった。勝ちたくて震えた。負けるのが怖いときもあった」
遼の横顔は穏やかで、どこか懐かしそうだった。
「湊、お前……やっと“入り口”に立ったな」
「入り口……?」
「本気で悔しがれるやつは、ここから強くなる。将棋だけじゃない。人間だってそうだ」
湊は胸の奥に、じわりと熱が広がるのを感じた。
「次は勝てるさ。今日の悔しさが、きっと力になる」
遼の言葉は決して大げさではなく、ただ静かに伸びてきて湊の背中を支えた。
◇◇◇
その夜、湊は自室で一人盤を広げた。
今日の対局を何度も再現し、負けを分けた一手に指を這わせる。
「……次は……絶対に」
その小さなつぶやきは、もう逃げ腰ではなく、確かな熱を帯びていた。
湊は知っていた。
今日の敗北は、自分にとって初めての“誇れる負け”なのだと。
湊は指先に灯った熱をそっと胸に押し当てながら、深く息を吸った。
――ここから強くなれる。
そう信じられる夜だった。
階段を上がる足取りは落ち着いているようで、それでもどこか早足になっている。胸の奥のざわめきは、昨日から消えていない。
――陽真に、勝ちたい。
その感情を自分が持つ日が来るなんて、数ヶ月前の湊には想像できなかった。
将棋は好きだが、本気でぶつかるのは苦手だ。
勝てば誰かを傷つけるかもしれない。
その考えがいつも湊を守りに徹させ、距離を置かせ、負けて終われば全て丸く収まる――と思い込んできた。
けれど昨日、陽真に言われた。
『逃げてるだけだろ。勝っても負けても、本気に意味があるんだよ』
胸の内にあった古い流れが止まり、代わりに熱が流れ込み始めたような感覚。
湊はその熱を握りしめるように拳を強く握り、将棋部のドアに手をかけた。
引き戸を横に滑らせると、陽真がそこにいた。
「……あ、湊」
いつもと同じように、陽真は明るく声をかけてくる。
しかしその表情にどことなく緊張が混じっていることを、湊はすぐに理解した。
「今日、早いんだな」
「そっちこそ。いつもより……来るの早くね?」
互いに言いながら、どこかぎこちない。
妙に意識し合っている、それがはっきり分かる。
陽真の手元、机の上には一つの将棋盤が置かれていた。
まるで「準備はできてる」と言わんばかりに。
「二人とも、今日の空気……なんか刺さってるね」
窓際で棋譜を並べていた白鳥佐久人部長が、微笑しながらつぶやく。
後輩の西園寺琉青も顔だけこっちに向けて目を丸くしていた。
「先輩たち、僕、部室の外で待ってたほうが良いですか?」
「いや、いていいよ。けど……ちょっと席外すわ。邪魔しちゃ悪いしな」
白鳥はそっと棋譜ノートを閉じると、出入口へ向かった。
琉青も「がんばってください!」とだけ残し、慌てて後に続く。
ドアが閉まると、部室に静けさが戻った。
陽真が湊をまっすぐ見つめる。
「湊」
「……なに」
「今日さ。本気でやろうぜ」
その言葉を待っていたように、湊の胸は強く脈打った。
「……うん。陽真に、勝ちたい」
言った瞬間、陽真の目がかすかに揺れる。
驚き、喜び、緊張――さまざまな感情が混ざって、やがて笑みに変わった。
「……やっと言ったな。ずっと待ってたよ、その言葉」
二人は向かい合って座り、盤を挟んで視線を交わす。
呼吸すら慎重にしないと揺れてしまいそうな静気が満ちた。
「先手後手、どっち?」
「……陽真からで」
「いいね」
陽真が一枚の駒を手に取る。
その瞬間、湊は喉が乾いていくのを感じた。
これまで何度も対局してきたはずなのに、今日は違う。空気が違う。
カチリ、と駒が置かれる。
――対局開始。
◇◇◇
最初に飛び込んできたのは、陽真らしい鋭い攻めだった。
まるで一直線に道を切り裂くような力強い一手。
(こんな……序盤から、くるんだ)
だが湊は逃げなかった。
深呼吸し、駒を持つ指を落ち着け、受け止めるように一手を返す。
カチリ、カチリと、駒音が続く。
その音が心臓の鼓動よりも鮮明に聞こえるほど、湊の感覚は研ぎ澄まされていく。
(陽真……本気で来てくれてる)
不思議な感覚だった。
強い攻めをされても嫌ではない。
押しつぶされるような圧も、不思議と苦ではない。
むしろ――嬉しい。
(陽真、俺を……ちゃんと相手として見てくれてる)
一手一手が熱を帯び、盤上が戦場のように輝き出す。
「湊……今日、全然違うじゃん」
陽真が息を乱しながら言う。
「昨日の一手、忘れられなかったんだよ。あの攻め……お前の本気の色が見えた」
「……俺も。陽真に負けたくないって、初めて思った」
言葉を交わしながらも、駒の音は止まらない。
互いを理解しようとする会話と、互いを倒し合う駒音。
矛盾した行動なのに、不思議としっくりくる。
互いが互いを求めてぶつかり合う――そんな不思議な対局だった。
◇◇◇
中盤をすぎた頃、湊の心にふと迷いが差した。
(もし、ここで俺が勝ったら……陽真、嫌な気持ちになるんじゃ……?)
その瞬間、視界が少しだけ曇る。
いつもの“引き”の感覚が顔を出し、手が止まりそうになる。
だが――
「湊」
陽真が、まっすぐに名前を呼んだ。
「迷ってる顔、分かるんだよ、お前の。昨日も今日もな」
「……っ」
「いいから来いよ。お前の本気、まだ全然見えてない」
陽真の言葉が、曖昧な影を払いのけるように湊の胸に刺さる。
彼は駒を強く握りしめ、震える指で盤に叩きつけた。
――パシン。
いつもより強い音だった。
自分でも驚くほど、攻める一手だった。
(勝ちたい――本気で)
その瞬間、湊の中で何かが鮮やかに変わった。
心の奥にあった弱さの殻が割れるような感覚がした。
◇◇◇
最終盤。
湊の指は震え、陽真の指も汗ばむ。
互いの顔には疲労と興奮が混ざっていた。
「……はぁ、っ……湊、ここまで来るとか、マジで思ってなかった」
「……俺も。こんな熱い勝負……初めて」
局面は一手差で陽真が優勢。
湊は最後の望みに賭けて攻めるが――
「これで……終わりだ」
陽真がそっと駒を置く。
カチリ。
その音が、湊の心に静かに染みこんでいった。
「……参りました」
言った瞬間、視界が滲む。
悔しさが胸の奥で大きく脈動する。
(悔しい……負けたくなかった……こんな気持ち、初めてだ……)
湊は唇を噛みしめ、両手で顔を覆いそうになる。
けれど、その前に陽真の声が届いた。
「湊、今日の対局……マジで最高だった」
陽真は咲くように笑っていた。
勝ったはずなのに、どこか嬉しそうで、どこか誇らしげで。
「お前さ。悔しがってる顔、初めて見た」
「……笑うなよ」
「笑ってねーよ。すげぇなって思って」
陽真は勝者の余裕でも、相手を慰める優しさでもなく、
“対等なライバル”として湊を見ていた。
「今日の湊……本気で戦ってくれただろ。俺、それが何より嬉しい」
湊は胸が熱くなり、言葉が出なくなる。
悔しさも、嬉しさも、全部ごちゃ混ぜになって、自分でも整理できなかった。
◇◇◇
家に帰ると、リビングの電気がついていた。
父・遼が残業帰りにカップ麺を食べている。
いつもなら自分の部屋にすぐ籠もる湊だが、今日は何となく父の前に座った。
「……ただいま」
「おう。お疲れ」
遼は何気なくテレビを消す。
湊の表情から何かを感じ取ったのだろう。
「どうした、将棋、負けたか?」
湊は一瞬、驚いた。
まるで全て見透かされているようだった。
「……うん。悔しい、って……初めて思った」
「悔しい、か」
遼は湊の頭をぐしゃりと撫でた。
それは子どもの頃以来の感触で、湊の胸がじんとする。
「良い負け方してきたな」
「え……?」
「悔しいって気持ちはな、強くなるには必要だ。俺も昔、負けて眠れなかった夜があったよ」
その言葉に、湊の呼吸が止まりそうになる。
「……父さんも、同じ気持ちだったの?」
「ああ。俺も完璧じゃねぇよ。勝てなくて悔しかった。勝ちたくて震えた。負けるのが怖いときもあった」
遼の横顔は穏やかで、どこか懐かしそうだった。
「湊、お前……やっと“入り口”に立ったな」
「入り口……?」
「本気で悔しがれるやつは、ここから強くなる。将棋だけじゃない。人間だってそうだ」
湊は胸の奥に、じわりと熱が広がるのを感じた。
「次は勝てるさ。今日の悔しさが、きっと力になる」
遼の言葉は決して大げさではなく、ただ静かに伸びてきて湊の背中を支えた。
◇◇◇
その夜、湊は自室で一人盤を広げた。
今日の対局を何度も再現し、負けを分けた一手に指を這わせる。
「……次は……絶対に」
その小さなつぶやきは、もう逃げ腰ではなく、確かな熱を帯びていた。
湊は知っていた。
今日の敗北は、自分にとって初めての“誇れる負け”なのだと。
湊は指先に灯った熱をそっと胸に押し当てながら、深く息を吸った。
――ここから強くなれる。
そう信じられる夜だった。



