放課後の将棋部室は、今日も静かだった。
窓際の机に指し盤を置き、二人分の駒を並べながら、春原湊は胸の奥のざわつきをひとつ深く息に変えた。
――昨日の陽真の一言が、まだ心に残っている。
「湊、そっち揃った?」
振り返ると、朝比奈陽真がスポーツバッグを肩にかけたまま、嬉しそうに部室へ飛び込んでくる。まるで部室の空気が彼を中心に明るく転がっていくようだった。
「……うん。あとは陽真の駒だけ」
「おけ、今日もよろしくな!」
陽真はにかっと笑い、勢いよく席に着く。
同じ盤を挟んで向かい合うようになってから、まだほんの数週間。
それなのに、陽真は湊の日常のほとんどに自然と溶け込むようになっていた。
――けれど今日は、昨日までとは少し違う。
湊は指先の震えを誤魔化すように盤上に視線を落とした。
「始めるか」
「うん……」
駒が進み、盤面がじわじわと形を成していくにつれ、陽真の気配が静かに変わっていくのを湊は感じた。
攻める陽真。
受ける湊。
その構図はいつもと変わらないはずなのに――。
「湊」
ぱちん、と陽真が一手を打った直後、急に顔を上げてきた。
その目は真剣で、からかうような色は一切なかった。
「なんで、さっきそこ刺さなかったんだ?」
「……え?」
「気づいてたよな? 俺の角道、甘くなってたの。あそこ刺せば一気に崩せた」
「…………」
「なのに湊、手が止まった」
湊の胸の奥が、ぎくりと揺れた。
昨日の違和感、今日も繰り返されていることに、湊は自分でも薄々気づいていた。
「……あそこは、ちょっと様子を見ようと思って」
「違うだろ」
陽真の声はやさしいのに、逃げ道を塞ぐように鋭かった。
「湊、怖がってる」
「……え?」
「勝つのを、だよ」
静まり返った部室に、陽真の言葉だけが落ちる。
湊は無意識に視線を落とした。心臓が早くなるのが自覚できる。
「湊ってさ、どんな場面でも慎重だよな。でも……俺のお前の指し方見てて、思ったことあるんだ」
陽真は盤に置いた駒を、そっと指先でなぞる。
「“勝ったら相手が傷つくんじゃないか”って、思ってるんだろ?」
「……!」
その言葉は、湊の心の底にしまっていた“箱”を無理矢理こじ開けたみたいだった。
幼い頃の記憶が蘇る。
祖父と指した対局。
友達と遊びで勝負した時、泣かれたり、怒られたりした過去。
“勝つこと”が素直に喜べなかった自分。
湊は口を開こうとして、声が出なかった。
「優しいっていうか……いや」
陽真は少しだけ目をそらし、次の瞬間またまっすぐ湊を見た。
「それ、逃げてるだけだよ」
逃げてる――。
その単語は胸の奥に深く刺さった。痛いのに、不思議と腑に落ちる。
「勝っても負けても、本気でぶつかった勝負は意味があるんだって。湊と対局して、俺ずっと思ってたんだ」
陽真の言葉には、責める色はなかった。
ただ湊を真剣に見て、向き合ってくれている。それだけが伝わる。
「……陽真」
「湊の指し方、俺は好きだよ。でも……逃げてる湊は好きじゃない」
湊は息が苦しくなるほど胸が締めつけられた。
陽真に言われると、なぜこんなに揺れるのだろう。
「今日の続き、また明日にしようぜ」
陽真は立ち上がり、軽く手を振って部室を出ていった。
残された湊は、一人で盤上を見つめた。
決めきれなかった一手。
動かなかった自分の手。
「……僕、何してるんだろう」
ぽつりと漏れた言葉は、部室の静寂に吸い込まれていった。
◆
翌日の昼休み。
湊はぼんやりと廊下を歩いていた。
昨日の言葉が頭の中でぐるぐると回っている。
「はいストップ、湊!」
「……柚季?」
早川柚季が通せんぼをするように立っていた。
ショートヘアを揺らし、腕を組んで不思議そうに湊を覗き込む。
「なんか悩んでる顔。わかりやすいよ、湊って」
「そんな……」
「ほら、弁当持った? 屋上行くよ」
強引に肩を掴まれ、そのまま連行される。
湊は苦笑しながらも、こういう明るさに救われる自分がいることに気づく。
屋上に出ると、風が心地よく吹いた。
空が高く、柚季はフェンスにもたれながら言う。
「陽真とケンカでもした?」
「してないよ……ただ、その……」
「ふーん?」
柚季は口元に笑みを浮かべる。
「なんかさ、湊。陽真といる時の方がいい顔してるって、最近思ってたんだよね」
「えっ……」
「だってさ、あの子、湊のことすごいまっすぐ見てるじゃん。湊、苦手なの? ああいうタイプ」
「……ううん、苦手じゃないよ」
「じゃあ悩みの理由は陽真?」
図星すぎて、湊は何も言えなくなった。
その沈黙に、柚季は軽く笑う。
「いいじゃん、悩めば。青春っぽいし」
「青春……」
「湊、優しいんだよね。でもそれってさ、本気でぶつかるの怖いってことでもあるでしょ?」
陽真と同じことを、柚季はまるで軽いおしゃべりみたいに言う。
「“誰かを傷つけるかも”って思うってことはさ。
本当に誰かを大事にできる人ってことでもあると思うよ」
そう言うと、柚季は風に髪を揺らしながら笑った。
「だったら逃げるより、向き合ったほうがいいよ。どうせ陽真、湊のそういうとこ好きでしょ」
「……ありがとう、柚季」
「どーいたしまして!」
軽く背中を押された気がした。
ほんの少しだけ、胸の重さが取れたような気がする。
◆
放課後の部室。
白鳥佐久人部長が、一人静かに駒を並べていた。
「春原くん、お疲れ」
「あ、部長……」
「悩んでる顔してるね」
「……そんなにわかります?」
「わかるよ。将棋に向き合ってる人は、すぐ顔に出る」
白鳥は微笑みながら、盤を整えている手を止めない。
「湊の将棋、僕は好きだよ。特に、攻めに転じた時の湊はかっこいい」
「……攻めに?」
「うん。守るときより、ずっと生き生きしてる」
湊は驚いて白鳥を見つめた。
「勝っても負けても、どっちも意味があるんだ。
湊はそれを誰より分かってるように見えるよ」
静かで落ち着いた声。
その穏やかさが、湊の揺れていた心の底に染み込んでいく。
「……ありがとうございます」
ようやく湊は、深く息を吸うことができた。
◆
部室の扉がぱたんと開いた。
「お、湊! 部長、お疲れっす!」
陽真が明るい声で入ってくると、部室の空気がぱっと軽くなる。
白鳥は笑って席を立った。
「じゃあ、僕は自主練するね。二人とも頑張って」
白鳥が部室を出ると、湊と陽真だけが残った。
「……あの、陽真」
「ん?」
湊は勇気を振り絞るようにして、言葉を紡ぐ。
「昨日のこと……考えてたんだ」
「……」
「陽真が言ったこと、その通りだと思う。
僕……逃げてた。勝つのが怖かったから」
陽真は驚いた顔をしてから、ふっと優しく笑った。
「そっか」
「うん……。でも、逃げたくない。僕も……向き合いたい」
陽真は盤の向こう側から身を乗り出し、湊を見た。
「じゃあ――」
陽真の目が、真剣に、そして嬉しそうに光る。
「逃げない勝負、始めようぜ」
湊は大きく息を吸った。
「……うん。お願いします」
二人は駒を並べ、対局を開始した。
陽真の攻めが鋭く迫る。
湊は受ける。だが――今日は違った。
決めの一手を指す瞬間、湊の手は止まらなかった。
ぱちん、と駒が盤に吸い込まれる音が響く。
陽真は驚き、そして嬉しそうに笑った。
「……いいじゃん、それ!」
結果は敗北だった。
けれど湊は、悔しさよりも胸の奥が温かかった。
――本気で指せた。
窓の外の夕日は赤く部室を照らし、湊の横顔を鮮やかな色に染めていた。
窓際の机に指し盤を置き、二人分の駒を並べながら、春原湊は胸の奥のざわつきをひとつ深く息に変えた。
――昨日の陽真の一言が、まだ心に残っている。
「湊、そっち揃った?」
振り返ると、朝比奈陽真がスポーツバッグを肩にかけたまま、嬉しそうに部室へ飛び込んでくる。まるで部室の空気が彼を中心に明るく転がっていくようだった。
「……うん。あとは陽真の駒だけ」
「おけ、今日もよろしくな!」
陽真はにかっと笑い、勢いよく席に着く。
同じ盤を挟んで向かい合うようになってから、まだほんの数週間。
それなのに、陽真は湊の日常のほとんどに自然と溶け込むようになっていた。
――けれど今日は、昨日までとは少し違う。
湊は指先の震えを誤魔化すように盤上に視線を落とした。
「始めるか」
「うん……」
駒が進み、盤面がじわじわと形を成していくにつれ、陽真の気配が静かに変わっていくのを湊は感じた。
攻める陽真。
受ける湊。
その構図はいつもと変わらないはずなのに――。
「湊」
ぱちん、と陽真が一手を打った直後、急に顔を上げてきた。
その目は真剣で、からかうような色は一切なかった。
「なんで、さっきそこ刺さなかったんだ?」
「……え?」
「気づいてたよな? 俺の角道、甘くなってたの。あそこ刺せば一気に崩せた」
「…………」
「なのに湊、手が止まった」
湊の胸の奥が、ぎくりと揺れた。
昨日の違和感、今日も繰り返されていることに、湊は自分でも薄々気づいていた。
「……あそこは、ちょっと様子を見ようと思って」
「違うだろ」
陽真の声はやさしいのに、逃げ道を塞ぐように鋭かった。
「湊、怖がってる」
「……え?」
「勝つのを、だよ」
静まり返った部室に、陽真の言葉だけが落ちる。
湊は無意識に視線を落とした。心臓が早くなるのが自覚できる。
「湊ってさ、どんな場面でも慎重だよな。でも……俺のお前の指し方見てて、思ったことあるんだ」
陽真は盤に置いた駒を、そっと指先でなぞる。
「“勝ったら相手が傷つくんじゃないか”って、思ってるんだろ?」
「……!」
その言葉は、湊の心の底にしまっていた“箱”を無理矢理こじ開けたみたいだった。
幼い頃の記憶が蘇る。
祖父と指した対局。
友達と遊びで勝負した時、泣かれたり、怒られたりした過去。
“勝つこと”が素直に喜べなかった自分。
湊は口を開こうとして、声が出なかった。
「優しいっていうか……いや」
陽真は少しだけ目をそらし、次の瞬間またまっすぐ湊を見た。
「それ、逃げてるだけだよ」
逃げてる――。
その単語は胸の奥に深く刺さった。痛いのに、不思議と腑に落ちる。
「勝っても負けても、本気でぶつかった勝負は意味があるんだって。湊と対局して、俺ずっと思ってたんだ」
陽真の言葉には、責める色はなかった。
ただ湊を真剣に見て、向き合ってくれている。それだけが伝わる。
「……陽真」
「湊の指し方、俺は好きだよ。でも……逃げてる湊は好きじゃない」
湊は息が苦しくなるほど胸が締めつけられた。
陽真に言われると、なぜこんなに揺れるのだろう。
「今日の続き、また明日にしようぜ」
陽真は立ち上がり、軽く手を振って部室を出ていった。
残された湊は、一人で盤上を見つめた。
決めきれなかった一手。
動かなかった自分の手。
「……僕、何してるんだろう」
ぽつりと漏れた言葉は、部室の静寂に吸い込まれていった。
◆
翌日の昼休み。
湊はぼんやりと廊下を歩いていた。
昨日の言葉が頭の中でぐるぐると回っている。
「はいストップ、湊!」
「……柚季?」
早川柚季が通せんぼをするように立っていた。
ショートヘアを揺らし、腕を組んで不思議そうに湊を覗き込む。
「なんか悩んでる顔。わかりやすいよ、湊って」
「そんな……」
「ほら、弁当持った? 屋上行くよ」
強引に肩を掴まれ、そのまま連行される。
湊は苦笑しながらも、こういう明るさに救われる自分がいることに気づく。
屋上に出ると、風が心地よく吹いた。
空が高く、柚季はフェンスにもたれながら言う。
「陽真とケンカでもした?」
「してないよ……ただ、その……」
「ふーん?」
柚季は口元に笑みを浮かべる。
「なんかさ、湊。陽真といる時の方がいい顔してるって、最近思ってたんだよね」
「えっ……」
「だってさ、あの子、湊のことすごいまっすぐ見てるじゃん。湊、苦手なの? ああいうタイプ」
「……ううん、苦手じゃないよ」
「じゃあ悩みの理由は陽真?」
図星すぎて、湊は何も言えなくなった。
その沈黙に、柚季は軽く笑う。
「いいじゃん、悩めば。青春っぽいし」
「青春……」
「湊、優しいんだよね。でもそれってさ、本気でぶつかるの怖いってことでもあるでしょ?」
陽真と同じことを、柚季はまるで軽いおしゃべりみたいに言う。
「“誰かを傷つけるかも”って思うってことはさ。
本当に誰かを大事にできる人ってことでもあると思うよ」
そう言うと、柚季は風に髪を揺らしながら笑った。
「だったら逃げるより、向き合ったほうがいいよ。どうせ陽真、湊のそういうとこ好きでしょ」
「……ありがとう、柚季」
「どーいたしまして!」
軽く背中を押された気がした。
ほんの少しだけ、胸の重さが取れたような気がする。
◆
放課後の部室。
白鳥佐久人部長が、一人静かに駒を並べていた。
「春原くん、お疲れ」
「あ、部長……」
「悩んでる顔してるね」
「……そんなにわかります?」
「わかるよ。将棋に向き合ってる人は、すぐ顔に出る」
白鳥は微笑みながら、盤を整えている手を止めない。
「湊の将棋、僕は好きだよ。特に、攻めに転じた時の湊はかっこいい」
「……攻めに?」
「うん。守るときより、ずっと生き生きしてる」
湊は驚いて白鳥を見つめた。
「勝っても負けても、どっちも意味があるんだ。
湊はそれを誰より分かってるように見えるよ」
静かで落ち着いた声。
その穏やかさが、湊の揺れていた心の底に染み込んでいく。
「……ありがとうございます」
ようやく湊は、深く息を吸うことができた。
◆
部室の扉がぱたんと開いた。
「お、湊! 部長、お疲れっす!」
陽真が明るい声で入ってくると、部室の空気がぱっと軽くなる。
白鳥は笑って席を立った。
「じゃあ、僕は自主練するね。二人とも頑張って」
白鳥が部室を出ると、湊と陽真だけが残った。
「……あの、陽真」
「ん?」
湊は勇気を振り絞るようにして、言葉を紡ぐ。
「昨日のこと……考えてたんだ」
「……」
「陽真が言ったこと、その通りだと思う。
僕……逃げてた。勝つのが怖かったから」
陽真は驚いた顔をしてから、ふっと優しく笑った。
「そっか」
「うん……。でも、逃げたくない。僕も……向き合いたい」
陽真は盤の向こう側から身を乗り出し、湊を見た。
「じゃあ――」
陽真の目が、真剣に、そして嬉しそうに光る。
「逃げない勝負、始めようぜ」
湊は大きく息を吸った。
「……うん。お願いします」
二人は駒を並べ、対局を開始した。
陽真の攻めが鋭く迫る。
湊は受ける。だが――今日は違った。
決めの一手を指す瞬間、湊の手は止まらなかった。
ぱちん、と駒が盤に吸い込まれる音が響く。
陽真は驚き、そして嬉しそうに笑った。
「……いいじゃん、それ!」
結果は敗北だった。
けれど湊は、悔しさよりも胸の奥が温かかった。
――本気で指せた。
窓の外の夕日は赤く部室を照らし、湊の横顔を鮮やかな色に染めていた。



