目を開けたときには、もうホームの空気が戻ってきていた。
冷たい金属のベンチの感触。線路から立ち上る、かすかな油と鉄の匂い。遠くで鳥の声がしている。さっきまでいた「残響室」の、重なり合った匂いや光は、きれいに消えていた。
代わりに、空の色が変わっている。
さっきまで真っ黒だった夜空は、駅の向こう側で、ゆっくりと白んでいた。ビルの輪郭が、にじんだグレーから、少しずつ色を帯びていく。
ああ、本当に朝が来るんだな、と紗月は思う。
胸の奥も、少しだけ軽くなっていた。
さっきまで泣いていたせいで、目は少し腫れているし、鼻もむずむずする。それでも、あの残響室で見たものは消えていなかった。むしろ、体の中に静かに沈んでいく感覚があった。
「……戻ってきたんだ」
小さくつぶやいてから、紗月は周りを見回した。
ホームには、まだほとんど人がいない。始発の時間には少し早いらしい。電光掲示板には、「始発 準備中」の文字が点滅している。
足元を見ると、光る欠片がひとつだけ残っていた。
今まで見てきた欠片たちよりも、少しだけ小さい。それでも、その光は不思議と強かった。色は、純粋な白に近い。タグには、文字がにじんでいて、よく読めない。
ただ、ひとつだけ分かる。
これはきっと、あの日の自分の背中だ。
病院に行かなかった日。机にへたり込んで、携帯を握りしめて泣き続けた自分の姿。その背中の記憶が、この中に詰まっているのだろう。
「……もう、いいかな」
思わず、口に出していた。
もちろん、見ようと思えば見られる。さっきまでと同じように、指先で触れれば、あの日の部屋や、硬くなった自分の肩の感触がよみがえるはずだ。
でも、そこまでしなくても分かる気がした。
あの日の自分が、どんな顔をしていたか。どういう言葉を自分にぶつけていたか。机にかじりついて、「行かなかった」理由を、どれだけ並べ立てていたか。
今の自分なら、想像できる。
「一番、覚えてるのは、私だから」
紗月は、そっと笑った。
過去を見返すことに意味があると、さっきの夜で学んだ。でも、全部を映像として見直さなきゃいけないわけじゃない。
もう十分だ、と思えるところまで来たのなら、「見なくても分かる」と自分に言ってあげてもいい。
「行かなかった私も、ちゃんと私なんだよね」
口に出してみると、思ったより素直に言えた。
怖かった。逃げた。弱かった。
それでも、そのときの自分を、いつまでも土足で踏みにじるみたいに扱うのは、もうやめにしたい。
「お母さんが、一番嫌がるだろうし」
紗月は空を見上げた。
「自分の娘を、娘自身がいじめ続けてるの、絶対心配するよね。そんなの、いやだよね」
胸の奥に、残響室で聞いた母の言葉がよみがえる。
ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝て、自分の生活を大事にしてほしい。
最期のそのときにそばにいるかどうかより、その先の人生で笑っていてほしい。
あの声を思い出すだけで、目の奥が熱くなる。けれど、今度はその熱が、前に進むためのエンジンみたいに感じられた。
「だからさ」
紗月は、足元の欠片に向かって話しかけた。
「行かなかった日の私も、これから先の私も、まとめて私が面倒見る。……っていうか、私が許す」
その言葉は、少しだけ照れくさかった。でも、不思議と胸の中にすとんと落ちていく。
「お母さんに許してもらうんじゃなくて、私が私を許すから」
黒猫の気配が、どこからともなく近づいてきた。
振り向くと、ホームの柱の陰から、あの黒い影がぬっと現れる。相変わらず、当たり前の顔で、ここにいるのが当然だと言わんばかりだ。
「おかえり」
思わずそう言うと、黒猫はひげをぴくりと動かした。鈴が、小さく鳴る。
ちりん。
黒猫は、ゆっくりと歩いてきて、最後の欠片の隣に座った。前足で、その光をころりと転がす。欠片は、まるで息を吹き込まれたみたいに、一瞬だけぱっと明るくなった。
「これは、もう返してもらうね」
紗月がゆっくりと手を伸ばすと、黒猫は邪魔をせずに見守っていた。
指先が欠片に触れたとき、さっきまでとは違う感覚があった。
映像が流れ込んでくる感じはない。ただ、ほんの一瞬、胸の中に冷たいものと温かいものが同時に広がって、それから溶け合っていく。
欠片の光は、すうっと弱まり、そのまま紗月の胸のあたりへ吸い込まれていった。
胸の奥に、何かが戻ってくる。
あの日の背中も、泣きはらした顔も、そのときの弱さも、全部を抱え込んだ感覚。それを、今の自分の真ん中に、そっと迎え入れた。
「……落とし物、全部戻ってきたってこと?」
紗月が言うと、黒猫は一度だけ大きく瞬きをした。
ホームの床を見回すと、光る欠片はもうひとつも残っていなかった。最初はあんなに散らばっていたのに、今はただ、朝の光を反射する小さなゴミが見えるだけだ。
欠片たちは、それぞれの場所に帰っていったのだろう。
黒猫は、ベンチの上にぴょんと飛び乗った。紗月の隣に座り、肩の高さまで顔を上げてくる。
「いろいろ、ありがとうね」
紗月がそう言うと、猫はそっぽを向いたふりをしながら、尻尾だけを一度だけぴんと立てた。
鈴が、少し強めに鳴る。
ホームのスピーカーから、始発の到着を告げるアナウンスが流れ始めた。
「まもなく一番線に、始発電車がまいります」
夜の間中、動きのなかった線路の向こうから、ヘッドライトの光が近づいてくる。鉄の車輪がレールの上をこする音が、少しずつ大きくなった。
長い夜が終わって、朝が来る。
その当たり前のことが、今日はいつもより少しだけ特別に感じられた。
「私さ」
紗月は、猫に向かって話し始めた。
「仕事、全部投げ出す勇気はないんだよね。せっかくここまで頑張ってきたし、やりがいだって、ちゃんとあるし」
クライアントの声や、チームの空気。成功したときの達成感。好きなところも、ちゃんとある。
「でも、全部を背負い込んで、自分をすり減らすのは、もうやめたいなって。今日、思った」
黒猫は、静かに聞いていた。
「上司に全部ぶつけるとか、会社辞めるとか、そういう極端なことじゃなくてさ。まずは『これは無理です』ってちゃんと言う練習するとか。誰かに相談するとか。そういう小さいとこからでもいいから」
母が願っていた「ちゃんとご飯を食べて、ちゃんと寝て、笑っていてほしい娘」に、少しでも近づけるように。
「お母さんが心配しない働き方を、選んでいきたいな」
自分で言って、自分でうなずく。
それはきっと、すぐにはできない。今日明日で劇的に変われるわけでもない。でも、少なくとも、今までみたいに「全部自分のせいだ」と呪い続ける生き方からは、一歩外に出られる。
黒猫が、ベンチの上で立ち上がった。
その動きに合わせて、鈴が鳴る。
紗月が「ん?」と顔を向けたときには、猫の姿はもうなかった。
ベンチの上には、小さな銀色の鈴がひとつ、ぽつんと残されている。
「……置き土産?」
紗月は、思わず笑った。
そっと手を伸ばして、鈴を拾い上げる。指先の中で、それは驚くほど軽かった。近くで見ると、ところどころに小さな傷がついている。その傷のひとつひとつが、今まで猫が届けてきた「落とし物」の数みたいに思えた。
「預かっておくね」
鈴を握りしめてから、紗月は立ち上がった。
始発電車が、ホームに滑り込んでくる。ドアの前には、数人のサラリーマンや学生が並び始めていた。みんな、眠そうな顔をしているけれど、それぞれの朝に向かって立っている。
紗月も、その列の最後尾についた。
ポケットからスマホを取り出す。未読メッセージの表示がひとつ。送り主は、父だった。
日付が変わってすぐに届いていたのだろう。短い一文だけが画面に表示されている。
「今日はお母さんの命日だな」
毎年この時期になると、似たようなメッセージが来ていた。でも、今までは、どう返していいか分からなくて、スタンプひとつで済ませたり、わざと少し時間を置いてから、当たり障りのない返事をしたりしていた。
今年は、違う言葉を送ってみたくなった。
紗月は、入力欄に親指を置いた。
「うん、覚えてるよ。」
そこまで打って、一度止まる。
頭の中に、残響室で見た父と母の会話が浮かんでくる。病室の椅子に座る父の背中。母の冗談に肩を震わせて笑っていた姿。
あのときの父も、きっと不安だった。寂しかった。娘をどう支えればいいか分からないまま、最期の時間を過ごしていた。
それでも、今までずっと、黙って「命日だな」とだけ送ってきてくれた。
そのメッセージに、今年はちゃんと向き合ってみようと思う。
「今年は、ちゃんと行くよ。今度、一緒にお墓参りに行こう。」
そう打ち込んで、送信ボタンを押した。
胸の奥が、少しだけくすぐったい。恥ずかしさと、すっきりした感じが混ざり合っている。
すぐに返事が来るわけではない。でも、それでいい。
電車のドアが開いた。紗月は、深呼吸をひとつしてから乗り込む。
車内は、まだ人が少ない。窓際のシートに腰を下ろし、ポケットの中で鈴を握りしめた。
電車が走り出す。
窓の外の景色が、少しずつ動き出す。さっきまで自分が座っていたホームのベンチが、遠ざかっていく。黒猫の姿は見えない。けれど、ベンチのあたりに、うっすらと朝日が当たり始めている。
スマホが、小さく震えた。
父からの返信だ。
「分かった。無理のない日でいいからな。お前の好きなケーキ、買っていくよ」
紗月は、思わず笑ってしまった。
「ケーキで釣ろうとしないでよ」
そう打ちかけて、やめる。代わりに、シンプルな言葉を送った。
「ありがとう。楽しみにしてる。」
送信ボタンを押した瞬間、足元の方で、小さな音がした気がした。
ちりん。
電車の音に紛れるくらいの、かすかな鈴の音。
ポケットの中の鈴は、動いていない。でも、確かに一度だけ、その音が聞こえた気がした。
紗月は、窓の外を見た。
朝日が、街のビルの隙間から顔を出し始めている。光が、線路と車両と、遠くのビルの窓を、少しずつ照らしていく。
長い夜は終わった。
でも、過去がきれいさっぱりなくなるわけじゃない。失敗も、別れも、行かなかった日のことも、全部抱えたまま生きていくことになる。
それでもいい。
その全部を、自分の中にちゃんと居場所を作ってあげればいい。
「行ってきます」
小さく呟いた言葉は、自分自身に向けたものでもあり、どこかで見守っている誰かに向けたものでもあった。
電車は、静かに速度を上げていく。
紗月のポケットの中で、小さな鈴が、ひとつだけ静かに揺れた。
冷たい金属のベンチの感触。線路から立ち上る、かすかな油と鉄の匂い。遠くで鳥の声がしている。さっきまでいた「残響室」の、重なり合った匂いや光は、きれいに消えていた。
代わりに、空の色が変わっている。
さっきまで真っ黒だった夜空は、駅の向こう側で、ゆっくりと白んでいた。ビルの輪郭が、にじんだグレーから、少しずつ色を帯びていく。
ああ、本当に朝が来るんだな、と紗月は思う。
胸の奥も、少しだけ軽くなっていた。
さっきまで泣いていたせいで、目は少し腫れているし、鼻もむずむずする。それでも、あの残響室で見たものは消えていなかった。むしろ、体の中に静かに沈んでいく感覚があった。
「……戻ってきたんだ」
小さくつぶやいてから、紗月は周りを見回した。
ホームには、まだほとんど人がいない。始発の時間には少し早いらしい。電光掲示板には、「始発 準備中」の文字が点滅している。
足元を見ると、光る欠片がひとつだけ残っていた。
今まで見てきた欠片たちよりも、少しだけ小さい。それでも、その光は不思議と強かった。色は、純粋な白に近い。タグには、文字がにじんでいて、よく読めない。
ただ、ひとつだけ分かる。
これはきっと、あの日の自分の背中だ。
病院に行かなかった日。机にへたり込んで、携帯を握りしめて泣き続けた自分の姿。その背中の記憶が、この中に詰まっているのだろう。
「……もう、いいかな」
思わず、口に出していた。
もちろん、見ようと思えば見られる。さっきまでと同じように、指先で触れれば、あの日の部屋や、硬くなった自分の肩の感触がよみがえるはずだ。
でも、そこまでしなくても分かる気がした。
あの日の自分が、どんな顔をしていたか。どういう言葉を自分にぶつけていたか。机にかじりついて、「行かなかった」理由を、どれだけ並べ立てていたか。
今の自分なら、想像できる。
「一番、覚えてるのは、私だから」
紗月は、そっと笑った。
過去を見返すことに意味があると、さっきの夜で学んだ。でも、全部を映像として見直さなきゃいけないわけじゃない。
もう十分だ、と思えるところまで来たのなら、「見なくても分かる」と自分に言ってあげてもいい。
「行かなかった私も、ちゃんと私なんだよね」
口に出してみると、思ったより素直に言えた。
怖かった。逃げた。弱かった。
それでも、そのときの自分を、いつまでも土足で踏みにじるみたいに扱うのは、もうやめにしたい。
「お母さんが、一番嫌がるだろうし」
紗月は空を見上げた。
「自分の娘を、娘自身がいじめ続けてるの、絶対心配するよね。そんなの、いやだよね」
胸の奥に、残響室で聞いた母の言葉がよみがえる。
ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝て、自分の生活を大事にしてほしい。
最期のそのときにそばにいるかどうかより、その先の人生で笑っていてほしい。
あの声を思い出すだけで、目の奥が熱くなる。けれど、今度はその熱が、前に進むためのエンジンみたいに感じられた。
「だからさ」
紗月は、足元の欠片に向かって話しかけた。
「行かなかった日の私も、これから先の私も、まとめて私が面倒見る。……っていうか、私が許す」
その言葉は、少しだけ照れくさかった。でも、不思議と胸の中にすとんと落ちていく。
「お母さんに許してもらうんじゃなくて、私が私を許すから」
黒猫の気配が、どこからともなく近づいてきた。
振り向くと、ホームの柱の陰から、あの黒い影がぬっと現れる。相変わらず、当たり前の顔で、ここにいるのが当然だと言わんばかりだ。
「おかえり」
思わずそう言うと、黒猫はひげをぴくりと動かした。鈴が、小さく鳴る。
ちりん。
黒猫は、ゆっくりと歩いてきて、最後の欠片の隣に座った。前足で、その光をころりと転がす。欠片は、まるで息を吹き込まれたみたいに、一瞬だけぱっと明るくなった。
「これは、もう返してもらうね」
紗月がゆっくりと手を伸ばすと、黒猫は邪魔をせずに見守っていた。
指先が欠片に触れたとき、さっきまでとは違う感覚があった。
映像が流れ込んでくる感じはない。ただ、ほんの一瞬、胸の中に冷たいものと温かいものが同時に広がって、それから溶け合っていく。
欠片の光は、すうっと弱まり、そのまま紗月の胸のあたりへ吸い込まれていった。
胸の奥に、何かが戻ってくる。
あの日の背中も、泣きはらした顔も、そのときの弱さも、全部を抱え込んだ感覚。それを、今の自分の真ん中に、そっと迎え入れた。
「……落とし物、全部戻ってきたってこと?」
紗月が言うと、黒猫は一度だけ大きく瞬きをした。
ホームの床を見回すと、光る欠片はもうひとつも残っていなかった。最初はあんなに散らばっていたのに、今はただ、朝の光を反射する小さなゴミが見えるだけだ。
欠片たちは、それぞれの場所に帰っていったのだろう。
黒猫は、ベンチの上にぴょんと飛び乗った。紗月の隣に座り、肩の高さまで顔を上げてくる。
「いろいろ、ありがとうね」
紗月がそう言うと、猫はそっぽを向いたふりをしながら、尻尾だけを一度だけぴんと立てた。
鈴が、少し強めに鳴る。
ホームのスピーカーから、始発の到着を告げるアナウンスが流れ始めた。
「まもなく一番線に、始発電車がまいります」
夜の間中、動きのなかった線路の向こうから、ヘッドライトの光が近づいてくる。鉄の車輪がレールの上をこする音が、少しずつ大きくなった。
長い夜が終わって、朝が来る。
その当たり前のことが、今日はいつもより少しだけ特別に感じられた。
「私さ」
紗月は、猫に向かって話し始めた。
「仕事、全部投げ出す勇気はないんだよね。せっかくここまで頑張ってきたし、やりがいだって、ちゃんとあるし」
クライアントの声や、チームの空気。成功したときの達成感。好きなところも、ちゃんとある。
「でも、全部を背負い込んで、自分をすり減らすのは、もうやめたいなって。今日、思った」
黒猫は、静かに聞いていた。
「上司に全部ぶつけるとか、会社辞めるとか、そういう極端なことじゃなくてさ。まずは『これは無理です』ってちゃんと言う練習するとか。誰かに相談するとか。そういう小さいとこからでもいいから」
母が願っていた「ちゃんとご飯を食べて、ちゃんと寝て、笑っていてほしい娘」に、少しでも近づけるように。
「お母さんが心配しない働き方を、選んでいきたいな」
自分で言って、自分でうなずく。
それはきっと、すぐにはできない。今日明日で劇的に変われるわけでもない。でも、少なくとも、今までみたいに「全部自分のせいだ」と呪い続ける生き方からは、一歩外に出られる。
黒猫が、ベンチの上で立ち上がった。
その動きに合わせて、鈴が鳴る。
紗月が「ん?」と顔を向けたときには、猫の姿はもうなかった。
ベンチの上には、小さな銀色の鈴がひとつ、ぽつんと残されている。
「……置き土産?」
紗月は、思わず笑った。
そっと手を伸ばして、鈴を拾い上げる。指先の中で、それは驚くほど軽かった。近くで見ると、ところどころに小さな傷がついている。その傷のひとつひとつが、今まで猫が届けてきた「落とし物」の数みたいに思えた。
「預かっておくね」
鈴を握りしめてから、紗月は立ち上がった。
始発電車が、ホームに滑り込んでくる。ドアの前には、数人のサラリーマンや学生が並び始めていた。みんな、眠そうな顔をしているけれど、それぞれの朝に向かって立っている。
紗月も、その列の最後尾についた。
ポケットからスマホを取り出す。未読メッセージの表示がひとつ。送り主は、父だった。
日付が変わってすぐに届いていたのだろう。短い一文だけが画面に表示されている。
「今日はお母さんの命日だな」
毎年この時期になると、似たようなメッセージが来ていた。でも、今までは、どう返していいか分からなくて、スタンプひとつで済ませたり、わざと少し時間を置いてから、当たり障りのない返事をしたりしていた。
今年は、違う言葉を送ってみたくなった。
紗月は、入力欄に親指を置いた。
「うん、覚えてるよ。」
そこまで打って、一度止まる。
頭の中に、残響室で見た父と母の会話が浮かんでくる。病室の椅子に座る父の背中。母の冗談に肩を震わせて笑っていた姿。
あのときの父も、きっと不安だった。寂しかった。娘をどう支えればいいか分からないまま、最期の時間を過ごしていた。
それでも、今までずっと、黙って「命日だな」とだけ送ってきてくれた。
そのメッセージに、今年はちゃんと向き合ってみようと思う。
「今年は、ちゃんと行くよ。今度、一緒にお墓参りに行こう。」
そう打ち込んで、送信ボタンを押した。
胸の奥が、少しだけくすぐったい。恥ずかしさと、すっきりした感じが混ざり合っている。
すぐに返事が来るわけではない。でも、それでいい。
電車のドアが開いた。紗月は、深呼吸をひとつしてから乗り込む。
車内は、まだ人が少ない。窓際のシートに腰を下ろし、ポケットの中で鈴を握りしめた。
電車が走り出す。
窓の外の景色が、少しずつ動き出す。さっきまで自分が座っていたホームのベンチが、遠ざかっていく。黒猫の姿は見えない。けれど、ベンチのあたりに、うっすらと朝日が当たり始めている。
スマホが、小さく震えた。
父からの返信だ。
「分かった。無理のない日でいいからな。お前の好きなケーキ、買っていくよ」
紗月は、思わず笑ってしまった。
「ケーキで釣ろうとしないでよ」
そう打ちかけて、やめる。代わりに、シンプルな言葉を送った。
「ありがとう。楽しみにしてる。」
送信ボタンを押した瞬間、足元の方で、小さな音がした気がした。
ちりん。
電車の音に紛れるくらいの、かすかな鈴の音。
ポケットの中の鈴は、動いていない。でも、確かに一度だけ、その音が聞こえた気がした。
紗月は、窓の外を見た。
朝日が、街のビルの隙間から顔を出し始めている。光が、線路と車両と、遠くのビルの窓を、少しずつ照らしていく。
長い夜は終わった。
でも、過去がきれいさっぱりなくなるわけじゃない。失敗も、別れも、行かなかった日のことも、全部抱えたまま生きていくことになる。
それでもいい。
その全部を、自分の中にちゃんと居場所を作ってあげればいい。
「行ってきます」
小さく呟いた言葉は、自分自身に向けたものでもあり、どこかで見守っている誰かに向けたものでもあった。
電車は、静かに速度を上げていく。
紗月のポケットの中で、小さな鈴が、ひとつだけ静かに揺れた。



