終電を逃した夜、猫が拾った記憶

 影の扉をくぐった先は、静けさのかたまりみたいな場所だった。

 最初に感じたのは、匂いだ。

 消毒液のつんとした匂いと、古い畳の匂いと、電車のシートの布の匂い。その全部が、少しずつ混ざり合っている。どれかひとつだけを選べないくらい、記憶が重なっている匂いだった。

 足元を見れば、そこには線路の枕木と、病室の床のリノリウムと、実家の居間の敷物の柄が、まるで三重写しみたいに重なっている。歩くたびに、木の感触とビニールの冷たさと畳の柔らかさが、順番に足裏をくすぐった。

「ここ……」

 思わず声が漏れた。

 視界の端には、窓がある。その向こうを、ローカル線の田園風景が流れていく。逆側には、白いカーテン越しの夜景。点滴スタンドのシルエットが、薄く揺れている。

 正面には、見慣れた茶色いローテーブル。大学まで使っていた、実家の居間のテーブルだ。その上には、折りたたまれた新聞と、読みかけの文庫本、花柄のティーカップ。

 どこを見ても、どこかを思い出す。

 ここは、紗月の記憶の中にある場所が、全部少しずつ持ち寄られた空間だった。

 その真ん中に、ベンチがひとつ置いてある。

 駅のホームにあったのと同じ形の、金属のベンチ。そこに、光でできた人影が座っていた。

 輪郭は、やわらかくにじんでいる。大人の女性の形。肩までの髪が、ふわりと揺れている。けれど、顔だけははっきり見えなかった。光が強すぎて、目も口も、線としては捉えられない。

 それでも、誰なのかはすぐに分かった。

「……お母さん」

 名前を呼んだ途端、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 返事はない。光のシルエットは、紗月の方へ少し顔を向けたように見えただけだった。

 足元では、黒猫が静かに座っている。鈴が、ひとつ音を立てた。

 ちりん。

 その音に呼応するように、壁の一部が淡く光る。

 よく見ると、壁一面に、写真立てのような四角い窓がぎっしりと並んでいた。ひとつひとつの中に、違う景色が映っている。運動会のグラウンド。クリスマスのケーキ。高校の卒業式。駅のホーム。病院の廊下。

 眺めているうちに、そのうちのひとつが前にせり出してきた。

 白い天井。規則的な電子音。柔らかいベージュのカーテン。

 病室の景色だった。

「やだ」

 思わず、一歩後ろに下がる。

 黒猫が、ちらりと紗月を見上げた。責めるような目ではない。ただ、ここにいる理由を静かに思い出させるような視線だった。

 逃げてばかりきた記憶。触れないふりをしてきた痛み。

 恋人の記憶に向き合えた今、そのさらに奥にあるものが、手を伸ばして待っている。

 分かっていても、こわいものはこわい。

「……ちょっとだけだからね」

 自分に言い聞かせるようにつぶやいて、紗月はせり出した窓に触れた。

     ◇

 病室の空気は、少し乾いていた。

 冬の終わりの、まだ暖房の匂いが残る空気。窓の外には、薄暗い夕方の光。カーテンの隙間から見えるビルの屋上には、小さく積もった雪が残っている。

 ベッドの上には、母が寝ていた。

 頬は少しこけているけれど、表情は穏やかだった。鼻につけたチューブから、ゆっくりと呼吸の音が漏れている。胸の上下は小さくなったけれど、そのリズムはまだ確かだ。

 ベッドの横の椅子には、父が座っている。学生のときに見ていた父よりも、少しだけ背中が丸くなっていた。

 テレビはつけられているけれど、音はほとんど聞こえない。画面の中で流れるニュースのテロップだけが、淡々と時間を刻んでいた。

「紗月、今日は来ないみたいだね」

 父がぽつりと言った。

「……受験だしな。仕方ないよ」

 母の声はかすれている。それでも、いつもの、どこか呑気な調子が残っていた。

「受験じゃなくても、あの子は来ないよ。病院、苦手だから」

「そうかなあ」

 母が、目だけで笑う。

「あの子、ああ見えて優しいからさ。来れないこと、きっと一番自分で気にしてるよ」

 父が小さく息を吐く。

「気にしてるなら、来ればいいじゃないか」

「そういう簡単な話じゃないのよ。あなたも分かるでしょう」

 母は、ゆっくりと顔を横に向けた。点滴のチューブがかすかに揺れる。

「私だって、子どもの頃、おじいちゃんの病院、最後まで行かなかったもん」

「そうだったか?」

「うん。怖かったんだもん。匂いも、音も、あの空気も」

 母の声に、少しだけ昔話の色が混ざる。

「あとから、行けばよかったって、もちろん思ったよ。でもね、来なかったからって、親不孝だとか、薄情だとか、そんなふうには思わなかった」

 母は、天井を見つめながら続けた。

「あのときの私を、一番責めてたのは、私自身だけ。周りは、誰も責めてなかったのにね」

 父は黙って聞いていた。膝の上で組んだ手の指が、少しだけ強く組み直される。

「だからね」

 母が、少しだけ息を整える。

「もし、私がここでぽっくりいなくなっちゃったとしてもさ。紗月がその瞬間ここにいなかったからって、あの子のこと、責めないでね」

 その言葉に、父が顔を上げた。

「そんなこと、するわけないだろ」

「あなたはしないと思うけど。あの子が、きっと自分で自分を責めちゃうからさ」

 母は、目を細めた。

「あの子、まじめだからね。こういうとこだけ、私に似ちゃったのよ」

 笑い声が、病室の空気に小さく溶けていく。

 その会話を、ドアの近くから看護師さんが聞いていた。名前札には「北村」とある。優しい目をした女性だった。

「大崎さん」

 北村看護師が、そっと近づく。

「娘さん、さっき電話くれましたよ。今日はどうしても来られないって。受験前で、体調崩したら困るからって」

「あら、そうなの」

 母の顔が、ふっと明るくなる。

「ちゃんと電話してきたんだ。えらいえらい」

「心配してましたよ。『ちゃんとご飯食べてますか』って」

「あの子がご飯の心配するなんて、逆転現象ね」

 母が笑う。

「北村さん、あの子に伝えておいてもらえる?」

「何をですか」

「来れなくてもいいから、ちゃんと寝なさいって。無理して来て体壊される方が、こっちが困るからって」

 北村看護師も、思わず笑った。

「分かりました。伝えておきます」

 母は、ふうっと息を吐いて、少しだけ目を閉じた。

「娘には娘の生活があるからね。私のために、何かを犠牲にされるのは、一番嫌なのよ。あの子には、受験も友達も仕事も、全部大事にしてほしいから」

 その言葉に、父がじっと母を見つめた。

「お前は、ほんとに……」

「なに」

「親バカだなあと思って」

 父が、照れ隠しのように笑う。

「お互い様」

 母も、小さく笑い返す。

 そんな、他愛もない会話。

 その後、時間が少し流れる。

 画面が、ふっと切り替わった。

     ◇

 今度は、紗月の部屋だった。

 机の上には、山積みになった参考書と、開きっぱなしのノート。壁のカレンダーには、赤い丸で試験日が囲んである。

 机に向かう高校生の紗月は、ペンを握ったまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。

 机の端には、携帯電話が置かれている。何度も何度も画面が光っては消える。父からの不在着信。病院からの番号。

 一度、携帯を手に取る。

 でも、すぐに置いてしまう。

 病院に行って、母の姿を見るのが怖かった。痩せていく姿を見て、「もう長くないんだ」と現実を突きつけられるのが、怖かった。

(今日くらい、勉強しないと)

 そう自分に言い訳しながら、ペン先をノートに押しつける。でも、文字は歪んでいる。

 涙が紙に落ちて、インクがじわっと広がった。

 携帯電話が震える。

 父からのメール。

「間に合わなかった」

 短い文章が、画面に浮かんだ。

 その瞬間、当時の紗月の世界は、音を立てて崩れた。

 携帯が床に落ちる音。椅子が倒れる音。自分の荒い呼吸の音。

 全部が、ぐちゃぐちゃに混ざっていく。

 今、その光景を外側から見ている紗月は、そっと拳を握った。

(そうだ。あの日、私は行かなかった)

 行けなかった、ではなく、行かなかった。

 何度も何度も、自分にそう言ってきた。受験を理由にして、怖さから逃げた。それが母の最期だった。それを思うたびに、「最低の娘だ」と自分に烙印を押してきた。

 でも、さっき見た病室の光景は、違うことを示していた。

 母は、「来なかった娘」を責めていなかった。

 むしろ、「来なくていい」と言っていた。

「……知らなかった」

 今の紗月の目から、涙がひとつ、落ちた。

 記憶の中の病室に、視点が戻る。

 モニターの音が、さっきより少しだけ不規則になっている。母の呼吸は浅くなり、肩が上下する幅も小さくなっていた。

 北村看護師が、そっと母の手を握る。

「娘さん、本当は来たいはずですよ」

「うん。そうだね」

 母が、かすかに笑った。

「あの子、こう見えて怖がりだから。私の顔見ると、泣いちゃうでしょ」

 少しだけ、咳が混じる。

「泣かれるの、嫌じゃないですか」

「嫌じゃないけど……。うーん」

 母は、少し考えるように目を細めた。

「泣きながらでも来てくれたら、それはそれで嬉しいけど。でも、一番は、あの子が自分の生活を大事にしてくれることかな」

 ゆっくりと、言葉を選ぶように続ける。

「あの子がここにいるかどうかより、これから先、ちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝て、自分の好きなこと見つけて、笑っててくれたら、それで十分。……って、きっと、どこの親も思ってるよね」

 北村看護師が、頷いた。

「ええ。そうだと思います」

「だから、もしあの子が、来れなかったことを気にしてたら、言ってあげてほしいな」

 母は、小さく息を吸い込んだ。

「お母さんは、あなたを責めてないよって。来れなかったからって、親不孝だなんて、これっぽっちも思ってないよって」

 その言葉は、真っ直ぐに紗月の胸に突き刺さった。

 今まで、何度も頭の中で繰り返してきた台詞とは、まるで反対の言葉だった。

(……私、何してたんだろ)

 自分で自分を、どれだけひどく扱ってきたかを思い知らされる。

 母は、「会いたかった」と言うだろう。会えなくて寂しかった、とも言うかもしれない。それでも、それと「責める」は、同じじゃない。

 寂しさと、怒りは違う。

 母の願いは、「最期の瞬間に立ち会ってほしい」ことよりも、「これから先の紗月の生活」を心配することだった。

 その事実を、ずっと知らずにきた。

 黒猫の鈴が、そっと鳴った。

 ちりん。

 その音が、母の笑い声に重なる。

 病室の光景が、ゆっくりと薄くなっていく。白い天井も、モニターの光も、ベッドの上の母の姿も、すべて光に溶けていく。

 代わりに浮かび上がったのは、実家の居間だった。

     ◇

 居間のテーブルの上に、さっき拾ったのと同じ古い切符が置いてある。

 ソファには、元気だった頃の母が座っていた。エプロンをつけたまま、テレビから流れる旅番組を見ている。

「ここ、前に行ったとこだよ」

 母が、画面を指さした。

 テレビには、ローカル線の車窓からの風景が映っている。田んぼと山と、小さな駅。

「ほんとだ」

 中学生くらいの紗月が、その隣に座っている。制服のスカートに、少しだけしわが寄っていた。

「また行きたいねえ」

 母が、のんびりとした声で言う。

「今度は高校の春休みくらいかな。大学受かったら、卒業旅行にもう一回でもいいね」

「その頃、お母さん元気なの」

「なによ、その言い方。元気だよ。……たぶん」

 母が、自分で苦笑した。

「でもさ、もし元気じゃなかったとしてもいいのよ。旅って、行けるときに行けばいいから」

 そのときの会話が、今になって胸に刺さる。

「途中で終わったって、いいじゃない。行けたところまで行けたってことが、大事なんだから」

 母は、テーブルの上の切符を指先で押さえた。

 その指の形も、たしかに覚えている。

「人生も、一緒」

 母が、ぽつりと言った。

「いつどうなるかなんて、誰にも分からないし、計画通りに最後まで行ける人なんて、ほとんどいないんじゃないかな」

「うわ、急に人生語り」

「いいから聞きなさい」

 母が、わざと真面目な顔をする。

「もし途中で終わっちゃったとしてもさ。そこで一緒に笑ってくれた人がいたなら、それで十分なんだよ」

 そのときの紗月は、あまり深く考えずに「あっそ」と返しただけだった。

 でも今は、その言葉が、まったく違う重みを持って聞こえる。

 母にとっての「途中で終わった旅」は、この人生全部のことだったのかもしれない。ローカル線の旅も、子育ても、病院での日々も。

 「最後まで見送ってもらうこと」だけが、大事だったわけじゃない。

 その途中途中で、笑い合えていた時間が、一番の宝物だったはずだ。

 紗月は、自分の手の中にある切符を見つめた。

 現実のホームで握りしめていた紙が、この残響室の中で、あの日の切符と重なっている。

「……ごめんね」

 自然と、言葉がこぼれた。

「行けなくて、ごめんね」

 ずっと言えなかった言葉だった。

 誰に届くわけでもない謝罪。でも、それを口にした瞬間、胸の奥で何かが静かに鳴った。

 黒猫が、そっと寄り添ってくる。

 足元に体を擦りつけてから、ひょいとベンチの上に飛び乗る。その隣に、光のシルエットが座っていた。

 顔は相変わらず見えない。でも、肩のラインや、座り方の癖、足首の角度。全部が懐かしくて、どうしようもなく「母」だった。

「ありがとうも、言えてなかった」

 紗月は、ベンチの前に立った。

「高校行かせてくれたことも、大学行かせてくれたことも。いつも、変な弁当作ってくれたのも」

 ひとつひとつ、思い出していく。

「私、ちゃんと、笑ってたよね」

 問いかけるように言うと、光のシルエットが、かすかに頷いた気がした。

 黒猫の鈴が鳴る。

 ちりん。

 それは、「そうだよ」と言ってくれているような音だった。

 紗月の視界が、涙でにじむ。

 今さら泣いたって、時間は戻らない。母が生き返ることもない。やり直しボタンなんて、どこにもない。

 それでも。

 今までずっと、「母に許されなかった」と思い込んで、自分を罰してきた時間だけは、変えられるのかもしれない。

 過去の出来事は変えられないけれど、その解釈は変えられる。

 母は、最期の瞬間に紗月がいなかったことを、きっと何度も寂しがっただろう。それと同じくらい、もしかしたらそれ以上に、これから先の紗月のことを案じていた。

 「来てくれなかったこと」を責めるより、「これからちゃんとご飯を食べて、ちゃんと笑ってくれるか」を心配していた。

 そう思った瞬間、自分の中の「最低の娘」というラベルが、少しだけ剥がれた気がした。

「……私、お母さんに、愛されてたんだね」

 言葉にしてみると、照れくさい。でも、確かめるように口に出したかった。

 光のシルエットが、ゆっくり立ち上がる。

 その手が、ベンチから離れた瞬間、紗月の肩のあたりに、ふわりと温かいものが触れた。

 風でもなく、重みでもない。温度だけが、そっと伝わってくる。

 肩に手を置かれたような、頭を撫でられたような感覚。

 黒猫が、その間にするりと入りこんで、紗月の足元に体を預ける。鈴が、優しく鳴った。

 病室の匂いも、畳の匂いも、電車の揺れも、少しずつ遠ざかっていく。

 残響室の壁に並んでいた窓が、ひとつ、またひとつ、光を失っていく。その代わりに、紗月の胸のあたりが、少しずつ明るくなっていくようだった。

 そこには、まだ痛みも残っている。完全に消えたわけじゃない。でも、その痛みの輪郭が、さっきまでよりも柔らかくなっていた。

 許されるのを待つ娘から、自分で自分を許す大人へ。

 その変化への一歩を、今、踏み出したばかりだ。

 黒猫が、ゆっくりとベンチから降りる。

 残響室の空気が、白く透け始めた。ローカル線の窓の外の景色が、薄い朝焼けの色に変わっていく。

 母の光のシルエットは、もうほとんど輪郭を保っていなかった。それでも、最後に一度だけ、紗月の方へ顔を向けたように見えた。

 その瞬間、鈴の音が高く鳴る。

 ちりん。

 それは、聞き慣れた母の笑い声と重なって、紗月の耳に届いた。

「……行ってくるね」

 紗月は、小さく呟いた。

「ちゃんと、ご飯食べて、寝て、笑えるように、頑張ってみる」

 返事はない。でも、それで十分だった。

 光が一気にまぶしくなり、残響室の景色が溶けていく。

 次に目を開けたとき、紗月は、またあのホームのベンチに座っていた。