どれくらい、そうしていたんだろう。
膝の上で丸まっている黒猫の体温に包まれたまま、紗月は、うとうとと浅い眠りと現実の境目を行ったり来たりしていた。
ホームを撫でる夜風の音。遠くで鳴る踏切の警報。電光掲示板の、機械的な電子音。全部が、少しだけ遠くなっていた。
ふと、ゴロゴロという喉の振動が止まった気がして、紗月は目を開けた。
さっきよりも空が、わずかに白んでいる。まだ夜の色だけれど、どこかに朝の気配が混じり始めていた。
黒猫は膝の上から降りて、ホームの床にちょこんと座っている。足元には、あの光る欠片たちが、まだいくつも転がっていた。
その中で、淡いピンク色の光を放つ欠片が、ひとつ。
タグに刻まれた「悠斗」の文字だけが、はっきりと目に飛び込んでくる。
「……まだ、いるんだ」
思わずつぶやいた自分の声が、少し掠れていた。
忘れようとしているものほど、しぶとくそこに居座る。そんな当たり前のことを、視覚的に突きつけられている気分だった。
「見ないって、さっき決めたのに」
誰に言うでもなく言葉をこぼすと、胸の奥がじんわり熱くなる。それは、怒りとも悔しさともつかない感情だった。
自分に対する苛立ち。逃げたことへの自己嫌悪。
恋人との記憶だけじゃない。母のことも、仕事のことも。全部、「あとで」「落ち着いたら」と言い訳して、きちんと向き合わないまま、なんとなく時間だけをやり過ごしてきた。
そうやって目をそらし続けた結果が、今だ。
クライアントに頭を下げて、終電を逃して、人気のないホームで、猫と過去の残骸を前に座っている。
「過去なんて、見たって意味ないのに」
思わず、声が荒くなった。
「見返したって、取り返せないでしょ。仕事も、恋愛も、お母さんのことも。全部、もう終わってるのに。今さら何か分かったところで、何か変わるの?」
言いながら、自分でもそれが八つ当たりだと分かっていた。
黒猫は、責めるような目を向けてくることはない。ただ、じっと紗月を見上げて、尻尾の先を一度だけ揺らした。
「ごめん。きみに言ってもしょうがないのに」
紗月は、額を片手で押さえた。目の奥が、じわじわと痛む。寝不足と、泣き疲れと、感情の揺さぶりのせいだ。
膝の上のぬくもりが消えた今、ホームの冷たさが余計に身にしみる。ベンチの金属が、じわじわと熱を奪っていく。
ふと、黒猫がすっと動いた。
ホームの柱の方へ歩いていき、その根元に鼻先を突っ込む。何かを探るみたいに、前足でがさがさとコンクリートと壁の隙間をかいた。
「ちょっと、何してるの」
紗月が立ち上がると、猫はくわえていたものをぽとりと床に落とした。
それは、小さな紙切れだった。
長方形のその紙には、色あせた線路の模様と、小さな駅名が印刷されている。ところどころ擦り切れていて、端は少し破れていた。
「……切符?」
紗月はしゃがみ込んで、それを拾い上げた。
古いローカル線の乗車券。印字された日付は、二〇〇六年の夏休み。切符の端には、小さく押されたスタンプがある。
見覚えのある駅名だった。
さっき、光の欠片の中で見た、母と一緒に乗ったローカル線の旅。そのときに通った駅のひとつ。小さな無人駅。ホームのベンチに、風鈴が下がっていた場所。
「あのときの……」
声が自然と出た。
母が大事そうに財布にしまっていた切符。降りるときに回収されずに残ったものを、「記念だから」と持ち帰った。家に帰ってからも、お気に入りの文庫本に挟んだりしていた。
紗月は、指先でその紙の感触を確かめる。
時間の重みを吸い込んだみたいな、少しざらついた触感。角の丸まり方まで、妙にリアルだった。
「なんで、ここにあるの」
思わず黒猫を見ると、猫は何食わぬ顔で前足を舐めている。鈴が、彼の動きに合わせて小さく揺れた。
ちりん。
さっきローカル線の車内で聞いたアナウンスの音色と、また重なる。
切符の端に、細いペンで書かれた文字があった。子どもの字で、「また来る」と書いてある。
それを書いたのは、小学生の頃の自分だ。
「また来るって、書いてたんだ」
自分の書いた文字なのに、他人のメモみたいに読んでしまう。
その約束は、結局ひとつも守れなかった。母が倒れてから、旅行なんて行けるはずもなくなったし、あの駅に降り立つことももうなかった。
胸の奥に、静かな痛みが広がる。
黒猫は、そんな紗月の表情をしばらく眺めてから、淡いピンク色の欠片の方へ視線を移した。
膝の上には戻ってこない。ただ、切符と欠片の間を、行ったり来たりするみたいに目線を動かす。
過去から逃げたい自分と、過去に繋がるものを差し出してくる猫。
どちらを選ぶかは、結局私次第だ。
「……ずるいなあ、きみ」
ため息混じりにつぶやきながら、紗月は立ち上がった。指の中で、古い切符が、かさりと小さな音を立てる。
足元のピンク色の光が、じっとこちらを見上げているように見えた。
恋人との記憶なんて、掘り返したくない。できることなら、このまま見なかったことにして、光ごとどこかに蹴り飛ばしてしまいたい。
でも。
どうせ、心のどこかでずっと引っかかっている。
私がダメだったから。私が仕事を優先したから。私がちゃんと向き合わなかったから。そうやって、自分にだけ原因を押しつけ続けている限り、きっとどこかで同じことを繰り返す。
それなら、痛いのを承知で、一度ちゃんと見るべきなのかもしれない。
そう思った瞬間、古い切符の文字が、ふっと視界の端でにじんだ。
「また来る」
過去に書いた約束は、旅行だけの話じゃないような気がしてくる。
あのときの母に。あのときの自分に。ちゃんと戻ってこいよ、と言われているような。
「……分かったよ」
紗月は、小さく息を吸った。
「一回だけ、見る。逃げないって決めたら、きみもちゃんと付き合ってよ」
黒猫にそう告げてから、淡いピンク色の欠片に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、世界がまた反転した。
◇
そこは、見慣れた部屋だった。
ワンルームの一角。観葉植物と、安いけれどお気に入りのソファ。ローテーブルの上には、飲みかけのマグカップと、コンビニのお惣菜のパック。
時計の針は、夜の九時を指していた。
ソファには、二人分の体温が残っている。
一人は、過去の紗月。仕事帰りのスーツのまま、髪を一つにまとめている。ネクタイはしていないけれど、シャツの第一ボタンはきっちり留められていた。
もう一人は、悠斗。
部屋着のパーカーにジーンズというラフな格好で、紗月の向かいに座っていた。指先には、緊張の名残みたいに、マグカップの取っ手を持つ力が少し入りすぎている。
「紗月」
悠斗が、呼んだ。
「うん」
過去の紗月が、答える。けれど、視線はスマホの画面から離れない。仕事のチャットアプリが、次々と通知を送り込んでくる。
今見ると、その時点で既に空気は重くなっていた。お互いに何かを言いたいのに、相手に遠慮している感じ。
「話あるって、言ってたよね。ごめん、ちょっとだけこれだけ確認したら……」
「それ、さっきも聞いた」
悠斗の声が、少しだけかぶさった。
いつもは穏やかな彼の声が、そのときだけは少し尖っている。
過去の紗月は、その変化に気づいていない。というより、気づかないふりをしている。スマホの画面に集中しているふりをして、現実から視線を逸らしている。
今の紗月には、そのごまかし方がよく分かった。
(うわ。私、めっちゃ逃げてる)
顔を覆いたくなる気持ちをこらえて、見続ける。
「今日さ、本当は、外でご飯食べようって前から言ってたよね」
「うん……でも、クライアントの返事がさ」
「毎回それじゃん」
悠斗の言葉が、きっぱりと切り込んできた。
過去の紗月が、そこでようやく顔を上げる。スマホの画面が、テーブルの上で静かに光っている。
「仕事だから、仕方ないでしょ」
「それ、何回目」
悠斗は笑っていなかった。でも、怒鳴ってもいなかった。ただ、目の奥が、どうしようもなく疲れているように見えた。
「俺さ、紗月の仕事が大事なのも、ちゃんと分かってるつもりだよ。でも、いつも『仕事だから仕方ない』って言葉で、俺との約束を後回しにされると、なんか……」
そこで言葉を切り、唇を噛む。
「俺って、仕事よりは後なんだな、って、思っちゃうんだよな」
その言葉を聞いたとき、過去の紗月は、反射的に眉をひそめた。
「そんなつもりじゃないよ」
「分かってるよ。分かってるけどさ」
悠斗は、マグカップをテーブルに置き直した。指先がわずかに震えている。
「このままいくとさ、多分、俺、紗月のこと、嫌いになっちゃうと思う」
その一言が、当時の紗月の胸を深く刺した。
今でも、その瞬間の痛みは鮮明だ。心臓を素手で掴まれたみたいな、息ができなくなる感覚。
「……じゃあ、別れたいってこと?」
過去の紗月の声が、少し震えた。
今の紗月は、そこで初めて、自分がどれだけ追い詰めていたかを理解する。
質問の仕方が、極端だ。
「嫌われたくない」気持ちが先に立って、「どうしたらいいか」を聞く前に、白か黒かを迫ってしまっている。
悠斗は、目を閉じた。
「別れたいわけじゃない。でも、このままズルズル続けて、どっちかが限界まで我慢してから終わるの、もっと嫌なんだよ」
彼は、小さく笑った。自分を責めるような笑い方だった。
「俺、たぶん、そんなタフじゃないからさ。紗月の仕事の愚痴、聞くのも好きだし、頑張ってるとこ見るのも好きだけどさ。いつも一番最後にされてるって感じるの、そんなに強くないから、多分耐えられなくなる」
それは、きっと本音だった。
当時の紗月には、「支えきれない」って言葉が、「私のことを支える気がない」に聞こえていた。
でも今は、「自分の限界を正直に伝えている」声だと分かる。
「ごめん。情けないよな」
悠斗が、自分のことを笑った。
「もうちょっと器がでかければよかったんだけどさ。全部受け止めてやるよ、って言える男だったらよかったんだけど。俺、そんな立派じゃないからさ」
その言葉も、昔の自分はちゃんと聞けていなかった。
ただ、「支えきれない」の方だけを切り取って、「やっぱり私が悪い」「負担をかけた私がだめなんだ」と決めつけた。
今、外側から見ていると、別のものが見える。
悠斗は、確かに逃げようとしている。重さから距離を取ろうとしている。それでも、最後まで紗月のことを悪者にしようとはしていなかった。
「俺が弱いせいで、ごめん」
そう言って、彼は頭を下げた。
別れ話の場で「ごめん」と言ったのは、彼の方だった。
過去の紗月は、その時それどころじゃなかった。涙が先に出てきてしまい、「私が悪いからでしょ」と言ってしまった。
でも、それは、半分だけ正しくて、半分は間違っている。
確かに、仕事を理由に約束を後回しにしてきたのは紗月だ。だけど、「支えきれない」と感じたこと自体は、誰のせいでもない。
大人になるって、本当はこういう「限界」を互いに持ち寄って、その上でどう付き合っていくかを考えることなんだろう。
当時の自分は、それを知らなかった。
(私、あのとき……)
今の紗月の喉の奥が、じんと熱くなる。
(全部、私が悪いから、嫌われたんだって、決めつけてた)
そう思った方が、楽だったのかもしれない。自分を悪者にしておけば、相手を恨まなくて済むし、「嫌われた私」は動かなくていいから。
でも、その解釈のせいで、ずっと自分を罰し続けてきた。
記憶の中の部屋が、少しずつ白んでいく。最後に見えたのは、玄関で靴を履く悠斗の背中だった。振り返りかけて、やめて、ただ小さく会釈して出ていく背中。
あれは、「逃げた」背中でもあるし、「これ以上嫌いにならないうちに離れようとした」背中でもあったのかもしれない。
◇
ホームに戻ると、紗月はしばらく立ち尽くしていた。
足元の感覚が、少し心もとない。膝がわずかに震えている。
でも、不思議なことに、さっきみたいな息苦しさはなかった。
「……そうだったんだね」
自分に向けて言うように、小さく声を出す。
別れの原因が消えたわけでもないし、後悔がなくなったわけでもない。でも、「全部自分が悪い」という一枚きりのラベルは、もう使えなくなった。
恋人は、紗月を嫌いになったわけじゃない。支えきれない自分を感じて、逃げた。
それは、紗月にとっては痛いけれど、彼にとっては「限界」だった。
その二つを同時に見つめることができる。今なら、少しだけ。
その瞬間、胸の奥で何かがほどける音がしたような気がした。
「きみ、最初から知ってた?」
足元の黒猫に問いかけると、猫は相変わらずの顔でこちらを見上げた。鈴がちりんと鳴る。
ホームの奥。さっきから暗い影が溜まっている場所に、変化が現れた。
線路の向こう側。トンネルの入口のように見えていた黒い部分に、うっすらと輪郭が浮かび上がる。
細長い長方形。ドアノブの形をした影。何もない空間の中に、「扉」のようなものが描かれていく。
「なに、あれ」
紗月は思わず、息を飲んだ。
よく見ると、その扉の表面には、無数の小さな光の粒が灯っている。さっき紗月が見てきた欠片たちよりも、ずっと細かく、星のように散らばった光。
扉の向こう側からは、かすかに、誰かの笑い声のようなものが聞こえてくる。風の音にも、電車の音にも似ていない、不思議な音。
黒猫が、するりと動いた。
ホームの端まで歩いていき、線路の上にひょいと飛び降りる。危ない、と思う間もなく、猫は軽々と向こう側へ渡っていった。
「ちょっと、危ないってば」
思わず叫んだけれど、猫は気にする様子もなく、影の扉の前にちょこんと座った。こちらを振り返り、まっすぐ紗月を見つめる。
扉の輪郭が、少しだけはっきりする。
近づくほど、本物みたいに見えてくるけれど、よく見ればどこか現実味がない。ガラスの反射もなければ、木目も見えない。ただ、光と影だけで形作られている扉。
その前に座る黒猫は、やけに自然だった。
扉の向こう側で、何かが待っている。
そんな感覚だけが、はっきり伝わってくる。
「……行けってこと?」
紗月がつぶやくと、黒猫は一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。
それは、さっきローカル線の記憶を見せる前にもしていた仕草だ。
母との旅の切符。恋人との別れ。仕事の失敗。
そのどれもが、この扉の向こう側へ続く道だったのかもしれない。
扉の表面の光の粒が、ひとつだけ強く輝いた。
その光の色は、さっき見たローカル線の夕焼けに似ていた。
「こわいよ」
正直に言葉が出た。
「これ以上、見たくないものが増えるの、こわい」
猫は、そこでようやく動いた。
線路を戻るときも、やっぱり軽々と飛び上がる。そのまま紗月の足元まで戻ってきて、前足で彼女の足首をちょんと触れた。
次の瞬間、ふわりと尻尾が足首に絡まる。
柔らかい毛並みが、タイツ越しに肌を撫でた。少しくすぐったい。でも、そのぬくもりが、足の裏からじんわりと体の中に伝わってくる。
「一緒に来るってこと?」
紗月が聞くと、黒猫は鈴を鳴らした。
ちりん。
その音が、不思議と背中を押す。
怖くないわけじゃない。でも、この猫と一緒なら、何とかなるような気がする。さっきだって、一人だったら一年目の記憶も、恋人との別れも、途中で目をそらしていたかもしれない。
今は、ちゃんと最後まで見届けられた。
それは、膝の上で寄り添ってくれた小さな体温のおかげだ。
「……分かった。行くよ」
紗月は、古い切符をぎゅっと握りしめた。
足元に転がっていた光の欠片たちは、いつの間にか数を減らしている。見終わった記憶は、静かに消えていったのかもしれない。
残っているのは、ほんのわずか。母のことに繋がる何かと、まだ名前の読めない小さなタグをつけた欠片。
それらはきっと、扉の向こう側で待っている。
ホームの端まで歩いていくと、線路の先の影が、近くなっていくのが分かった。足元の枕木の隙間から、夜の冷気が立ち上ってくる。
扉は、紗月が一歩近づくたびに、輪郭を濃くしていった。さっきまでぼんやりしていた境目が、今ははっきりしている。
黒猫が先に進み、扉の前で立ち止まる。紗月を振り返って、もう一度鈴を鳴らした。
心臓が、どきんと強く鳴った。
でも、その鼓動は「恐怖」の音だけじゃなかった。どこかで、「この先で、何かが変わる」と知っている音でもあった。
「行こうか」
自分に言うように、紗月は小さくつぶやいた。
黒猫の尻尾が、足首からふわりと離れる。代わりに、紗月のひざ裏に軽く身体を押し当ててくる。前へ進め、とでも言うみたいに。
一歩、踏み出す。
扉の表面が、水面のようにゆらりと揺れた。
二歩目を踏み出した瞬間、ホームの冷たい空気が、ふっと遠ざかる。
黒猫の鈴の音だけが、はっきりと耳に残った。
その音に導かれるようにして、紗月は影の扉の中へと進んでいった。
怖さはまだある。それでも、さっきまでと違っていたのは、胸の中に、ほんの少しだけ期待が混じっていることだった。
この先で、自分の一番大事な「落とし物」に、会えるのかもしれない。
そんな予感が、静かに灯っていた。
膝の上で丸まっている黒猫の体温に包まれたまま、紗月は、うとうとと浅い眠りと現実の境目を行ったり来たりしていた。
ホームを撫でる夜風の音。遠くで鳴る踏切の警報。電光掲示板の、機械的な電子音。全部が、少しだけ遠くなっていた。
ふと、ゴロゴロという喉の振動が止まった気がして、紗月は目を開けた。
さっきよりも空が、わずかに白んでいる。まだ夜の色だけれど、どこかに朝の気配が混じり始めていた。
黒猫は膝の上から降りて、ホームの床にちょこんと座っている。足元には、あの光る欠片たちが、まだいくつも転がっていた。
その中で、淡いピンク色の光を放つ欠片が、ひとつ。
タグに刻まれた「悠斗」の文字だけが、はっきりと目に飛び込んでくる。
「……まだ、いるんだ」
思わずつぶやいた自分の声が、少し掠れていた。
忘れようとしているものほど、しぶとくそこに居座る。そんな当たり前のことを、視覚的に突きつけられている気分だった。
「見ないって、さっき決めたのに」
誰に言うでもなく言葉をこぼすと、胸の奥がじんわり熱くなる。それは、怒りとも悔しさともつかない感情だった。
自分に対する苛立ち。逃げたことへの自己嫌悪。
恋人との記憶だけじゃない。母のことも、仕事のことも。全部、「あとで」「落ち着いたら」と言い訳して、きちんと向き合わないまま、なんとなく時間だけをやり過ごしてきた。
そうやって目をそらし続けた結果が、今だ。
クライアントに頭を下げて、終電を逃して、人気のないホームで、猫と過去の残骸を前に座っている。
「過去なんて、見たって意味ないのに」
思わず、声が荒くなった。
「見返したって、取り返せないでしょ。仕事も、恋愛も、お母さんのことも。全部、もう終わってるのに。今さら何か分かったところで、何か変わるの?」
言いながら、自分でもそれが八つ当たりだと分かっていた。
黒猫は、責めるような目を向けてくることはない。ただ、じっと紗月を見上げて、尻尾の先を一度だけ揺らした。
「ごめん。きみに言ってもしょうがないのに」
紗月は、額を片手で押さえた。目の奥が、じわじわと痛む。寝不足と、泣き疲れと、感情の揺さぶりのせいだ。
膝の上のぬくもりが消えた今、ホームの冷たさが余計に身にしみる。ベンチの金属が、じわじわと熱を奪っていく。
ふと、黒猫がすっと動いた。
ホームの柱の方へ歩いていき、その根元に鼻先を突っ込む。何かを探るみたいに、前足でがさがさとコンクリートと壁の隙間をかいた。
「ちょっと、何してるの」
紗月が立ち上がると、猫はくわえていたものをぽとりと床に落とした。
それは、小さな紙切れだった。
長方形のその紙には、色あせた線路の模様と、小さな駅名が印刷されている。ところどころ擦り切れていて、端は少し破れていた。
「……切符?」
紗月はしゃがみ込んで、それを拾い上げた。
古いローカル線の乗車券。印字された日付は、二〇〇六年の夏休み。切符の端には、小さく押されたスタンプがある。
見覚えのある駅名だった。
さっき、光の欠片の中で見た、母と一緒に乗ったローカル線の旅。そのときに通った駅のひとつ。小さな無人駅。ホームのベンチに、風鈴が下がっていた場所。
「あのときの……」
声が自然と出た。
母が大事そうに財布にしまっていた切符。降りるときに回収されずに残ったものを、「記念だから」と持ち帰った。家に帰ってからも、お気に入りの文庫本に挟んだりしていた。
紗月は、指先でその紙の感触を確かめる。
時間の重みを吸い込んだみたいな、少しざらついた触感。角の丸まり方まで、妙にリアルだった。
「なんで、ここにあるの」
思わず黒猫を見ると、猫は何食わぬ顔で前足を舐めている。鈴が、彼の動きに合わせて小さく揺れた。
ちりん。
さっきローカル線の車内で聞いたアナウンスの音色と、また重なる。
切符の端に、細いペンで書かれた文字があった。子どもの字で、「また来る」と書いてある。
それを書いたのは、小学生の頃の自分だ。
「また来るって、書いてたんだ」
自分の書いた文字なのに、他人のメモみたいに読んでしまう。
その約束は、結局ひとつも守れなかった。母が倒れてから、旅行なんて行けるはずもなくなったし、あの駅に降り立つことももうなかった。
胸の奥に、静かな痛みが広がる。
黒猫は、そんな紗月の表情をしばらく眺めてから、淡いピンク色の欠片の方へ視線を移した。
膝の上には戻ってこない。ただ、切符と欠片の間を、行ったり来たりするみたいに目線を動かす。
過去から逃げたい自分と、過去に繋がるものを差し出してくる猫。
どちらを選ぶかは、結局私次第だ。
「……ずるいなあ、きみ」
ため息混じりにつぶやきながら、紗月は立ち上がった。指の中で、古い切符が、かさりと小さな音を立てる。
足元のピンク色の光が、じっとこちらを見上げているように見えた。
恋人との記憶なんて、掘り返したくない。できることなら、このまま見なかったことにして、光ごとどこかに蹴り飛ばしてしまいたい。
でも。
どうせ、心のどこかでずっと引っかかっている。
私がダメだったから。私が仕事を優先したから。私がちゃんと向き合わなかったから。そうやって、自分にだけ原因を押しつけ続けている限り、きっとどこかで同じことを繰り返す。
それなら、痛いのを承知で、一度ちゃんと見るべきなのかもしれない。
そう思った瞬間、古い切符の文字が、ふっと視界の端でにじんだ。
「また来る」
過去に書いた約束は、旅行だけの話じゃないような気がしてくる。
あのときの母に。あのときの自分に。ちゃんと戻ってこいよ、と言われているような。
「……分かったよ」
紗月は、小さく息を吸った。
「一回だけ、見る。逃げないって決めたら、きみもちゃんと付き合ってよ」
黒猫にそう告げてから、淡いピンク色の欠片に手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、世界がまた反転した。
◇
そこは、見慣れた部屋だった。
ワンルームの一角。観葉植物と、安いけれどお気に入りのソファ。ローテーブルの上には、飲みかけのマグカップと、コンビニのお惣菜のパック。
時計の針は、夜の九時を指していた。
ソファには、二人分の体温が残っている。
一人は、過去の紗月。仕事帰りのスーツのまま、髪を一つにまとめている。ネクタイはしていないけれど、シャツの第一ボタンはきっちり留められていた。
もう一人は、悠斗。
部屋着のパーカーにジーンズというラフな格好で、紗月の向かいに座っていた。指先には、緊張の名残みたいに、マグカップの取っ手を持つ力が少し入りすぎている。
「紗月」
悠斗が、呼んだ。
「うん」
過去の紗月が、答える。けれど、視線はスマホの画面から離れない。仕事のチャットアプリが、次々と通知を送り込んでくる。
今見ると、その時点で既に空気は重くなっていた。お互いに何かを言いたいのに、相手に遠慮している感じ。
「話あるって、言ってたよね。ごめん、ちょっとだけこれだけ確認したら……」
「それ、さっきも聞いた」
悠斗の声が、少しだけかぶさった。
いつもは穏やかな彼の声が、そのときだけは少し尖っている。
過去の紗月は、その変化に気づいていない。というより、気づかないふりをしている。スマホの画面に集中しているふりをして、現実から視線を逸らしている。
今の紗月には、そのごまかし方がよく分かった。
(うわ。私、めっちゃ逃げてる)
顔を覆いたくなる気持ちをこらえて、見続ける。
「今日さ、本当は、外でご飯食べようって前から言ってたよね」
「うん……でも、クライアントの返事がさ」
「毎回それじゃん」
悠斗の言葉が、きっぱりと切り込んできた。
過去の紗月が、そこでようやく顔を上げる。スマホの画面が、テーブルの上で静かに光っている。
「仕事だから、仕方ないでしょ」
「それ、何回目」
悠斗は笑っていなかった。でも、怒鳴ってもいなかった。ただ、目の奥が、どうしようもなく疲れているように見えた。
「俺さ、紗月の仕事が大事なのも、ちゃんと分かってるつもりだよ。でも、いつも『仕事だから仕方ない』って言葉で、俺との約束を後回しにされると、なんか……」
そこで言葉を切り、唇を噛む。
「俺って、仕事よりは後なんだな、って、思っちゃうんだよな」
その言葉を聞いたとき、過去の紗月は、反射的に眉をひそめた。
「そんなつもりじゃないよ」
「分かってるよ。分かってるけどさ」
悠斗は、マグカップをテーブルに置き直した。指先がわずかに震えている。
「このままいくとさ、多分、俺、紗月のこと、嫌いになっちゃうと思う」
その一言が、当時の紗月の胸を深く刺した。
今でも、その瞬間の痛みは鮮明だ。心臓を素手で掴まれたみたいな、息ができなくなる感覚。
「……じゃあ、別れたいってこと?」
過去の紗月の声が、少し震えた。
今の紗月は、そこで初めて、自分がどれだけ追い詰めていたかを理解する。
質問の仕方が、極端だ。
「嫌われたくない」気持ちが先に立って、「どうしたらいいか」を聞く前に、白か黒かを迫ってしまっている。
悠斗は、目を閉じた。
「別れたいわけじゃない。でも、このままズルズル続けて、どっちかが限界まで我慢してから終わるの、もっと嫌なんだよ」
彼は、小さく笑った。自分を責めるような笑い方だった。
「俺、たぶん、そんなタフじゃないからさ。紗月の仕事の愚痴、聞くのも好きだし、頑張ってるとこ見るのも好きだけどさ。いつも一番最後にされてるって感じるの、そんなに強くないから、多分耐えられなくなる」
それは、きっと本音だった。
当時の紗月には、「支えきれない」って言葉が、「私のことを支える気がない」に聞こえていた。
でも今は、「自分の限界を正直に伝えている」声だと分かる。
「ごめん。情けないよな」
悠斗が、自分のことを笑った。
「もうちょっと器がでかければよかったんだけどさ。全部受け止めてやるよ、って言える男だったらよかったんだけど。俺、そんな立派じゃないからさ」
その言葉も、昔の自分はちゃんと聞けていなかった。
ただ、「支えきれない」の方だけを切り取って、「やっぱり私が悪い」「負担をかけた私がだめなんだ」と決めつけた。
今、外側から見ていると、別のものが見える。
悠斗は、確かに逃げようとしている。重さから距離を取ろうとしている。それでも、最後まで紗月のことを悪者にしようとはしていなかった。
「俺が弱いせいで、ごめん」
そう言って、彼は頭を下げた。
別れ話の場で「ごめん」と言ったのは、彼の方だった。
過去の紗月は、その時それどころじゃなかった。涙が先に出てきてしまい、「私が悪いからでしょ」と言ってしまった。
でも、それは、半分だけ正しくて、半分は間違っている。
確かに、仕事を理由に約束を後回しにしてきたのは紗月だ。だけど、「支えきれない」と感じたこと自体は、誰のせいでもない。
大人になるって、本当はこういう「限界」を互いに持ち寄って、その上でどう付き合っていくかを考えることなんだろう。
当時の自分は、それを知らなかった。
(私、あのとき……)
今の紗月の喉の奥が、じんと熱くなる。
(全部、私が悪いから、嫌われたんだって、決めつけてた)
そう思った方が、楽だったのかもしれない。自分を悪者にしておけば、相手を恨まなくて済むし、「嫌われた私」は動かなくていいから。
でも、その解釈のせいで、ずっと自分を罰し続けてきた。
記憶の中の部屋が、少しずつ白んでいく。最後に見えたのは、玄関で靴を履く悠斗の背中だった。振り返りかけて、やめて、ただ小さく会釈して出ていく背中。
あれは、「逃げた」背中でもあるし、「これ以上嫌いにならないうちに離れようとした」背中でもあったのかもしれない。
◇
ホームに戻ると、紗月はしばらく立ち尽くしていた。
足元の感覚が、少し心もとない。膝がわずかに震えている。
でも、不思議なことに、さっきみたいな息苦しさはなかった。
「……そうだったんだね」
自分に向けて言うように、小さく声を出す。
別れの原因が消えたわけでもないし、後悔がなくなったわけでもない。でも、「全部自分が悪い」という一枚きりのラベルは、もう使えなくなった。
恋人は、紗月を嫌いになったわけじゃない。支えきれない自分を感じて、逃げた。
それは、紗月にとっては痛いけれど、彼にとっては「限界」だった。
その二つを同時に見つめることができる。今なら、少しだけ。
その瞬間、胸の奥で何かがほどける音がしたような気がした。
「きみ、最初から知ってた?」
足元の黒猫に問いかけると、猫は相変わらずの顔でこちらを見上げた。鈴がちりんと鳴る。
ホームの奥。さっきから暗い影が溜まっている場所に、変化が現れた。
線路の向こう側。トンネルの入口のように見えていた黒い部分に、うっすらと輪郭が浮かび上がる。
細長い長方形。ドアノブの形をした影。何もない空間の中に、「扉」のようなものが描かれていく。
「なに、あれ」
紗月は思わず、息を飲んだ。
よく見ると、その扉の表面には、無数の小さな光の粒が灯っている。さっき紗月が見てきた欠片たちよりも、ずっと細かく、星のように散らばった光。
扉の向こう側からは、かすかに、誰かの笑い声のようなものが聞こえてくる。風の音にも、電車の音にも似ていない、不思議な音。
黒猫が、するりと動いた。
ホームの端まで歩いていき、線路の上にひょいと飛び降りる。危ない、と思う間もなく、猫は軽々と向こう側へ渡っていった。
「ちょっと、危ないってば」
思わず叫んだけれど、猫は気にする様子もなく、影の扉の前にちょこんと座った。こちらを振り返り、まっすぐ紗月を見つめる。
扉の輪郭が、少しだけはっきりする。
近づくほど、本物みたいに見えてくるけれど、よく見ればどこか現実味がない。ガラスの反射もなければ、木目も見えない。ただ、光と影だけで形作られている扉。
その前に座る黒猫は、やけに自然だった。
扉の向こう側で、何かが待っている。
そんな感覚だけが、はっきり伝わってくる。
「……行けってこと?」
紗月がつぶやくと、黒猫は一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。
それは、さっきローカル線の記憶を見せる前にもしていた仕草だ。
母との旅の切符。恋人との別れ。仕事の失敗。
そのどれもが、この扉の向こう側へ続く道だったのかもしれない。
扉の表面の光の粒が、ひとつだけ強く輝いた。
その光の色は、さっき見たローカル線の夕焼けに似ていた。
「こわいよ」
正直に言葉が出た。
「これ以上、見たくないものが増えるの、こわい」
猫は、そこでようやく動いた。
線路を戻るときも、やっぱり軽々と飛び上がる。そのまま紗月の足元まで戻ってきて、前足で彼女の足首をちょんと触れた。
次の瞬間、ふわりと尻尾が足首に絡まる。
柔らかい毛並みが、タイツ越しに肌を撫でた。少しくすぐったい。でも、そのぬくもりが、足の裏からじんわりと体の中に伝わってくる。
「一緒に来るってこと?」
紗月が聞くと、黒猫は鈴を鳴らした。
ちりん。
その音が、不思議と背中を押す。
怖くないわけじゃない。でも、この猫と一緒なら、何とかなるような気がする。さっきだって、一人だったら一年目の記憶も、恋人との別れも、途中で目をそらしていたかもしれない。
今は、ちゃんと最後まで見届けられた。
それは、膝の上で寄り添ってくれた小さな体温のおかげだ。
「……分かった。行くよ」
紗月は、古い切符をぎゅっと握りしめた。
足元に転がっていた光の欠片たちは、いつの間にか数を減らしている。見終わった記憶は、静かに消えていったのかもしれない。
残っているのは、ほんのわずか。母のことに繋がる何かと、まだ名前の読めない小さなタグをつけた欠片。
それらはきっと、扉の向こう側で待っている。
ホームの端まで歩いていくと、線路の先の影が、近くなっていくのが分かった。足元の枕木の隙間から、夜の冷気が立ち上ってくる。
扉は、紗月が一歩近づくたびに、輪郭を濃くしていった。さっきまでぼんやりしていた境目が、今ははっきりしている。
黒猫が先に進み、扉の前で立ち止まる。紗月を振り返って、もう一度鈴を鳴らした。
心臓が、どきんと強く鳴った。
でも、その鼓動は「恐怖」の音だけじゃなかった。どこかで、「この先で、何かが変わる」と知っている音でもあった。
「行こうか」
自分に言うように、紗月は小さくつぶやいた。
黒猫の尻尾が、足首からふわりと離れる。代わりに、紗月のひざ裏に軽く身体を押し当ててくる。前へ進め、とでも言うみたいに。
一歩、踏み出す。
扉の表面が、水面のようにゆらりと揺れた。
二歩目を踏み出した瞬間、ホームの冷たい空気が、ふっと遠ざかる。
黒猫の鈴の音だけが、はっきりと耳に残った。
その音に導かれるようにして、紗月は影の扉の中へと進んでいった。
怖さはまだある。それでも、さっきまでと違っていたのは、胸の中に、ほんの少しだけ期待が混じっていることだった。
この先で、自分の一番大事な「落とし物」に、会えるのかもしれない。
そんな予感が、静かに灯っていた。



