どれくらい、そうしていたんだろう。

 膝の上で丸まっている黒猫の体温に包まれたまま、紗月は、うとうとと浅い眠りと現実の境目を行ったり来たりしていた。

 ホームを撫でる夜風の音。遠くで鳴る踏切の警報。電光掲示板の、機械的な電子音。全部が、少しだけ遠くなっていた。

 ふと、ゴロゴロという喉の振動が止まった気がして、紗月は目を開けた。

 さっきよりも空が、わずかに白んでいる。まだ夜の色だけれど、どこかに朝の気配が混じり始めていた。

 黒猫は膝の上から降りて、ホームの床にちょこんと座っている。足元には、あの光る欠片たちが、まだいくつも転がっていた。

 その中で、淡いピンク色の光を放つ欠片が、ひとつ。

 タグに刻まれた「悠斗」の文字だけが、はっきりと目に飛び込んでくる。

「……まだ、いるんだ」

 思わずつぶやいた自分の声が、少し掠れていた。

 忘れようとしているものほど、しぶとくそこに居座る。そんな当たり前のことを、視覚的に突きつけられている気分だった。

「見ないって、さっき決めたのに」

 誰に言うでもなく言葉をこぼすと、胸の奥がじんわり熱くなる。それは、怒りとも悔しさともつかない感情だった。

 自分に対する苛立ち。逃げたことへの自己嫌悪。

 恋人との記憶だけじゃない。母のことも、仕事のことも。全部、「あとで」「落ち着いたら」と言い訳して、きちんと向き合わないまま、なんとなく時間だけをやり過ごしてきた。

 そうやって目をそらし続けた結果が、今だ。

 クライアントに頭を下げて、終電を逃して、人気のないホームで、猫と過去の残骸を前に座っている。

「過去なんて、見たって意味ないのに」

 思わず、声が荒くなった。

「見返したって、取り返せないでしょ。仕事も、恋愛も、お母さんのことも。全部、もう終わってるのに。今さら何か分かったところで、何か変わるの?」

 言いながら、自分でもそれが八つ当たりだと分かっていた。

 黒猫は、責めるような目を向けてくることはない。ただ、じっと紗月を見上げて、尻尾の先を一度だけ揺らした。

「ごめん。きみに言ってもしょうがないのに」

 紗月は、額を片手で押さえた。目の奥が、じわじわと痛む。寝不足と、泣き疲れと、感情の揺さぶりのせいだ。

 膝の上のぬくもりが消えた今、ホームの冷たさが余計に身にしみる。ベンチの金属が、じわじわと熱を奪っていく。

 ふと、黒猫がすっと動いた。

 ホームの柱の方へ歩いていき、その根元に鼻先を突っ込む。何かを探るみたいに、前足でがさがさとコンクリートと壁の隙間をかいた。

「ちょっと、何してるの」

 紗月が立ち上がると、猫はくわえていたものをぽとりと床に落とした。

 それは、小さな紙切れだった。

 長方形のその紙には、色あせた線路の模様と、小さな駅名が印刷されている。ところどころ擦り切れていて、端は少し破れていた。

「……切符?」

 紗月はしゃがみ込んで、それを拾い上げた。

 古いローカル線の乗車券。印字された日付は、二〇〇六年の夏休み。切符の端には、小さく押されたスタンプがある。

 見覚えのある駅名だった。

 さっき、光の欠片の中で見た、母と一緒に乗ったローカル線の旅。そのときに通った駅のひとつ。小さな無人駅。ホームのベンチに、風鈴が下がっていた場所。

「あのときの……」

 声が自然と出た。

 母が大事そうに財布にしまっていた切符。降りるときに回収されずに残ったものを、「記念だから」と持ち帰った。家に帰ってからも、お気に入りの文庫本に挟んだりしていた。

 紗月は、指先でその紙の感触を確かめる。

 時間の重みを吸い込んだみたいな、少しざらついた触感。角の丸まり方まで、妙にリアルだった。

「なんで、ここにあるの」

 思わず黒猫を見ると、猫は何食わぬ顔で前足を舐めている。鈴が、彼の動きに合わせて小さく揺れた。

 ちりん。

 さっきローカル線の車内で聞いたアナウンスの音色と、また重なる。

 切符の端に、細いペンで書かれた文字があった。子どもの字で、「また来る」と書いてある。

 それを書いたのは、小学生の頃の自分だ。

「また来るって、書いてたんだ」

 自分の書いた文字なのに、他人のメモみたいに読んでしまう。

 その約束は、結局ひとつも守れなかった。母が倒れてから、旅行なんて行けるはずもなくなったし、あの駅に降り立つことももうなかった。

 胸の奥に、静かな痛みが広がる。

 黒猫は、そんな紗月の表情をしばらく眺めてから、淡いピンク色の欠片の方へ視線を移した。

 膝の上には戻ってこない。ただ、切符と欠片の間を、行ったり来たりするみたいに目線を動かす。

 過去から逃げたい自分と、過去に繋がるものを差し出してくる猫。

 どちらを選ぶかは、結局私次第だ。

「……ずるいなあ、きみ」

 ため息混じりにつぶやきながら、紗月は立ち上がった。指の中で、古い切符が、かさりと小さな音を立てる。

 足元のピンク色の光が、じっとこちらを見上げているように見えた。

 恋人との記憶なんて、掘り返したくない。できることなら、このまま見なかったことにして、光ごとどこかに蹴り飛ばしてしまいたい。

 でも。

 どうせ、心のどこかでずっと引っかかっている。

 私がダメだったから。私が仕事を優先したから。私がちゃんと向き合わなかったから。そうやって、自分にだけ原因を押しつけ続けている限り、きっとどこかで同じことを繰り返す。

 それなら、痛いのを承知で、一度ちゃんと見るべきなのかもしれない。

 そう思った瞬間、古い切符の文字が、ふっと視界の端でにじんだ。

「また来る」

 過去に書いた約束は、旅行だけの話じゃないような気がしてくる。

 あのときの母に。あのときの自分に。ちゃんと戻ってこいよ、と言われているような。

「……分かったよ」

 紗月は、小さく息を吸った。

「一回だけ、見る。逃げないって決めたら、きみもちゃんと付き合ってよ」

 黒猫にそう告げてから、淡いピンク色の欠片に手を伸ばす。

 指先が触れた瞬間、世界がまた反転した。

     ◇

 そこは、見慣れた部屋だった。

 ワンルームの一角。観葉植物と、安いけれどお気に入りのソファ。ローテーブルの上には、飲みかけのマグカップと、コンビニのお惣菜のパック。

 時計の針は、夜の九時を指していた。

 ソファには、二人分の体温が残っている。

 一人は、過去の紗月。仕事帰りのスーツのまま、髪を一つにまとめている。ネクタイはしていないけれど、シャツの第一ボタンはきっちり留められていた。

 もう一人は、悠斗。

 部屋着のパーカーにジーンズというラフな格好で、紗月の向かいに座っていた。指先には、緊張の名残みたいに、マグカップの取っ手を持つ力が少し入りすぎている。

「紗月」

 悠斗が、呼んだ。

「うん」

 過去の紗月が、答える。けれど、視線はスマホの画面から離れない。仕事のチャットアプリが、次々と通知を送り込んでくる。

 今見ると、その時点で既に空気は重くなっていた。お互いに何かを言いたいのに、相手に遠慮している感じ。

「話あるって、言ってたよね。ごめん、ちょっとだけこれだけ確認したら……」

「それ、さっきも聞いた」

 悠斗の声が、少しだけかぶさった。

 いつもは穏やかな彼の声が、そのときだけは少し尖っている。

 過去の紗月は、その変化に気づいていない。というより、気づかないふりをしている。スマホの画面に集中しているふりをして、現実から視線を逸らしている。

 今の紗月には、そのごまかし方がよく分かった。

(うわ。私、めっちゃ逃げてる)

 顔を覆いたくなる気持ちをこらえて、見続ける。

「今日さ、本当は、外でご飯食べようって前から言ってたよね」

「うん……でも、クライアントの返事がさ」

「毎回それじゃん」

 悠斗の言葉が、きっぱりと切り込んできた。

 過去の紗月が、そこでようやく顔を上げる。スマホの画面が、テーブルの上で静かに光っている。

「仕事だから、仕方ないでしょ」

「それ、何回目」

 悠斗は笑っていなかった。でも、怒鳴ってもいなかった。ただ、目の奥が、どうしようもなく疲れているように見えた。

「俺さ、紗月の仕事が大事なのも、ちゃんと分かってるつもりだよ。でも、いつも『仕事だから仕方ない』って言葉で、俺との約束を後回しにされると、なんか……」

 そこで言葉を切り、唇を噛む。

「俺って、仕事よりは後なんだな、って、思っちゃうんだよな」

 その言葉を聞いたとき、過去の紗月は、反射的に眉をひそめた。

「そんなつもりじゃないよ」

「分かってるよ。分かってるけどさ」

 悠斗は、マグカップをテーブルに置き直した。指先がわずかに震えている。

「このままいくとさ、多分、俺、紗月のこと、嫌いになっちゃうと思う」

 その一言が、当時の紗月の胸を深く刺した。

 今でも、その瞬間の痛みは鮮明だ。心臓を素手で掴まれたみたいな、息ができなくなる感覚。

「……じゃあ、別れたいってこと?」

 過去の紗月の声が、少し震えた。

 今の紗月は、そこで初めて、自分がどれだけ追い詰めていたかを理解する。

 質問の仕方が、極端だ。

 「嫌われたくない」気持ちが先に立って、「どうしたらいいか」を聞く前に、白か黒かを迫ってしまっている。

 悠斗は、目を閉じた。

「別れたいわけじゃない。でも、このままズルズル続けて、どっちかが限界まで我慢してから終わるの、もっと嫌なんだよ」

 彼は、小さく笑った。自分を責めるような笑い方だった。

「俺、たぶん、そんなタフじゃないからさ。紗月の仕事の愚痴、聞くのも好きだし、頑張ってるとこ見るのも好きだけどさ。いつも一番最後にされてるって感じるの、そんなに強くないから、多分耐えられなくなる」

 それは、きっと本音だった。

 当時の紗月には、「支えきれない」って言葉が、「私のことを支える気がない」に聞こえていた。

 でも今は、「自分の限界を正直に伝えている」声だと分かる。

「ごめん。情けないよな」

 悠斗が、自分のことを笑った。

「もうちょっと器がでかければよかったんだけどさ。全部受け止めてやるよ、って言える男だったらよかったんだけど。俺、そんな立派じゃないからさ」

 その言葉も、昔の自分はちゃんと聞けていなかった。

 ただ、「支えきれない」の方だけを切り取って、「やっぱり私が悪い」「負担をかけた私がだめなんだ」と決めつけた。

 今、外側から見ていると、別のものが見える。

 悠斗は、確かに逃げようとしている。重さから距離を取ろうとしている。それでも、最後まで紗月のことを悪者にしようとはしていなかった。

「俺が弱いせいで、ごめん」

 そう言って、彼は頭を下げた。

 別れ話の場で「ごめん」と言ったのは、彼の方だった。

 過去の紗月は、その時それどころじゃなかった。涙が先に出てきてしまい、「私が悪いからでしょ」と言ってしまった。

 でも、それは、半分だけ正しくて、半分は間違っている。

 確かに、仕事を理由に約束を後回しにしてきたのは紗月だ。だけど、「支えきれない」と感じたこと自体は、誰のせいでもない。

 大人になるって、本当はこういう「限界」を互いに持ち寄って、その上でどう付き合っていくかを考えることなんだろう。

 当時の自分は、それを知らなかった。

(私、あのとき……)

 今の紗月の喉の奥が、じんと熱くなる。

(全部、私が悪いから、嫌われたんだって、決めつけてた)

 そう思った方が、楽だったのかもしれない。自分を悪者にしておけば、相手を恨まなくて済むし、「嫌われた私」は動かなくていいから。

 でも、その解釈のせいで、ずっと自分を罰し続けてきた。

 記憶の中の部屋が、少しずつ白んでいく。最後に見えたのは、玄関で靴を履く悠斗の背中だった。振り返りかけて、やめて、ただ小さく会釈して出ていく背中。

 あれは、「逃げた」背中でもあるし、「これ以上嫌いにならないうちに離れようとした」背中でもあったのかもしれない。

     ◇

 ホームに戻ると、紗月はしばらく立ち尽くしていた。

 足元の感覚が、少し心もとない。膝がわずかに震えている。

 でも、不思議なことに、さっきみたいな息苦しさはなかった。

「……そうだったんだね」

 自分に向けて言うように、小さく声を出す。

 別れの原因が消えたわけでもないし、後悔がなくなったわけでもない。でも、「全部自分が悪い」という一枚きりのラベルは、もう使えなくなった。

 恋人は、紗月を嫌いになったわけじゃない。支えきれない自分を感じて、逃げた。

 それは、紗月にとっては痛いけれど、彼にとっては「限界」だった。

 その二つを同時に見つめることができる。今なら、少しだけ。

 その瞬間、胸の奥で何かがほどける音がしたような気がした。

「きみ、最初から知ってた?」

 足元の黒猫に問いかけると、猫は相変わらずの顔でこちらを見上げた。鈴がちりんと鳴る。

 ホームの奥。さっきから暗い影が溜まっている場所に、変化が現れた。

 線路の向こう側。トンネルの入口のように見えていた黒い部分に、うっすらと輪郭が浮かび上がる。

 細長い長方形。ドアノブの形をした影。何もない空間の中に、「扉」のようなものが描かれていく。

「なに、あれ」

 紗月は思わず、息を飲んだ。

 よく見ると、その扉の表面には、無数の小さな光の粒が灯っている。さっき紗月が見てきた欠片たちよりも、ずっと細かく、星のように散らばった光。

 扉の向こう側からは、かすかに、誰かの笑い声のようなものが聞こえてくる。風の音にも、電車の音にも似ていない、不思議な音。

 黒猫が、するりと動いた。

 ホームの端まで歩いていき、線路の上にひょいと飛び降りる。危ない、と思う間もなく、猫は軽々と向こう側へ渡っていった。

「ちょっと、危ないってば」

 思わず叫んだけれど、猫は気にする様子もなく、影の扉の前にちょこんと座った。こちらを振り返り、まっすぐ紗月を見つめる。

 扉の輪郭が、少しだけはっきりする。

 近づくほど、本物みたいに見えてくるけれど、よく見ればどこか現実味がない。ガラスの反射もなければ、木目も見えない。ただ、光と影だけで形作られている扉。

 その前に座る黒猫は、やけに自然だった。

 扉の向こう側で、何かが待っている。

 そんな感覚だけが、はっきり伝わってくる。

「……行けってこと?」

 紗月がつぶやくと、黒猫は一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。

 それは、さっきローカル線の記憶を見せる前にもしていた仕草だ。

 母との旅の切符。恋人との別れ。仕事の失敗。

 そのどれもが、この扉の向こう側へ続く道だったのかもしれない。

 扉の表面の光の粒が、ひとつだけ強く輝いた。

 その光の色は、さっき見たローカル線の夕焼けに似ていた。

「こわいよ」

 正直に言葉が出た。

「これ以上、見たくないものが増えるの、こわい」

 猫は、そこでようやく動いた。

 線路を戻るときも、やっぱり軽々と飛び上がる。そのまま紗月の足元まで戻ってきて、前足で彼女の足首をちょんと触れた。

 次の瞬間、ふわりと尻尾が足首に絡まる。

 柔らかい毛並みが、タイツ越しに肌を撫でた。少しくすぐったい。でも、そのぬくもりが、足の裏からじんわりと体の中に伝わってくる。

「一緒に来るってこと?」

 紗月が聞くと、黒猫は鈴を鳴らした。

 ちりん。

 その音が、不思議と背中を押す。

 怖くないわけじゃない。でも、この猫と一緒なら、何とかなるような気がする。さっきだって、一人だったら一年目の記憶も、恋人との別れも、途中で目をそらしていたかもしれない。

 今は、ちゃんと最後まで見届けられた。

 それは、膝の上で寄り添ってくれた小さな体温のおかげだ。

「……分かった。行くよ」

 紗月は、古い切符をぎゅっと握りしめた。

 足元に転がっていた光の欠片たちは、いつの間にか数を減らしている。見終わった記憶は、静かに消えていったのかもしれない。

 残っているのは、ほんのわずか。母のことに繋がる何かと、まだ名前の読めない小さなタグをつけた欠片。

 それらはきっと、扉の向こう側で待っている。

 ホームの端まで歩いていくと、線路の先の影が、近くなっていくのが分かった。足元の枕木の隙間から、夜の冷気が立ち上ってくる。

 扉は、紗月が一歩近づくたびに、輪郭を濃くしていった。さっきまでぼんやりしていた境目が、今ははっきりしている。

 黒猫が先に進み、扉の前で立ち止まる。紗月を振り返って、もう一度鈴を鳴らした。

 心臓が、どきんと強く鳴った。

 でも、その鼓動は「恐怖」の音だけじゃなかった。どこかで、「この先で、何かが変わる」と知っている音でもあった。

「行こうか」

 自分に言うように、紗月は小さくつぶやいた。

 黒猫の尻尾が、足首からふわりと離れる。代わりに、紗月のひざ裏に軽く身体を押し当ててくる。前へ進め、とでも言うみたいに。

 一歩、踏み出す。

 扉の表面が、水面のようにゆらりと揺れた。

 二歩目を踏み出した瞬間、ホームの冷たい空気が、ふっと遠ざかる。

 黒猫の鈴の音だけが、はっきりと耳に残った。

 その音に導かれるようにして、紗月は影の扉の中へと進んでいった。

 怖さはまだある。それでも、さっきまでと違っていたのは、胸の中に、ほんの少しだけ期待が混じっていることだった。

 この先で、自分の一番大事な「落とし物」に、会えるのかもしれない。

 そんな予感が、静かに灯っていた。