黒猫の鈴が、もう一度小さく鳴った。
ちりん、と夜の空気を震わせる音に、紗月ははっと顔を上げる。気づけば、足元にはさっきとは違う光が、いくつも点々と転がっていた。
「え、いつの間に……」
ビー玉みたいな大きさの光が三つ、四つ。白っぽいものもあれば、少し黄色がかったものもある。それぞれに、小さな紙のタグのようなものがくっついていた。電車会社の落とし物票を、ぎゅっと縮めたみたいな形だ。
紙片には、かすれた文字が浮かんでいる。数字らしきものと、日付のようなもの。じっと目をこらすと、そのうちひとつに見覚えのある並びがあった。
二〇一七年四月十四日。
社会人一年目の春。胸の奥が、嫌な予感でざわつく。
「やだな、それはちょっと……」
思わず言葉にすると、黒猫がちらりと顔を上げた。大きな目が、「でも見るんでしょ」とでも言うように細められる。
逃げたい気持ちと、確かめたい気持ちが、胸の中でせめぎ合う。
どうせ、さっきの光も、幻覚だと片付けるには出来すぎていた。母の声も、車内の匂いも、忘れたつもりでいた感触も、あまりにも本物だった。
だったら、この光にも、何か意味があるのかもしれない。
そう思ってしまった時点で、答えは決まっていた。
「……ちょっとだけ、見るだけだから」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、紗月は一番手前の欠片にそっと触れた。
視界がきゅっと縮んで、次の瞬間には、別の風景が広がっていた。
◇
そこは、オフィスの会議室だった。
白い机と、くたびれた椅子。壁には、会社のスローガンが大きく貼られている。プロジェクターの熱で、空気が少しだけこもっていた。
その部屋の一角で、スーツ姿の若い女の子が、小さく縮こまっている。名札には、新卒マークのついた「大崎紗月」の文字。
目の前のホワイトボードには、真っ赤なペンで数字が並んでいた。キャンペーンの開始日。納品スケジュール。取引先のロゴ。
「だからさ、ここ。ここだよ」
太い声が室内に響いた。
上司の武田が、ホワイトボードをペンで叩く。四十代半ばの彼は、いつも大きな声で笑い、大きな声で怒る人だった。その声が今は、怒りの方に傾いている。
「先方が一番気にしていた日付を、間違えたまま出すなんて、あり得ないだろ。確認したって言ってたよな」
「……はい。確認したつもりだったんですけど……」
小さな声で答える新人の紗月。手元の書類を握りしめる指が、わずかに震えている。背中は固く、視線は机の一点から動かない。
当時の自分を、今の自分が横から眺めている。幽霊みたいに、誰にも気づかれない位置から。
(うわ、本当に震えてる)
胸が痛くなる。あの時の感覚が、じわじわと戻ってくる。体の内側を、氷水で満たされたみたいな、冷たくて重たい感覚。
でも今は、その場にいる人たちの顔を、ゆっくり見渡す余裕があった。
武田の眉間には、深い皺が刻まれている。でも、その目の奥には、苛立ちだけじゃなくて、焦りも浮かんでいた。会議室の隅の時計を見る視線が、何度も往復している。どうやら、このあと別の打ち合わせも詰まっているらしい。
壁際には先輩の柴田が腕を組んで立っていて、その隣の席では、同じチームの秋穂が心配そうにこちらを見ていた。
「……まあ、こっちも最終チェックで拾えなかったのは悪かったけどさ」
武田が、少しだけ声のトーンを下げた。
「今回みたいなことが続くと、おまえの信用もそうだが、チームの信用にも関わるんだよ。分かるか」
「はい。本当に、申し訳ありません……」
喉の奥がきゅっと締め付けられて、言葉がそこから先に続かない。過去の紗月が、今にも泣き出しそうな顔をしている。
(ああ、ここだ。ここから、全部自分のせいだって思い込んでいったんだ)
あの夜、自分はひたすら「私がダメだからだ」と心の中で繰り返していた。迷惑をかけている。足を引っ張っている。だから怒られて当たり前だ、と。
記憶の中の自分は、そうやって自分の首を絞め続けていた。
けれど今は、その記憶を外側から見ている。
「武田さん」
沈黙を破ったのは、壁際に立っていた柴田だった。いつもは冗談ばかり言っている三十代の先輩が、珍しく真面目な顔をしている。
「今回の件ですけど、実際に先方とやり取りしてたの、俺と紗月ちゃんだったんで、確認フローを作り直した方がいいと思います。新人ひとりに任せっぱなしにしてたのも、正直よくなかったんで」
柴田はそう言って、ペンを受け取り、ホワイトボードに新しい矢印を書き足した。
その横で、秋穂がそっと頷いている。
「そうですね。私もチェック入れます。これからは、出す前に必ず二人以上の目を通すってルールにしましょう」
「……お前らさ、俺が全部悪者みたいじゃねえか」
武田は眉を上げて、わざと大袈裟に肩をすくめた。さっきまでの鋭さが、少しだけ和らぐ。
「でもまあ、そうだな。新人に丸投げしたのは、確かに俺も悪かった。悪い、紗月」
過去の自分が、驚いたように顔を上げる。
その時の私は、その言葉をちゃんと受け取れていなかった。怒られた、怒鳴られた、その印象の方が強くて、「悪かった」の一言は、いつの間にか記憶からこぼれ落ちていた。
今は、その言葉の重さが、少し違って聞こえる。
武田の目は確かに厳しかったけれど、そこにあるのは「叱責」だけじゃなくて、「期待」や「焦り」や、「なんとかしなきゃ」という責任感も混じっている。
柴田や秋穂の視線は、「一緒に挽回しよう」と言っている。
「次から気をつければいい。な」
柴田が、さりげなく椅子の背中を叩いた。その小さな音が、あの時の私には届いていなかった。今は、それが妙に温かく響く。
(全部、私だけが悪かったわけじゃなかったんだ)
頭では分かっていたはずのことが、ようやく胸の奥まで染み込んでくる。
失敗は失敗だし、謝らなきゃいけないことに変わりはない。でも、「全部自分のせい」で、「自分がいなければよかった」なんてところまで一気に飛ぶ必要は、本当はなかったのかもしれない。
記憶の中の会議室が、ふっと白くにじむ。
次の瞬間、ホームの冷たい空気が戻ってきた。
◇
紗月は、ベンチの上で小さく息を吐いた。
心臓が、さっきより少し早く打っている。でも、その鼓動は、さっきまでみたいに暴走してはいなかった。
「……全部私が悪い、ってことにしてたの、私だな」
ぽつりとつぶやくと、足元で黒猫がちいさく尻尾を揺らした。肯定とも否定ともつかない動きだけれど、「そうかもね」と言われた気がする。
視線を落とすと、まだいくつかの欠片が残っていた。
ひとつは、淡いピンク色の光を帯びている。タグには、くっきりとした日付と、短い言葉が浮かんでいた。
二〇二一年三月二十六日。悠斗。
その名前を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。思わず、手を引っ込める。
「……これは、いい」
声が自分でも分かるくらい強張っている。
元恋人の顔が、頭の中に浮かぶ。優しさと不器用さの混ざった笑顔。仕事が忙しくなる前は、よく一緒に映画を観に行ったり、くだらないことで何時間も電話したりしていた。
最後の夜のことは、できるだけ思い出さないようにしてきた。あのときの自分の言葉も、悠斗の表情も、思い出すたびに胸が苦しくなるからだ。
だから、わざわざその記憶を、自分から取りに行くなんて。
黒猫が、小さく頭を傾けた。
「やめて。これは、本当に、いいから」
言いながら、自分の両腕を抱きしめる。気づかないうちに、体が震えていた。寒さのせいだけじゃない。
過去の失敗なら、まだ見ていられる。反省したり、別の解釈を探したりできる余地がある。でも、自分が「捨てられた」と感じている記憶は、ただ痛いだけだ。
だって、あの夜の私は、自分の価値をごっそり奪われた気がしていたから。
黒猫は、しばらくじっと紗月を見つめていた。けれど、欠片を無理やり押しつけてくることはしない。代わりに、すっと動いて、紗月の膝の上に飛び乗った。
「わ」
思っていたより、ずしりと重みがあった。毛並みはふかふかで、コート越しにも体温がはっきり分かる。冷え切っていた太ももの上に、じんわりと温かさが広がっていく。
黒猫は、膝の上で少し身じろぎをしてから、上手に丸くなった。前足を揃えて、目を細める。その喉から、小さな振動が伝わってきた。
ぐるぐる、と、低く響く音。
「……ゴロゴロ言う猫、本当にいるんだ」
思わず笑ってしまう。これまで、漫画や動画では見たことがあったけれど、こんなに近くでその音を聞いたのは初めてだった。
ゴロゴロという音に合わせて、紗月の胸の鼓動も、ゆっくりと落ち着いていく気がする。さっきまで早鐘を打っていた心臓が、少しずつ通常運転に戻っていく。
(なんか、深呼吸がしやすい)
肩の力が抜けていく。この数日、まともに眠れていなかったのが嘘みたいに、まぶたが重くなってきた。
猫の体温は、人間より少し高い。それがこんなにも安心感をくれるものなんだと、初めて知った。
「ありがとね」
そっと、猫の背中を撫でる。指の下を通り過ぎる毛並みは、驚くほどなめらかだった。黒猫は嫌がる様子もなく、むしろ気持ちよさそうに目を細める。
「落とし物、届けるのが仕事、なんでしょ。きみは」
紗月が冗談めかして言うと、黒猫は一度だけ鈴を鳴らした。
ちりん、と、肯定みたいな音。
ホームの反対側には、暗い穴のような影が口を開けている。線路の先、トンネルへ続くその黒い部分は、さっきよりも濃く見えた。よく見ると、その影の縁のあたりに、古いダンボール箱が置かれている。側面には「落とし物」と、かろうじて読める文字。
黒猫は、膝の上から顔だけ持ち上げて、その箱の方をじっと見つめた。
紗月もつられて視線を向ける。箱の底は暗くて、中身は見えない。ただ、そこに何かが溜まっている気配だけがあった。長い時間誰にも拾われなかった、いろんな人の「忘れ物」。
「ここに、みんなの記憶を、戻してるの?」
問いかけると、黒猫は何も答えない。ただ、ゆっくり瞬きをした。
ゴロゴロという喉の音だけが、ホームの静けさに混じって響いている。
触れない欠片は、そのまま足元で静かに光っていた。淡いピンク色の光は、さっきより少し弱くなったように見える。
今はまだ、向き合えない。
でも、さっき見た一年目の記憶みたいに、「あの夜」も別の角度から見えるのかもしれない。そんな予感だけが、心のどこかで小さく灯り始めていた。
「……もうちょっと、休んでからにする」
紗月がそう呟くと、黒猫は目を閉じた。膝の上の重みが、心地よい眠気を誘う。
ホームの上を、夜風が静かに通り過ぎていった。
電光掲示板の「回送」の文字は変わらない。けれど、さっきまで閉じ込められたみたいに感じていたこの場所が、ほんの少しだけ違って見えた。
ここは、ただの行き止まりじゃない。
失くしたものを拾い直すための、途中駅みたいな場所なのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えながら、紗月は黒猫の体温に身を預けた。胸の奥に少し入っていたひび割れに、静かに温かい何かが流れ込んでくるような感覚がした。
ちりん、と夜の空気を震わせる音に、紗月ははっと顔を上げる。気づけば、足元にはさっきとは違う光が、いくつも点々と転がっていた。
「え、いつの間に……」
ビー玉みたいな大きさの光が三つ、四つ。白っぽいものもあれば、少し黄色がかったものもある。それぞれに、小さな紙のタグのようなものがくっついていた。電車会社の落とし物票を、ぎゅっと縮めたみたいな形だ。
紙片には、かすれた文字が浮かんでいる。数字らしきものと、日付のようなもの。じっと目をこらすと、そのうちひとつに見覚えのある並びがあった。
二〇一七年四月十四日。
社会人一年目の春。胸の奥が、嫌な予感でざわつく。
「やだな、それはちょっと……」
思わず言葉にすると、黒猫がちらりと顔を上げた。大きな目が、「でも見るんでしょ」とでも言うように細められる。
逃げたい気持ちと、確かめたい気持ちが、胸の中でせめぎ合う。
どうせ、さっきの光も、幻覚だと片付けるには出来すぎていた。母の声も、車内の匂いも、忘れたつもりでいた感触も、あまりにも本物だった。
だったら、この光にも、何か意味があるのかもしれない。
そう思ってしまった時点で、答えは決まっていた。
「……ちょっとだけ、見るだけだから」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、紗月は一番手前の欠片にそっと触れた。
視界がきゅっと縮んで、次の瞬間には、別の風景が広がっていた。
◇
そこは、オフィスの会議室だった。
白い机と、くたびれた椅子。壁には、会社のスローガンが大きく貼られている。プロジェクターの熱で、空気が少しだけこもっていた。
その部屋の一角で、スーツ姿の若い女の子が、小さく縮こまっている。名札には、新卒マークのついた「大崎紗月」の文字。
目の前のホワイトボードには、真っ赤なペンで数字が並んでいた。キャンペーンの開始日。納品スケジュール。取引先のロゴ。
「だからさ、ここ。ここだよ」
太い声が室内に響いた。
上司の武田が、ホワイトボードをペンで叩く。四十代半ばの彼は、いつも大きな声で笑い、大きな声で怒る人だった。その声が今は、怒りの方に傾いている。
「先方が一番気にしていた日付を、間違えたまま出すなんて、あり得ないだろ。確認したって言ってたよな」
「……はい。確認したつもりだったんですけど……」
小さな声で答える新人の紗月。手元の書類を握りしめる指が、わずかに震えている。背中は固く、視線は机の一点から動かない。
当時の自分を、今の自分が横から眺めている。幽霊みたいに、誰にも気づかれない位置から。
(うわ、本当に震えてる)
胸が痛くなる。あの時の感覚が、じわじわと戻ってくる。体の内側を、氷水で満たされたみたいな、冷たくて重たい感覚。
でも今は、その場にいる人たちの顔を、ゆっくり見渡す余裕があった。
武田の眉間には、深い皺が刻まれている。でも、その目の奥には、苛立ちだけじゃなくて、焦りも浮かんでいた。会議室の隅の時計を見る視線が、何度も往復している。どうやら、このあと別の打ち合わせも詰まっているらしい。
壁際には先輩の柴田が腕を組んで立っていて、その隣の席では、同じチームの秋穂が心配そうにこちらを見ていた。
「……まあ、こっちも最終チェックで拾えなかったのは悪かったけどさ」
武田が、少しだけ声のトーンを下げた。
「今回みたいなことが続くと、おまえの信用もそうだが、チームの信用にも関わるんだよ。分かるか」
「はい。本当に、申し訳ありません……」
喉の奥がきゅっと締め付けられて、言葉がそこから先に続かない。過去の紗月が、今にも泣き出しそうな顔をしている。
(ああ、ここだ。ここから、全部自分のせいだって思い込んでいったんだ)
あの夜、自分はひたすら「私がダメだからだ」と心の中で繰り返していた。迷惑をかけている。足を引っ張っている。だから怒られて当たり前だ、と。
記憶の中の自分は、そうやって自分の首を絞め続けていた。
けれど今は、その記憶を外側から見ている。
「武田さん」
沈黙を破ったのは、壁際に立っていた柴田だった。いつもは冗談ばかり言っている三十代の先輩が、珍しく真面目な顔をしている。
「今回の件ですけど、実際に先方とやり取りしてたの、俺と紗月ちゃんだったんで、確認フローを作り直した方がいいと思います。新人ひとりに任せっぱなしにしてたのも、正直よくなかったんで」
柴田はそう言って、ペンを受け取り、ホワイトボードに新しい矢印を書き足した。
その横で、秋穂がそっと頷いている。
「そうですね。私もチェック入れます。これからは、出す前に必ず二人以上の目を通すってルールにしましょう」
「……お前らさ、俺が全部悪者みたいじゃねえか」
武田は眉を上げて、わざと大袈裟に肩をすくめた。さっきまでの鋭さが、少しだけ和らぐ。
「でもまあ、そうだな。新人に丸投げしたのは、確かに俺も悪かった。悪い、紗月」
過去の自分が、驚いたように顔を上げる。
その時の私は、その言葉をちゃんと受け取れていなかった。怒られた、怒鳴られた、その印象の方が強くて、「悪かった」の一言は、いつの間にか記憶からこぼれ落ちていた。
今は、その言葉の重さが、少し違って聞こえる。
武田の目は確かに厳しかったけれど、そこにあるのは「叱責」だけじゃなくて、「期待」や「焦り」や、「なんとかしなきゃ」という責任感も混じっている。
柴田や秋穂の視線は、「一緒に挽回しよう」と言っている。
「次から気をつければいい。な」
柴田が、さりげなく椅子の背中を叩いた。その小さな音が、あの時の私には届いていなかった。今は、それが妙に温かく響く。
(全部、私だけが悪かったわけじゃなかったんだ)
頭では分かっていたはずのことが、ようやく胸の奥まで染み込んでくる。
失敗は失敗だし、謝らなきゃいけないことに変わりはない。でも、「全部自分のせい」で、「自分がいなければよかった」なんてところまで一気に飛ぶ必要は、本当はなかったのかもしれない。
記憶の中の会議室が、ふっと白くにじむ。
次の瞬間、ホームの冷たい空気が戻ってきた。
◇
紗月は、ベンチの上で小さく息を吐いた。
心臓が、さっきより少し早く打っている。でも、その鼓動は、さっきまでみたいに暴走してはいなかった。
「……全部私が悪い、ってことにしてたの、私だな」
ぽつりとつぶやくと、足元で黒猫がちいさく尻尾を揺らした。肯定とも否定ともつかない動きだけれど、「そうかもね」と言われた気がする。
視線を落とすと、まだいくつかの欠片が残っていた。
ひとつは、淡いピンク色の光を帯びている。タグには、くっきりとした日付と、短い言葉が浮かんでいた。
二〇二一年三月二十六日。悠斗。
その名前を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。思わず、手を引っ込める。
「……これは、いい」
声が自分でも分かるくらい強張っている。
元恋人の顔が、頭の中に浮かぶ。優しさと不器用さの混ざった笑顔。仕事が忙しくなる前は、よく一緒に映画を観に行ったり、くだらないことで何時間も電話したりしていた。
最後の夜のことは、できるだけ思い出さないようにしてきた。あのときの自分の言葉も、悠斗の表情も、思い出すたびに胸が苦しくなるからだ。
だから、わざわざその記憶を、自分から取りに行くなんて。
黒猫が、小さく頭を傾けた。
「やめて。これは、本当に、いいから」
言いながら、自分の両腕を抱きしめる。気づかないうちに、体が震えていた。寒さのせいだけじゃない。
過去の失敗なら、まだ見ていられる。反省したり、別の解釈を探したりできる余地がある。でも、自分が「捨てられた」と感じている記憶は、ただ痛いだけだ。
だって、あの夜の私は、自分の価値をごっそり奪われた気がしていたから。
黒猫は、しばらくじっと紗月を見つめていた。けれど、欠片を無理やり押しつけてくることはしない。代わりに、すっと動いて、紗月の膝の上に飛び乗った。
「わ」
思っていたより、ずしりと重みがあった。毛並みはふかふかで、コート越しにも体温がはっきり分かる。冷え切っていた太ももの上に、じんわりと温かさが広がっていく。
黒猫は、膝の上で少し身じろぎをしてから、上手に丸くなった。前足を揃えて、目を細める。その喉から、小さな振動が伝わってきた。
ぐるぐる、と、低く響く音。
「……ゴロゴロ言う猫、本当にいるんだ」
思わず笑ってしまう。これまで、漫画や動画では見たことがあったけれど、こんなに近くでその音を聞いたのは初めてだった。
ゴロゴロという音に合わせて、紗月の胸の鼓動も、ゆっくりと落ち着いていく気がする。さっきまで早鐘を打っていた心臓が、少しずつ通常運転に戻っていく。
(なんか、深呼吸がしやすい)
肩の力が抜けていく。この数日、まともに眠れていなかったのが嘘みたいに、まぶたが重くなってきた。
猫の体温は、人間より少し高い。それがこんなにも安心感をくれるものなんだと、初めて知った。
「ありがとね」
そっと、猫の背中を撫でる。指の下を通り過ぎる毛並みは、驚くほどなめらかだった。黒猫は嫌がる様子もなく、むしろ気持ちよさそうに目を細める。
「落とし物、届けるのが仕事、なんでしょ。きみは」
紗月が冗談めかして言うと、黒猫は一度だけ鈴を鳴らした。
ちりん、と、肯定みたいな音。
ホームの反対側には、暗い穴のような影が口を開けている。線路の先、トンネルへ続くその黒い部分は、さっきよりも濃く見えた。よく見ると、その影の縁のあたりに、古いダンボール箱が置かれている。側面には「落とし物」と、かろうじて読める文字。
黒猫は、膝の上から顔だけ持ち上げて、その箱の方をじっと見つめた。
紗月もつられて視線を向ける。箱の底は暗くて、中身は見えない。ただ、そこに何かが溜まっている気配だけがあった。長い時間誰にも拾われなかった、いろんな人の「忘れ物」。
「ここに、みんなの記憶を、戻してるの?」
問いかけると、黒猫は何も答えない。ただ、ゆっくり瞬きをした。
ゴロゴロという喉の音だけが、ホームの静けさに混じって響いている。
触れない欠片は、そのまま足元で静かに光っていた。淡いピンク色の光は、さっきより少し弱くなったように見える。
今はまだ、向き合えない。
でも、さっき見た一年目の記憶みたいに、「あの夜」も別の角度から見えるのかもしれない。そんな予感だけが、心のどこかで小さく灯り始めていた。
「……もうちょっと、休んでからにする」
紗月がそう呟くと、黒猫は目を閉じた。膝の上の重みが、心地よい眠気を誘う。
ホームの上を、夜風が静かに通り過ぎていった。
電光掲示板の「回送」の文字は変わらない。けれど、さっきまで閉じ込められたみたいに感じていたこの場所が、ほんの少しだけ違って見えた。
ここは、ただの行き止まりじゃない。
失くしたものを拾い直すための、途中駅みたいな場所なのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えながら、紗月は黒猫の体温に身を預けた。胸の奥に少し入っていたひび割れに、静かに温かい何かが流れ込んでくるような感覚がした。



