平日の夜は、いつもより長く感じる。
その日も、私はパソコンの前で時計をにらみながら、何度目かのため息をついた。
「本当に申し訳ありません。こちらの確認不足で……」
受話器越しに、ひたすら頭を下げ続けたクライアント対応が、ようやく終わったのが二十二時を少し回った頃。電話を切ったあとの自分の声が、情けないくらいに掠れている。
オフィスには、もうほとんど人が残っていない。ちらほらとキーボードを叩く音が聞こえるくらいで、昼間あれだけ鳴っていた電話の音も、今はない。
「紗月ちゃん、大丈夫? さっき声、怒鳴ってたよね、あの部長」
隣の島から顔を出した先輩が、気まずそうに笑う。
「大丈夫です。完全に私のミスなので」
笑って返しながら、心の中で「すみません」を何度も繰り返す。確認が甘かった。もっと早く動いていれば。あのタイミングで一言でも言っていれば──。
頭の中で、さっきの会話が何度も再生される。相手のため息、電話越しの沈黙、自分の強張った声。その全部が、失敗の証拠みたいに胸にこびりついて離れない。
「もう上がっていいよ。終電、間に合う?」
「はい、多分」
本当は「多分」じゃなくて「走ればギリギリです」と言うべきだった。でも、心配をかけるのも悪い気がして、曖昧な返事でごまかす。
急いでパソコンを落とし、ロッカーからコートとバッグを掴んでエレベーターに駆け込んだ。
ビルを出ると、夜風が思ったより冷たかった。秋と冬の境目みたいな、乾いた空気がほおを撫でる。吐いた息が白くなって、時間が遅いことを改めて実感する。
スマホの画面をつけると、時間は二十二時五十分。乗り換えを考えると、かなりギリギリだ。
「間に合え……」
小さくつぶやいて、私は駅まで小走りになった。
最初の路線には、なんとか滑り込みで飛び乗れた。混んではいるけれど、昼間のラッシュほどではない。吊り革につかまりながら、車内のモニターに映るニュースのテロップだけが、目の前を流れていく。
ポケットの中で震えたスマホを取り出すと、会社のグループチャットがまだ動いていた。
「さっきの案件、なんとかなった?」
「クレームになってなきゃいいけど」
「ていうか、あの仕様書の時点で無理あったよね」
吹き出しをなぞる指が、途中で止まる。どのメッセージにも、自分の名前は出ていない。それなのに、全部自分のことを言われている気がした。
(私が、ちゃんとしていれば)
画面を閉じて、SNSのアイコンをタップする。
流れてくるのは、友達の楽しそうな写真や動画だ。居酒屋での集合写真、新しく買ったコスメの自撮り、推しのライブに行った報告。笑顔のスタンプやキラキラしたエフェクトばかりが目に飛び込んでくる。
その中に、大学時代の友人が投稿した写真があった。小さな男の子と女の子と一緒に写っている、家庭的なリビング。テーブルの上には手料理が並んでいて、コメントには「今日で結婚三周年」と書かれている。
「……すごいな」
思わず声が漏れた。周りに聞こえないほどの小さな声で。
同い年のはずなのに、私とはまるで違う場所を歩いていることに、胸の奥がちくりと痛む。私が今立っているのは、満員電車の中。クレームひとつで胃を痛めている、二十八歳の会社員。
(何やってるんだろ、私)
ため息を飲み込んで、スマホをバッグに戻す。
二つ目の駅で乗り換えて、最後の路線へ向かう階段を駆け上がったときだった。ホームに滑り込もうとしていた電車のドアが、目の前で閉まる。
「あっ、待って……!」
反射的に手を伸ばす。でも、ガラスの向こうでこちらを振り返る人はいない。電車は、私の存在なんて知らないと言わんばかりに、音もなく動き出す。
ホームの端で足を止めたまま、私はしばらく線路を見つめていた。
電光掲示板には、さっきまで表示されていた最終の時刻が、もう消えている。代わりに「本日の運行は終了しました」の文字が、無機質なフォントで並んでいた。
「……嘘でしょ」
思わず口からこぼれた声は、小さくて、心細かった。
駅員さんの姿を探すけれど、人影はない。平日の終電を過ぎた支線ホームは、驚くほど静かだった。ホームの蛍光灯が、どこか頼りなく光っている。その光に照らされたベンチと、ガラス越しの暗い線路だけが、世界の全部みたいに感じられた。
タクシー乗り場まで戻れば、きっと一台くらいはいる。でも、頭の中でメーターの数字が浮かんで、私は足を止める。
(今月、もうギリギリなんだよな)
家賃や光熱費、カードの引き落とし。頭の中で簡単な計算をしてみるが、どこをどうやりくりしても、タクシー代は痛い出費だった。
終電を逃した自分のミスで、さらにお金を減らすのかと思うと、余計にみじめな気持ちになる。
ベンチに腰を下ろすと、金属の冷たさがコート越しに伝わってきた。ホームの端に貼られている観光ポスターが、薄くなったテープでかろうじて壁にくっついている。そこには、どこかの地方のローカル線と、広がる田園風景がプリントされていた。
どこかで見たような景色だと、一瞬思う。でも、すぐに「気のせいだ」と自分で打ち消す。
スマホの画面には、もう日付が変わる寸前の数字が並んでいた。母の命日まで、あと数日。カレンダーアプリの小さな印が、胸の奥のざわつきを増幅させる。
(今年も、ちゃんと行けるのかな)
毎年そう思って、結局ぎりぎりの時間にお墓の前に立つ。それが、ここ何年かの私のパターンだった。
眠れていない夜が続いている。布団に入って目を閉じると、今日みたいな失敗や、母の最期のことを思い出してしまうからだ。考えたくないのに、頭の中だけは勝手に再生ボタンを押してくる。
「はあ……」
小さくため息をついたそのとき、足元のほうから、かすかな気配を感じた。
視線を落とすと、黒いものが視界に入ってくる。
そこには、一匹の黒猫がいた。
真っ黒な毛並み。街灯の光を受けて、ところどころが鈍く光っている。大きな目は、夜の色をそのまま閉じ込めたみたいに深い。猫は、まるでずっと前からそこにいたかのように、当たり前の顔で私を見上げていた。
「……どこから来たの、きみ」
思わず声をかけると、黒猫は小さく瞬きをしただけで、鳴きもしない。その首には、細い首輪がついていて、小さな鈴がひとつ下がっている。鈴には名前が刻まれていなくて、代わりに擦り傷のような傷がいくつかついていた。
猫の視線を追って足元を見ると、ベンチの脇の床に、なにかが転がっているのが見えた。
ビー玉より少し大きいくらいの、大きさだけならよくあるガラス玉。だけど、それはぼんやりと光を放っていた。蛍光灯とは違う、やわらかい光。触れたら消えてしまいそうな、弱いけれど温かい光だった。
「……なにこれ」
私は思わず体を前に乗り出した。
光る玉のそばには、古いタグのようなものがくっついている。電車の切符を小さくしたみたいな、その紙片には、擦れて読めない文字がいくつか並んでいた。
黒猫は、その玉のすぐ隣にちょこんと座り、尻尾を一度だけ揺らす。まるで「それ、拾わないの」とでも言いたげに。
こういうときは、スルーするのが正解なのかもしれない。疲れている頭が作り出した幻覚だと言ってしまえば、それで終わる。
でも、その光から目が離せなかった。胸の奥で、何かがざわざわと動く。懐かしい匂いを遠くから嗅いだときみたいな感覚。
気づいたときには、私はもう手を伸ばしていた。
指先が、光の玉に触れた瞬間。
視界が、ふっと切り替わった。
ホームの蛍光灯も、冷たいベンチも、黒猫の姿も、一瞬で消える。代わりに広がったのは、揺れる車内の光景だった。
窓の外には、どこまでも続く田んぼと、ぽつぽつと立つ家々。その向こうに、低い山の稜線が暗く伸びている。車内には、ゆったりとしたアナウンスの声と、レールの上を走るガタンゴトンという音。
鼻の奥に、懐かしい匂いが広がる。母が作った卵焼きの甘い匂いと、駅弁の醤油の香りが混ざったような匂い。
「ほら紗月、こぼさないでよ。車内でこぼしたら大変なんだから」
隣から、明るい声がした。
振り向くと、小学生の私が座っていた。膝の上には、小さなお弁当箱。向かいの席には、若いころの母がいる。髪をひとつに結んで、笑いながら私の口元についたご飯粒を指で取っている。
「だって揺れるんだもん」
「揺れるのが電車だからね。でもほら、次の駅までに食べないと、アイス買いそびれちゃうよ」
「それは困る」
幼い私がむっとして、急いで口にご飯を運ぶ。その様子を見て、母が声を出して笑った。笑い声が、電車の揺れと一緒に、車内に広がっていく。
私は、その光景を少し離れたところから見ていた。幽霊みたいに、誰からも見えない位置から。
(こんなに、笑ってたっけ)
心の中でつぶやく。母の笑い声は、思っていたよりもずっと明るくて、柔らかかった。私は今まで、その音を忘れていたことに気づく。
窓の外の風景が、じわじわと夕焼け色に変わっていく。オレンジ色の光が車内に差し込んで、母の横顔を照らす。その横顔を、幼い私がじっと見ている。口をもぐもぐさせながら、どこか安心しきった表情で。
「お母さん、また来年も、この電車乗れる?」
「もちろん。紗月が行きたいって言うなら、何回でも乗ろうね」
母は迷いのない声でそう言った。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられる。来年なんて、あっという間に来なくなってしまうことを、今の私は知っているからだ。
喉の奥に、言葉にならない何かがつかえていく。
視界が、涙でにじんだ。
次の瞬間、電車のアナウンスが鳴り響く。
「まもなく終点です。お忘れ物のないよう、ご注意ください」
その声が、ふっと鈴の音に変わった。
ちりん、と、小さな音。
聞き覚えのあるその音が、車内に反響したかと思うと──。
私は、ホームのベンチに戻っていた。
頬を伝う涙の感触だけが、さっきまでの光景が夢ではないと教えてくれる。指先には、まだあの光の玉の温もりが残っていた。
「……今の、なに」
声に出してみても、答えてくれる人はいない。
ただ、足元に座る黒猫が、じっとこちらを見上げている。鈴が、さっきと同じ音色で小さく揺れた。
電光掲示板に目をやると、「回送」という文字が新しく表示されていた。その隣には、「運転見合わせ」の案内が淡々と流れている。
今夜は、もう帰れる電車は来ない。
そう告げられた気がして、私は小さく息を飲んだ。
終電を逃したホーム。泣き止まない頬。足元で光る、小さな鈴。
長い夜の始まりを告げるみたいに、ホームの風が、そっと私の髪を揺らした。
その日も、私はパソコンの前で時計をにらみながら、何度目かのため息をついた。
「本当に申し訳ありません。こちらの確認不足で……」
受話器越しに、ひたすら頭を下げ続けたクライアント対応が、ようやく終わったのが二十二時を少し回った頃。電話を切ったあとの自分の声が、情けないくらいに掠れている。
オフィスには、もうほとんど人が残っていない。ちらほらとキーボードを叩く音が聞こえるくらいで、昼間あれだけ鳴っていた電話の音も、今はない。
「紗月ちゃん、大丈夫? さっき声、怒鳴ってたよね、あの部長」
隣の島から顔を出した先輩が、気まずそうに笑う。
「大丈夫です。完全に私のミスなので」
笑って返しながら、心の中で「すみません」を何度も繰り返す。確認が甘かった。もっと早く動いていれば。あのタイミングで一言でも言っていれば──。
頭の中で、さっきの会話が何度も再生される。相手のため息、電話越しの沈黙、自分の強張った声。その全部が、失敗の証拠みたいに胸にこびりついて離れない。
「もう上がっていいよ。終電、間に合う?」
「はい、多分」
本当は「多分」じゃなくて「走ればギリギリです」と言うべきだった。でも、心配をかけるのも悪い気がして、曖昧な返事でごまかす。
急いでパソコンを落とし、ロッカーからコートとバッグを掴んでエレベーターに駆け込んだ。
ビルを出ると、夜風が思ったより冷たかった。秋と冬の境目みたいな、乾いた空気がほおを撫でる。吐いた息が白くなって、時間が遅いことを改めて実感する。
スマホの画面をつけると、時間は二十二時五十分。乗り換えを考えると、かなりギリギリだ。
「間に合え……」
小さくつぶやいて、私は駅まで小走りになった。
最初の路線には、なんとか滑り込みで飛び乗れた。混んではいるけれど、昼間のラッシュほどではない。吊り革につかまりながら、車内のモニターに映るニュースのテロップだけが、目の前を流れていく。
ポケットの中で震えたスマホを取り出すと、会社のグループチャットがまだ動いていた。
「さっきの案件、なんとかなった?」
「クレームになってなきゃいいけど」
「ていうか、あの仕様書の時点で無理あったよね」
吹き出しをなぞる指が、途中で止まる。どのメッセージにも、自分の名前は出ていない。それなのに、全部自分のことを言われている気がした。
(私が、ちゃんとしていれば)
画面を閉じて、SNSのアイコンをタップする。
流れてくるのは、友達の楽しそうな写真や動画だ。居酒屋での集合写真、新しく買ったコスメの自撮り、推しのライブに行った報告。笑顔のスタンプやキラキラしたエフェクトばかりが目に飛び込んでくる。
その中に、大学時代の友人が投稿した写真があった。小さな男の子と女の子と一緒に写っている、家庭的なリビング。テーブルの上には手料理が並んでいて、コメントには「今日で結婚三周年」と書かれている。
「……すごいな」
思わず声が漏れた。周りに聞こえないほどの小さな声で。
同い年のはずなのに、私とはまるで違う場所を歩いていることに、胸の奥がちくりと痛む。私が今立っているのは、満員電車の中。クレームひとつで胃を痛めている、二十八歳の会社員。
(何やってるんだろ、私)
ため息を飲み込んで、スマホをバッグに戻す。
二つ目の駅で乗り換えて、最後の路線へ向かう階段を駆け上がったときだった。ホームに滑り込もうとしていた電車のドアが、目の前で閉まる。
「あっ、待って……!」
反射的に手を伸ばす。でも、ガラスの向こうでこちらを振り返る人はいない。電車は、私の存在なんて知らないと言わんばかりに、音もなく動き出す。
ホームの端で足を止めたまま、私はしばらく線路を見つめていた。
電光掲示板には、さっきまで表示されていた最終の時刻が、もう消えている。代わりに「本日の運行は終了しました」の文字が、無機質なフォントで並んでいた。
「……嘘でしょ」
思わず口からこぼれた声は、小さくて、心細かった。
駅員さんの姿を探すけれど、人影はない。平日の終電を過ぎた支線ホームは、驚くほど静かだった。ホームの蛍光灯が、どこか頼りなく光っている。その光に照らされたベンチと、ガラス越しの暗い線路だけが、世界の全部みたいに感じられた。
タクシー乗り場まで戻れば、きっと一台くらいはいる。でも、頭の中でメーターの数字が浮かんで、私は足を止める。
(今月、もうギリギリなんだよな)
家賃や光熱費、カードの引き落とし。頭の中で簡単な計算をしてみるが、どこをどうやりくりしても、タクシー代は痛い出費だった。
終電を逃した自分のミスで、さらにお金を減らすのかと思うと、余計にみじめな気持ちになる。
ベンチに腰を下ろすと、金属の冷たさがコート越しに伝わってきた。ホームの端に貼られている観光ポスターが、薄くなったテープでかろうじて壁にくっついている。そこには、どこかの地方のローカル線と、広がる田園風景がプリントされていた。
どこかで見たような景色だと、一瞬思う。でも、すぐに「気のせいだ」と自分で打ち消す。
スマホの画面には、もう日付が変わる寸前の数字が並んでいた。母の命日まで、あと数日。カレンダーアプリの小さな印が、胸の奥のざわつきを増幅させる。
(今年も、ちゃんと行けるのかな)
毎年そう思って、結局ぎりぎりの時間にお墓の前に立つ。それが、ここ何年かの私のパターンだった。
眠れていない夜が続いている。布団に入って目を閉じると、今日みたいな失敗や、母の最期のことを思い出してしまうからだ。考えたくないのに、頭の中だけは勝手に再生ボタンを押してくる。
「はあ……」
小さくため息をついたそのとき、足元のほうから、かすかな気配を感じた。
視線を落とすと、黒いものが視界に入ってくる。
そこには、一匹の黒猫がいた。
真っ黒な毛並み。街灯の光を受けて、ところどころが鈍く光っている。大きな目は、夜の色をそのまま閉じ込めたみたいに深い。猫は、まるでずっと前からそこにいたかのように、当たり前の顔で私を見上げていた。
「……どこから来たの、きみ」
思わず声をかけると、黒猫は小さく瞬きをしただけで、鳴きもしない。その首には、細い首輪がついていて、小さな鈴がひとつ下がっている。鈴には名前が刻まれていなくて、代わりに擦り傷のような傷がいくつかついていた。
猫の視線を追って足元を見ると、ベンチの脇の床に、なにかが転がっているのが見えた。
ビー玉より少し大きいくらいの、大きさだけならよくあるガラス玉。だけど、それはぼんやりと光を放っていた。蛍光灯とは違う、やわらかい光。触れたら消えてしまいそうな、弱いけれど温かい光だった。
「……なにこれ」
私は思わず体を前に乗り出した。
光る玉のそばには、古いタグのようなものがくっついている。電車の切符を小さくしたみたいな、その紙片には、擦れて読めない文字がいくつか並んでいた。
黒猫は、その玉のすぐ隣にちょこんと座り、尻尾を一度だけ揺らす。まるで「それ、拾わないの」とでも言いたげに。
こういうときは、スルーするのが正解なのかもしれない。疲れている頭が作り出した幻覚だと言ってしまえば、それで終わる。
でも、その光から目が離せなかった。胸の奥で、何かがざわざわと動く。懐かしい匂いを遠くから嗅いだときみたいな感覚。
気づいたときには、私はもう手を伸ばしていた。
指先が、光の玉に触れた瞬間。
視界が、ふっと切り替わった。
ホームの蛍光灯も、冷たいベンチも、黒猫の姿も、一瞬で消える。代わりに広がったのは、揺れる車内の光景だった。
窓の外には、どこまでも続く田んぼと、ぽつぽつと立つ家々。その向こうに、低い山の稜線が暗く伸びている。車内には、ゆったりとしたアナウンスの声と、レールの上を走るガタンゴトンという音。
鼻の奥に、懐かしい匂いが広がる。母が作った卵焼きの甘い匂いと、駅弁の醤油の香りが混ざったような匂い。
「ほら紗月、こぼさないでよ。車内でこぼしたら大変なんだから」
隣から、明るい声がした。
振り向くと、小学生の私が座っていた。膝の上には、小さなお弁当箱。向かいの席には、若いころの母がいる。髪をひとつに結んで、笑いながら私の口元についたご飯粒を指で取っている。
「だって揺れるんだもん」
「揺れるのが電車だからね。でもほら、次の駅までに食べないと、アイス買いそびれちゃうよ」
「それは困る」
幼い私がむっとして、急いで口にご飯を運ぶ。その様子を見て、母が声を出して笑った。笑い声が、電車の揺れと一緒に、車内に広がっていく。
私は、その光景を少し離れたところから見ていた。幽霊みたいに、誰からも見えない位置から。
(こんなに、笑ってたっけ)
心の中でつぶやく。母の笑い声は、思っていたよりもずっと明るくて、柔らかかった。私は今まで、その音を忘れていたことに気づく。
窓の外の風景が、じわじわと夕焼け色に変わっていく。オレンジ色の光が車内に差し込んで、母の横顔を照らす。その横顔を、幼い私がじっと見ている。口をもぐもぐさせながら、どこか安心しきった表情で。
「お母さん、また来年も、この電車乗れる?」
「もちろん。紗月が行きたいって言うなら、何回でも乗ろうね」
母は迷いのない声でそう言った。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられる。来年なんて、あっという間に来なくなってしまうことを、今の私は知っているからだ。
喉の奥に、言葉にならない何かがつかえていく。
視界が、涙でにじんだ。
次の瞬間、電車のアナウンスが鳴り響く。
「まもなく終点です。お忘れ物のないよう、ご注意ください」
その声が、ふっと鈴の音に変わった。
ちりん、と、小さな音。
聞き覚えのあるその音が、車内に反響したかと思うと──。
私は、ホームのベンチに戻っていた。
頬を伝う涙の感触だけが、さっきまでの光景が夢ではないと教えてくれる。指先には、まだあの光の玉の温もりが残っていた。
「……今の、なに」
声に出してみても、答えてくれる人はいない。
ただ、足元に座る黒猫が、じっとこちらを見上げている。鈴が、さっきと同じ音色で小さく揺れた。
電光掲示板に目をやると、「回送」という文字が新しく表示されていた。その隣には、「運転見合わせ」の案内が淡々と流れている。
今夜は、もう帰れる電車は来ない。
そう告げられた気がして、私は小さく息を飲んだ。
終電を逃したホーム。泣き止まない頬。足元で光る、小さな鈴。
長い夜の始まりを告げるみたいに、ホームの風が、そっと私の髪を揺らした。



