クロと乗る、もう一度だけの帰り道

 夜行列車の揺れが、ふっと穏やかになった。

 天井の灯りが、ほんの少しだけ明るくなる。さっきまで夕暮れのようだった色合いが、夜明け前の街灯のような、やわらかい白さに変わっていた。

「まもなく、現在行きホームに到着します。お忘れ物のないよう、お支度ください」

 アナウンスの声が、静かな車内に響く。

 膝の上で丸くなっていたクロが、するりと身体を起こした。小さな前足が、灯の肩にそっと乗る。爪は立てない。ただ、そこにいることを知らせるような、軽い重み。

「……そろそろ、帰る時間ってこと?」

 灯が問いかけると、クロは短く鳴いた。鈴が、ちりんと揺れる。

 胸の奥は、まだ痛かった。陸と話した言葉ひとつひとつを思い出すたび、締め付けられるような感覚がぶり返す。

 けれど、その痛みは、さっきまで自分を責め続けていた苦しさとは、少し違っていた。刺すような痛みから、鈍くじんじんと残るような痛みに変わっている。消えないけれど、一緒に抱えて歩けそうな重さ。

 そんな自分の変化を、灯はぼんやりと自覚していた。

 ふと、通路のほうから足音が聞こえてくる。

 顔を上げると、あの車掌が、いつのまにか立っていた。帽子のつばの下で、目尻に刻まれた皺がやわらかく寄っている。

「いかがでしたか」

 それだけの問いかけ。

 気の利いた感想なんて出てこない。灯は少し考えてから、素直な言葉を選んだ。

「痛かったです」

 車掌の眉が、ほんの少しだけ動く。

「痛かったですけど……行けて、よかったです」

 口に出してみると、自分でも驚くくらい、その言葉がしっくりきた。

 車掌は、ゆっくりと頷いた。

「皆さん、そうおっしゃいます」

 そう言って、口元だけで小さく笑う。

 皆さん。

 この列車に乗るのは、自分だけじゃないのだと思う。誰かを亡くした人。なにかを置いてきた人。今もどこかで、同じように自分の心と向き合っている人がいるのかもしれない。

 夜行列車は、特別な誰かのためだけじゃない。

 誰の心にも、ひっそりと走っているのかもしれない。

 そんな想像が、灯の中に浮かんだ。

 小さく息を吐いたところで、ドアのランプが点滅した。

「そろそろですね」

 車掌が一礼する。

「お気をつけて、お帰りください」

「……ありがとうございました」

 灯が頭を下げると、車掌はそれ以上多くを語らず、静かに通路の向こうへと歩いていった。

 ガタン、といつもの揺れが一段階弱まり、列車が速度を落としていく。窓の外が、さっきまでとは違う色に変わっていくのが分かった。

 ドアが開く。

 冷たい空気が、ふっと頬を撫でていった。

 そこは、最初に灯が乗り込んだ、あの終電後の駅のホームだった。

 けれど、空の色が違う。

 さっきまで真っ黒だった天井みたいな夜空が、端っこのほうだけ、うっすらと薄くなり始めている。藍色の中に、牛乳をたらしたみたいな白が滲んでいた。

「……明けてきてる」

 思わずこぼした声が、白い吐息になって空に溶ける。

 ホームには、誰もいない。電光掲示板には「本日の列車はすべて終了しました」の文字。だけど、さっきまでこのホームに、一本だけ特別な列車が停まっていたことを、灯は知っている。

 クロもホームに降り立った。小さな足音を立てながら、灯の少し前を歩く。

 線路を横切る風が、鈴の音を運ぶ。ちりん、と鳴るたびに、「まだここにいるよ」と知らせてくれているみたいだった。

 階段の手前まで来たところで、クロがぴたりと立ち止まる。

 くるりと振り返って、灯を見上げた。

「一緒に来る?」

 灯は、しゃがんで目線を合わせるように問いかけた。

 クロは、ほんの一瞬だけ考えるように瞬きをしたあと、小さく鳴いた。にゃ、と短く。

 そして、鈴を一度だけ鳴らす。

 それが返事なのだと、灯には分かった。

「そっか」

 灯は笑った。

「ここまで送ってくれて、ありがとう」

 クロは、もう一度だけ灯を見上げると、くるりと背を向けた。ホームの端のほうへと歩いていき、そのまま、朝の気配の濃いほうへ溶け込んでいく。

 見ているあいだに、その背中がだんだん小さくなっていった。

 名残惜しさを胸に抱えながらも、灯は階段を上り始めた。

 階段を上りきって改札を抜けると、駅前の空はさっきよりも確かに明るくなっていた。街灯の明かりが、もういらなくなりそうなくらいの、薄い青。

 駅前の自販機が、ガタンと音を立てて稼働している。新聞配達のバイクが、遠くの通りを走り抜けていく。

 人の姿はまだまばらだけれど、「今日」が近づいてきている気配があった。

 灯は、胸ポケットからスマホを取り出した。ロック画面には、日付と時刻と、未読メッセージの通知。

 震える親指で画面をスライドさせ、メッセージアプリを開く。

 同僚の川村からのメッセージが、一件。

『今日は命日なんだよね。しんどくなったらいつでも話して』

 シンプルな文章。でも、その奥ににじむ気遣いが、三年前の自分には重く感じられていた。優しさに触れるのが怖くて、既読にするだけして返事をしない。そんなことを何度も繰り返してきた。

 これまでの灯なら、「またあとで」と思って画面を閉じていただろう。

 でも、今は。

 指が、メッセージ入力欄の上で止まる。

 短く息を吸ってから、灯は文字を打ち始めた。

『メッセージありがとう。今度、聞いて』

 送信ボタンを押す瞬間、心臓が小さく跳ねた。

 既読スルーじゃない選択肢を取るのは、ほんの少しだけ怖い。でも、陸の顔が背中を押してくれる。

 姉ちゃん、ちゃんと寝ろよ。

 さっき聞いたばかりの声が、耳の奥でくすぐったい。

 スマホをしまってから、駅前の道を歩き出した。

 早朝の街は、夜とも昼ともつかない色をしている。シャッターの降りた商店街を抜け、マンション街へ向かう道。街路樹の枝には、夜露が光っていた。

 その途中で、灯は足を止めた。

 街路樹の根元に、一匹の黒猫が座っていたからだ。

 さっきのクロによく似ている。でも、首元には鈴がついていない。耳も、切れていない。

 猫は、じっとこちらを見ていた。琥珀色の目だけが、街灯の残り火を映している。

「……クロ?」

 灯は、思わずしゃがみ込んだ。

 猫は、小さく瞬きをしただけだった。にゃんとも鳴かない。しばらく灯と見つめ合ったあと、すっと立ち上がると、しなやかな動きで路地のほうへと歩いていく。

 追いかけようとする前に、その姿は角を曲がって消えてしまった。

「行っちゃった」

 灯がぽつりと呟いた、そのとき。

 ポケットの中で、なにかが小さく鳴った。

 ちりん、と。

 さっきまで入っていたはずのものは、スマホと、家の鍵だけ。そんなはずはないと思いながらも、灯はそっとポケットに手を差し入れた。

 指先に触れたのは、冷たくて硬い、小さな丸いもの。

 取り出してみると、掌の上で銀色の鈴が光った。

「……え?」

 驚きと、どこか納得したような気持ちが同時に湧き上がる。

 丸い形。少し擦り傷のついた表面。小さな星の模様。

 あの日、陸が雑貨屋の前で「これ安いし可愛くね」と言っていた鈴と、同じデザイン。

 夜行列車を降りるとき、クロがさりげなくポケットに落としていったのだろうか。それとも、別のなにかの仕業なのか。

 答えは分からない。でも、鈴は確かにそこにある。

 掌の上で転がしながら、灯はふと昔の記憶を思い出した。

「姉ちゃんもさ、今度一緒に猫カフェ行こうぜ」

 陸が、笑いながら言っていた。

 そのとき灯は、「猫アレルギーなんだけど」と笑い飛ばしただけだった。マスクすればなんとかなるだろ、と陸が食い下がってきたのを、「また今度ね」でかわした。

 その「今度」は、一度も来なかった。

 鈴の冷たさが、指先から心臓までゆっくり伝わっていく。

「……今度は、ちゃんと約束守らないとね」

 誰にともなく呟いてから、灯は鈴をぎゅっと握りしめた。

 マンションに着くころには、空はさらに明るくなっていた。東のほうには、薄いピンク色が混じり始めている。

 玄関の鍵を開けて中に入ると、いつもの静けさが迎えてくれた。靴を脱いでスリッパに履き替え、リビングへ向かう。

 部屋の隅に置かれた棚の上に、小さな遺影がある。

 制服姿で笑っている陸の写真。三年間、そこに変わらずある笑顔。

 灯は、その前に鈴をそっと置いた。

「陸」

 名前を呼ぶ。

「行ってきたよ」

 夜行列車のことを、その一言に全部詰め込むように。

「ちゃんと、“ごめん”と“ありがとう”、言えた」

 兄弟げんかみたいな日も、すれ違ってばかりだった日も。全部ひっくるめて、伝えたかった言葉を。ようやく。

 写真の中の陸は、いつも通りの笑顔のままだった。

 でも、不思議とその笑顔が、さっきまでより少しだけ、軽く見えた。写真の中の彼の肩からも、灯の肩からも、同じように荷物がひとつ降ろされたような気がした。

「だから、私」

 灯は、写真に向かって静かに続ける。

「もう少しだけ、こっちで頑張るね」

 すごいことじゃなくていい。毎日ちゃんと起きて、仕事に行って、ちゃんとご飯を食べて。たまに誰かの話を聞いて、たまに自分の話も聞いてもらって。

 それだけでも、今までよりはずっと「生き直している」に近い気がする。

 鈴が、微かに揺れた。誰かが触れたわけでもないのに、風も吹いていないのに。

 ほんの少しだけ鳴った音が、「うん」と返事をしているように聞こえた。

 灯は、深く息を吸い込んだ。

 長い夜のあとで吸う空気は、どこか新しい匂いがした。

 その夜は、ベッドに入ってからも、しばらく眠れないかと思っていた。いろいろなことを思い出してしまいそうで、目を閉じるのが怖い気もした。

 けれど、実際には、布団に横になって数分もしないうちに、眠りに落ちていた。

 陸の「ちゃんと寝ろよ」が、ちゃんと効いたのかもしれない。

 ……次に目を開けたとき、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。

 目覚まし時計を見ると、いつも鳴る時間より少し前だった。久しぶりに、アラームより早く自然に目が覚めた。

「……起きられた」

 小さくつぶやいて、上半身を起こす。

 部屋は静かだ。窓の外からは、通勤の車の音と、遠くのほうで鳴く鳥の声が聞こえる。

 ふと、窓辺に視線を向けた。

 そこに、黒い影がひとつあった。

 昨夜の黒猫か、別の猫かは分からない。小さく丸まった背中が、朝日を浴びて、輪郭だけくっきりと浮かんでいる。

「クロ……?」

 灯が呼ぶと、その影はぴくりと耳を動かしたように見えた。

 瞬きをした、その一瞬のあいだに。

 窓辺には、もう誰もいなかった。

 カーテンの隙間から入る風が、部屋の中をゆっくりと通り抜けていく。

 棚の上に置いた鈴が、風に揺れてちりんと鳴った。

 灯は、その音に耳を澄ませながら、静かに笑った。

「あの夜、私を迎えに来てくれた小さな背中を、私はきっと、一生忘れない。」