夜行列車の揺れが、少しずつ落ち着いてきたころだった。
「まもなく、『あなたが最も戻りたかった場所』に到着します」
天井のスピーカーから、あの少しだけ眠たそうなアナウンスの声が流れた。
さっきまでと違って、その声にはほんの少しだけ、あたたかい響きが混じっているように聞こえる。車内の照明も、気のせいか色味が変わっていた。白っぽかった光が、オレンジに近い柔らかい色になっている。
膝の上で丸くなっていたクロが、ゆっくりと体を起こした。前足を伸ばして小さく伸びをすると、灯の膝からふわりと飛び降りる。
「どこ行くの」
思わず声をかけると、クロは一度だけ振り返った。琥珀色の目が、灯をまっすぐに見上げる。
ついてきて、と言われたような気がした。
クロは、通路をとことこと歩いていく。尻尾を立てて、少しだけ振りながら。灯は、胸の鼓動が急に早くなっているのを感じながら、その後ろ姿を追った。
車両の連結部を通り抜けると、別のドアの前に出る。ドアの上に掲げられた小さなプレートには、「公園前」とだけ書かれていた。
ドアが、静かに開く。
まぶしいオレンジ色の光が、こちら側に流れ込んできた。
踏み出した一歩目で、灯は息を飲んだ。
そこは、公園だった。
事故の日の、夕暮れ前の公園。
まだ事故は、起きていない時間帯。
西の空は、沈みかけの太陽で真っ赤に染まっている。茜色とオレンジ色が混じり合って、雲の縁だけが金色に光っている。公園の遊具は長い影を落とし、ベンチの背もたれが、地面に細い線を描いていた。
少し離れた広場で、ボールが跳ねる音がする。
「いくぞ、クロー!」
聞き慣れた声が飛び、黒い影が走った。
陸だ。
高校のジャージ姿の陸が、芝生の上でサッカーボールを足元に転がしている。その前を、子どものころのクロがぴょんぴょんと追いかけていた。まだ小さかったころのクロは、ボールの大きさにびっくりしながらも、果敢に前足でちょいちょいと触っている。
「おー、ナイスディフェンス。お前、意外とセンスあるな」
陸は笑いながら、クロの頭をすばやく撫でた。
少し離れたベンチには、スーツ姿の灯が座っている。仕事帰りらしく、ジャケットを膝に置き、ブラウスの袖を少しだけまくっていた。コンビニの袋の中から取り出したペットボトルを、両手で抱えるように持っている。
日没前の、なんでもない夕方。
それだけなのに、今の灯の目には、世界中でいちばん尊い時間に見えた。
「……こんな顔してたんだ、私」
ベンチに座る自分を見ながら、灯は小さく独り言を漏らす。
そこにいる灯は、今より少し若くて、今より少し余裕がある顔をしていた。仕事の愚痴をこぼしながらも、どこか楽しそうに笑っている。
「うちの部長がさ、なんでもかんでも“若い子の意見を聞きたい”って言うわりに、結局自分の言うことしか聞かないんだよね」
過去の灯が、ベンチから声を張る。
「あるある。顧問も似たようなこと言うよ。“お前らの自主性が大事だ”って言いながら、結局全部決めるし」
陸が、ボールを止めて笑いながら返す。
「ね。なんでああいう人たちって、口だけ“任せる”って言うんだろ」
「責任持ちたくないからじゃね」
「それ言っちゃう」
二人の会話は、聞き流せばどうでもいい愚痴だ。でも、そのやりとりの一つ一つに、兄弟特有の距離感がにじんでいる。
現在の灯は、その距離を少し離れたところから眺めていた。近づけば近づくほど、指先が震える。
クロは、灯の足元と陸の足元の間を、行ったり来たりしていた。まるでふたつの時間を行き来する橋みたいに。
ふいに、陸が顔を上げた。
西日の中で、彼の目がこちらを向く。
過去の灯がいるベンチとは、少し違う方向だ。
ちらりとこちらを見た、という程度の偶然にしては、視線があまりにも真っ直ぐだった。
灯の心臓が、大きく跳ねる。
目が合った気がする。
ありえないと思いながらも、灯は一歩踏み出していた。砂を踏む足音も、風に混ざってしまう。
「……姉ちゃん?」
陸の唇が、確かにそう動いた。
過去のベンチの灯は、気づかない。ボトルのキャップを開けることに集中している。けれど、こちら側の灯には、その呼びかけがはっきり届いていた。
クロが、足元で鈴を鳴らした。
チリン、と小さな音がした瞬間、空気が変わった。
公園の周りの音が、すっと遠のく。子どもたちの声も、自転車のブレーキ音も、どこか遠くで鳴っているだけのように感じられた。夕焼けの色が少しだけ濃くなり、空と地面の境界線があいまいになる。
時間と時間の間に、隙間ができたみたいだった。
「陸……?」
灯は、喉の奥から絞り出すように名前を呼んだ。
声は震えていたが、ちゃんと出た。そのことに、自分がいちばん驚いた。
陸は、目を見開いて笑った。
「やっぱり。なんか、三年後くらいの姉ちゃんに会ってる感じがする」
冗談みたいな言い方だったけれど、その目は本気でそう思っているみたいだった。
「なにそれ」
灯は、笑うのか泣くのか分からない声で返した。
過去のベンチの灯は、相変わらずそこに座っている。でも、その輪郭は少しずつ薄くなっていた。代わりに、今ここに立っている灯と陸の存在感が、はっきりしていく。
空気が、ふたりの周りだけ、別の温度になったような気がした。
「変な夢見てるみたいだな」
陸は頭をかきながら言った。
「さっきまで、普通に公園でクロと遊んでたのに。急に、なんかよく分かんない世界に迷い込んだ感じ」
「こっちのセリフだよ」
灯は、どうにか言葉をつなげた。
「私も、夜行列車に乗ったら、まさかここに着くとは思わなかったし」
「夜行列車?」
「うん。……まあ、その話はあとでいいか」
何から話せばいいか分からない。事故のことを全部言うべきなのか。言わないままでいてあげるのか。
迷っている間に、陸が先に口を開いた。
「昨日は、ごめん」
さっきまでの軽さとは違う、少し真面目な声だった。
「昨日?」
「受験の話。サッカーの推薦の話。なんかさ、姉ちゃんに“ちゃんとしろ”って言われると、自分がダメなやつだって証明されてる気がしてさ。ムカついた」
灯の胸が、きゅっとなる。
さっき第二章で見た光景が、頭の中で重なった。テーブル越しに、正論ばかり並べてしまった自分。箸の先でご飯をいじっていた陸。
「ムカついたのは、私の言い方が悪かったからだよ」
灯は、素直にそう言った。
「陸にちゃんと考えてほしいって思うほど、あれこれ言い過ぎた。心配しすぎて、夢の話をちゃんと聞いてあげられなかった」
「うん。……でもさ」
陸は、芝生をつま先で軽く蹴った。
「後で思ったんだ。ああいう“うるさい”ってさ、愛されてるからこその“うるさい”なんだよなって」
「愛されてる、ねえ」
「だってさ。どうでもいいやつには、そんなに真剣に説教しないでしょ」
にやっと笑いながら言う。言葉の選び方は軽いのに、その奥には確かな実感があった。
「姉ちゃん、俺のこと、ちゃんと心配してくれてたんだよな」
灯の目から、自然に涙がこぼれた。
今まで、自分が陸を苦しめたとばかり思っていた。夢を押しつぶしたと責め続けていた。でも陸の中には、「心配してくれていた姉」の像も、ちゃんと残っていたのだ。
「心配しかしてなかったよ」
灯は、涙声で笑った。
「心配しすぎて、空回りしてたよ。陸の“やりたいこと”をちゃんと聞かないで、自分の“こうなってほしい”を押し付けてばっかりで」
「まあ、姉ちゃんらしいけど」
陸は照れくさそうに頭をかいた。
「分かってたよ。うるさいのも、面倒くさいのも、全部“好き”の裏返しなんだろうなって」
「最初からそう思ってくれればよかったのに」
「思ってたよ。思ってたけど、十七歳男子にそれを素直に受け止める余裕は、あんまりないんだよ」
「確かに」
二人で、ふふっと笑った。
その間に、クロがすっと二人の間に入り込んできた。ちょこんと座り、見上げる。夕焼けの光を受けて、黒い毛並みが少しだけ茶色く見える。
陸は、自然な動作でクロの頭を撫でた。
「こいつさ、実はけっこう前から、姉ちゃんと俺を繋いでくれてたんだよ」
「繋いでた?」
「うん」
陸は、クロの耳の後ろをかきながら続けた。
「この公園でさ、ひとりでクロと遊んでるとき、よく思ってた。“いつか姉ちゃんも一緒に連れてきたいな”って」
「そうだったの」
「でも、なかなか言い出せなかったんだよ。いつも忙しそうだったしさ。電話するときも、“今いい?”って聞いてからじゃないとダメだって、なんとなく思ってたし」
灯は、自分の胸に手を当てた。
その「なんとなく」は、自分が作ってしまった距離だ。
仕事だから、と。忙しいから、と。自分の都合を優先して、家族との時間を「あとで」に回し続けていた。その小さな積み重ねが、陸の中に「言い出しにくさ」として残ってしまっていた。
「ごめんね」
灯は、クロの背中越しに陸を見る。
「陸、ごめん」
言葉が溢れてきた。
「無理させて、ごめん。夢より安全を押し付けて、ごめん。ちゃんと話を聞いてあげられなくて、ごめん」
陸は、驚いたように目を瞬いた。でもすぐに、ふっと表情を和らげる。
「そんなに“ごめん”連発されたら、こっちの立つ瀬がないんだけど」
「でも、言いたかったんだよ。ずっと」
灯は、涙で視界がにじむのも構わず、続けた。
「こっち側に残された人はさ、“あのときこうしていれば”って、何度も何度も考えちゃうんだよ。考えたってしょうがないって分かってても。頭の中で、何百回も、別の選択肢をシミュレーションしちゃうの」
陸は黙って聞いていた。クロの背中に置いた手に、少し力が込められる。
「だから、ちゃんと謝りたかった。あのときの私を、やり直せないけど。あのときの陸に、“ごめん”って言いたかった」
一度大きく息を吸い込んでから、灯は最後の言葉を乗せた。
「……それからね」
陸が顔を上げる。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
灯は、泣き笑いの顔のまま言った。
「私の弟でいてくれて、ありがとう。陸がいてくれたから、私もいっぱい救われてた。気づくの遅くて、ごめん。でも、ちゃんと伝えたかった」
言い終わった瞬間、胸の奥に張り付いていた何かが、少しだけほどけていくのを感じた。
陸は、照れくさそうに笑った。
「それ、聞けただけで十分だわ」
「そんな簡単でいいの」
「簡単が一番だろ。難しくしてんの、だいたい大人だし」
「耳が痛い」
でも、その軽口さえ、今の灯には愛おしかった。
空を見上げると、さっきまで真っ赤だった夕焼けが、少しずつ紺色を混ぜ始めていた。公園の街灯がひとつ、またひとつと灯り始める。
遠くのほうで、夜行列車のアナウンスがかすかに聞こえた。
「まもなく、夜行列車は終点へと向かいます」
駅のホームとも違う、どこか別の場所から響いてくる声。
陸の輪郭が、少しずつ薄くなっていく。
さっきまでくっきりしていたジャージのラインが、周りの空気に溶け込むようにぼやけていく。顔の輪郭も、髪の毛も、夕暮れの光に溶けていく。
「陸」
灯は、思わず手を伸ばした。
指先が、陸の頬に触れそうになる。触れた感触があるような、ないような。不思議な感覚だった。
次の瞬間、指先はすっと空を切った。
手の中に残ったのは、クロの毛の柔らかさだけ。
陸は、苦笑いと優しさを混ぜたような表情で、灯を見ていた。
「姉ちゃん」
「なに」
「ちゃんと寝ろよ」
なんでもない一言みたいに、それを言う。
でも、灯にはその台詞が胸に刺さった。
三年間、まともに眠れなかった。夜になるたび、あの日のことを考えてしまって。布団に入っても、目を閉じるのが怖くて。朝が来るころになって、ようやく短い眠りに落ちる日々だった。
それを、陸は知っているように見えた。
「俺さ、わりとどこでも寝られるタイプだったじゃん」
「うん。電車でもすぐ寝てた」
「だからさ、姉ちゃんの分まで寝といてやるから。姉ちゃんは姉ちゃんで、ちゃんと自分のぶんの睡眠、取りなよ」
冗談みたいに言う。でも、その奥には本気の心配が見えた。
灯は、顔をくしゃくしゃにしながら笑った。
「分かった。頑張って寝る」
「頑張って寝るって、日本語としてどうなん」
「うるさい」
二人で笑ったとき、クロが足元で鈴を鳴らした。
チリン、と今まででいちばん澄んだ音が、公園に響く。
その音に誘われるように、世界がゆっくりと揺れ始めた。芝生の緑も、夕焼けの赤も、ベンチの木目も、少しずつ溶け合っていく。
陸の姿が、さらに薄くなる。
灯は、もう一度手を伸ばした。でも、もう届かないことは分かっていた。
だから、言葉だけは、ちゃんと届けようと思った。
「さよなら、じゃなくて」
涙でにじむ視界の中、灯は微笑んだ。
「またね」
陸も、笑った。
「またね」
そう言ったときの顔は、生前とまったく同じだった。ふざけているようで、どこか真面目で。姉を信頼している弟の顔。
次の瞬間、陸の姿は、夕暮れの光の中に完全に溶けて消えた。
風が一度だけ、公園を横切る。クロの鈴が鳴る。気づけば、灯は夜行列車の座席に座っていた。
膝の上には、クロが丸くなっている。
頬には、涙の跡が残っていた。けれど、その涙はさっきまでの「自分を責める涙」とは、少し違う温度をしていた。
胸の奥の痛みも、形を変えていた。
クロが、膝の上で小さく伸びをした。灯はその背中をそっと撫でる。
「……ありがとう」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からない。
陸かもしれない。
クロかもしれない。
夜行列車そのものにかもしれない。
でも、その言葉は、静かに車内に溶けていった。
夜行列車は、終点に向かって、もう一度ゆっくりと走り出した。
「まもなく、『あなたが最も戻りたかった場所』に到着します」
天井のスピーカーから、あの少しだけ眠たそうなアナウンスの声が流れた。
さっきまでと違って、その声にはほんの少しだけ、あたたかい響きが混じっているように聞こえる。車内の照明も、気のせいか色味が変わっていた。白っぽかった光が、オレンジに近い柔らかい色になっている。
膝の上で丸くなっていたクロが、ゆっくりと体を起こした。前足を伸ばして小さく伸びをすると、灯の膝からふわりと飛び降りる。
「どこ行くの」
思わず声をかけると、クロは一度だけ振り返った。琥珀色の目が、灯をまっすぐに見上げる。
ついてきて、と言われたような気がした。
クロは、通路をとことこと歩いていく。尻尾を立てて、少しだけ振りながら。灯は、胸の鼓動が急に早くなっているのを感じながら、その後ろ姿を追った。
車両の連結部を通り抜けると、別のドアの前に出る。ドアの上に掲げられた小さなプレートには、「公園前」とだけ書かれていた。
ドアが、静かに開く。
まぶしいオレンジ色の光が、こちら側に流れ込んできた。
踏み出した一歩目で、灯は息を飲んだ。
そこは、公園だった。
事故の日の、夕暮れ前の公園。
まだ事故は、起きていない時間帯。
西の空は、沈みかけの太陽で真っ赤に染まっている。茜色とオレンジ色が混じり合って、雲の縁だけが金色に光っている。公園の遊具は長い影を落とし、ベンチの背もたれが、地面に細い線を描いていた。
少し離れた広場で、ボールが跳ねる音がする。
「いくぞ、クロー!」
聞き慣れた声が飛び、黒い影が走った。
陸だ。
高校のジャージ姿の陸が、芝生の上でサッカーボールを足元に転がしている。その前を、子どものころのクロがぴょんぴょんと追いかけていた。まだ小さかったころのクロは、ボールの大きさにびっくりしながらも、果敢に前足でちょいちょいと触っている。
「おー、ナイスディフェンス。お前、意外とセンスあるな」
陸は笑いながら、クロの頭をすばやく撫でた。
少し離れたベンチには、スーツ姿の灯が座っている。仕事帰りらしく、ジャケットを膝に置き、ブラウスの袖を少しだけまくっていた。コンビニの袋の中から取り出したペットボトルを、両手で抱えるように持っている。
日没前の、なんでもない夕方。
それだけなのに、今の灯の目には、世界中でいちばん尊い時間に見えた。
「……こんな顔してたんだ、私」
ベンチに座る自分を見ながら、灯は小さく独り言を漏らす。
そこにいる灯は、今より少し若くて、今より少し余裕がある顔をしていた。仕事の愚痴をこぼしながらも、どこか楽しそうに笑っている。
「うちの部長がさ、なんでもかんでも“若い子の意見を聞きたい”って言うわりに、結局自分の言うことしか聞かないんだよね」
過去の灯が、ベンチから声を張る。
「あるある。顧問も似たようなこと言うよ。“お前らの自主性が大事だ”って言いながら、結局全部決めるし」
陸が、ボールを止めて笑いながら返す。
「ね。なんでああいう人たちって、口だけ“任せる”って言うんだろ」
「責任持ちたくないからじゃね」
「それ言っちゃう」
二人の会話は、聞き流せばどうでもいい愚痴だ。でも、そのやりとりの一つ一つに、兄弟特有の距離感がにじんでいる。
現在の灯は、その距離を少し離れたところから眺めていた。近づけば近づくほど、指先が震える。
クロは、灯の足元と陸の足元の間を、行ったり来たりしていた。まるでふたつの時間を行き来する橋みたいに。
ふいに、陸が顔を上げた。
西日の中で、彼の目がこちらを向く。
過去の灯がいるベンチとは、少し違う方向だ。
ちらりとこちらを見た、という程度の偶然にしては、視線があまりにも真っ直ぐだった。
灯の心臓が、大きく跳ねる。
目が合った気がする。
ありえないと思いながらも、灯は一歩踏み出していた。砂を踏む足音も、風に混ざってしまう。
「……姉ちゃん?」
陸の唇が、確かにそう動いた。
過去のベンチの灯は、気づかない。ボトルのキャップを開けることに集中している。けれど、こちら側の灯には、その呼びかけがはっきり届いていた。
クロが、足元で鈴を鳴らした。
チリン、と小さな音がした瞬間、空気が変わった。
公園の周りの音が、すっと遠のく。子どもたちの声も、自転車のブレーキ音も、どこか遠くで鳴っているだけのように感じられた。夕焼けの色が少しだけ濃くなり、空と地面の境界線があいまいになる。
時間と時間の間に、隙間ができたみたいだった。
「陸……?」
灯は、喉の奥から絞り出すように名前を呼んだ。
声は震えていたが、ちゃんと出た。そのことに、自分がいちばん驚いた。
陸は、目を見開いて笑った。
「やっぱり。なんか、三年後くらいの姉ちゃんに会ってる感じがする」
冗談みたいな言い方だったけれど、その目は本気でそう思っているみたいだった。
「なにそれ」
灯は、笑うのか泣くのか分からない声で返した。
過去のベンチの灯は、相変わらずそこに座っている。でも、その輪郭は少しずつ薄くなっていた。代わりに、今ここに立っている灯と陸の存在感が、はっきりしていく。
空気が、ふたりの周りだけ、別の温度になったような気がした。
「変な夢見てるみたいだな」
陸は頭をかきながら言った。
「さっきまで、普通に公園でクロと遊んでたのに。急に、なんかよく分かんない世界に迷い込んだ感じ」
「こっちのセリフだよ」
灯は、どうにか言葉をつなげた。
「私も、夜行列車に乗ったら、まさかここに着くとは思わなかったし」
「夜行列車?」
「うん。……まあ、その話はあとでいいか」
何から話せばいいか分からない。事故のことを全部言うべきなのか。言わないままでいてあげるのか。
迷っている間に、陸が先に口を開いた。
「昨日は、ごめん」
さっきまでの軽さとは違う、少し真面目な声だった。
「昨日?」
「受験の話。サッカーの推薦の話。なんかさ、姉ちゃんに“ちゃんとしろ”って言われると、自分がダメなやつだって証明されてる気がしてさ。ムカついた」
灯の胸が、きゅっとなる。
さっき第二章で見た光景が、頭の中で重なった。テーブル越しに、正論ばかり並べてしまった自分。箸の先でご飯をいじっていた陸。
「ムカついたのは、私の言い方が悪かったからだよ」
灯は、素直にそう言った。
「陸にちゃんと考えてほしいって思うほど、あれこれ言い過ぎた。心配しすぎて、夢の話をちゃんと聞いてあげられなかった」
「うん。……でもさ」
陸は、芝生をつま先で軽く蹴った。
「後で思ったんだ。ああいう“うるさい”ってさ、愛されてるからこその“うるさい”なんだよなって」
「愛されてる、ねえ」
「だってさ。どうでもいいやつには、そんなに真剣に説教しないでしょ」
にやっと笑いながら言う。言葉の選び方は軽いのに、その奥には確かな実感があった。
「姉ちゃん、俺のこと、ちゃんと心配してくれてたんだよな」
灯の目から、自然に涙がこぼれた。
今まで、自分が陸を苦しめたとばかり思っていた。夢を押しつぶしたと責め続けていた。でも陸の中には、「心配してくれていた姉」の像も、ちゃんと残っていたのだ。
「心配しかしてなかったよ」
灯は、涙声で笑った。
「心配しすぎて、空回りしてたよ。陸の“やりたいこと”をちゃんと聞かないで、自分の“こうなってほしい”を押し付けてばっかりで」
「まあ、姉ちゃんらしいけど」
陸は照れくさそうに頭をかいた。
「分かってたよ。うるさいのも、面倒くさいのも、全部“好き”の裏返しなんだろうなって」
「最初からそう思ってくれればよかったのに」
「思ってたよ。思ってたけど、十七歳男子にそれを素直に受け止める余裕は、あんまりないんだよ」
「確かに」
二人で、ふふっと笑った。
その間に、クロがすっと二人の間に入り込んできた。ちょこんと座り、見上げる。夕焼けの光を受けて、黒い毛並みが少しだけ茶色く見える。
陸は、自然な動作でクロの頭を撫でた。
「こいつさ、実はけっこう前から、姉ちゃんと俺を繋いでくれてたんだよ」
「繋いでた?」
「うん」
陸は、クロの耳の後ろをかきながら続けた。
「この公園でさ、ひとりでクロと遊んでるとき、よく思ってた。“いつか姉ちゃんも一緒に連れてきたいな”って」
「そうだったの」
「でも、なかなか言い出せなかったんだよ。いつも忙しそうだったしさ。電話するときも、“今いい?”って聞いてからじゃないとダメだって、なんとなく思ってたし」
灯は、自分の胸に手を当てた。
その「なんとなく」は、自分が作ってしまった距離だ。
仕事だから、と。忙しいから、と。自分の都合を優先して、家族との時間を「あとで」に回し続けていた。その小さな積み重ねが、陸の中に「言い出しにくさ」として残ってしまっていた。
「ごめんね」
灯は、クロの背中越しに陸を見る。
「陸、ごめん」
言葉が溢れてきた。
「無理させて、ごめん。夢より安全を押し付けて、ごめん。ちゃんと話を聞いてあげられなくて、ごめん」
陸は、驚いたように目を瞬いた。でもすぐに、ふっと表情を和らげる。
「そんなに“ごめん”連発されたら、こっちの立つ瀬がないんだけど」
「でも、言いたかったんだよ。ずっと」
灯は、涙で視界がにじむのも構わず、続けた。
「こっち側に残された人はさ、“あのときこうしていれば”って、何度も何度も考えちゃうんだよ。考えたってしょうがないって分かってても。頭の中で、何百回も、別の選択肢をシミュレーションしちゃうの」
陸は黙って聞いていた。クロの背中に置いた手に、少し力が込められる。
「だから、ちゃんと謝りたかった。あのときの私を、やり直せないけど。あのときの陸に、“ごめん”って言いたかった」
一度大きく息を吸い込んでから、灯は最後の言葉を乗せた。
「……それからね」
陸が顔を上げる。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
灯は、泣き笑いの顔のまま言った。
「私の弟でいてくれて、ありがとう。陸がいてくれたから、私もいっぱい救われてた。気づくの遅くて、ごめん。でも、ちゃんと伝えたかった」
言い終わった瞬間、胸の奥に張り付いていた何かが、少しだけほどけていくのを感じた。
陸は、照れくさそうに笑った。
「それ、聞けただけで十分だわ」
「そんな簡単でいいの」
「簡単が一番だろ。難しくしてんの、だいたい大人だし」
「耳が痛い」
でも、その軽口さえ、今の灯には愛おしかった。
空を見上げると、さっきまで真っ赤だった夕焼けが、少しずつ紺色を混ぜ始めていた。公園の街灯がひとつ、またひとつと灯り始める。
遠くのほうで、夜行列車のアナウンスがかすかに聞こえた。
「まもなく、夜行列車は終点へと向かいます」
駅のホームとも違う、どこか別の場所から響いてくる声。
陸の輪郭が、少しずつ薄くなっていく。
さっきまでくっきりしていたジャージのラインが、周りの空気に溶け込むようにぼやけていく。顔の輪郭も、髪の毛も、夕暮れの光に溶けていく。
「陸」
灯は、思わず手を伸ばした。
指先が、陸の頬に触れそうになる。触れた感触があるような、ないような。不思議な感覚だった。
次の瞬間、指先はすっと空を切った。
手の中に残ったのは、クロの毛の柔らかさだけ。
陸は、苦笑いと優しさを混ぜたような表情で、灯を見ていた。
「姉ちゃん」
「なに」
「ちゃんと寝ろよ」
なんでもない一言みたいに、それを言う。
でも、灯にはその台詞が胸に刺さった。
三年間、まともに眠れなかった。夜になるたび、あの日のことを考えてしまって。布団に入っても、目を閉じるのが怖くて。朝が来るころになって、ようやく短い眠りに落ちる日々だった。
それを、陸は知っているように見えた。
「俺さ、わりとどこでも寝られるタイプだったじゃん」
「うん。電車でもすぐ寝てた」
「だからさ、姉ちゃんの分まで寝といてやるから。姉ちゃんは姉ちゃんで、ちゃんと自分のぶんの睡眠、取りなよ」
冗談みたいに言う。でも、その奥には本気の心配が見えた。
灯は、顔をくしゃくしゃにしながら笑った。
「分かった。頑張って寝る」
「頑張って寝るって、日本語としてどうなん」
「うるさい」
二人で笑ったとき、クロが足元で鈴を鳴らした。
チリン、と今まででいちばん澄んだ音が、公園に響く。
その音に誘われるように、世界がゆっくりと揺れ始めた。芝生の緑も、夕焼けの赤も、ベンチの木目も、少しずつ溶け合っていく。
陸の姿が、さらに薄くなる。
灯は、もう一度手を伸ばした。でも、もう届かないことは分かっていた。
だから、言葉だけは、ちゃんと届けようと思った。
「さよなら、じゃなくて」
涙でにじむ視界の中、灯は微笑んだ。
「またね」
陸も、笑った。
「またね」
そう言ったときの顔は、生前とまったく同じだった。ふざけているようで、どこか真面目で。姉を信頼している弟の顔。
次の瞬間、陸の姿は、夕暮れの光の中に完全に溶けて消えた。
風が一度だけ、公園を横切る。クロの鈴が鳴る。気づけば、灯は夜行列車の座席に座っていた。
膝の上には、クロが丸くなっている。
頬には、涙の跡が残っていた。けれど、その涙はさっきまでの「自分を責める涙」とは、少し違う温度をしていた。
胸の奥の痛みも、形を変えていた。
クロが、膝の上で小さく伸びをした。灯はその背中をそっと撫でる。
「……ありがとう」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からない。
陸かもしれない。
クロかもしれない。
夜行列車そのものにかもしれない。
でも、その言葉は、静かに車内に溶けていった。
夜行列車は、終点に向かって、もう一度ゆっくりと走り出した。



