クロと乗る、もう一度だけの帰り道

 夜行列車の揺れが、少しずつ規則正しいリズムになってきたころだった。

「まもなく、二〇××年四月十日、夕方の駅ホームに到着します」

 柔らかいアナウンスの声が、車内に流れた。

 言われた日付に、灯ははっと顔を上げる。胸の奥がざわついた。覚えている。今でもカレンダーを見るたび、心のどこかが痛む日付だ。

「なんで、その日……」

 思わずこぼれた声は、揺れに紛れて誰にも届かない。膝の上で丸くなっていた黒猫が、ゆっくりと体を起こした。クロは、尻尾を一度だけふわりと振ると、足元へ飛び降りる。

 ガタン、と車輪の音が変わる。電車が減速していく気配。次の瞬間、ドアのランプが点滅し、静かに開いた。

 目の前に広がったのは、見慣れた駅のホームだった。

 数年前と同じ、夕方の色。西日が差し込んで、ホームの端っこが金色に縁取られている。制服姿の学生たちが、部活バッグを肩にかけて笑いながら通り過ぎていく。スーツ姿の人たちが、疲れたような顔で階段を上っていく。

 けれど、その誰ひとりとして、灯のことを見ていない。

 すぐ目の前を、小さな男の子が走り抜けていっても、ぶつかる感触はない。灯の体を、風だけが通り抜けていく。

「……ほんとに、記憶なんだ」

 自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。

 足元では、クロだけが自由だった。ホームに飛び出すと、鼻先をひくひくさせてあちこちの匂いを確かめる。その姿は、今ここで生きている小さな生き物そのものだ。

 クロは一度だけ灯を振り返ると、改札のほうへと走り出した。

「待って、クロ」

 灯も慌ててあとを追う。

 夕方特有のざわざわした空気。学生たちの笑い声。改札機を通り抜ける「ピッ」という音。すべてが、ひどく懐かしい。

 その中で。

「うわ、やべ、走れ走れ!」

 聞き慣れた声が、雑踏の向こうから飛び込んできた。

 改札口の向こうで、高校生の男の子が二人、笑いながら駆け下りてくる。そのうちのひとりが、サッカー部のジャージの上から通学バッグを斜めがけにしていて、額にはうっすら汗が光っていた。

 陸だ。

 灯は、思わず足を止めた。

 数年前の陸は、記憶の中のままだった。制服の袖を少し雑にまくって、前髪を手ぐしでかき上げながら、隣の友人と肩をぶつけ合って笑っている。

「お疲れー。今日マジできつかったわ、監督」

「お前ずっときつい言ってんな」

 そんな他愛もない会話。すれ違う人の波の中に溶けてしまいそうな、その声を、灯の耳は一言も聞き漏らしたくなかった。

 改札を抜けてきた陸たちの少し離れた場所に、ひとりの女性が立っていた。

 スーツの上着を脱いで腕にかけ、片手にはコンビニの袋。もう片方の手でスマホをいじっている。髪を後ろでひとつに結んだその横顔は、今の灯より少しだけ若くて、少しだけ余裕があるように見えた。

 過去の自分だ。

「おーい、姉ちゃん!」

 陸が手を大きく振る。過去の灯は、スマホから顔を上げて「あ、やっと来た」とため息をついた。

「だってさ、監督が最後にさあ」

「言い訳禁止。遅い。ほら」

 過去の灯は、コンビニ袋から取り出したものを突き出した。

「唐揚げ棒、好きでしょ。冷める前に」

「うわ、マジ? 女神?」

「誰が。今日だけだからね」

 自分で言って、自分で照れ臭そうに笑っている。その顔が、今の灯には、とても遠い。

 現在の灯は、少し離れたところからそのやり取りを見つめていた。触れることも、声をかけることもできない。ただの観客のように。

 柔らかな風が吹き抜けて、唐揚げの匂いとソースの甘い香り、陸の汗とシャンプーの混じった匂いが、ふっと鼻先をかすめた気がした。ありえないはずなのに、感覚は妙にリアルだった。

「……あったな、こんな日」

 灯は小さくつぶやく。

 忙しいくせに、なぜかこの日は仕事を早く切り上げて「たまには駅まで迎えに行ってやるか」と思った。自分でも理由はよく分からなかった。ただ、なんとなく。

 それを思い出した瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。

 足元を見下ろすと、クロが唐揚げの袋のそばをくんくん嗅いでいた。陸の足元にすり寄ると、ぴたりと座り込む。

「あれ、お前どっから来た」

 過去の陸が、驚いたように目を丸くした。唐揚げ棒をくわえたまましゃがみ込み、黒猫に手を伸ばそうとして――ふと動きを止める。

「あ、そうだ。姉ちゃん猫アレルギーだっけ」

「そうそう。だから触ったらちゃんと手洗ってね」

 過去の灯が、唐揚げの袋を大事そうに抱えたまま口をはさんだ。

 現在の灯は、その会話を聞きながら目を細める。

 そういえば、そんなこと、言ってた。

 大学時代に一度だけ猫カフェに行って、くしゃみが止まらなくなったこと。目が真っ赤になって大変だったこと。それを家で話したら、陸が「じゃあ俺が猫飼うときは、姉ちゃん用のマスクも用意しないとな」と笑っていたこと。

 忘れていた断片が、ぽろぽろと戻ってくる。

 クロは、陸の指先に鼻先をこすりつけると、満足そうに尻尾を振った。その様子を見て、陸は「かわい」とこぼした。

「連れて帰りたいなあ。……ってか、マジで連れて帰りたいなあ」

 ひとりごとのように言ったその言葉が、灯の胸に残った。

 視界がふっと揺れる。ホームに再びアナウンスが流れた。

「まもなく、夜行列車が発車いたします」

 その声に重なるように、別のアナウンスが、灯の耳元だけに囁く。

「次は、雨の日の公園前に停まります」

 気づけば、さっきまでいたホームの景色が、少しずつ色を変えていた。夕焼けのオレンジが、重たい灰色の雲に塗り替えられていく。人の数が減り、冷たい雨の匂いが空気に混じる。

 灯は、無意識にクロを探した。黒猫は、いつのまにかドアの近くに移動している。しっぽを立てて、ぴょん、と開きかけたドアから外へ飛び出した。

 そこは、公園のそばの道だった。

 アスファルトは雨で濡れ、街灯の光がそこにぼんやりと反射している。風に煽られて、木の葉がざわめいた。雨粒がダンボール箱のふちを打つ音が、規則正しく続いている。

 ベンチの足元に、濡れたダンボールがひとつ置かれていた。

 その中で、小さな黒い塊が震えている。

 灯は思わず息を呑んだ。

 子猫だった。まだ手のひらに乗るくらいの大きさで、細い体を丸めて、雨を避けるように箱の隅っこに寄っている。ずぶ濡れになった毛が肌に貼りついて、体の細さが余計に目立った。

「……クロ」

 名前を呼ぶと、子猫は顔を上げた。琥珀色の目は、この世界よりもずっと遠いどこかを見ているような色だった。

 そこへ、制服の上に部活のウインドブレーカーを羽織った少年が駆けてきた。

「お前、なにやってんだよ、こんなとこで」

 陸だった。

 陸はしゃがみ込み、ためらいもなくダンボールの中に手を入れた。冷たい水に濡れた子猫をそっと抱き上げ、自分のジャージの上着を脱いで包み込む。

「わ、冷た。やば。……大丈夫か、お前」

 子猫の体を胸に寄せると、陸はそのまま近くのベンチに腰を下ろした。胸元で震える小さな命に、よしよしとあやすように声をかける。

 灯は、少し離れたところからその姿を見つめていた。手を伸ばしても、陸の肩を叩くことはできない。けれど、心だけは何度も何度も呼びかけている。

 そのとき、陸がポケットからスマホを取り出した。

「……灯に、聞いてみるか」

 画面に表示された連絡先には、「姉ちゃん」の名前がある。陸はそこに指を滑らせて通話ボタンを押した。

 数コールのあと、スピーカーから灯の声が聞こえてきた。

『なに、陸。今会議終わったとこなんだけど』

 少し疲れた、でも聞き慣れた声。

「悪い。ちょっとさ、聞きたいことがあって」

 陸は、子猫の頭を撫でながら話し始めた。

「今さ、公園の前でさ、ダンボールに入ってる黒い子猫見つけてさ。めっちゃ震えてるから、とりあえず抱えてんだけど」

『……拾ったの』

「拾ったっていうか、拾いそうっていうか」

 冗談っぽく言って笑う。その笑いの裏に、本気で心配している気配がにじむ。

 電話越しの過去の灯は、ため息をついた。

『やめときなよ。ちゃんと世話できないでしょ。部活もあるし、受験もあるし』

「やっぱそう言うよな」

『写真だけ送って。里親探そう』

 仕事帰りの電車の中。ビルとビルの間の空。そんな風景を思い出しながら、灯は自分の声を聞いていた。忙しいときほど、言葉は尖る。余裕がないと、優しい返事が出てこない。

 陸は、唇を尖らせた。

「いいよ、俺が全部やるから」

 そう言って、子猫をぎゅっと抱きしめる。その腕の強さが、そのまま陸の決意みたいだった。

 現在の灯は、胸に手を当てた。

 あのとき、「可愛いね」の一言くらい、言えたはずなのに。

 子猫は、陸の胸の中でもう一度か細く鳴いた。クロがそのそばに近づいて、じっと見下ろす。今のクロと、過去の子猫が、同じ場所で重なるように配置されている光景は、現実味が薄いのに、奇妙な説得力があった。

 陸は、スマホのカメラを立ち上げて子猫の写真を撮った。

「名前、なんにしよっかな」

『まだ飼う前提なんだ』

「いや、だってさ。ここで置いてったら、絶対風邪ひくし。……真っ黒だからさ、クロとか」

『そのまま』

「いいじゃん、単純で。分かりやすいし」

 笑いながら言ったその言葉が、この先の時間を決めていく。

 灯の耳元で、鈴の音が鳴った。

 ハッとして見下ろすと、今そばにいる成猫のクロの首にさがった銀色の鈴が、わずかに揺れている。そのデザインに、灯の心がざわめいた。

 丸い形。少しだけ擦り傷がついた表面。小さく彫られた星の模様。

 あの日、雑貨屋の前で陸が「これ安いし可愛くね」と言っていた鈴と、まったく同じだ。

「……同じ」

 確信にはまだ届かない。けれど、心のどこかで、一本線がつながる音がした。

 雨音が遠ざかっていく。公園の景色が少しずつ薄れ、代わりに別の音が近づいた。

「次は、事故の前日の夜に停まります」

 アナウンスの声に、灯は条件反射のように顔をしかめた。

「やめて」

 思わず漏れた声。それは列車に向けてというより、自分自身に向けての拒否だった。

 でも、夜行列車は止まるのをやめてくれなかった。

 気づけば、目の前には見慣れた自宅マンションのダイニングが広がっていた。

 狭いテーブルの上には、コンビニの弁当がいくつか並んでいる。電子レンジで温めたために、容器の蓋が少し曇っていた。

 テレビでは、お笑い番組が流れている。けれど、誰もちゃんとは見ていない。

 テーブルの片側に、スーツ姿の灯。向かい側に、ジャージ姿の陸。

「でさ、顧問がさ、推薦の話もあるって言ってて」

 陸が、プラスチックの箸をいじりながら言った。

「サッカーで入れる大学で、ここ行けたらいいなって。レベル高いけど、チャレンジしたいっていうか」

 過去の灯は、疲れた顔で弁当の蓋を開ける。肉じゃがコロッケ弁当。味の濃い匂いが湯気と一緒に立ち上った。

「でもさ、現実的にはどうなの」

 その一言が、場の空気を少し変えた。

「現実的?」

「勉強との両立とか、怪我のリスクとか。推薦ってことは、途中でやめにくいでしょ。もし途中でサッカーできなくなったとき、そこの大学でやりたいことある?」

 言っていること自体は間違っていない。むしろ、正論だ。

 でも、そこには「頑張ってみれば?」の前置きがなかった。

 陸は、箸の先で弁当のご飯をつついた。

「うーん。まだそこまでは考えてないけど」

「だったら、まずは普通に受験勉強してさ。選択肢を増やしたほうが良くない?」

 過去の灯は、仕事モードの口調のまま畳みかけてしまう。

「この先長いんだし、最初から狭い道選ぶことないと思うよ。サッカーは別に、趣味でも続けられるんだし」

 間違ってはいない。けれど、そこに陸の「やりたい」が入り込む隙間はほとんどなかった。

 現在の灯は、その光景を見ながら唇を噛んだ。

 あのとき、自分がいかに「失敗してほしくない」気持ちでいっぱいだったか。陸の将来が心配で、怖くて。だからこそ、より安全そうに見える道へ誘導しようとしたこと。

 その全部が、今の自分には分かっている。

 でも、あのときの陸の胸の中には、もしかしたら別の景色が見えていたのかもしれない。

「姉ちゃんはさ」

 陸が、ふいに顔を上げた。

「俺が失敗したら困るもんな」

 軽い冗談みたいに言って笑ってみせる。その笑いには、ほんの少しだけ、自分を一段下に置く癖みたいなものが混じっていた。

 過去の灯は、「そんなことないって」と即座に返した。

「失敗されたら困るから言ってるんじゃなくて、陸が後悔しないほうがいいと思って」

「後悔……かあ」

 陸は、箸を置いて天井を見上げる。

「なんかさ、どっちにしても後悔しそうなんだよね」

「どういうこと」

「サッカー諦めたら諦めたで、“あのとき挑戦しておけば”って思いそうだし。挑戦してボコボコにされたらされたで、“なんでこんな無謀なことしたんだ”って思いそうだし」

 苦笑混じりの声。自分の弱さも分かっていて、それでも前に出たい気持ちもあって、その間でゆらゆらしている。

 その揺れを、灯は受け止めきれなかった。

「……まずは、落ち着いて考えようよ。推薦の話も、急に決めることじゃないでしょ」

 そう言って、会話を終わらせてしまった。

 テレビのお笑い芸人の笑い声が、やけに空しく響く。

 テーブルの下では、クロがじっと二人を見上げていた。猫の目は、二人の表情の変化をすべて映しているみたいだった。

 会話はそれきり、別の話題に流れていく。陸は学校の友達の話に切り替えて笑ってみせる。灯も、それに合わせて笑う。でも、その笑いはさっき唐揚げを渡したときの笑顔とは、どこか違っていた。

 現在の灯は、胸がぎゅっと縮こまるのを感じた。

「あのとき、“頑張ってみれば?”って言ってあげられたら」

 小さな声でつぶやく。

 近くにいるクロが、尻尾でそっと灯の足首を叩いた。まるで「今さら言っても仕方ないよ」と、慰めるように。

 場面が、また揺らいだ。

 次に目の前に現れたのは、玄関だった。

 スニーカーの紐を結んでいる陸の背中。壁に掛けられたカレンダーには、事故の日付が赤い丸で囲まれている。学校の行事の印だ。

「昨日のこと、もう怒ってないから」

 陸が靴紐をきゅっと締めながら、軽い調子で言った。

 過去の灯はリビングから出てきて、スーツのジャケットを片手に持っていた。もう片方の手には、ビジネスバッグ。

「怒ってないよ。別に」

 忙しさが顔にそのまま出ている。眉間に薄くしわが寄っていた。

 陸は、靴を履き終わって立ち上がる。

「じゃ、行ってきます」

「うん。……ちゃんと信号見て渡りなよ。スマホ見ながらとか、絶対しないこと。……子どもじゃないんだから」

 半分冗談のつもりだった。心配しているからこそ、つい口から出た台詞だった。

 陸は、いつものように笑った。

「もう子ども扱い、やめろって」

 その笑い声と一緒に、玄関のドアが開き、外の光が差し込む。春の風が、廊下を通り抜けていった。

 その背中を、小さな黒猫が追いかける。足元をまとわりつきながら、一緒にドアの向こうへ消えていった。

 パタン、とドアが閉まる音。

 それが、最後の音だった。

 現在の灯は、その場面を見ながら、足元から凍っていくみたいな感覚に襲われた。

「これが……最後の会話」

 膝が笑った。支えが抜けたみたいに力が入らなくなって、灯は思わず近くの壁に手をついた。

 あのとき、違う言葉を選べていれば。

 「いってらっしゃい、気をつけてね」の一言を、真正面から言えていれば。

 何かが変わったのだろうか。変わらなかったのだろうか。

 答えは分からない。分からないけれど、心は「全部自分のせいだ」と言い続けている。それが三年間、夜になるたび繰り返されてきたことだ。

 世界がゆっくりと暗くなっていく。玄関の光も、陸の背中も、黒猫の影も、すべて夜の中に溶けていく。

 気づけば、灯はまた夜行列車の中にいた。

 座席に崩れ落ちるように腰を下ろすと、膝の上に、いつのまにかクロが乗っていた。小さな体重が、そこに確かにある。

 クロは、何も言わない。ただ、喉を鳴らしている。ゴロゴロという音が、胸の奥に直接響く。

「ごめんね」

 灯は、ぽつりとこぼした。

「ごめんね、ごめんね」

 誰に向けてなのか、自分でも分からない言葉。陸にかもしれないし、自分自身にかもしれない。雨の日の子猫にかもしれないし、テーブルの下から見上げていたクロにかもしれない。

 膝の上の毛並みに指を沈める。柔らかさと温かさが、指先に伝わる。

 目から、大粒の涙が一滴こぼれた。

 泣きじゃくるほどではない。でも、止めようと思っても止まらない種類の涙だった。

「私があの日、違う言い方をしていたら」

 灯は、誰もいない車内に向かってつぶやいた。

「陸は違う道を歩んでたかもしれないのに」

 自己責任の呪文みたいな言葉が、口から零れる。そのたびに、胸の中の重さが増していく。

 クロは、その重さを少しでも引き受けるみたいに、灯の膝の上で丸くなった。鈴が、小さく鳴った。

 夜行列車は、まだ走り続けている。

 灯の涙も、まだ途中だった。