夜行列車の揺れが、少しずつ規則正しいリズムになってきたころだった。
「まもなく、二〇××年四月十日、夕方の駅ホームに到着します」
柔らかいアナウンスの声が、車内に流れた。
言われた日付に、灯ははっと顔を上げる。胸の奥がざわついた。覚えている。今でもカレンダーを見るたび、心のどこかが痛む日付だ。
「なんで、その日……」
思わずこぼれた声は、揺れに紛れて誰にも届かない。膝の上で丸くなっていた黒猫が、ゆっくりと体を起こした。クロは、尻尾を一度だけふわりと振ると、足元へ飛び降りる。
ガタン、と車輪の音が変わる。電車が減速していく気配。次の瞬間、ドアのランプが点滅し、静かに開いた。
目の前に広がったのは、見慣れた駅のホームだった。
数年前と同じ、夕方の色。西日が差し込んで、ホームの端っこが金色に縁取られている。制服姿の学生たちが、部活バッグを肩にかけて笑いながら通り過ぎていく。スーツ姿の人たちが、疲れたような顔で階段を上っていく。
けれど、その誰ひとりとして、灯のことを見ていない。
すぐ目の前を、小さな男の子が走り抜けていっても、ぶつかる感触はない。灯の体を、風だけが通り抜けていく。
「……ほんとに、記憶なんだ」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。
足元では、クロだけが自由だった。ホームに飛び出すと、鼻先をひくひくさせてあちこちの匂いを確かめる。その姿は、今ここで生きている小さな生き物そのものだ。
クロは一度だけ灯を振り返ると、改札のほうへと走り出した。
「待って、クロ」
灯も慌ててあとを追う。
夕方特有のざわざわした空気。学生たちの笑い声。改札機を通り抜ける「ピッ」という音。すべてが、ひどく懐かしい。
その中で。
「うわ、やべ、走れ走れ!」
聞き慣れた声が、雑踏の向こうから飛び込んできた。
改札口の向こうで、高校生の男の子が二人、笑いながら駆け下りてくる。そのうちのひとりが、サッカー部のジャージの上から通学バッグを斜めがけにしていて、額にはうっすら汗が光っていた。
陸だ。
灯は、思わず足を止めた。
数年前の陸は、記憶の中のままだった。制服の袖を少し雑にまくって、前髪を手ぐしでかき上げながら、隣の友人と肩をぶつけ合って笑っている。
「お疲れー。今日マジできつかったわ、監督」
「お前ずっときつい言ってんな」
そんな他愛もない会話。すれ違う人の波の中に溶けてしまいそうな、その声を、灯の耳は一言も聞き漏らしたくなかった。
改札を抜けてきた陸たちの少し離れた場所に、ひとりの女性が立っていた。
スーツの上着を脱いで腕にかけ、片手にはコンビニの袋。もう片方の手でスマホをいじっている。髪を後ろでひとつに結んだその横顔は、今の灯より少しだけ若くて、少しだけ余裕があるように見えた。
過去の自分だ。
「おーい、姉ちゃん!」
陸が手を大きく振る。過去の灯は、スマホから顔を上げて「あ、やっと来た」とため息をついた。
「だってさ、監督が最後にさあ」
「言い訳禁止。遅い。ほら」
過去の灯は、コンビニ袋から取り出したものを突き出した。
「唐揚げ棒、好きでしょ。冷める前に」
「うわ、マジ? 女神?」
「誰が。今日だけだからね」
自分で言って、自分で照れ臭そうに笑っている。その顔が、今の灯には、とても遠い。
現在の灯は、少し離れたところからそのやり取りを見つめていた。触れることも、声をかけることもできない。ただの観客のように。
柔らかな風が吹き抜けて、唐揚げの匂いとソースの甘い香り、陸の汗とシャンプーの混じった匂いが、ふっと鼻先をかすめた気がした。ありえないはずなのに、感覚は妙にリアルだった。
「……あったな、こんな日」
灯は小さくつぶやく。
忙しいくせに、なぜかこの日は仕事を早く切り上げて「たまには駅まで迎えに行ってやるか」と思った。自分でも理由はよく分からなかった。ただ、なんとなく。
それを思い出した瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
足元を見下ろすと、クロが唐揚げの袋のそばをくんくん嗅いでいた。陸の足元にすり寄ると、ぴたりと座り込む。
「あれ、お前どっから来た」
過去の陸が、驚いたように目を丸くした。唐揚げ棒をくわえたまましゃがみ込み、黒猫に手を伸ばそうとして――ふと動きを止める。
「あ、そうだ。姉ちゃん猫アレルギーだっけ」
「そうそう。だから触ったらちゃんと手洗ってね」
過去の灯が、唐揚げの袋を大事そうに抱えたまま口をはさんだ。
現在の灯は、その会話を聞きながら目を細める。
そういえば、そんなこと、言ってた。
大学時代に一度だけ猫カフェに行って、くしゃみが止まらなくなったこと。目が真っ赤になって大変だったこと。それを家で話したら、陸が「じゃあ俺が猫飼うときは、姉ちゃん用のマスクも用意しないとな」と笑っていたこと。
忘れていた断片が、ぽろぽろと戻ってくる。
クロは、陸の指先に鼻先をこすりつけると、満足そうに尻尾を振った。その様子を見て、陸は「かわい」とこぼした。
「連れて帰りたいなあ。……ってか、マジで連れて帰りたいなあ」
ひとりごとのように言ったその言葉が、灯の胸に残った。
視界がふっと揺れる。ホームに再びアナウンスが流れた。
「まもなく、夜行列車が発車いたします」
その声に重なるように、別のアナウンスが、灯の耳元だけに囁く。
「次は、雨の日の公園前に停まります」
気づけば、さっきまでいたホームの景色が、少しずつ色を変えていた。夕焼けのオレンジが、重たい灰色の雲に塗り替えられていく。人の数が減り、冷たい雨の匂いが空気に混じる。
灯は、無意識にクロを探した。黒猫は、いつのまにかドアの近くに移動している。しっぽを立てて、ぴょん、と開きかけたドアから外へ飛び出した。
そこは、公園のそばの道だった。
アスファルトは雨で濡れ、街灯の光がそこにぼんやりと反射している。風に煽られて、木の葉がざわめいた。雨粒がダンボール箱のふちを打つ音が、規則正しく続いている。
ベンチの足元に、濡れたダンボールがひとつ置かれていた。
その中で、小さな黒い塊が震えている。
灯は思わず息を呑んだ。
子猫だった。まだ手のひらに乗るくらいの大きさで、細い体を丸めて、雨を避けるように箱の隅っこに寄っている。ずぶ濡れになった毛が肌に貼りついて、体の細さが余計に目立った。
「……クロ」
名前を呼ぶと、子猫は顔を上げた。琥珀色の目は、この世界よりもずっと遠いどこかを見ているような色だった。
そこへ、制服の上に部活のウインドブレーカーを羽織った少年が駆けてきた。
「お前、なにやってんだよ、こんなとこで」
陸だった。
陸はしゃがみ込み、ためらいもなくダンボールの中に手を入れた。冷たい水に濡れた子猫をそっと抱き上げ、自分のジャージの上着を脱いで包み込む。
「わ、冷た。やば。……大丈夫か、お前」
子猫の体を胸に寄せると、陸はそのまま近くのベンチに腰を下ろした。胸元で震える小さな命に、よしよしとあやすように声をかける。
灯は、少し離れたところからその姿を見つめていた。手を伸ばしても、陸の肩を叩くことはできない。けれど、心だけは何度も何度も呼びかけている。
そのとき、陸がポケットからスマホを取り出した。
「……灯に、聞いてみるか」
画面に表示された連絡先には、「姉ちゃん」の名前がある。陸はそこに指を滑らせて通話ボタンを押した。
数コールのあと、スピーカーから灯の声が聞こえてきた。
『なに、陸。今会議終わったとこなんだけど』
少し疲れた、でも聞き慣れた声。
「悪い。ちょっとさ、聞きたいことがあって」
陸は、子猫の頭を撫でながら話し始めた。
「今さ、公園の前でさ、ダンボールに入ってる黒い子猫見つけてさ。めっちゃ震えてるから、とりあえず抱えてんだけど」
『……拾ったの』
「拾ったっていうか、拾いそうっていうか」
冗談っぽく言って笑う。その笑いの裏に、本気で心配している気配がにじむ。
電話越しの過去の灯は、ため息をついた。
『やめときなよ。ちゃんと世話できないでしょ。部活もあるし、受験もあるし』
「やっぱそう言うよな」
『写真だけ送って。里親探そう』
仕事帰りの電車の中。ビルとビルの間の空。そんな風景を思い出しながら、灯は自分の声を聞いていた。忙しいときほど、言葉は尖る。余裕がないと、優しい返事が出てこない。
陸は、唇を尖らせた。
「いいよ、俺が全部やるから」
そう言って、子猫をぎゅっと抱きしめる。その腕の強さが、そのまま陸の決意みたいだった。
現在の灯は、胸に手を当てた。
あのとき、「可愛いね」の一言くらい、言えたはずなのに。
子猫は、陸の胸の中でもう一度か細く鳴いた。クロがそのそばに近づいて、じっと見下ろす。今のクロと、過去の子猫が、同じ場所で重なるように配置されている光景は、現実味が薄いのに、奇妙な説得力があった。
陸は、スマホのカメラを立ち上げて子猫の写真を撮った。
「名前、なんにしよっかな」
『まだ飼う前提なんだ』
「いや、だってさ。ここで置いてったら、絶対風邪ひくし。……真っ黒だからさ、クロとか」
『そのまま』
「いいじゃん、単純で。分かりやすいし」
笑いながら言ったその言葉が、この先の時間を決めていく。
灯の耳元で、鈴の音が鳴った。
ハッとして見下ろすと、今そばにいる成猫のクロの首にさがった銀色の鈴が、わずかに揺れている。そのデザインに、灯の心がざわめいた。
丸い形。少しだけ擦り傷がついた表面。小さく彫られた星の模様。
あの日、雑貨屋の前で陸が「これ安いし可愛くね」と言っていた鈴と、まったく同じだ。
「……同じ」
確信にはまだ届かない。けれど、心のどこかで、一本線がつながる音がした。
雨音が遠ざかっていく。公園の景色が少しずつ薄れ、代わりに別の音が近づいた。
「次は、事故の前日の夜に停まります」
アナウンスの声に、灯は条件反射のように顔をしかめた。
「やめて」
思わず漏れた声。それは列車に向けてというより、自分自身に向けての拒否だった。
でも、夜行列車は止まるのをやめてくれなかった。
気づけば、目の前には見慣れた自宅マンションのダイニングが広がっていた。
狭いテーブルの上には、コンビニの弁当がいくつか並んでいる。電子レンジで温めたために、容器の蓋が少し曇っていた。
テレビでは、お笑い番組が流れている。けれど、誰もちゃんとは見ていない。
テーブルの片側に、スーツ姿の灯。向かい側に、ジャージ姿の陸。
「でさ、顧問がさ、推薦の話もあるって言ってて」
陸が、プラスチックの箸をいじりながら言った。
「サッカーで入れる大学で、ここ行けたらいいなって。レベル高いけど、チャレンジしたいっていうか」
過去の灯は、疲れた顔で弁当の蓋を開ける。肉じゃがコロッケ弁当。味の濃い匂いが湯気と一緒に立ち上った。
「でもさ、現実的にはどうなの」
その一言が、場の空気を少し変えた。
「現実的?」
「勉強との両立とか、怪我のリスクとか。推薦ってことは、途中でやめにくいでしょ。もし途中でサッカーできなくなったとき、そこの大学でやりたいことある?」
言っていること自体は間違っていない。むしろ、正論だ。
でも、そこには「頑張ってみれば?」の前置きがなかった。
陸は、箸の先で弁当のご飯をつついた。
「うーん。まだそこまでは考えてないけど」
「だったら、まずは普通に受験勉強してさ。選択肢を増やしたほうが良くない?」
過去の灯は、仕事モードの口調のまま畳みかけてしまう。
「この先長いんだし、最初から狭い道選ぶことないと思うよ。サッカーは別に、趣味でも続けられるんだし」
間違ってはいない。けれど、そこに陸の「やりたい」が入り込む隙間はほとんどなかった。
現在の灯は、その光景を見ながら唇を噛んだ。
あのとき、自分がいかに「失敗してほしくない」気持ちでいっぱいだったか。陸の将来が心配で、怖くて。だからこそ、より安全そうに見える道へ誘導しようとしたこと。
その全部が、今の自分には分かっている。
でも、あのときの陸の胸の中には、もしかしたら別の景色が見えていたのかもしれない。
「姉ちゃんはさ」
陸が、ふいに顔を上げた。
「俺が失敗したら困るもんな」
軽い冗談みたいに言って笑ってみせる。その笑いには、ほんの少しだけ、自分を一段下に置く癖みたいなものが混じっていた。
過去の灯は、「そんなことないって」と即座に返した。
「失敗されたら困るから言ってるんじゃなくて、陸が後悔しないほうがいいと思って」
「後悔……かあ」
陸は、箸を置いて天井を見上げる。
「なんかさ、どっちにしても後悔しそうなんだよね」
「どういうこと」
「サッカー諦めたら諦めたで、“あのとき挑戦しておけば”って思いそうだし。挑戦してボコボコにされたらされたで、“なんでこんな無謀なことしたんだ”って思いそうだし」
苦笑混じりの声。自分の弱さも分かっていて、それでも前に出たい気持ちもあって、その間でゆらゆらしている。
その揺れを、灯は受け止めきれなかった。
「……まずは、落ち着いて考えようよ。推薦の話も、急に決めることじゃないでしょ」
そう言って、会話を終わらせてしまった。
テレビのお笑い芸人の笑い声が、やけに空しく響く。
テーブルの下では、クロがじっと二人を見上げていた。猫の目は、二人の表情の変化をすべて映しているみたいだった。
会話はそれきり、別の話題に流れていく。陸は学校の友達の話に切り替えて笑ってみせる。灯も、それに合わせて笑う。でも、その笑いはさっき唐揚げを渡したときの笑顔とは、どこか違っていた。
現在の灯は、胸がぎゅっと縮こまるのを感じた。
「あのとき、“頑張ってみれば?”って言ってあげられたら」
小さな声でつぶやく。
近くにいるクロが、尻尾でそっと灯の足首を叩いた。まるで「今さら言っても仕方ないよ」と、慰めるように。
場面が、また揺らいだ。
次に目の前に現れたのは、玄関だった。
スニーカーの紐を結んでいる陸の背中。壁に掛けられたカレンダーには、事故の日付が赤い丸で囲まれている。学校の行事の印だ。
「昨日のこと、もう怒ってないから」
陸が靴紐をきゅっと締めながら、軽い調子で言った。
過去の灯はリビングから出てきて、スーツのジャケットを片手に持っていた。もう片方の手には、ビジネスバッグ。
「怒ってないよ。別に」
忙しさが顔にそのまま出ている。眉間に薄くしわが寄っていた。
陸は、靴を履き終わって立ち上がる。
「じゃ、行ってきます」
「うん。……ちゃんと信号見て渡りなよ。スマホ見ながらとか、絶対しないこと。……子どもじゃないんだから」
半分冗談のつもりだった。心配しているからこそ、つい口から出た台詞だった。
陸は、いつものように笑った。
「もう子ども扱い、やめろって」
その笑い声と一緒に、玄関のドアが開き、外の光が差し込む。春の風が、廊下を通り抜けていった。
その背中を、小さな黒猫が追いかける。足元をまとわりつきながら、一緒にドアの向こうへ消えていった。
パタン、とドアが閉まる音。
それが、最後の音だった。
現在の灯は、その場面を見ながら、足元から凍っていくみたいな感覚に襲われた。
「これが……最後の会話」
膝が笑った。支えが抜けたみたいに力が入らなくなって、灯は思わず近くの壁に手をついた。
あのとき、違う言葉を選べていれば。
「いってらっしゃい、気をつけてね」の一言を、真正面から言えていれば。
何かが変わったのだろうか。変わらなかったのだろうか。
答えは分からない。分からないけれど、心は「全部自分のせいだ」と言い続けている。それが三年間、夜になるたび繰り返されてきたことだ。
世界がゆっくりと暗くなっていく。玄関の光も、陸の背中も、黒猫の影も、すべて夜の中に溶けていく。
気づけば、灯はまた夜行列車の中にいた。
座席に崩れ落ちるように腰を下ろすと、膝の上に、いつのまにかクロが乗っていた。小さな体重が、そこに確かにある。
クロは、何も言わない。ただ、喉を鳴らしている。ゴロゴロという音が、胸の奥に直接響く。
「ごめんね」
灯は、ぽつりとこぼした。
「ごめんね、ごめんね」
誰に向けてなのか、自分でも分からない言葉。陸にかもしれないし、自分自身にかもしれない。雨の日の子猫にかもしれないし、テーブルの下から見上げていたクロにかもしれない。
膝の上の毛並みに指を沈める。柔らかさと温かさが、指先に伝わる。
目から、大粒の涙が一滴こぼれた。
泣きじゃくるほどではない。でも、止めようと思っても止まらない種類の涙だった。
「私があの日、違う言い方をしていたら」
灯は、誰もいない車内に向かってつぶやいた。
「陸は違う道を歩んでたかもしれないのに」
自己責任の呪文みたいな言葉が、口から零れる。そのたびに、胸の中の重さが増していく。
クロは、その重さを少しでも引き受けるみたいに、灯の膝の上で丸くなった。鈴が、小さく鳴った。
夜行列車は、まだ走り続けている。
灯の涙も、まだ途中だった。
「まもなく、二〇××年四月十日、夕方の駅ホームに到着します」
柔らかいアナウンスの声が、車内に流れた。
言われた日付に、灯ははっと顔を上げる。胸の奥がざわついた。覚えている。今でもカレンダーを見るたび、心のどこかが痛む日付だ。
「なんで、その日……」
思わずこぼれた声は、揺れに紛れて誰にも届かない。膝の上で丸くなっていた黒猫が、ゆっくりと体を起こした。クロは、尻尾を一度だけふわりと振ると、足元へ飛び降りる。
ガタン、と車輪の音が変わる。電車が減速していく気配。次の瞬間、ドアのランプが点滅し、静かに開いた。
目の前に広がったのは、見慣れた駅のホームだった。
数年前と同じ、夕方の色。西日が差し込んで、ホームの端っこが金色に縁取られている。制服姿の学生たちが、部活バッグを肩にかけて笑いながら通り過ぎていく。スーツ姿の人たちが、疲れたような顔で階段を上っていく。
けれど、その誰ひとりとして、灯のことを見ていない。
すぐ目の前を、小さな男の子が走り抜けていっても、ぶつかる感触はない。灯の体を、風だけが通り抜けていく。
「……ほんとに、記憶なんだ」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。
足元では、クロだけが自由だった。ホームに飛び出すと、鼻先をひくひくさせてあちこちの匂いを確かめる。その姿は、今ここで生きている小さな生き物そのものだ。
クロは一度だけ灯を振り返ると、改札のほうへと走り出した。
「待って、クロ」
灯も慌ててあとを追う。
夕方特有のざわざわした空気。学生たちの笑い声。改札機を通り抜ける「ピッ」という音。すべてが、ひどく懐かしい。
その中で。
「うわ、やべ、走れ走れ!」
聞き慣れた声が、雑踏の向こうから飛び込んできた。
改札口の向こうで、高校生の男の子が二人、笑いながら駆け下りてくる。そのうちのひとりが、サッカー部のジャージの上から通学バッグを斜めがけにしていて、額にはうっすら汗が光っていた。
陸だ。
灯は、思わず足を止めた。
数年前の陸は、記憶の中のままだった。制服の袖を少し雑にまくって、前髪を手ぐしでかき上げながら、隣の友人と肩をぶつけ合って笑っている。
「お疲れー。今日マジできつかったわ、監督」
「お前ずっときつい言ってんな」
そんな他愛もない会話。すれ違う人の波の中に溶けてしまいそうな、その声を、灯の耳は一言も聞き漏らしたくなかった。
改札を抜けてきた陸たちの少し離れた場所に、ひとりの女性が立っていた。
スーツの上着を脱いで腕にかけ、片手にはコンビニの袋。もう片方の手でスマホをいじっている。髪を後ろでひとつに結んだその横顔は、今の灯より少しだけ若くて、少しだけ余裕があるように見えた。
過去の自分だ。
「おーい、姉ちゃん!」
陸が手を大きく振る。過去の灯は、スマホから顔を上げて「あ、やっと来た」とため息をついた。
「だってさ、監督が最後にさあ」
「言い訳禁止。遅い。ほら」
過去の灯は、コンビニ袋から取り出したものを突き出した。
「唐揚げ棒、好きでしょ。冷める前に」
「うわ、マジ? 女神?」
「誰が。今日だけだからね」
自分で言って、自分で照れ臭そうに笑っている。その顔が、今の灯には、とても遠い。
現在の灯は、少し離れたところからそのやり取りを見つめていた。触れることも、声をかけることもできない。ただの観客のように。
柔らかな風が吹き抜けて、唐揚げの匂いとソースの甘い香り、陸の汗とシャンプーの混じった匂いが、ふっと鼻先をかすめた気がした。ありえないはずなのに、感覚は妙にリアルだった。
「……あったな、こんな日」
灯は小さくつぶやく。
忙しいくせに、なぜかこの日は仕事を早く切り上げて「たまには駅まで迎えに行ってやるか」と思った。自分でも理由はよく分からなかった。ただ、なんとなく。
それを思い出した瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
足元を見下ろすと、クロが唐揚げの袋のそばをくんくん嗅いでいた。陸の足元にすり寄ると、ぴたりと座り込む。
「あれ、お前どっから来た」
過去の陸が、驚いたように目を丸くした。唐揚げ棒をくわえたまましゃがみ込み、黒猫に手を伸ばそうとして――ふと動きを止める。
「あ、そうだ。姉ちゃん猫アレルギーだっけ」
「そうそう。だから触ったらちゃんと手洗ってね」
過去の灯が、唐揚げの袋を大事そうに抱えたまま口をはさんだ。
現在の灯は、その会話を聞きながら目を細める。
そういえば、そんなこと、言ってた。
大学時代に一度だけ猫カフェに行って、くしゃみが止まらなくなったこと。目が真っ赤になって大変だったこと。それを家で話したら、陸が「じゃあ俺が猫飼うときは、姉ちゃん用のマスクも用意しないとな」と笑っていたこと。
忘れていた断片が、ぽろぽろと戻ってくる。
クロは、陸の指先に鼻先をこすりつけると、満足そうに尻尾を振った。その様子を見て、陸は「かわい」とこぼした。
「連れて帰りたいなあ。……ってか、マジで連れて帰りたいなあ」
ひとりごとのように言ったその言葉が、灯の胸に残った。
視界がふっと揺れる。ホームに再びアナウンスが流れた。
「まもなく、夜行列車が発車いたします」
その声に重なるように、別のアナウンスが、灯の耳元だけに囁く。
「次は、雨の日の公園前に停まります」
気づけば、さっきまでいたホームの景色が、少しずつ色を変えていた。夕焼けのオレンジが、重たい灰色の雲に塗り替えられていく。人の数が減り、冷たい雨の匂いが空気に混じる。
灯は、無意識にクロを探した。黒猫は、いつのまにかドアの近くに移動している。しっぽを立てて、ぴょん、と開きかけたドアから外へ飛び出した。
そこは、公園のそばの道だった。
アスファルトは雨で濡れ、街灯の光がそこにぼんやりと反射している。風に煽られて、木の葉がざわめいた。雨粒がダンボール箱のふちを打つ音が、規則正しく続いている。
ベンチの足元に、濡れたダンボールがひとつ置かれていた。
その中で、小さな黒い塊が震えている。
灯は思わず息を呑んだ。
子猫だった。まだ手のひらに乗るくらいの大きさで、細い体を丸めて、雨を避けるように箱の隅っこに寄っている。ずぶ濡れになった毛が肌に貼りついて、体の細さが余計に目立った。
「……クロ」
名前を呼ぶと、子猫は顔を上げた。琥珀色の目は、この世界よりもずっと遠いどこかを見ているような色だった。
そこへ、制服の上に部活のウインドブレーカーを羽織った少年が駆けてきた。
「お前、なにやってんだよ、こんなとこで」
陸だった。
陸はしゃがみ込み、ためらいもなくダンボールの中に手を入れた。冷たい水に濡れた子猫をそっと抱き上げ、自分のジャージの上着を脱いで包み込む。
「わ、冷た。やば。……大丈夫か、お前」
子猫の体を胸に寄せると、陸はそのまま近くのベンチに腰を下ろした。胸元で震える小さな命に、よしよしとあやすように声をかける。
灯は、少し離れたところからその姿を見つめていた。手を伸ばしても、陸の肩を叩くことはできない。けれど、心だけは何度も何度も呼びかけている。
そのとき、陸がポケットからスマホを取り出した。
「……灯に、聞いてみるか」
画面に表示された連絡先には、「姉ちゃん」の名前がある。陸はそこに指を滑らせて通話ボタンを押した。
数コールのあと、スピーカーから灯の声が聞こえてきた。
『なに、陸。今会議終わったとこなんだけど』
少し疲れた、でも聞き慣れた声。
「悪い。ちょっとさ、聞きたいことがあって」
陸は、子猫の頭を撫でながら話し始めた。
「今さ、公園の前でさ、ダンボールに入ってる黒い子猫見つけてさ。めっちゃ震えてるから、とりあえず抱えてんだけど」
『……拾ったの』
「拾ったっていうか、拾いそうっていうか」
冗談っぽく言って笑う。その笑いの裏に、本気で心配している気配がにじむ。
電話越しの過去の灯は、ため息をついた。
『やめときなよ。ちゃんと世話できないでしょ。部活もあるし、受験もあるし』
「やっぱそう言うよな」
『写真だけ送って。里親探そう』
仕事帰りの電車の中。ビルとビルの間の空。そんな風景を思い出しながら、灯は自分の声を聞いていた。忙しいときほど、言葉は尖る。余裕がないと、優しい返事が出てこない。
陸は、唇を尖らせた。
「いいよ、俺が全部やるから」
そう言って、子猫をぎゅっと抱きしめる。その腕の強さが、そのまま陸の決意みたいだった。
現在の灯は、胸に手を当てた。
あのとき、「可愛いね」の一言くらい、言えたはずなのに。
子猫は、陸の胸の中でもう一度か細く鳴いた。クロがそのそばに近づいて、じっと見下ろす。今のクロと、過去の子猫が、同じ場所で重なるように配置されている光景は、現実味が薄いのに、奇妙な説得力があった。
陸は、スマホのカメラを立ち上げて子猫の写真を撮った。
「名前、なんにしよっかな」
『まだ飼う前提なんだ』
「いや、だってさ。ここで置いてったら、絶対風邪ひくし。……真っ黒だからさ、クロとか」
『そのまま』
「いいじゃん、単純で。分かりやすいし」
笑いながら言ったその言葉が、この先の時間を決めていく。
灯の耳元で、鈴の音が鳴った。
ハッとして見下ろすと、今そばにいる成猫のクロの首にさがった銀色の鈴が、わずかに揺れている。そのデザインに、灯の心がざわめいた。
丸い形。少しだけ擦り傷がついた表面。小さく彫られた星の模様。
あの日、雑貨屋の前で陸が「これ安いし可愛くね」と言っていた鈴と、まったく同じだ。
「……同じ」
確信にはまだ届かない。けれど、心のどこかで、一本線がつながる音がした。
雨音が遠ざかっていく。公園の景色が少しずつ薄れ、代わりに別の音が近づいた。
「次は、事故の前日の夜に停まります」
アナウンスの声に、灯は条件反射のように顔をしかめた。
「やめて」
思わず漏れた声。それは列車に向けてというより、自分自身に向けての拒否だった。
でも、夜行列車は止まるのをやめてくれなかった。
気づけば、目の前には見慣れた自宅マンションのダイニングが広がっていた。
狭いテーブルの上には、コンビニの弁当がいくつか並んでいる。電子レンジで温めたために、容器の蓋が少し曇っていた。
テレビでは、お笑い番組が流れている。けれど、誰もちゃんとは見ていない。
テーブルの片側に、スーツ姿の灯。向かい側に、ジャージ姿の陸。
「でさ、顧問がさ、推薦の話もあるって言ってて」
陸が、プラスチックの箸をいじりながら言った。
「サッカーで入れる大学で、ここ行けたらいいなって。レベル高いけど、チャレンジしたいっていうか」
過去の灯は、疲れた顔で弁当の蓋を開ける。肉じゃがコロッケ弁当。味の濃い匂いが湯気と一緒に立ち上った。
「でもさ、現実的にはどうなの」
その一言が、場の空気を少し変えた。
「現実的?」
「勉強との両立とか、怪我のリスクとか。推薦ってことは、途中でやめにくいでしょ。もし途中でサッカーできなくなったとき、そこの大学でやりたいことある?」
言っていること自体は間違っていない。むしろ、正論だ。
でも、そこには「頑張ってみれば?」の前置きがなかった。
陸は、箸の先で弁当のご飯をつついた。
「うーん。まだそこまでは考えてないけど」
「だったら、まずは普通に受験勉強してさ。選択肢を増やしたほうが良くない?」
過去の灯は、仕事モードの口調のまま畳みかけてしまう。
「この先長いんだし、最初から狭い道選ぶことないと思うよ。サッカーは別に、趣味でも続けられるんだし」
間違ってはいない。けれど、そこに陸の「やりたい」が入り込む隙間はほとんどなかった。
現在の灯は、その光景を見ながら唇を噛んだ。
あのとき、自分がいかに「失敗してほしくない」気持ちでいっぱいだったか。陸の将来が心配で、怖くて。だからこそ、より安全そうに見える道へ誘導しようとしたこと。
その全部が、今の自分には分かっている。
でも、あのときの陸の胸の中には、もしかしたら別の景色が見えていたのかもしれない。
「姉ちゃんはさ」
陸が、ふいに顔を上げた。
「俺が失敗したら困るもんな」
軽い冗談みたいに言って笑ってみせる。その笑いには、ほんの少しだけ、自分を一段下に置く癖みたいなものが混じっていた。
過去の灯は、「そんなことないって」と即座に返した。
「失敗されたら困るから言ってるんじゃなくて、陸が後悔しないほうがいいと思って」
「後悔……かあ」
陸は、箸を置いて天井を見上げる。
「なんかさ、どっちにしても後悔しそうなんだよね」
「どういうこと」
「サッカー諦めたら諦めたで、“あのとき挑戦しておけば”って思いそうだし。挑戦してボコボコにされたらされたで、“なんでこんな無謀なことしたんだ”って思いそうだし」
苦笑混じりの声。自分の弱さも分かっていて、それでも前に出たい気持ちもあって、その間でゆらゆらしている。
その揺れを、灯は受け止めきれなかった。
「……まずは、落ち着いて考えようよ。推薦の話も、急に決めることじゃないでしょ」
そう言って、会話を終わらせてしまった。
テレビのお笑い芸人の笑い声が、やけに空しく響く。
テーブルの下では、クロがじっと二人を見上げていた。猫の目は、二人の表情の変化をすべて映しているみたいだった。
会話はそれきり、別の話題に流れていく。陸は学校の友達の話に切り替えて笑ってみせる。灯も、それに合わせて笑う。でも、その笑いはさっき唐揚げを渡したときの笑顔とは、どこか違っていた。
現在の灯は、胸がぎゅっと縮こまるのを感じた。
「あのとき、“頑張ってみれば?”って言ってあげられたら」
小さな声でつぶやく。
近くにいるクロが、尻尾でそっと灯の足首を叩いた。まるで「今さら言っても仕方ないよ」と、慰めるように。
場面が、また揺らいだ。
次に目の前に現れたのは、玄関だった。
スニーカーの紐を結んでいる陸の背中。壁に掛けられたカレンダーには、事故の日付が赤い丸で囲まれている。学校の行事の印だ。
「昨日のこと、もう怒ってないから」
陸が靴紐をきゅっと締めながら、軽い調子で言った。
過去の灯はリビングから出てきて、スーツのジャケットを片手に持っていた。もう片方の手には、ビジネスバッグ。
「怒ってないよ。別に」
忙しさが顔にそのまま出ている。眉間に薄くしわが寄っていた。
陸は、靴を履き終わって立ち上がる。
「じゃ、行ってきます」
「うん。……ちゃんと信号見て渡りなよ。スマホ見ながらとか、絶対しないこと。……子どもじゃないんだから」
半分冗談のつもりだった。心配しているからこそ、つい口から出た台詞だった。
陸は、いつものように笑った。
「もう子ども扱い、やめろって」
その笑い声と一緒に、玄関のドアが開き、外の光が差し込む。春の風が、廊下を通り抜けていった。
その背中を、小さな黒猫が追いかける。足元をまとわりつきながら、一緒にドアの向こうへ消えていった。
パタン、とドアが閉まる音。
それが、最後の音だった。
現在の灯は、その場面を見ながら、足元から凍っていくみたいな感覚に襲われた。
「これが……最後の会話」
膝が笑った。支えが抜けたみたいに力が入らなくなって、灯は思わず近くの壁に手をついた。
あのとき、違う言葉を選べていれば。
「いってらっしゃい、気をつけてね」の一言を、真正面から言えていれば。
何かが変わったのだろうか。変わらなかったのだろうか。
答えは分からない。分からないけれど、心は「全部自分のせいだ」と言い続けている。それが三年間、夜になるたび繰り返されてきたことだ。
世界がゆっくりと暗くなっていく。玄関の光も、陸の背中も、黒猫の影も、すべて夜の中に溶けていく。
気づけば、灯はまた夜行列車の中にいた。
座席に崩れ落ちるように腰を下ろすと、膝の上に、いつのまにかクロが乗っていた。小さな体重が、そこに確かにある。
クロは、何も言わない。ただ、喉を鳴らしている。ゴロゴロという音が、胸の奥に直接響く。
「ごめんね」
灯は、ぽつりとこぼした。
「ごめんね、ごめんね」
誰に向けてなのか、自分でも分からない言葉。陸にかもしれないし、自分自身にかもしれない。雨の日の子猫にかもしれないし、テーブルの下から見上げていたクロにかもしれない。
膝の上の毛並みに指を沈める。柔らかさと温かさが、指先に伝わる。
目から、大粒の涙が一滴こぼれた。
泣きじゃくるほどではない。でも、止めようと思っても止まらない種類の涙だった。
「私があの日、違う言い方をしていたら」
灯は、誰もいない車内に向かってつぶやいた。
「陸は違う道を歩んでたかもしれないのに」
自己責任の呪文みたいな言葉が、口から零れる。そのたびに、胸の中の重さが増していく。
クロは、その重さを少しでも引き受けるみたいに、灯の膝の上で丸くなった。鈴が、小さく鳴った。
夜行列車は、まだ走り続けている。
灯の涙も、まだ途中だった。



