残業組のざわめきが消えて、フロアに残っているのはパソコンのファンの音と、蛍光灯の低い唸りだけになっていた。
三浦灯は、最後のメールを送信すると、ふうっと椅子の背にもたれかかった。画面の隅で日付が瞬く。三月の終わり。気づけば、また同じ日付だった。
デスクの端に置きっぱなしにしていたペットボトルを手に取る。ぬるくなったお茶を飲み干してから、スマホをちらりと見た。
画面の上に、小さく「23:45」の数字。
「……また最終電車」
思わず声に出て、灯は苦笑した。
この時間帯が、灯は嫌いだった。みんなが家に帰ったあと、オフィスに残る自分が、罰を受けているみたいで。
こんなに遅くまで働いたって、三年前のあの日に戻れるわけじゃないのに。
心の中でそうつぶやいてから、灯はぐしゃりとメモ用紙を丸めてゴミ箱に放り込んだ。コートをつかんで腕を通す。パソコンの電源を落とし、真っ暗になった画面に一瞬、自分の顔が映る。
やつれてるな、と素直に思う。目の下のクマを指でなぞりながら、灯はフロアの照明を落とした。
エレベーターを降りると、外の空気は思った以上に冷たかった。春だというのに、夜のビル風は容赦なく頬を刺す。駅までの道を小走りで進みながら、灯は何度もスマホと駅の時計を見比べた。
ホームに滑り込んでくる最終電車に、灯は息を切らせて飛び乗った。ドアが閉まる直前、風に煽られた髪が視界をふさいだ。
車内には、まばらに人がいるだけだった。うとうとしているサラリーマン。イヤホンをしたまま窓の外をぼんやり見ている大学生。みんな、それぞれの疲れを抱えている。
灯はドアのそばの座席に腰を下ろし、窓ガラスを見た。暗い外の景色はよく見えない。そのかわり、ガラスには自分の顔が映っている。蛍光灯の白い光に照らされた顔は、思っていた以上に青白かった。
視線を少し横にずらすと、連結部の窓越しに、向こうの車両が見えた。高校生くらいの二人組が、ゲームの話か何かで盛り上がっているらしい。肩をぶつけ合って笑い転げている。
その笑い声が、急に胸の奥を刺した。
ああ、似てる。あの笑い方。
「姉ちゃんも、たまには遊べよ」
耳の奥で、陸の声がよみがえる。
それが最後の休みに、一緒に出かけようと誘われたときの声だった。あのとき灯は、「ごめん、締切前だから」と笑って断った。
思い出したくなくて、灯は目を閉じた。電車の揺れに合わせて、記憶まで揺すられる気がする。
いくつかの駅を過ぎて、電車は終点に着いた。
ホームに出ると、ひやりとした空気が肺に入り込む。昼間の人の気配はとっくに消えていて、どこか遠くから聞こえてくるのは、自動販売機の動作音くらいだった。
駅の時計は、もう零時半を指している。
「本日の列車はすべて終了しました」
機械的なアナウンスが、がらんとしたホームに響く。
改札へ向かう階段はこっちです、と言わんばかりに案内板が光っている。けれど灯の足は、そっちではないほうへと自然に向かっていた。
ホームの端へ歩いていくと、線路が闇の中に沈んでいくのが見える。遮断機も踏切も見えない、行き止まりの先。
そこをじっと見下ろしながら、灯は三年前の夜を思い出していた。
あの日の朝、自分が何を言ったのか。どんな顔をして、どんな声で。
「ちゃんと信号見て渡りなよ。スマホ見ながらとか、絶対しないこと。……子どもじゃないんだから」
言葉だけ聞けば、普通の小言だ。けれど、あのときの灯の声には、余裕がなかった。急いでいて、イライラしていて。陸の顔もろくに見ないで言った。
それが、最後の会話になった。
言ったくせに、私はその日、残業を優先した。
事故の知らせが入ったのは、夜の九時過ぎ。電話口で母の声が震えていたこと。走っても走っても、病院までの道が終わらなかったこと。あのときの空の色も、風の冷たさも、全部覚えている。
その記憶が胸の中をぐるぐる回り始めた、そのときだった。
足元に、ふわりと柔らかいものが触れた。
「え?」
見下ろすと、真っ黒な塊が灯の足首にしがみつくように寄り添っていた。黒猫だった。
目が、まるで琥珀のような色をしている。左の耳が少しだけ欠けていて、首には小さな銀色の鈴がついていた。猫が首を傾げるたび、チリン、と控えめな音が鳴る。
「迷子……?」
思わずしゃがみ込み、灯は声をかけた。仕事のときに使う、営業スマイルとは違う柔らかさが、自分の声に混じるのを自覚する。
猫は、にゃ、と短く鳴くと、灯の顔を一度だけじっと見上げ、くるりと背を向けた。そのまま、ホームの端のほうへスタスタと歩いていく。
「ちょっと、危ないよ」
そう言いながら、灯も立ち上がって猫のあとを追った。
ホームの端は、「立ち入り禁止」の黄色いロープで区切られている。その向こうには、普段は使われていないはずの古いホームが、闇の中にぼんやりと浮かんでいた。
驚いたことに、そこには灯りがついていた。蛍光灯がまばゆいほどではないけれど、じゅうぶん足元が見えるくらいには灯っている。
そして、そのホームの上にぶら下がった電光掲示板に、見慣れない文字が流れていた。
「夜行列車 0:45発 行き先: あなたが戻りたいところ」
灯は思わず、声を出して笑ってしまった。
「なにこれ。新しい広告?」
最終電車を逃がした人向けの、なんだろう。ゲームか、ドラマか、本の宣伝か。最近は、なんでも仕掛けが凝っている。
そう思って見上げたまま、灯は目を細めた。電光掲示板のすみのほうに、小さなスクロール文字が流れているのが見えたからだ。
「最終電車のあとにだけ現れます」
なんだか、シャレたコピーだと思う。
足元では、さっきの黒猫が、黄色いロープの前にちょこんと座っていた。まるで「こっちだよ」と言いたげに、じっと灯を見ている。
鈴が、軽く揺れて鳴った。
「……疲れてるんだな、私」
灯は自嘲気味に笑った。残業続きで寝不足だし、命日だし。いろいろ重なれば幻でも見える。
そうやって現実的な言い訳を用意しながらも、目はホームの向こうを捉えて離さない。
階段の上のほうから、ゴトン、と重たい音がした。ブレーキのような、金属が軋むような、懐かしい音。
まさか、と思う。
「もし、本当に“戻りたいところ”へ行けるなら」
喉の奥で、その言葉が勝手に浮かぶ。
あの朝に戻れるなら。違う言い方を、選べたかもしれない。
ありえない。ありえないと頭では分かっているのに、胸のどこかがその可能性にしがみつく。
黒猫は、先にロープの下をすり抜けていった。灯のスーツの裾が、風に揺れる。
「一駅だけなら」
灯は、小さく呟いた。
誰に言い訳するでもない言い訳を口の中で転がして、黄色いロープの横をすり抜ける。監視カメラが光っているかもしれないと一瞬だけ思うけれど、不思議と足は止まらなかった。
階段を上がると、そこには見たことのない電車が一両だけ停まっていた。
レトロなクリーム色と、落ち着いた緑のツートンカラー。昔のドラマで見たことがあるような、少し丸みを帯びたフォルム。どこか懐かしい匂いがする。
車体の横には、小さなプレートが取り付けられていた。
「夜行列車」
金色の文字が、ホームの灯りを受けてかすかに光る。
ドアの前には、制服姿の男が一人立っていた。今どきの駅員の制服というより、古い写真で見たような、帽子のつばが広い車掌服。年の頃は五十代くらいだろうか。深いしわの刻まれた目元が、どこか柔らかい。
「お乗りになりますか」
車掌は、それだけを静かに尋ねた。
乗るとか乗らないとか、そういう選択肢が本当にあるのかどうかも分からない。でも、質問の形をして差し出されると、答えを考えてしまう。
灯がどう言おうか迷っている間に、足元の黒猫が、ひょいっとドアの段を飛び越えた。振り返って、にゃ、と鳴く。まるで、「早く」と急かしているみたいだ。
「ちょ、勝手に……」
そう言いながら、灯は思わず一歩前に出ていた。
ふと、ポケットの中でスマホが重く感じられた。取り出して画面をつける。日付のところに、小さな文字が並んでいる。
弟の命日から、ちょうど三年。
数字を見た瞬間、肺に入っていた空気が抜けたような気がした。あの日と同じ日付。あの日から三年分だけ離れた今。
ここで偶然こんな電車を見つけるのは、ただの疲労か、悪い冗談か。それとも。
「……一駅だけなら」
さっき階段の前でつぶやいた言葉を、今度ははっきりと、自分の耳にも聞こえるように言った。
車掌は、うなずくとも笑うともつかない表情で、ドアの横に下がる。通り道を空けるような仕草だった。
灯は、息を吸い込んでから、その一歩を踏み出した。
ドアをまたぐとき、背中を押されたような気がした。もちろん、誰もいない。いるのは、自分と、足元で先に進んでいく黒猫だけ。
車内は、思ったより明るかった。蛍光灯ではなく、丸い照明が天井にいくつも並んでいる。座席は古いけれど、きちんと掃除されているのが分かる。ほこりっぽさはなくて、少しだけ油の匂いと、木の匂い。
黒猫は、窓際の席にひょいっと飛び乗ると、その隣の座席を前足でトントンと叩いた。
ここ、と言われている気がして、灯は苦笑しながらそれに従った。コートの裾を整えて腰を下ろすと、黒猫はその膝の上に丸くなった。小さな体から、じんわりとした熱が伝わってくる。
ドアが静かに閉まる音がした。
「本日は夜行列車にご乗車いただき、ありがとうございます」
どこからともなく、アナウンスが流れた。女の人の、少し柔らかい声だった。
「この列車は、お客様がもう一度だけ戻りたい場所へと向かう夜行列車です」
聞き慣れた駅のアナウンスと、似ているようで全然違う内容。
「なにそれ」
思わず、小さく笑いが漏れた。作り込まれたイベントか、期間限定のアトラクションか。そういうものだと決めつけたほうが、よっぽど楽だ。
外の窓には、もう駅のホームは映っていなかった。真っ暗な中を、白い線のようなものが遠ざかっていく。線路だろうか。星だろうか。見慣れない景色に目が慣れない。
「……夢だよね、これ」
灯は、黒猫の背中にそっと手を置きながらつぶやいた。夢なら、目が覚めたら全部消える。そう思えば、少しだけ気が楽になる。
黒猫は、ゴロゴロと喉を鳴らした。その音が、電車の揺れと重なって、子守歌みたいに聞こえる。
ふと、窓ガラスに映った自分の顔を見た。
さっきよりも、少しだけ柔らかい表情になっている気がする。膝の上の黒い塊が、その理由なのは明らかだった。
……そのときだった。
窓ガラスの中の、自分の隣。そこに、本来なら何もないはずのスペースに、もうひとつ影が映った。
学生服の上着。少し寝ぐせのついた前髪。笑ったときに片方だけ深くできるえくぼ。
見間違えようがない。三浦陸の姿だった。
灯は、息を飲んだ。胸がぐっとつかまれたように痛くなる。目を凝らして見つめると、影の陸は、まるでこちらを向こうとしているように肩を動かした。
その瞬間、夜行列車が少しだけ揺れた。鈴が、チリン、と高く鳴った。
灯の喉から、小さな声が漏れた。
「りく……?」
名前を呼んだ自分の声が、思ったよりも震えていて、驚く。
次の瞬間、窓ガラスの中の影は、ふっと揺らいで薄れていった。代わりに映ったのは、見慣れた自分の顔と、膝の上で丸くなっている黒猫だけ。
夜行列車は、まだどこかへ向かって走り続けている。
灯は、固く握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。爪が手のひらに食い込んだ跡が、じんと痛む。
夢だとしても、ここから先に、何かが待っている。
そう思っただけで、ほんの少しだけ、心の奥で何かが動いた気がした。
三浦灯は、最後のメールを送信すると、ふうっと椅子の背にもたれかかった。画面の隅で日付が瞬く。三月の終わり。気づけば、また同じ日付だった。
デスクの端に置きっぱなしにしていたペットボトルを手に取る。ぬるくなったお茶を飲み干してから、スマホをちらりと見た。
画面の上に、小さく「23:45」の数字。
「……また最終電車」
思わず声に出て、灯は苦笑した。
この時間帯が、灯は嫌いだった。みんなが家に帰ったあと、オフィスに残る自分が、罰を受けているみたいで。
こんなに遅くまで働いたって、三年前のあの日に戻れるわけじゃないのに。
心の中でそうつぶやいてから、灯はぐしゃりとメモ用紙を丸めてゴミ箱に放り込んだ。コートをつかんで腕を通す。パソコンの電源を落とし、真っ暗になった画面に一瞬、自分の顔が映る。
やつれてるな、と素直に思う。目の下のクマを指でなぞりながら、灯はフロアの照明を落とした。
エレベーターを降りると、外の空気は思った以上に冷たかった。春だというのに、夜のビル風は容赦なく頬を刺す。駅までの道を小走りで進みながら、灯は何度もスマホと駅の時計を見比べた。
ホームに滑り込んでくる最終電車に、灯は息を切らせて飛び乗った。ドアが閉まる直前、風に煽られた髪が視界をふさいだ。
車内には、まばらに人がいるだけだった。うとうとしているサラリーマン。イヤホンをしたまま窓の外をぼんやり見ている大学生。みんな、それぞれの疲れを抱えている。
灯はドアのそばの座席に腰を下ろし、窓ガラスを見た。暗い外の景色はよく見えない。そのかわり、ガラスには自分の顔が映っている。蛍光灯の白い光に照らされた顔は、思っていた以上に青白かった。
視線を少し横にずらすと、連結部の窓越しに、向こうの車両が見えた。高校生くらいの二人組が、ゲームの話か何かで盛り上がっているらしい。肩をぶつけ合って笑い転げている。
その笑い声が、急に胸の奥を刺した。
ああ、似てる。あの笑い方。
「姉ちゃんも、たまには遊べよ」
耳の奥で、陸の声がよみがえる。
それが最後の休みに、一緒に出かけようと誘われたときの声だった。あのとき灯は、「ごめん、締切前だから」と笑って断った。
思い出したくなくて、灯は目を閉じた。電車の揺れに合わせて、記憶まで揺すられる気がする。
いくつかの駅を過ぎて、電車は終点に着いた。
ホームに出ると、ひやりとした空気が肺に入り込む。昼間の人の気配はとっくに消えていて、どこか遠くから聞こえてくるのは、自動販売機の動作音くらいだった。
駅の時計は、もう零時半を指している。
「本日の列車はすべて終了しました」
機械的なアナウンスが、がらんとしたホームに響く。
改札へ向かう階段はこっちです、と言わんばかりに案内板が光っている。けれど灯の足は、そっちではないほうへと自然に向かっていた。
ホームの端へ歩いていくと、線路が闇の中に沈んでいくのが見える。遮断機も踏切も見えない、行き止まりの先。
そこをじっと見下ろしながら、灯は三年前の夜を思い出していた。
あの日の朝、自分が何を言ったのか。どんな顔をして、どんな声で。
「ちゃんと信号見て渡りなよ。スマホ見ながらとか、絶対しないこと。……子どもじゃないんだから」
言葉だけ聞けば、普通の小言だ。けれど、あのときの灯の声には、余裕がなかった。急いでいて、イライラしていて。陸の顔もろくに見ないで言った。
それが、最後の会話になった。
言ったくせに、私はその日、残業を優先した。
事故の知らせが入ったのは、夜の九時過ぎ。電話口で母の声が震えていたこと。走っても走っても、病院までの道が終わらなかったこと。あのときの空の色も、風の冷たさも、全部覚えている。
その記憶が胸の中をぐるぐる回り始めた、そのときだった。
足元に、ふわりと柔らかいものが触れた。
「え?」
見下ろすと、真っ黒な塊が灯の足首にしがみつくように寄り添っていた。黒猫だった。
目が、まるで琥珀のような色をしている。左の耳が少しだけ欠けていて、首には小さな銀色の鈴がついていた。猫が首を傾げるたび、チリン、と控えめな音が鳴る。
「迷子……?」
思わずしゃがみ込み、灯は声をかけた。仕事のときに使う、営業スマイルとは違う柔らかさが、自分の声に混じるのを自覚する。
猫は、にゃ、と短く鳴くと、灯の顔を一度だけじっと見上げ、くるりと背を向けた。そのまま、ホームの端のほうへスタスタと歩いていく。
「ちょっと、危ないよ」
そう言いながら、灯も立ち上がって猫のあとを追った。
ホームの端は、「立ち入り禁止」の黄色いロープで区切られている。その向こうには、普段は使われていないはずの古いホームが、闇の中にぼんやりと浮かんでいた。
驚いたことに、そこには灯りがついていた。蛍光灯がまばゆいほどではないけれど、じゅうぶん足元が見えるくらいには灯っている。
そして、そのホームの上にぶら下がった電光掲示板に、見慣れない文字が流れていた。
「夜行列車 0:45発 行き先: あなたが戻りたいところ」
灯は思わず、声を出して笑ってしまった。
「なにこれ。新しい広告?」
最終電車を逃がした人向けの、なんだろう。ゲームか、ドラマか、本の宣伝か。最近は、なんでも仕掛けが凝っている。
そう思って見上げたまま、灯は目を細めた。電光掲示板のすみのほうに、小さなスクロール文字が流れているのが見えたからだ。
「最終電車のあとにだけ現れます」
なんだか、シャレたコピーだと思う。
足元では、さっきの黒猫が、黄色いロープの前にちょこんと座っていた。まるで「こっちだよ」と言いたげに、じっと灯を見ている。
鈴が、軽く揺れて鳴った。
「……疲れてるんだな、私」
灯は自嘲気味に笑った。残業続きで寝不足だし、命日だし。いろいろ重なれば幻でも見える。
そうやって現実的な言い訳を用意しながらも、目はホームの向こうを捉えて離さない。
階段の上のほうから、ゴトン、と重たい音がした。ブレーキのような、金属が軋むような、懐かしい音。
まさか、と思う。
「もし、本当に“戻りたいところ”へ行けるなら」
喉の奥で、その言葉が勝手に浮かぶ。
あの朝に戻れるなら。違う言い方を、選べたかもしれない。
ありえない。ありえないと頭では分かっているのに、胸のどこかがその可能性にしがみつく。
黒猫は、先にロープの下をすり抜けていった。灯のスーツの裾が、風に揺れる。
「一駅だけなら」
灯は、小さく呟いた。
誰に言い訳するでもない言い訳を口の中で転がして、黄色いロープの横をすり抜ける。監視カメラが光っているかもしれないと一瞬だけ思うけれど、不思議と足は止まらなかった。
階段を上がると、そこには見たことのない電車が一両だけ停まっていた。
レトロなクリーム色と、落ち着いた緑のツートンカラー。昔のドラマで見たことがあるような、少し丸みを帯びたフォルム。どこか懐かしい匂いがする。
車体の横には、小さなプレートが取り付けられていた。
「夜行列車」
金色の文字が、ホームの灯りを受けてかすかに光る。
ドアの前には、制服姿の男が一人立っていた。今どきの駅員の制服というより、古い写真で見たような、帽子のつばが広い車掌服。年の頃は五十代くらいだろうか。深いしわの刻まれた目元が、どこか柔らかい。
「お乗りになりますか」
車掌は、それだけを静かに尋ねた。
乗るとか乗らないとか、そういう選択肢が本当にあるのかどうかも分からない。でも、質問の形をして差し出されると、答えを考えてしまう。
灯がどう言おうか迷っている間に、足元の黒猫が、ひょいっとドアの段を飛び越えた。振り返って、にゃ、と鳴く。まるで、「早く」と急かしているみたいだ。
「ちょ、勝手に……」
そう言いながら、灯は思わず一歩前に出ていた。
ふと、ポケットの中でスマホが重く感じられた。取り出して画面をつける。日付のところに、小さな文字が並んでいる。
弟の命日から、ちょうど三年。
数字を見た瞬間、肺に入っていた空気が抜けたような気がした。あの日と同じ日付。あの日から三年分だけ離れた今。
ここで偶然こんな電車を見つけるのは、ただの疲労か、悪い冗談か。それとも。
「……一駅だけなら」
さっき階段の前でつぶやいた言葉を、今度ははっきりと、自分の耳にも聞こえるように言った。
車掌は、うなずくとも笑うともつかない表情で、ドアの横に下がる。通り道を空けるような仕草だった。
灯は、息を吸い込んでから、その一歩を踏み出した。
ドアをまたぐとき、背中を押されたような気がした。もちろん、誰もいない。いるのは、自分と、足元で先に進んでいく黒猫だけ。
車内は、思ったより明るかった。蛍光灯ではなく、丸い照明が天井にいくつも並んでいる。座席は古いけれど、きちんと掃除されているのが分かる。ほこりっぽさはなくて、少しだけ油の匂いと、木の匂い。
黒猫は、窓際の席にひょいっと飛び乗ると、その隣の座席を前足でトントンと叩いた。
ここ、と言われている気がして、灯は苦笑しながらそれに従った。コートの裾を整えて腰を下ろすと、黒猫はその膝の上に丸くなった。小さな体から、じんわりとした熱が伝わってくる。
ドアが静かに閉まる音がした。
「本日は夜行列車にご乗車いただき、ありがとうございます」
どこからともなく、アナウンスが流れた。女の人の、少し柔らかい声だった。
「この列車は、お客様がもう一度だけ戻りたい場所へと向かう夜行列車です」
聞き慣れた駅のアナウンスと、似ているようで全然違う内容。
「なにそれ」
思わず、小さく笑いが漏れた。作り込まれたイベントか、期間限定のアトラクションか。そういうものだと決めつけたほうが、よっぽど楽だ。
外の窓には、もう駅のホームは映っていなかった。真っ暗な中を、白い線のようなものが遠ざかっていく。線路だろうか。星だろうか。見慣れない景色に目が慣れない。
「……夢だよね、これ」
灯は、黒猫の背中にそっと手を置きながらつぶやいた。夢なら、目が覚めたら全部消える。そう思えば、少しだけ気が楽になる。
黒猫は、ゴロゴロと喉を鳴らした。その音が、電車の揺れと重なって、子守歌みたいに聞こえる。
ふと、窓ガラスに映った自分の顔を見た。
さっきよりも、少しだけ柔らかい表情になっている気がする。膝の上の黒い塊が、その理由なのは明らかだった。
……そのときだった。
窓ガラスの中の、自分の隣。そこに、本来なら何もないはずのスペースに、もうひとつ影が映った。
学生服の上着。少し寝ぐせのついた前髪。笑ったときに片方だけ深くできるえくぼ。
見間違えようがない。三浦陸の姿だった。
灯は、息を飲んだ。胸がぐっとつかまれたように痛くなる。目を凝らして見つめると、影の陸は、まるでこちらを向こうとしているように肩を動かした。
その瞬間、夜行列車が少しだけ揺れた。鈴が、チリン、と高く鳴った。
灯の喉から、小さな声が漏れた。
「りく……?」
名前を呼んだ自分の声が、思ったよりも震えていて、驚く。
次の瞬間、窓ガラスの中の影は、ふっと揺らいで薄れていった。代わりに映ったのは、見慣れた自分の顔と、膝の上で丸くなっている黒猫だけ。
夜行列車は、まだどこかへ向かって走り続けている。
灯は、固く握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。爪が手のひらに食い込んだ跡が、じんと痛む。
夢だとしても、ここから先に、何かが待っている。
そう思っただけで、ほんの少しだけ、心の奥で何かが動いた気がした。



