その夜、ほとんど眠れなかった。

 ベッドに寝転がって、天井を見ながら、頭の中で何回も巻き戻す。

 先輩の全部、俺に教えてください。

 あいつの声。揺れていたまつげ。夕陽と蛍光灯の境目で、真っ直ぐこっちを見ていた目。

 思い出すたびに、胸のあたりがきゅっと締まる。苦しいのに、嫌じゃない。

「……全部、か」

 自分なんかの「全部」なんて、大したもんじゃない。
 そう思っていたはずなのに、「知りたい」と言われた瞬間、泣きそうになったのは、本当だ。

 誰かにちゃんと見られるのが怖かったくせに。
 あいつにだけは、見られてもいいって、どこかで思っている。

 それって、たぶんもう、答えは出ている。

「俺も、お前のこと知りたいって、言っちゃったしな」

 布団をかぶって小さくうめく。自分で言っといて、後から恥ずかしくなるやつだ。

 でも、その言葉を口にした瞬間の湊の顔が、頭から離れない。
 驚いて、それから、ぐっと何かを飲み込んだみたいな表情。

 あいつは文化祭まで「後輩でいたい」って言った。
 真面目に、自分で区切りをつけようとしてる。

 だったら。

「……ちゃんと、こっちからも言わないとな」

 知ってほしい。
 見られるのが怖いより、その気持ちのほうが、今は少しだけ勝っている。

     ◇

 翌朝。
 いつもより少しだけ早く家を出た。

 うちから学校までの途中に、コンビニがある。
 そこで立ち止まって、自動ドアの前で少しだけ深呼吸した。

「よし」

 入ってすぐの飲み物コーナーで、迷わず手に取る。

 コーヒー牛乳と、オレンジジュース。

 レジ袋をぶらさげながら、校門をくぐる。
 まだホームルームには早い時間で、昇降口はまばらだ。

 その昇降口の柱の影に、見慣れたシルエットがあった。

「……湊?」

 制服のまま、カメラストラップを指でいじっている。いつもの元気はなくて、どこか落ち着かない様子だった。

 俺に気づくと、びくっと肩が動く。

「あ」

 短い声。

「お前、こんな時間にどうした」

「それ、先輩に言われたくないです」

 いつもより少し低い声で言ってから、視線を落とした。
 よく見ると、目の下にうっすらクマがある。こいつも、あんまり眠れてない顔してる。

「昨日の、えっと」

 湊はカメラストラップをぎゅっと握りしめて、言葉を探すみたいに口を開いた。

「昨日のこと、忘れてください」

 思っていたのと逆の言葉が出てきて、胸がずきっと痛む。

「調子に乗りました。先輩の全部知りたいとか、勝手に距離詰めて、勝手に好きになって」

「おい」

「先輩、優しいから、断れないだけだって、ちゃんと分かってます。だから──」

「やめろ」

 思わず遮っていた。
 昨日、自分が同じようなことを考えていたのが、急に恥ずかしくなるくらい、あいつは自分を下げてばかりだ。

「……先輩?」

「忘れないから」

 言ってから、自分で自分に驚く。
 でも、もう引っ込めない。

「昨日のこと、忘れたりしないから」

 湊の目が、ゆっくりとこっちを向く。
 いつもより、ほんの少し潤んで見えた。

「俺さ」

 レジ袋の持ち手をぎゅっと握る。
 心臓の音が、うるさい。

「昨日、お前に『全部教えてください』って言われてさ。正直、めちゃくちゃ怖かったんだよ」

「……ですよね」

「最後まで聞け」

 すぐに落ち込もうとするのを、軽くたたき返す。

「怖かったけど、それより先に、嬉しいって思った」

 口に出してみると、少しだけ楽になる。
 湊の目が、わずかに見開かれた。

「自分なんかのこと、そんなふうに言ってくれるやつ、いなかったから。『全部知りたい』なんてさ」

 昨日の夕陽の中で感じた、あの涙腺の危機がよみがえる。

「だから、忘れろって言われても、無理」

「……先輩」

 湊の声が、少し震えていた。

「それに」

 今度は、俺の番だ。

「俺も、お前のこと、知りたいと思ったから」

 一晩中考えて出した答えを、そのまま渡す。

「何飲んでるときがいちばん機嫌いいのかとか。どんな写真撮ってるときが楽しいのかとか。何言われたら嬉しいのかとか」

 言いながら、ほんの少し笑ってしまう。
 自分で言ってて、告白みたいだと思ったからだ。

「そういうの、ちゃんと知りたいって、昨日初めて思ったんだよ」

 湊は、完全に固まっていた。
 それから、ゆっくりと瞬きをして、信じられないものを見るみたいに俺を見つめてくる。

「……それ、期待していいやつですか」

「またそれかよ」

「いや、昨日も聞きそびれたんで」

 そう言いながら、じわっと表情がほぐれていくのが分かる。
 さっきまで泣きそうだったのが、一気に光が差し込んだみたいな顔になっていく。

「期待しとけよ」

 自分でもびっくりするくらい、はっきり言えた。

「お前が俺のこと見すぎなんだったら、俺もちゃんと見返すから」

「見返す」

「おあいこ、ってこと」

 湊の口元が、ゆっくりと笑みに変わった。

「……ずるいです」

「何がだよ」

「先輩のそういう言い方、反則です」

「知らねーよ」

 でも、文句を言いながらも、目の奥は完全に嬉しそうだ。

「あ、これ」

 レジ袋から、紙パックを二つ取り出した。

「先輩、それ」

「コーヒー牛乳と、オレンジ」

 湊の目が、さらに丸くなる。

「どっちがいい」

「え、選んでいいんですか」

「今日は特別な日なんで」

「文化祭前日だからですか」

「……まあ、それもある」

 本当は、それだけじゃない。
 こいつとちゃんと向き合うことにした、記念日みたいなもんだ。

「じゃあ」

 湊は、迷った末に、オレンジジュースを取った。

「そっちかよ」

「先輩、今日コーヒー牛乳飲んでないですよね」

「朝はまだ飲んでないけど」

「じゃあ、コーヒー牛乳は先輩の分です。いつものやつ」

 そう言って、当然みたいに俺のほうに押し付けてくる。

「俺は、先輩が好きなやつ、ちゃんと見てたいんで」

「……やっぱちょっと重いな、お前」

「『ちょっと』付けてくれてるうちは、セーフです」

 相変わらず図々しい。
 でもその「ちょっと重い」が、今は心地いい。

     ◇

 昇降口を出て、いつもの登校ルートを並んで歩く。
 制服の袖が、時々かすかに当たる距離。

「先輩」

「ん」

「今日の先輩の好きなもの、教えてください」

「急に何の質問」

「さっき言ってたじゃないですか。『知ってほしい』って」

「そんな具体的なメニュー出しじゃないんだけど」

「いいじゃないですか。一日一個でも」

 一日一個。
 それなら、全部話し終わるころには、どれだけ時間がかかるだろう。

 ちょっとだけ、わくわくした。

「じゃあ……そうだな」

 少し考えてから、口を開く。

「今日の朝、コンビニ寄って、お前にどっち渡そうか迷ってた俺が、今はちょっと好き」

「自分のこと?」

「なんか、ちゃんとお前のこと考えてるな、って」

 言ってから、めちゃくちゃ恥ずかしくなった。

「今の、なかったことにしていい?」

「だめです。もう撮りました」

「どこにだよ」

「心にです」

 まっすぐな返しに、思わず笑う。

「じゃあ、お前は?」

「俺ですか?」

「今日のお前の好きなもの」

「決まってます」

 迷いのない即答だった。

「今日の陽斗先輩が、いちばん好きです」

「……出たよ」

「だって、昨日よりこっち向いてくれてるから」

 そう言って笑う顔は、誇張抜きでまぶしい。
 真正面からそんなこと言われて、照れないやついるのか。

「健全な男子高校生が、『今日の先輩が』とか言うなよ」

「健全ですよ。めちゃくちゃ健全な恋です」

「自分で言うな」

 くだらないやり取りをしながら、校舎が近づいていく。
 いつもの朝なのに、景色が少しだけ違って見えた。

 同じ道。
 同じ時間。
 隣にいるのも、いつもと同じ後輩。

 でも、今日の俺は、ちゃんとこいつを「見る」と決めた。

     ◇

 放課後。
 文化祭の本番準備で、校舎中が慌ただしい中、写真部の部室だけは、不思議と落ち着いていた。

「展示、いい感じだな」

「ですね」

 廊下側のパネルには、各部員の写真がずらっと並んでいる。
 その真ん中に、例のポートレート。窓際でカメラを構える俺の写真。

「明日、これ見たやつ、どう思うかな」

「『誰この人、めっちゃいい顔してる』って思います」

「盛りすぎだろ」

「本心です」

 真顔で言われて、誤魔化しようがない。

「先輩」

「ん」

「最後に一枚、撮っていいですか」

「また俺?」

「今日の先輩を、ちゃんと残しておきたいんで」

 その言い方が、ちょっとだけくすぐったい。

「条件」

「なんですか」

「お前も、ちゃんと写れよ」

「え」

「撮られてばっかじゃフェアじゃねーだろ」

 湊のほうを向いて、隣の椅子をぽんぽん叩く。

「ここ座れよ。セルフタイマーあるだろ」

「……ずるいです」

 そう言いつつも、あいつは嬉しそうに笑って、俺の隣に腰を下ろした。

「じゃあ、三秒タイマーで」

「短くない?」

「逃げられたら困るんで」

「誰が逃げるか」

 カメラを棚の上に置いて、フレームの中に二人で収まる。
 肩がぴったり当たって、湊の体温が伝わってくる。

「先輩」

「なんだよ」

「俺、明日からもずっと、先輩のこと見てていいですか」

「許可出しただろ、昨日」

「確認です。大事なんで」

 カメラの赤いランプが点滅を始める。

「じゃあ俺も、確認」

「はい?」

「明日からもずっと、お前のこと見ていいんだよな」

 湊の目が、一瞬でまん丸になる。

 その変化が、なんかおかしくて、笑いがこみ上げてきた。

「ほら、笑えよ。シャッター切れるぞ」

「ちょ、待っ──」

 パシャ。

 軽いシャッター音が部室に響いた。

 撮られた後も、しばらく笑いが止まらなかった。
 湊も、耳まで真っ赤にしながら笑っている。

「先輩、ずるい」

「お前もさっき同じこと言ってた」

「俺よりずるいです」

「うるさい」

 笑いながら、心の中は不思議と落ち着いていた。

 コーヒー牛乳の好みも。
 本屋で立ち止まる棚も。
 写真を撮るときの癖も。
 だらだらスマホいじる夜も。

 きっとこれから、少しずつこいつに知られていく。

 その代わりに、こいつが何を見て笑うのか、何に傷つきそうになるのか、俺もちゃんと見ていくつもりだ。

 レンズの向こう側にいるのが、もう「被写体」だけじゃなくて。

 俺にとっての「好きな人」になってしまったように。

 その日撮られた写真の中で、一番笑っていたのは、きっと俺だ。

 そのことに気づいたのは、文化祭が終わってから、湊が嬉しそうにその写真を見せてきたときだった。

「ほら、先輩。めっちゃいい顔してますよ」

 その言葉に、もう「そんなことない」なんて返さない。

 いつか俺も、この笑顔を、自分のカメラで撮り返してやるつもりだから。