文化祭前日。
写真部の部室は、いつもより静かだった。
昨日までのバタバタが嘘みたいに、張り出す写真もほとんど決まっていて、あとは細かい位置調整とキャプションの確認だけ。
「ここ、もうちょい右かな」
「うん、そのほうがバランスいいかも」
佐伯と一年たちがわちゃわちゃやっているのを横目で見ながら、俺はパネルの端っこでキャプションを貼っていた。
夕方の光が、窓から斜めに差し込んでくる。
机の上のプリントにオレンジ色の帯ができて、それを見ているだけでも写真を撮りたくなる。
「よし、いったんここまでだな」
顧問が手を叩いた。
「貼り間違えとかないか、全員でもう一回チェックして、終わったやつから帰っていいぞ。ただし明日は本番だから、早く寝ろよ。夜更かしして写りが悪くなっても知らん」
「先生、それ言うなら化粧の話じゃないですか」
「男も顔色は大事だろ。お前ら自分が思ってるより見られてんだぞ。特に春日部」
「なんで俺限定ですか」
「目立つところに顔があるやつは、責任持て」
「またそれかよ……」
苦笑いしていると、顧問はにやっとして部室を出て行った。
それに続いて、部員たちも少しずつ片づけを始める。
「じゃ、俺、暗室の鍵返してくるわ」
「一年、残りのプリントしまっとけよ」
人が減っていくうちに、気づけば部室には俺と湊だけが残っていた。
「……静かになったな」
「ですね」
いつものパターンすぎて、ちょっと笑ってしまう。
「帰んないのか?」
「もうちょっと見てたいんで」
「何を」
「これです」
湊は、廊下側のパネルの前に立った。
そこには、あいつが選んだ展示写真が並んでいる。一年らしいフレッシュなスナップたち。その真ん中に、問題のポートレート。
窓際でカメラを構えている俺の横顔。
顧問のOKも出て、ついさっき貼り終えたばかりだ。
「そんなに俺の顔、眺めて楽しいか?」
「楽しいですよ」
即答。迷いがなさすぎる。
「先輩の表情、俺が好きなやつです」
「……そんなの、ある?」
思わず聞き返していた。
自分の表情のバリエーションなんて、意識したこともない。
「あります」
湊は、パネルに貼られた写真を見つめたまま言った。
「集中してるときと、ちょっと気が抜けたときの間くらいの顔」
「どんなタイミングだよ、それ」
「例えば、撮り終わってモニター確認して、『あ、いいの撮れた』ってなったときとか」
「そんな顔、してるか?」
「してます。今まで何回も見てます」
さらっと言われて、胸の奥がじんわり熱くなる。
何回も、って。そんなに俺の顔、見てたのか。
「この写真も、そういう顔してます」
「これ、ただの横顔だろ」
「ちゃんと分かります。先輩の目、ちょっとだけ、安心してる感じするから」
真剣な声だった。
からかってる感じじゃない。
俺はパネルに近づいて、写真をじっと見た。
夕陽が射し込む部室で、カメラを構えている自分。
確かに、眉間に余計な力は入ってない。誰かに向かって笑ってるわけでもないのに、どこか柔らかい。
そう言われて初めて、「悪くないかも」と思ってしまった自分が悔しい。
「……お前、本当に、よく見てるな」
「観察なんで」
「その言い方やめろって」
そう言いながらも、嫌じゃなかった。
むしろ、こいつにだけは見られていてもいいかもしれない、なんて、都合のいいことを考えている。
「先輩」
「ん」
「さっき先生、『自分が思ってるより見られてる』って言ってましたけど」
「言ってたな」
「俺、先輩のこと、世界でいちばん見てますよ」
心臓が、一拍遅れて跳ねた。
「……急にそういうこと言うなって」
「急じゃないです。ずっと言ってます」
「どこでだよ」
「行動で」
さらっと言うな。
コーヒー牛乳。
本屋。
屋上。
暗闇。
ポートレート。
全部、こいつの「行動」の結果だ。
頭では分かっていたけど、こうして言葉にされると、改めて重さが違う。
「でも、今日でそれもいったん区切りです」
「……区切り?」
聞き返すと、湊は少しだけ口を結んだ。
「明日、本番じゃないですか。文化祭」
「ああ、そうだな」
「だから、ちゃんと、言わないといけないことがあって」
言葉のトーンが変わったのが分かった。
ふざけてるときの軽さじゃない。屋上で「誤解されてもいい」と言ったときの、あの真剣さに近い。
夕陽がさらに傾いて、部室の中の光がゆっくりと色を変えていく。
オレンジが濃くなって、俺たちの影がパネルの上に伸びた。
湊の影と、俺の影が、ちょうど真ん中で重なる。
「先輩の全部、俺が知りたいんです」
静かな声だった。
でも、ちゃんと届いた。胸の真ん中に。
「……全部って」
「好きな飲み物とか、本屋でどこ立ち止まるかとか、そういうのだけじゃなくて」
湊は、ゆっくりと続けた。
「何見て笑うのかとか。何でしんどくなるのかとか。誰に何言われたら傷つくのかとか。そういうの、全部」
言葉をひとつ出すたびに、あいつの手が小さく震えているのが分かった。
それでも、視線は逃げない。まっすぐ、俺のほうに向けられている。
「先輩が自分で『どうせたいしたことない』って思ってるところも、ちゃんと知りたいです」
図星を刺されたみたいで、息が詰まった。
俺が、自分を大したことないって決めつけてることなんて、一言も言ってないのに。
「自分のこと、後回しにするクセも。写真撮るとき、誰より人のこと見てるのに、自分のことは全然見てないところも」
「お前……」
「それも全部含めて、『先輩』だって思ってるから」
そこまで言って、湊は小さく息を吐いた。
声がほんの少しだけ震い始めているのが分かる。
「先輩の全部、俺に教えてください」
夕陽の光の中で、その言葉だけがくっきりと浮かび上がる。
好き、とか、付き合ってください、とか。
そういう分かりやすいフレーズは、ひとつも出てこなかった。
なのに、伝わった。
こいつが俺を、ただの「先輩」とか「被写体」とかじゃなくて、ひとりの人間として、丸ごと欲しがってることが。
「……迷惑なのは分かってます」
湊は、小さく笑った。
笑っているのに、目の奥は全然笑ってない。
「年下のくせに、先輩のことこんなに見てて。勝手に写真撮って、勝手に好きになって」
初めて、はっきりと「好き」という言葉が出てきた。
頭の中で何度も予想したはずのセリフなのに、実際に聞いた瞬間、世界がきゅっと狭くなった気がした。
「先輩が笑う瞬間が、俺……」
そこで、言葉が途切れる。
「俺、たぶん、先輩が思ってるよりずっと、先輩の笑い方、知ってます」
震える声で、湊は続けた。
「コーヒー牛乳初めて飲んだときの笑い方とか。好きな写真見つけたときの笑い方とか。一年が撮った写真褒めるときの笑い方とか」
「やめろ、恥ずかしい」
「でも、俺に向けて笑ってくれるときが、いちばん好きで」
そこまで言われたところで、胸の奥から何かが込み上げてきた。
「だから、その顔、俺だけが知ってたらいいのになって、ずっと思ってて」
「……わがままだな」
「めちゃくちゃわがままです」
自分で認めながら、湊は俯いた。
握りしめた拳が、小刻みに震えている。
「こんなの、先輩にとって迷惑なのも分かってます。写真部の先輩と後輩っていう、ちょうどいい距離のままが楽だってことも」
そう言ってくるあたりが、ずるい。
俺だって、分かってる。
ここで何もなかったことにして、文化祭が終わって、「あのときは若かったな」って笑い話にするのが、一番楽だって。
でも。
「迷惑じゃない」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
湊の言葉を、そこで遮っていた。
「陽斗先輩?」
「迷惑じゃないって言ってんだろ」
声が少し上ずる。
でも、もう止められなかった。
「……ていうか」
視界がじわっと滲んでいるのに気づいて、あわてて瞬きをする。
こんなとこで泣くわけにはいかない。ここ、部室だぞ。文化祭前日だぞ。空気読め、俺。
「誰かに『全部知りたい』なんて言われたの、初めてだから」
そんなの、泣きそうになるに決まってる。
「俺なんかの全部、知っても、大したもんないぞ」
「そんなことないです」
「あるって。早起き苦手だし、数学赤点ギリギリだし、体育も普通だし。部長って言っても大したことしてないし。家帰ったらだらだらスマホいじって、写真撮りに行かない日も普通にあって」
「そういうのも全部、知りたいです」
即答だった。
「は?」
「だらだらしてる先輩とか、絶対かわいいじゃないですか」
「かわいくねえよ」
「俺から見たら、かわいいです」
さらっと言われて、やっぱり胸がぎゅっとなる。
「俺、先輩のこと、もう『写真撮ってるときだけ』とか『部室にいるときだけ』とかじゃなくて、普通に全部、好きなんで」
ああ、もうだめだ。
涙腺が、完全にキャパオーバーしてる。
俺は慌てて目頭を指で押さえた。
「泣かないでくださいよ」
「泣いてねえ」
「目、赤いです」
「夕陽のせいだろ」
「夕陽のせいですね」
そう言って、湊は少し笑った。
ひどい言い訳を成立させてくれるあたり、本当に優しい。
「俺さ」
涙が落ちないように、天井を見上げる。
部室の蛍光灯と、その下に並ぶ写真たちが、少し滲んで見える。
「ずっと、『誰かにちゃんと見られる』っていうのが、怖かったんだと思う」
「怖い、ですか」
「だって、見られたら、欠点も全部バレるだろ。変なとこばっか目立つし」
「欠点も含めて、ですよ」
「だから、それが怖かったんだよ」
言葉にしてみて、初めて自分でも納得した。
俺がレンズを向けるのは得意でも、向けられるのが苦手なのは、そのせいだ。
「でも、お前にだったら、別に……いいかなって」
湊の目が、少しだけ大きくなる。
「……今、なんて」
「一回しか言わねえから、自分で考えろ」
「ひどくないですか」
言いながらも、湊の声はほんの少し震えている。
その震えごと、愛しくてしょうがない、なんて単語が頭をよぎって、自分でびっくりした。
「先輩」
「ん」
「それ、期待していいやつですか」
「何をだよ」
「俺が先輩の全部、知ろうとしても、怒られないって期待です」
少しだけ間をおいて、俺は頷いた。
「怒らない」
「本当に?」
「しつこかったらキレるかもしれんけど」
「しつこくします」
「早いよ、返事」
でも、その即答が、ちょっと嬉しい。
「じゃあさ」
俺は一度深呼吸してから、湊の目を見た。
「俺のこと、撮っていいよ」
「え」
「前にも言ったけど、俺、顔撮られるの苦手でさ。見られてる感じするから、って」
「言ってました」
「でも、お前にだけは、ちゃんと撮ってほしい」
湊の喉が、ごくりと動く。
「俺がどんな顔してるときが、いちばんいいか、お前に判断してほしい」
それは、ある意味で、全部を預けるってことかもしれない。
「その代わり」
「はい」
「お前が何考えてるかも、ちゃんと俺に教えろよ」
「俺が、ですか」
「先輩の全部知りたいって言ったのお前だろ。そっちの全部も、教えろ」
自分でも、信じられないくらい素直な言葉が出てきた。
でも、もう止めない。
湊の「知りたい」に、俺も「知りたい」で返したかった。
「俺、鈍いからさ。言ってくれないと分かんねえし」
湊は、ほんの少しだけ俯いて、それから顔を上げた。
「……はい」
それは、今まででいちばん力のこもった返事だった。
「じゃあ改めて」
湊は、一歩近づいた。
夕陽がほとんど沈みかけていて、部室の中はオレンジ色から少しずつ青っぽく変わっていく。その境目の光の中で、あいつはまっすぐ俺を見る。
「先輩の全部、俺に教えてください」
さっきと同じ言葉なのに、今度は、まっすぐ胸に入ってきた。
逃げ道のない告白。
後輩のくせに、ずるいくらい真っ直ぐで、かっこよくて、かわいい。
「……分かった」
涙がこぼれないように、笑いながら答える。
「全部は、たぶん一気には無理だけど」
「ちょっとずつでいいです」
「じゃあ、文化祭終わってからな」
「なんでそこ区切るんですか」
「なんとなく、キリがいいだろ」
そう言うと、湊はふっと笑った。
夕陽と蛍光灯の境目で笑うその顔が、やばいくらいきれいで、写真に撮ってやりたくなった。
俺がレンズを向ける番も、きっと来る。
そのときはきっと、今まででいちばん、いい写真が撮れる気がした。
写真部の部室は、いつもより静かだった。
昨日までのバタバタが嘘みたいに、張り出す写真もほとんど決まっていて、あとは細かい位置調整とキャプションの確認だけ。
「ここ、もうちょい右かな」
「うん、そのほうがバランスいいかも」
佐伯と一年たちがわちゃわちゃやっているのを横目で見ながら、俺はパネルの端っこでキャプションを貼っていた。
夕方の光が、窓から斜めに差し込んでくる。
机の上のプリントにオレンジ色の帯ができて、それを見ているだけでも写真を撮りたくなる。
「よし、いったんここまでだな」
顧問が手を叩いた。
「貼り間違えとかないか、全員でもう一回チェックして、終わったやつから帰っていいぞ。ただし明日は本番だから、早く寝ろよ。夜更かしして写りが悪くなっても知らん」
「先生、それ言うなら化粧の話じゃないですか」
「男も顔色は大事だろ。お前ら自分が思ってるより見られてんだぞ。特に春日部」
「なんで俺限定ですか」
「目立つところに顔があるやつは、責任持て」
「またそれかよ……」
苦笑いしていると、顧問はにやっとして部室を出て行った。
それに続いて、部員たちも少しずつ片づけを始める。
「じゃ、俺、暗室の鍵返してくるわ」
「一年、残りのプリントしまっとけよ」
人が減っていくうちに、気づけば部室には俺と湊だけが残っていた。
「……静かになったな」
「ですね」
いつものパターンすぎて、ちょっと笑ってしまう。
「帰んないのか?」
「もうちょっと見てたいんで」
「何を」
「これです」
湊は、廊下側のパネルの前に立った。
そこには、あいつが選んだ展示写真が並んでいる。一年らしいフレッシュなスナップたち。その真ん中に、問題のポートレート。
窓際でカメラを構えている俺の横顔。
顧問のOKも出て、ついさっき貼り終えたばかりだ。
「そんなに俺の顔、眺めて楽しいか?」
「楽しいですよ」
即答。迷いがなさすぎる。
「先輩の表情、俺が好きなやつです」
「……そんなの、ある?」
思わず聞き返していた。
自分の表情のバリエーションなんて、意識したこともない。
「あります」
湊は、パネルに貼られた写真を見つめたまま言った。
「集中してるときと、ちょっと気が抜けたときの間くらいの顔」
「どんなタイミングだよ、それ」
「例えば、撮り終わってモニター確認して、『あ、いいの撮れた』ってなったときとか」
「そんな顔、してるか?」
「してます。今まで何回も見てます」
さらっと言われて、胸の奥がじんわり熱くなる。
何回も、って。そんなに俺の顔、見てたのか。
「この写真も、そういう顔してます」
「これ、ただの横顔だろ」
「ちゃんと分かります。先輩の目、ちょっとだけ、安心してる感じするから」
真剣な声だった。
からかってる感じじゃない。
俺はパネルに近づいて、写真をじっと見た。
夕陽が射し込む部室で、カメラを構えている自分。
確かに、眉間に余計な力は入ってない。誰かに向かって笑ってるわけでもないのに、どこか柔らかい。
そう言われて初めて、「悪くないかも」と思ってしまった自分が悔しい。
「……お前、本当に、よく見てるな」
「観察なんで」
「その言い方やめろって」
そう言いながらも、嫌じゃなかった。
むしろ、こいつにだけは見られていてもいいかもしれない、なんて、都合のいいことを考えている。
「先輩」
「ん」
「さっき先生、『自分が思ってるより見られてる』って言ってましたけど」
「言ってたな」
「俺、先輩のこと、世界でいちばん見てますよ」
心臓が、一拍遅れて跳ねた。
「……急にそういうこと言うなって」
「急じゃないです。ずっと言ってます」
「どこでだよ」
「行動で」
さらっと言うな。
コーヒー牛乳。
本屋。
屋上。
暗闇。
ポートレート。
全部、こいつの「行動」の結果だ。
頭では分かっていたけど、こうして言葉にされると、改めて重さが違う。
「でも、今日でそれもいったん区切りです」
「……区切り?」
聞き返すと、湊は少しだけ口を結んだ。
「明日、本番じゃないですか。文化祭」
「ああ、そうだな」
「だから、ちゃんと、言わないといけないことがあって」
言葉のトーンが変わったのが分かった。
ふざけてるときの軽さじゃない。屋上で「誤解されてもいい」と言ったときの、あの真剣さに近い。
夕陽がさらに傾いて、部室の中の光がゆっくりと色を変えていく。
オレンジが濃くなって、俺たちの影がパネルの上に伸びた。
湊の影と、俺の影が、ちょうど真ん中で重なる。
「先輩の全部、俺が知りたいんです」
静かな声だった。
でも、ちゃんと届いた。胸の真ん中に。
「……全部って」
「好きな飲み物とか、本屋でどこ立ち止まるかとか、そういうのだけじゃなくて」
湊は、ゆっくりと続けた。
「何見て笑うのかとか。何でしんどくなるのかとか。誰に何言われたら傷つくのかとか。そういうの、全部」
言葉をひとつ出すたびに、あいつの手が小さく震えているのが分かった。
それでも、視線は逃げない。まっすぐ、俺のほうに向けられている。
「先輩が自分で『どうせたいしたことない』って思ってるところも、ちゃんと知りたいです」
図星を刺されたみたいで、息が詰まった。
俺が、自分を大したことないって決めつけてることなんて、一言も言ってないのに。
「自分のこと、後回しにするクセも。写真撮るとき、誰より人のこと見てるのに、自分のことは全然見てないところも」
「お前……」
「それも全部含めて、『先輩』だって思ってるから」
そこまで言って、湊は小さく息を吐いた。
声がほんの少しだけ震い始めているのが分かる。
「先輩の全部、俺に教えてください」
夕陽の光の中で、その言葉だけがくっきりと浮かび上がる。
好き、とか、付き合ってください、とか。
そういう分かりやすいフレーズは、ひとつも出てこなかった。
なのに、伝わった。
こいつが俺を、ただの「先輩」とか「被写体」とかじゃなくて、ひとりの人間として、丸ごと欲しがってることが。
「……迷惑なのは分かってます」
湊は、小さく笑った。
笑っているのに、目の奥は全然笑ってない。
「年下のくせに、先輩のことこんなに見てて。勝手に写真撮って、勝手に好きになって」
初めて、はっきりと「好き」という言葉が出てきた。
頭の中で何度も予想したはずのセリフなのに、実際に聞いた瞬間、世界がきゅっと狭くなった気がした。
「先輩が笑う瞬間が、俺……」
そこで、言葉が途切れる。
「俺、たぶん、先輩が思ってるよりずっと、先輩の笑い方、知ってます」
震える声で、湊は続けた。
「コーヒー牛乳初めて飲んだときの笑い方とか。好きな写真見つけたときの笑い方とか。一年が撮った写真褒めるときの笑い方とか」
「やめろ、恥ずかしい」
「でも、俺に向けて笑ってくれるときが、いちばん好きで」
そこまで言われたところで、胸の奥から何かが込み上げてきた。
「だから、その顔、俺だけが知ってたらいいのになって、ずっと思ってて」
「……わがままだな」
「めちゃくちゃわがままです」
自分で認めながら、湊は俯いた。
握りしめた拳が、小刻みに震えている。
「こんなの、先輩にとって迷惑なのも分かってます。写真部の先輩と後輩っていう、ちょうどいい距離のままが楽だってことも」
そう言ってくるあたりが、ずるい。
俺だって、分かってる。
ここで何もなかったことにして、文化祭が終わって、「あのときは若かったな」って笑い話にするのが、一番楽だって。
でも。
「迷惑じゃない」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
湊の言葉を、そこで遮っていた。
「陽斗先輩?」
「迷惑じゃないって言ってんだろ」
声が少し上ずる。
でも、もう止められなかった。
「……ていうか」
視界がじわっと滲んでいるのに気づいて、あわてて瞬きをする。
こんなとこで泣くわけにはいかない。ここ、部室だぞ。文化祭前日だぞ。空気読め、俺。
「誰かに『全部知りたい』なんて言われたの、初めてだから」
そんなの、泣きそうになるに決まってる。
「俺なんかの全部、知っても、大したもんないぞ」
「そんなことないです」
「あるって。早起き苦手だし、数学赤点ギリギリだし、体育も普通だし。部長って言っても大したことしてないし。家帰ったらだらだらスマホいじって、写真撮りに行かない日も普通にあって」
「そういうのも全部、知りたいです」
即答だった。
「は?」
「だらだらしてる先輩とか、絶対かわいいじゃないですか」
「かわいくねえよ」
「俺から見たら、かわいいです」
さらっと言われて、やっぱり胸がぎゅっとなる。
「俺、先輩のこと、もう『写真撮ってるときだけ』とか『部室にいるときだけ』とかじゃなくて、普通に全部、好きなんで」
ああ、もうだめだ。
涙腺が、完全にキャパオーバーしてる。
俺は慌てて目頭を指で押さえた。
「泣かないでくださいよ」
「泣いてねえ」
「目、赤いです」
「夕陽のせいだろ」
「夕陽のせいですね」
そう言って、湊は少し笑った。
ひどい言い訳を成立させてくれるあたり、本当に優しい。
「俺さ」
涙が落ちないように、天井を見上げる。
部室の蛍光灯と、その下に並ぶ写真たちが、少し滲んで見える。
「ずっと、『誰かにちゃんと見られる』っていうのが、怖かったんだと思う」
「怖い、ですか」
「だって、見られたら、欠点も全部バレるだろ。変なとこばっか目立つし」
「欠点も含めて、ですよ」
「だから、それが怖かったんだよ」
言葉にしてみて、初めて自分でも納得した。
俺がレンズを向けるのは得意でも、向けられるのが苦手なのは、そのせいだ。
「でも、お前にだったら、別に……いいかなって」
湊の目が、少しだけ大きくなる。
「……今、なんて」
「一回しか言わねえから、自分で考えろ」
「ひどくないですか」
言いながらも、湊の声はほんの少し震えている。
その震えごと、愛しくてしょうがない、なんて単語が頭をよぎって、自分でびっくりした。
「先輩」
「ん」
「それ、期待していいやつですか」
「何をだよ」
「俺が先輩の全部、知ろうとしても、怒られないって期待です」
少しだけ間をおいて、俺は頷いた。
「怒らない」
「本当に?」
「しつこかったらキレるかもしれんけど」
「しつこくします」
「早いよ、返事」
でも、その即答が、ちょっと嬉しい。
「じゃあさ」
俺は一度深呼吸してから、湊の目を見た。
「俺のこと、撮っていいよ」
「え」
「前にも言ったけど、俺、顔撮られるの苦手でさ。見られてる感じするから、って」
「言ってました」
「でも、お前にだけは、ちゃんと撮ってほしい」
湊の喉が、ごくりと動く。
「俺がどんな顔してるときが、いちばんいいか、お前に判断してほしい」
それは、ある意味で、全部を預けるってことかもしれない。
「その代わり」
「はい」
「お前が何考えてるかも、ちゃんと俺に教えろよ」
「俺が、ですか」
「先輩の全部知りたいって言ったのお前だろ。そっちの全部も、教えろ」
自分でも、信じられないくらい素直な言葉が出てきた。
でも、もう止めない。
湊の「知りたい」に、俺も「知りたい」で返したかった。
「俺、鈍いからさ。言ってくれないと分かんねえし」
湊は、ほんの少しだけ俯いて、それから顔を上げた。
「……はい」
それは、今まででいちばん力のこもった返事だった。
「じゃあ改めて」
湊は、一歩近づいた。
夕陽がほとんど沈みかけていて、部室の中はオレンジ色から少しずつ青っぽく変わっていく。その境目の光の中で、あいつはまっすぐ俺を見る。
「先輩の全部、俺に教えてください」
さっきと同じ言葉なのに、今度は、まっすぐ胸に入ってきた。
逃げ道のない告白。
後輩のくせに、ずるいくらい真っ直ぐで、かっこよくて、かわいい。
「……分かった」
涙がこぼれないように、笑いながら答える。
「全部は、たぶん一気には無理だけど」
「ちょっとずつでいいです」
「じゃあ、文化祭終わってからな」
「なんでそこ区切るんですか」
「なんとなく、キリがいいだろ」
そう言うと、湊はふっと笑った。
夕陽と蛍光灯の境目で笑うその顔が、やばいくらいきれいで、写真に撮ってやりたくなった。
俺がレンズを向ける番も、きっと来る。
そのときはきっと、今まででいちばん、いい写真が撮れる気がした。



