文化祭前日。

 写真部の部室は、いつもより静かだった。
 昨日までのバタバタが嘘みたいに、張り出す写真もほとんど決まっていて、あとは細かい位置調整とキャプションの確認だけ。

「ここ、もうちょい右かな」

「うん、そのほうがバランスいいかも」

 佐伯と一年たちがわちゃわちゃやっているのを横目で見ながら、俺はパネルの端っこでキャプションを貼っていた。

 夕方の光が、窓から斜めに差し込んでくる。
 机の上のプリントにオレンジ色の帯ができて、それを見ているだけでも写真を撮りたくなる。

「よし、いったんここまでだな」

 顧問が手を叩いた。

「貼り間違えとかないか、全員でもう一回チェックして、終わったやつから帰っていいぞ。ただし明日は本番だから、早く寝ろよ。夜更かしして写りが悪くなっても知らん」

「先生、それ言うなら化粧の話じゃないですか」

「男も顔色は大事だろ。お前ら自分が思ってるより見られてんだぞ。特に春日部」

「なんで俺限定ですか」

「目立つところに顔があるやつは、責任持て」

「またそれかよ……」

 苦笑いしていると、顧問はにやっとして部室を出て行った。
 それに続いて、部員たちも少しずつ片づけを始める。

「じゃ、俺、暗室の鍵返してくるわ」

「一年、残りのプリントしまっとけよ」

 人が減っていくうちに、気づけば部室には俺と湊だけが残っていた。

「……静かになったな」

「ですね」

 いつものパターンすぎて、ちょっと笑ってしまう。

「帰んないのか?」

「もうちょっと見てたいんで」

「何を」

「これです」

 湊は、廊下側のパネルの前に立った。
 そこには、あいつが選んだ展示写真が並んでいる。一年らしいフレッシュなスナップたち。その真ん中に、問題のポートレート。

 窓際でカメラを構えている俺の横顔。

 顧問のOKも出て、ついさっき貼り終えたばかりだ。

「そんなに俺の顔、眺めて楽しいか?」

「楽しいですよ」

 即答。迷いがなさすぎる。

「先輩の表情、俺が好きなやつです」

「……そんなの、ある?」

 思わず聞き返していた。
 自分の表情のバリエーションなんて、意識したこともない。

「あります」

 湊は、パネルに貼られた写真を見つめたまま言った。

「集中してるときと、ちょっと気が抜けたときの間くらいの顔」

「どんなタイミングだよ、それ」

「例えば、撮り終わってモニター確認して、『あ、いいの撮れた』ってなったときとか」

「そんな顔、してるか?」

「してます。今まで何回も見てます」

 さらっと言われて、胸の奥がじんわり熱くなる。
 何回も、って。そんなに俺の顔、見てたのか。

「この写真も、そういう顔してます」

「これ、ただの横顔だろ」

「ちゃんと分かります。先輩の目、ちょっとだけ、安心してる感じするから」

 真剣な声だった。
 からかってる感じじゃない。

 俺はパネルに近づいて、写真をじっと見た。

 夕陽が射し込む部室で、カメラを構えている自分。
 確かに、眉間に余計な力は入ってない。誰かに向かって笑ってるわけでもないのに、どこか柔らかい。

 そう言われて初めて、「悪くないかも」と思ってしまった自分が悔しい。

「……お前、本当に、よく見てるな」

「観察なんで」

「その言い方やめろって」

 そう言いながらも、嫌じゃなかった。
 むしろ、こいつにだけは見られていてもいいかもしれない、なんて、都合のいいことを考えている。

「先輩」

「ん」

「さっき先生、『自分が思ってるより見られてる』って言ってましたけど」

「言ってたな」

「俺、先輩のこと、世界でいちばん見てますよ」

 心臓が、一拍遅れて跳ねた。

「……急にそういうこと言うなって」

「急じゃないです。ずっと言ってます」

「どこでだよ」

「行動で」

 さらっと言うな。

 コーヒー牛乳。
 本屋。
 屋上。
 暗闇。
 ポートレート。

 全部、こいつの「行動」の結果だ。

 頭では分かっていたけど、こうして言葉にされると、改めて重さが違う。

「でも、今日でそれもいったん区切りです」

「……区切り?」

 聞き返すと、湊は少しだけ口を結んだ。

「明日、本番じゃないですか。文化祭」

「ああ、そうだな」

「だから、ちゃんと、言わないといけないことがあって」

 言葉のトーンが変わったのが分かった。
 ふざけてるときの軽さじゃない。屋上で「誤解されてもいい」と言ったときの、あの真剣さに近い。

 夕陽がさらに傾いて、部室の中の光がゆっくりと色を変えていく。
 オレンジが濃くなって、俺たちの影がパネルの上に伸びた。

 湊の影と、俺の影が、ちょうど真ん中で重なる。

「先輩の全部、俺が知りたいんです」

 静かな声だった。
 でも、ちゃんと届いた。胸の真ん中に。

「……全部って」

「好きな飲み物とか、本屋でどこ立ち止まるかとか、そういうのだけじゃなくて」

 湊は、ゆっくりと続けた。

「何見て笑うのかとか。何でしんどくなるのかとか。誰に何言われたら傷つくのかとか。そういうの、全部」

 言葉をひとつ出すたびに、あいつの手が小さく震えているのが分かった。
 それでも、視線は逃げない。まっすぐ、俺のほうに向けられている。

「先輩が自分で『どうせたいしたことない』って思ってるところも、ちゃんと知りたいです」

 図星を刺されたみたいで、息が詰まった。

 俺が、自分を大したことないって決めつけてることなんて、一言も言ってないのに。

「自分のこと、後回しにするクセも。写真撮るとき、誰より人のこと見てるのに、自分のことは全然見てないところも」

「お前……」

「それも全部含めて、『先輩』だって思ってるから」

 そこまで言って、湊は小さく息を吐いた。
 声がほんの少しだけ震い始めているのが分かる。

「先輩の全部、俺に教えてください」

 夕陽の光の中で、その言葉だけがくっきりと浮かび上がる。

 好き、とか、付き合ってください、とか。
 そういう分かりやすいフレーズは、ひとつも出てこなかった。

 なのに、伝わった。

 こいつが俺を、ただの「先輩」とか「被写体」とかじゃなくて、ひとりの人間として、丸ごと欲しがってることが。

「……迷惑なのは分かってます」

 湊は、小さく笑った。
 笑っているのに、目の奥は全然笑ってない。

「年下のくせに、先輩のことこんなに見てて。勝手に写真撮って、勝手に好きになって」

 初めて、はっきりと「好き」という言葉が出てきた。

 頭の中で何度も予想したはずのセリフなのに、実際に聞いた瞬間、世界がきゅっと狭くなった気がした。

「先輩が笑う瞬間が、俺……」

 そこで、言葉が途切れる。

「俺、たぶん、先輩が思ってるよりずっと、先輩の笑い方、知ってます」

 震える声で、湊は続けた。

「コーヒー牛乳初めて飲んだときの笑い方とか。好きな写真見つけたときの笑い方とか。一年が撮った写真褒めるときの笑い方とか」

「やめろ、恥ずかしい」

「でも、俺に向けて笑ってくれるときが、いちばん好きで」

 そこまで言われたところで、胸の奥から何かが込み上げてきた。

「だから、その顔、俺だけが知ってたらいいのになって、ずっと思ってて」

「……わがままだな」

「めちゃくちゃわがままです」

 自分で認めながら、湊は俯いた。
 握りしめた拳が、小刻みに震えている。

「こんなの、先輩にとって迷惑なのも分かってます。写真部の先輩と後輩っていう、ちょうどいい距離のままが楽だってことも」

 そう言ってくるあたりが、ずるい。

 俺だって、分かってる。
 ここで何もなかったことにして、文化祭が終わって、「あのときは若かったな」って笑い話にするのが、一番楽だって。

 でも。

「迷惑じゃない」

 気づいたら、口が勝手に動いていた。

 湊の言葉を、そこで遮っていた。

「陽斗先輩?」

「迷惑じゃないって言ってんだろ」

 声が少し上ずる。
 でも、もう止められなかった。

「……ていうか」

 視界がじわっと滲んでいるのに気づいて、あわてて瞬きをする。
 こんなとこで泣くわけにはいかない。ここ、部室だぞ。文化祭前日だぞ。空気読め、俺。

「誰かに『全部知りたい』なんて言われたの、初めてだから」

 そんなの、泣きそうになるに決まってる。

「俺なんかの全部、知っても、大したもんないぞ」

「そんなことないです」

「あるって。早起き苦手だし、数学赤点ギリギリだし、体育も普通だし。部長って言っても大したことしてないし。家帰ったらだらだらスマホいじって、写真撮りに行かない日も普通にあって」

「そういうのも全部、知りたいです」

 即答だった。

「は?」

「だらだらしてる先輩とか、絶対かわいいじゃないですか」

「かわいくねえよ」

「俺から見たら、かわいいです」

 さらっと言われて、やっぱり胸がぎゅっとなる。

「俺、先輩のこと、もう『写真撮ってるときだけ』とか『部室にいるときだけ』とかじゃなくて、普通に全部、好きなんで」

 ああ、もうだめだ。
 涙腺が、完全にキャパオーバーしてる。

 俺は慌てて目頭を指で押さえた。

「泣かないでくださいよ」

「泣いてねえ」

「目、赤いです」

「夕陽のせいだろ」

「夕陽のせいですね」

 そう言って、湊は少し笑った。
 ひどい言い訳を成立させてくれるあたり、本当に優しい。

「俺さ」

 涙が落ちないように、天井を見上げる。
 部室の蛍光灯と、その下に並ぶ写真たちが、少し滲んで見える。

「ずっと、『誰かにちゃんと見られる』っていうのが、怖かったんだと思う」

「怖い、ですか」

「だって、見られたら、欠点も全部バレるだろ。変なとこばっか目立つし」

「欠点も含めて、ですよ」

「だから、それが怖かったんだよ」

 言葉にしてみて、初めて自分でも納得した。
 俺がレンズを向けるのは得意でも、向けられるのが苦手なのは、そのせいだ。

「でも、お前にだったら、別に……いいかなって」

 湊の目が、少しだけ大きくなる。

「……今、なんて」

「一回しか言わねえから、自分で考えろ」

「ひどくないですか」

 言いながらも、湊の声はほんの少し震えている。
 その震えごと、愛しくてしょうがない、なんて単語が頭をよぎって、自分でびっくりした。

「先輩」

「ん」

「それ、期待していいやつですか」

「何をだよ」

「俺が先輩の全部、知ろうとしても、怒られないって期待です」

 少しだけ間をおいて、俺は頷いた。

「怒らない」

「本当に?」

「しつこかったらキレるかもしれんけど」

「しつこくします」

「早いよ、返事」

 でも、その即答が、ちょっと嬉しい。

「じゃあさ」

 俺は一度深呼吸してから、湊の目を見た。

「俺のこと、撮っていいよ」

「え」

「前にも言ったけど、俺、顔撮られるの苦手でさ。見られてる感じするから、って」

「言ってました」

「でも、お前にだけは、ちゃんと撮ってほしい」

 湊の喉が、ごくりと動く。

「俺がどんな顔してるときが、いちばんいいか、お前に判断してほしい」

 それは、ある意味で、全部を預けるってことかもしれない。

「その代わり」

「はい」

「お前が何考えてるかも、ちゃんと俺に教えろよ」

「俺が、ですか」

「先輩の全部知りたいって言ったのお前だろ。そっちの全部も、教えろ」

 自分でも、信じられないくらい素直な言葉が出てきた。

 でも、もう止めない。

 湊の「知りたい」に、俺も「知りたい」で返したかった。

「俺、鈍いからさ。言ってくれないと分かんねえし」

 湊は、ほんの少しだけ俯いて、それから顔を上げた。

「……はい」

 それは、今まででいちばん力のこもった返事だった。

「じゃあ改めて」

 湊は、一歩近づいた。

 夕陽がほとんど沈みかけていて、部室の中はオレンジ色から少しずつ青っぽく変わっていく。その境目の光の中で、あいつはまっすぐ俺を見る。

「先輩の全部、俺に教えてください」

 さっきと同じ言葉なのに、今度は、まっすぐ胸に入ってきた。

 逃げ道のない告白。
 後輩のくせに、ずるいくらい真っ直ぐで、かっこよくて、かわいい。

「……分かった」

 涙がこぼれないように、笑いながら答える。

「全部は、たぶん一気には無理だけど」

「ちょっとずつでいいです」

「じゃあ、文化祭終わってからな」

「なんでそこ区切るんですか」

「なんとなく、キリがいいだろ」

 そう言うと、湊はふっと笑った。
 夕陽と蛍光灯の境目で笑うその顔が、やばいくらいきれいで、写真に撮ってやりたくなった。

 俺がレンズを向ける番も、きっと来る。

 そのときはきっと、今まででいちばん、いい写真が撮れる気がした。