文化祭まで、あと一週間。

 写真部の部室は、いつも以上にごちゃごちゃしていた。
 プリントした写真が机の上にずらっと並び、パネル用のボードが壁に立てかけられている。テープとハサミとペン。床にはダンボール。

「陽斗、こっちのプリント、縁切ってくれない?」

「おう」

 カッターを動かしながら、ふと視界の端に見慣れた後ろ姿が見えた。

 湊だ。

 一年のテーブルの少し離れたところで、自分の作品候補を並べて、真剣な顔で見比べている。廊下のスナップ、校庭、教室。どれも湊らしい、距離感の近い写真だ。

「湊、決まりそう?」

 近くを通ったついでに声をかけると、湊は「あ」と顔を上げた。

「まだ悩んでます」

「どれでも良さそうだけどな。廊下のやつとか、顧問も褒めてたし」

「それも出したいんですけど」

 言いながら、湊は一枚の写真を指先でつまみ上げた。

 見た瞬間、呼吸が止まりかけた。

「ちょ、それ」

 そこに写っていたのは、俺だった。

 部室の窓際で、カメラを構えている横顔。夕方の光が頬に当たっていて、背景は少しぼけている。前にもスマホで見たことがあるアングルだ。でも、こっちはちゃんとプリントされていて、色もディテールも段違いにきれいだった。

「これも、候補で悩んでて」

「なんでそこで俺が出てくるんだよ」

「だめですか」

「だめっていうか……俺なんかの顔、出しても誰も得しないだろ」

 自分の顔が人目に晒される想像をしただけで、胃がきゅっとなる。
 部誌用とか、部員内だけで回すのはまだマシだけど、文化祭の廊下って、全校生徒+近所の人+保護者が通るんだぞ。

「得しますよ」

「どこ情報だよ、それ」

「僕です」

 即答だった。

 あまりにも迷いがなくて、思わず黙る。

「先輩」

「……なに」

「この写真、僕がいちばん好きなんです」

 湊は、プリントを胸の前に持ったまま、まっすぐこっちを見る。
 その目が、シャッターを切る前と同じくらい真剣で、冗談半分みたいな逃げ道を許してくれない。

「先輩の顔、俺は好きなんで」

 ぽん、と落とされた言葉が、部室のざわざわを一瞬だけ遠くに押しやった。

「……は?」

 聞き返す声が、情けないくらい裏返る。

 好き。
 俺の顔を、好き。

 それって、どういう「好き」だ。
 カメラマンとして? 被写体として? それとも──。

 頭の中で、いくつもの選択肢が一気に出てきて、どれもちゃんと掴めないうちに、心臓が先に反応した。さっきまでカッター握っていた手のひらが汗ばんでくる。

「ちょ、待て。そういうの、さらっと言うなって」

「さらっとじゃないですよ。結構、勇気出しました」

「……やめろ、そういう追加情報」

 心の準備ってもんがあるだろ。
 いや、そもそも、そんな準備をする予定もなかったけど。

「顔、赤いです」

「うるさい」

「写真だと、赤くなるの分かりづらいんで、今の顔も撮っときたいんですけど」

「撮るな」

 反射的に拒否したのに、湊は「ですよね」と笑った。
 いつもの、ちょっとだけ意地悪そうな笑い方。でも、その目の奥に、微妙な緊張が残っているのが分かる。

「展示に使うのは、もっとちゃんとしたやつにします」

「ちゃんとしたやつって何だよ」

「先輩が、ちゃんと前向いてるやつです」

「前向きたくないんだけど」

「僕が撮るんで、心配しなくて大丈夫です」

 そんな問題じゃない。
 けど、まっすぐ言い切られると、これ以上は押し切れなかった。

「……一応、顧問にも聞いとけよ。人の顔出すの、許可とかいるだろ」

「もちろんです。許可、もらえますよね?」

「本人に聞け」

「じゃあ、今、聞いてます」

 完全に追い込まれている自覚があった。
 でも、不思議なことに、「嫌だ」と言い切る言葉が喉で引っかかる。

 湊が好きだと言ったこの写真を、簡単に否定するのも、なんか違う気がした。

「……変な顔写ってないなら、別に」

「ありがとうございます」

 ぱっと表情が明るくなった湊を見て、胸の奥がぎゅっとなる。
 なんでそんな顔するんだよ。そんなに俺の顔が大事なのか。

 いや、そんなわけ──。

「春日部ー、テープどこー?」

 離れたところから佐伯の声が飛んできて、俺は反射的にそっちを向いた。

「はいはい、今行く!」

 勢いよく返事してしまったのは、たぶん、これ以上ここにいたら心臓がもたないって直感したからだ。

 湊の「好き」がどの意味でも、今の俺には強すぎた。

     ◇

 その日の夕方、部室は一気に忙しくなった。
 パネルに写真を貼る人、キャプションを書き込む人、レイアウトを確認する人。顧問が時々見回りに来て、ああだこうだ言って去っていく。

「陽斗、ここの間隔、もうちょい詰めたほうが良くない?」

「そうだな。三センチくらい詰めるか」

「湊ー、例のポートレート、どこ置くか決めた?」

 佐伯の問いに、俺の耳が勝手に反応する。

「まだですけど、廊下の真ん中はどうかなって」

「真ん中って、かなり目立つぞ」

「目立っていいんで」

 いつもよりほんの少しだけ強めのトーンだった。

 っていうか、「目立っていいんで」って何だよ。
 自分の写真じゃなくて、先輩の顔で目立つつもりか。

「春日部、いいのか、それで」

 顧問が、レイアウト表を見ながらこっちをちらっと見る。

「え、あ、はい。一年の作品だし」

「ふうん。お前の顔だって、作品の一部なんだから、ちゃんと責任持てよ」

「顔に責任って何すか」

「そのまんまだよ」

 顧問は意味ありげなことを言い残して、プリントの山へと歩いていった。

 責任持てとか言われても。
 自分の顔に責任持てる人間がどれだけいるんだよ。少なくとも俺は無理だ。

「先輩」

 真横から声をかけられて、びくっと肩が跳ねた。

「お前、急に現れるなって」

「さっきからずっとここにいました」

「マジで? 全然気づかなかった」

「夢中でレイアウトいじってる先輩、結構レアなんで、邪魔しないようにしてました」

「レアって」

「いい顔してました」

 そう言って、湊はパネルの前に立つ。
 例のポートレートを、他の写真の間にかざしてみて、距離感を測っている。

「ここだと目立ちすぎですかね」

「十分目立つな」

 パネルのど真ん中。
 まるで主役みたいな位置だ。自分の顔なのに、笑えるくらい他人事っぽい。

「でも、ここがいちばん先輩っぽいです」

「先輩っぽいって、どういう」

「真ん中にいるくせに、ちょっと引いてる感じが」

「悪口?」

「褒めてます」

 どこがだよ、とツッコみながらも、ちょっとだけ納得してしまう自分が悔しい。

 俺は、中心に立つタイプじゃない。
 でも、写真部のパネルの真ん中に、偶然でも立つことになった。

 そのきっかけを作ったのが、こいつっていうのが、ややこしい。

     ◇

 作業に夢中になっていると、突然、ぱちん、と音がして、部室の蛍光灯が一斉に消えた。

「え」

「うわ、停電?」

 ざわっと声が上がる。
 部室の窓から入る夕方の光だけが頼りで、急にあたりが薄暗くなった。

「誰か、ブレーカー見てこい」

 顧問の声が飛んで、すぐに数人がばたばたと廊下に出ていく。

 残った部室の中で、プリントの山がぼんやりと浮かび上がっていた。手元のカッターとか、うっかり踏んだら危ないやつがそこら中にある。

「陽斗先輩」

 暗さに慣れない目の前で、急に手首をつかまれた。

「わっ」

「すみません。暗いとこでケガしたらやなんで」

 湊の声は、いつもより少しだけ近くて、小さい。

「ビビらせんなよ」

「その場で変なとこ踏んだら、もっとビビります」

 そのまま、ぐっと引かれて、俺は壁際に移動させられた。
 背中が棚に軽く当たって、足元から危ないものが遠ざかる。

 湊の手は、まだ俺の手首を握ったままだった。

 指が、思ってたより細くて、熱い。

「もう平気だって」

「まだよく見えないんで」

「窓からの光あるだろ」

「それでも、心配なんで」

 心配。
 さっきから、こいつの言うことがいちいち真っ直ぐで、ずるい。

 暗さに目が慣れてきて、湊の顔がなんとなく見える。いつもより近い。俺と同じように、少しだけきょろきょろしていて、それでも手だけは離さない。

「そんなに俺、危なっかしく見えるか?」

「危なっかしいっていうか」

「っていうか?」

「自分のこと、後回しにしそうなんで」

「は?」

「写真と、部員と、文化祭と。そういうの優先して、自分のこと一番最後にしそうだから、ちょっと怖いです」

 暗がりの中で、湊の言葉だけがやけにクリアに聞こえる。

「……大げさだろ」

「大げさじゃないです」

 手首をつかむ力が、ほんの少しだけ強くなった。

 心臓の音が、急にうるさくなる。
 さっきまでただの暗がりだったのに、今は、こいつの体温と呼吸と、距離の近さしか感じない。

「お前さ」

「はい」

「なんで、そんなに俺のこと気にすんだよ」

 ずっと前から聞きたかった疑問が、ようやく口から出てきた。

 コーヒー牛乳。
 本屋。
 屋上。
 展示。
 ポートレート。

 ひとつひとつは些細なことなのに、積み重なったら、もう「たまたま」では片づけられない量になっている。

「なんでって」

 湊は、少しだけ息を吸った。暗い中でも、それが分かるくらいに。

「……言ったら、困らせますよね」

「それは、お前が決めることじゃないだろ」

「僕は、困らせたくないです」

 短い沈黙が落ちる。
 どこか遠くで、ブレーカーをいじる音がかすかに聞こえた。

「先輩を困らせたくないし。嫌われたくないんで」

「嫌わねーよ」

 反射的に出た言葉に、湊の指がびくっと動いた。

「なんで、そんな自信あります?」

「自信とかじゃなくて……」

 そこまで言って、気づく。
 俺は、こいつを嫌いだって、一度も思ったことがない。

 むしろ。

 むしろ、こいつが部室に入ってくるだけで、どこかほっとする自分がいる。
 コーヒー牛乳を渡されると、嬉しい。
 「先輩」って呼ばれるのが、当たり前になってきた。

 そんな自分の反応を、「後輩に懐かれてるから」とだけで片づけてきたけれど。

「……嫌いなわけ、ないだろ」

 気づけば、素直すぎる言葉が口から出ていた。

 言った瞬間、自分で自分に驚いた。
 でも、もう取り消せない。

 湊の指先から、じわっと熱が伝わってくる。
 さっきよりも、ずっと近い距離で。

「……ずるいですね」

「え?」

「そういうこと言われると、言いたくなります」

「何を」

「内緒です」

 またそれだ。
 でも、さっきまでと違って、今の「内緒」は、どこか苦しそうに聞こえた。

「湊」

「……はい」

「さっきの、『好き』ってやつ」

 暗がりの中で、まっすぐ見られている気がする。
 自分でも分かるくらい、声が震えていた。

「それって、その……写真として好きって意味、だけか?」

 問い終わった瞬間、心臓が喉まで上がってきた。
 答えを知りたいような、知りたくないような。

 湊は、少しだけ沈黙した。その一秒一秒が、やたら長く感じる。

「……文化祭、頑張りましょう」

 返ってきたのは、全然関係ない言葉だった。

「は?」

「展示、ちゃんと成功させたいんで。先輩の写真も、絶対、見てもらいたいし」

 強引に話を逸らされたのは分かった。
 でも、その声が、ほんの少しだけ震えているのも分かった。

「電気、そろそろ直りますよ」

 湊はそう言って、ようやく俺の手首から手を離した。
 急に涼しくなった感覚に、変な喪失感が追いかけてくる。

 そのタイミングを見計らったように、ぱちん、と音がして、部室の蛍光灯が一斉に点いた。

「おお、ついた!」

「助かったー!」

 周りの歓声に紛れて、俺はゆっくりと目を瞬かせる。
 さっきまで暗がりで近かった距離が、光の中で、急に現実味を持って押し寄せてきた。

 湊は少し離れたところで、パネルの位置を直していた。
 さっきまで俺の手首を握っていた人間とは思えないくらい、普通の顔をしている。

 でも、耳の先だけが、わずかに赤い。

     ◇

 帰り道。
 文化祭準備で遅くなった校門を出たところで、俺はつい、湊を横目で見た。

「お前、今日さ」

「はい」

「ずっと変だったぞ」

「どこらへんがですか」

「いつも変だけど、今日はさらに、って意味」

「ひどくないですか」

 口では文句を言いながらも、湊は笑った。
 今日はコーヒー牛乳じゃなくて、オレンジジュースを飲んでいる。俺は久々に、炭酸を選んだ。

「展示のこと、緊張してるんで」

「ポートレートのせいか?」

「それもあります」

 それも。
 じゃあ、残りの理由は何だ。

「なあ、湊」

「はい」

「お前さ。俺のこと、好きなのか?」

 足が勝手に止まった。

 言った瞬間、「バカか」と自分にツッコみたくなった。
 聞いたら終わるかもしれないことを、俺は今、平然と聞いた。

 でも、もう止められなかった。
 屋上で「誤解されてもいい」と言われたときから、ずっと喉の奥に引っかかっていた疑問だ。

 湊は、少し先まで歩いていた足を止めて、ゆっくり振り返る。

「それ、今、聞きます?」

「今しか聞けない気がする」

「どうしてですか」

「文化祭終わったら、なんか、全部普通に戻りそうだから」

 俺は自分でも驚くくらい、ちゃんと言葉を選んでいた。

「展示の準備とか、屋上とか、部室の暗がりとか。そういうの全部含めて、今が一番、変だから」

「変って」

「いい意味で、だよ」

 湊の目が、少しだけ見開かれる。
 いつもの冗談じゃなくて、本気で驚いた顔だった。

「俺、ずっと、『後輩に懐かれてる』って思ってたけど」

「懐いてますよ」

「それだけじゃ、説明つかないだろ」

 コーヒー牛乳。
 オレンジジュース。
 本屋。
 屋上。
 ポートレート。
 暗闇の中の手首。

 ひとつひとつが、ただの「いい後輩」で済ませるには、少しずつ重すぎる。

「今日、お前に『先輩の顔、好きなんで』って言われて」

 言葉にすると、また心臓が騒ぎ出す。
 それでも、目をそらしたくなかった。

「変なの。俺、ちょっと嬉しかったんだよ」

 湊の喉が、小さく動いた。

「……ずるいですね、先輩」

「何がだよ」

「そういうこと言われると、本当にもう、黙ってられなくなるんで」

 湊は、ぐっと数歩分、距離を詰めてきた。
 さっき部室で感じた距離と、同じくらいの近さ。

「でも」

 そこで、一度だけ言葉を飲み込む。

「文化祭までは、ちゃんと、写真部の後輩でいたいです」

「は?」

「変なこと言って、雰囲気悪くしたくないんで」

 そう言って、湊は笑った。
 さっきまでの、ちょっと苦しそうな笑いじゃない。いつもの、少しだけ甘えたみたいな笑顔。

「だから、文化祭終わるまでの間は、俺のこと、『ちょっと重い写真バカな後輩』だと思っててください」

「今もそう思ってるけど」

「ひどくないですか」

 ちゃかすようなやり取りに戻ったのに、胸の奥にはさっきの言葉が残っていた。

 文化祭までは、後輩。

 じゃあ、その先は?

 聞きたい。
 でも、今聞いたら、こいつの「ちゃんとしたい」が壊れてしまいそうで、やめた。

「……分かった」

 代わりに、別の言葉を選ぶ。

「文化祭終わるまでは、写真バカな後輩ってことにしとく」

「ちゃんと『ちょっと重い』も付けといてくださいね」

「図々しいな」

 それでも、笑っていられた。

 気づいてしまった。この気持ちに。

 こいつに向ける視線が、いつの間にか、ただの「先輩と後輩」のそれじゃなくなっていることに。

 でも、その名前をまだ口に出さないでいられる猶予を、文化祭がくれている気がした。

 その猶予の中で、俺はたぶん、もう少しだけ、湊のレンズに撮られるんだろう。

 そして、そのたびに、少しずつ、自分の気持ちを認めていくのだと思う。