文化祭まで、あと一週間。
写真部の部室は、いつも以上にごちゃごちゃしていた。
プリントした写真が机の上にずらっと並び、パネル用のボードが壁に立てかけられている。テープとハサミとペン。床にはダンボール。
「陽斗、こっちのプリント、縁切ってくれない?」
「おう」
カッターを動かしながら、ふと視界の端に見慣れた後ろ姿が見えた。
湊だ。
一年のテーブルの少し離れたところで、自分の作品候補を並べて、真剣な顔で見比べている。廊下のスナップ、校庭、教室。どれも湊らしい、距離感の近い写真だ。
「湊、決まりそう?」
近くを通ったついでに声をかけると、湊は「あ」と顔を上げた。
「まだ悩んでます」
「どれでも良さそうだけどな。廊下のやつとか、顧問も褒めてたし」
「それも出したいんですけど」
言いながら、湊は一枚の写真を指先でつまみ上げた。
見た瞬間、呼吸が止まりかけた。
「ちょ、それ」
そこに写っていたのは、俺だった。
部室の窓際で、カメラを構えている横顔。夕方の光が頬に当たっていて、背景は少しぼけている。前にもスマホで見たことがあるアングルだ。でも、こっちはちゃんとプリントされていて、色もディテールも段違いにきれいだった。
「これも、候補で悩んでて」
「なんでそこで俺が出てくるんだよ」
「だめですか」
「だめっていうか……俺なんかの顔、出しても誰も得しないだろ」
自分の顔が人目に晒される想像をしただけで、胃がきゅっとなる。
部誌用とか、部員内だけで回すのはまだマシだけど、文化祭の廊下って、全校生徒+近所の人+保護者が通るんだぞ。
「得しますよ」
「どこ情報だよ、それ」
「僕です」
即答だった。
あまりにも迷いがなくて、思わず黙る。
「先輩」
「……なに」
「この写真、僕がいちばん好きなんです」
湊は、プリントを胸の前に持ったまま、まっすぐこっちを見る。
その目が、シャッターを切る前と同じくらい真剣で、冗談半分みたいな逃げ道を許してくれない。
「先輩の顔、俺は好きなんで」
ぽん、と落とされた言葉が、部室のざわざわを一瞬だけ遠くに押しやった。
「……は?」
聞き返す声が、情けないくらい裏返る。
好き。
俺の顔を、好き。
それって、どういう「好き」だ。
カメラマンとして? 被写体として? それとも──。
頭の中で、いくつもの選択肢が一気に出てきて、どれもちゃんと掴めないうちに、心臓が先に反応した。さっきまでカッター握っていた手のひらが汗ばんでくる。
「ちょ、待て。そういうの、さらっと言うなって」
「さらっとじゃないですよ。結構、勇気出しました」
「……やめろ、そういう追加情報」
心の準備ってもんがあるだろ。
いや、そもそも、そんな準備をする予定もなかったけど。
「顔、赤いです」
「うるさい」
「写真だと、赤くなるの分かりづらいんで、今の顔も撮っときたいんですけど」
「撮るな」
反射的に拒否したのに、湊は「ですよね」と笑った。
いつもの、ちょっとだけ意地悪そうな笑い方。でも、その目の奥に、微妙な緊張が残っているのが分かる。
「展示に使うのは、もっとちゃんとしたやつにします」
「ちゃんとしたやつって何だよ」
「先輩が、ちゃんと前向いてるやつです」
「前向きたくないんだけど」
「僕が撮るんで、心配しなくて大丈夫です」
そんな問題じゃない。
けど、まっすぐ言い切られると、これ以上は押し切れなかった。
「……一応、顧問にも聞いとけよ。人の顔出すの、許可とかいるだろ」
「もちろんです。許可、もらえますよね?」
「本人に聞け」
「じゃあ、今、聞いてます」
完全に追い込まれている自覚があった。
でも、不思議なことに、「嫌だ」と言い切る言葉が喉で引っかかる。
湊が好きだと言ったこの写真を、簡単に否定するのも、なんか違う気がした。
「……変な顔写ってないなら、別に」
「ありがとうございます」
ぱっと表情が明るくなった湊を見て、胸の奥がぎゅっとなる。
なんでそんな顔するんだよ。そんなに俺の顔が大事なのか。
いや、そんなわけ──。
「春日部ー、テープどこー?」
離れたところから佐伯の声が飛んできて、俺は反射的にそっちを向いた。
「はいはい、今行く!」
勢いよく返事してしまったのは、たぶん、これ以上ここにいたら心臓がもたないって直感したからだ。
湊の「好き」がどの意味でも、今の俺には強すぎた。
◇
その日の夕方、部室は一気に忙しくなった。
パネルに写真を貼る人、キャプションを書き込む人、レイアウトを確認する人。顧問が時々見回りに来て、ああだこうだ言って去っていく。
「陽斗、ここの間隔、もうちょい詰めたほうが良くない?」
「そうだな。三センチくらい詰めるか」
「湊ー、例のポートレート、どこ置くか決めた?」
佐伯の問いに、俺の耳が勝手に反応する。
「まだですけど、廊下の真ん中はどうかなって」
「真ん中って、かなり目立つぞ」
「目立っていいんで」
いつもよりほんの少しだけ強めのトーンだった。
っていうか、「目立っていいんで」って何だよ。
自分の写真じゃなくて、先輩の顔で目立つつもりか。
「春日部、いいのか、それで」
顧問が、レイアウト表を見ながらこっちをちらっと見る。
「え、あ、はい。一年の作品だし」
「ふうん。お前の顔だって、作品の一部なんだから、ちゃんと責任持てよ」
「顔に責任って何すか」
「そのまんまだよ」
顧問は意味ありげなことを言い残して、プリントの山へと歩いていった。
責任持てとか言われても。
自分の顔に責任持てる人間がどれだけいるんだよ。少なくとも俺は無理だ。
「先輩」
真横から声をかけられて、びくっと肩が跳ねた。
「お前、急に現れるなって」
「さっきからずっとここにいました」
「マジで? 全然気づかなかった」
「夢中でレイアウトいじってる先輩、結構レアなんで、邪魔しないようにしてました」
「レアって」
「いい顔してました」
そう言って、湊はパネルの前に立つ。
例のポートレートを、他の写真の間にかざしてみて、距離感を測っている。
「ここだと目立ちすぎですかね」
「十分目立つな」
パネルのど真ん中。
まるで主役みたいな位置だ。自分の顔なのに、笑えるくらい他人事っぽい。
「でも、ここがいちばん先輩っぽいです」
「先輩っぽいって、どういう」
「真ん中にいるくせに、ちょっと引いてる感じが」
「悪口?」
「褒めてます」
どこがだよ、とツッコみながらも、ちょっとだけ納得してしまう自分が悔しい。
俺は、中心に立つタイプじゃない。
でも、写真部のパネルの真ん中に、偶然でも立つことになった。
そのきっかけを作ったのが、こいつっていうのが、ややこしい。
◇
作業に夢中になっていると、突然、ぱちん、と音がして、部室の蛍光灯が一斉に消えた。
「え」
「うわ、停電?」
ざわっと声が上がる。
部室の窓から入る夕方の光だけが頼りで、急にあたりが薄暗くなった。
「誰か、ブレーカー見てこい」
顧問の声が飛んで、すぐに数人がばたばたと廊下に出ていく。
残った部室の中で、プリントの山がぼんやりと浮かび上がっていた。手元のカッターとか、うっかり踏んだら危ないやつがそこら中にある。
「陽斗先輩」
暗さに慣れない目の前で、急に手首をつかまれた。
「わっ」
「すみません。暗いとこでケガしたらやなんで」
湊の声は、いつもより少しだけ近くて、小さい。
「ビビらせんなよ」
「その場で変なとこ踏んだら、もっとビビります」
そのまま、ぐっと引かれて、俺は壁際に移動させられた。
背中が棚に軽く当たって、足元から危ないものが遠ざかる。
湊の手は、まだ俺の手首を握ったままだった。
指が、思ってたより細くて、熱い。
「もう平気だって」
「まだよく見えないんで」
「窓からの光あるだろ」
「それでも、心配なんで」
心配。
さっきから、こいつの言うことがいちいち真っ直ぐで、ずるい。
暗さに目が慣れてきて、湊の顔がなんとなく見える。いつもより近い。俺と同じように、少しだけきょろきょろしていて、それでも手だけは離さない。
「そんなに俺、危なっかしく見えるか?」
「危なっかしいっていうか」
「っていうか?」
「自分のこと、後回しにしそうなんで」
「は?」
「写真と、部員と、文化祭と。そういうの優先して、自分のこと一番最後にしそうだから、ちょっと怖いです」
暗がりの中で、湊の言葉だけがやけにクリアに聞こえる。
「……大げさだろ」
「大げさじゃないです」
手首をつかむ力が、ほんの少しだけ強くなった。
心臓の音が、急にうるさくなる。
さっきまでただの暗がりだったのに、今は、こいつの体温と呼吸と、距離の近さしか感じない。
「お前さ」
「はい」
「なんで、そんなに俺のこと気にすんだよ」
ずっと前から聞きたかった疑問が、ようやく口から出てきた。
コーヒー牛乳。
本屋。
屋上。
展示。
ポートレート。
ひとつひとつは些細なことなのに、積み重なったら、もう「たまたま」では片づけられない量になっている。
「なんでって」
湊は、少しだけ息を吸った。暗い中でも、それが分かるくらいに。
「……言ったら、困らせますよね」
「それは、お前が決めることじゃないだろ」
「僕は、困らせたくないです」
短い沈黙が落ちる。
どこか遠くで、ブレーカーをいじる音がかすかに聞こえた。
「先輩を困らせたくないし。嫌われたくないんで」
「嫌わねーよ」
反射的に出た言葉に、湊の指がびくっと動いた。
「なんで、そんな自信あります?」
「自信とかじゃなくて……」
そこまで言って、気づく。
俺は、こいつを嫌いだって、一度も思ったことがない。
むしろ。
むしろ、こいつが部室に入ってくるだけで、どこかほっとする自分がいる。
コーヒー牛乳を渡されると、嬉しい。
「先輩」って呼ばれるのが、当たり前になってきた。
そんな自分の反応を、「後輩に懐かれてるから」とだけで片づけてきたけれど。
「……嫌いなわけ、ないだろ」
気づけば、素直すぎる言葉が口から出ていた。
言った瞬間、自分で自分に驚いた。
でも、もう取り消せない。
湊の指先から、じわっと熱が伝わってくる。
さっきよりも、ずっと近い距離で。
「……ずるいですね」
「え?」
「そういうこと言われると、言いたくなります」
「何を」
「内緒です」
またそれだ。
でも、さっきまでと違って、今の「内緒」は、どこか苦しそうに聞こえた。
「湊」
「……はい」
「さっきの、『好き』ってやつ」
暗がりの中で、まっすぐ見られている気がする。
自分でも分かるくらい、声が震えていた。
「それって、その……写真として好きって意味、だけか?」
問い終わった瞬間、心臓が喉まで上がってきた。
答えを知りたいような、知りたくないような。
湊は、少しだけ沈黙した。その一秒一秒が、やたら長く感じる。
「……文化祭、頑張りましょう」
返ってきたのは、全然関係ない言葉だった。
「は?」
「展示、ちゃんと成功させたいんで。先輩の写真も、絶対、見てもらいたいし」
強引に話を逸らされたのは分かった。
でも、その声が、ほんの少しだけ震えているのも分かった。
「電気、そろそろ直りますよ」
湊はそう言って、ようやく俺の手首から手を離した。
急に涼しくなった感覚に、変な喪失感が追いかけてくる。
そのタイミングを見計らったように、ぱちん、と音がして、部室の蛍光灯が一斉に点いた。
「おお、ついた!」
「助かったー!」
周りの歓声に紛れて、俺はゆっくりと目を瞬かせる。
さっきまで暗がりで近かった距離が、光の中で、急に現実味を持って押し寄せてきた。
湊は少し離れたところで、パネルの位置を直していた。
さっきまで俺の手首を握っていた人間とは思えないくらい、普通の顔をしている。
でも、耳の先だけが、わずかに赤い。
◇
帰り道。
文化祭準備で遅くなった校門を出たところで、俺はつい、湊を横目で見た。
「お前、今日さ」
「はい」
「ずっと変だったぞ」
「どこらへんがですか」
「いつも変だけど、今日はさらに、って意味」
「ひどくないですか」
口では文句を言いながらも、湊は笑った。
今日はコーヒー牛乳じゃなくて、オレンジジュースを飲んでいる。俺は久々に、炭酸を選んだ。
「展示のこと、緊張してるんで」
「ポートレートのせいか?」
「それもあります」
それも。
じゃあ、残りの理由は何だ。
「なあ、湊」
「はい」
「お前さ。俺のこと、好きなのか?」
足が勝手に止まった。
言った瞬間、「バカか」と自分にツッコみたくなった。
聞いたら終わるかもしれないことを、俺は今、平然と聞いた。
でも、もう止められなかった。
屋上で「誤解されてもいい」と言われたときから、ずっと喉の奥に引っかかっていた疑問だ。
湊は、少し先まで歩いていた足を止めて、ゆっくり振り返る。
「それ、今、聞きます?」
「今しか聞けない気がする」
「どうしてですか」
「文化祭終わったら、なんか、全部普通に戻りそうだから」
俺は自分でも驚くくらい、ちゃんと言葉を選んでいた。
「展示の準備とか、屋上とか、部室の暗がりとか。そういうの全部含めて、今が一番、変だから」
「変って」
「いい意味で、だよ」
湊の目が、少しだけ見開かれる。
いつもの冗談じゃなくて、本気で驚いた顔だった。
「俺、ずっと、『後輩に懐かれてる』って思ってたけど」
「懐いてますよ」
「それだけじゃ、説明つかないだろ」
コーヒー牛乳。
オレンジジュース。
本屋。
屋上。
ポートレート。
暗闇の中の手首。
ひとつひとつが、ただの「いい後輩」で済ませるには、少しずつ重すぎる。
「今日、お前に『先輩の顔、好きなんで』って言われて」
言葉にすると、また心臓が騒ぎ出す。
それでも、目をそらしたくなかった。
「変なの。俺、ちょっと嬉しかったんだよ」
湊の喉が、小さく動いた。
「……ずるいですね、先輩」
「何がだよ」
「そういうこと言われると、本当にもう、黙ってられなくなるんで」
湊は、ぐっと数歩分、距離を詰めてきた。
さっき部室で感じた距離と、同じくらいの近さ。
「でも」
そこで、一度だけ言葉を飲み込む。
「文化祭までは、ちゃんと、写真部の後輩でいたいです」
「は?」
「変なこと言って、雰囲気悪くしたくないんで」
そう言って、湊は笑った。
さっきまでの、ちょっと苦しそうな笑いじゃない。いつもの、少しだけ甘えたみたいな笑顔。
「だから、文化祭終わるまでの間は、俺のこと、『ちょっと重い写真バカな後輩』だと思っててください」
「今もそう思ってるけど」
「ひどくないですか」
ちゃかすようなやり取りに戻ったのに、胸の奥にはさっきの言葉が残っていた。
文化祭までは、後輩。
じゃあ、その先は?
聞きたい。
でも、今聞いたら、こいつの「ちゃんとしたい」が壊れてしまいそうで、やめた。
「……分かった」
代わりに、別の言葉を選ぶ。
「文化祭終わるまでは、写真バカな後輩ってことにしとく」
「ちゃんと『ちょっと重い』も付けといてくださいね」
「図々しいな」
それでも、笑っていられた。
気づいてしまった。この気持ちに。
こいつに向ける視線が、いつの間にか、ただの「先輩と後輩」のそれじゃなくなっていることに。
でも、その名前をまだ口に出さないでいられる猶予を、文化祭がくれている気がした。
その猶予の中で、俺はたぶん、もう少しだけ、湊のレンズに撮られるんだろう。
そして、そのたびに、少しずつ、自分の気持ちを認めていくのだと思う。
写真部の部室は、いつも以上にごちゃごちゃしていた。
プリントした写真が机の上にずらっと並び、パネル用のボードが壁に立てかけられている。テープとハサミとペン。床にはダンボール。
「陽斗、こっちのプリント、縁切ってくれない?」
「おう」
カッターを動かしながら、ふと視界の端に見慣れた後ろ姿が見えた。
湊だ。
一年のテーブルの少し離れたところで、自分の作品候補を並べて、真剣な顔で見比べている。廊下のスナップ、校庭、教室。どれも湊らしい、距離感の近い写真だ。
「湊、決まりそう?」
近くを通ったついでに声をかけると、湊は「あ」と顔を上げた。
「まだ悩んでます」
「どれでも良さそうだけどな。廊下のやつとか、顧問も褒めてたし」
「それも出したいんですけど」
言いながら、湊は一枚の写真を指先でつまみ上げた。
見た瞬間、呼吸が止まりかけた。
「ちょ、それ」
そこに写っていたのは、俺だった。
部室の窓際で、カメラを構えている横顔。夕方の光が頬に当たっていて、背景は少しぼけている。前にもスマホで見たことがあるアングルだ。でも、こっちはちゃんとプリントされていて、色もディテールも段違いにきれいだった。
「これも、候補で悩んでて」
「なんでそこで俺が出てくるんだよ」
「だめですか」
「だめっていうか……俺なんかの顔、出しても誰も得しないだろ」
自分の顔が人目に晒される想像をしただけで、胃がきゅっとなる。
部誌用とか、部員内だけで回すのはまだマシだけど、文化祭の廊下って、全校生徒+近所の人+保護者が通るんだぞ。
「得しますよ」
「どこ情報だよ、それ」
「僕です」
即答だった。
あまりにも迷いがなくて、思わず黙る。
「先輩」
「……なに」
「この写真、僕がいちばん好きなんです」
湊は、プリントを胸の前に持ったまま、まっすぐこっちを見る。
その目が、シャッターを切る前と同じくらい真剣で、冗談半分みたいな逃げ道を許してくれない。
「先輩の顔、俺は好きなんで」
ぽん、と落とされた言葉が、部室のざわざわを一瞬だけ遠くに押しやった。
「……は?」
聞き返す声が、情けないくらい裏返る。
好き。
俺の顔を、好き。
それって、どういう「好き」だ。
カメラマンとして? 被写体として? それとも──。
頭の中で、いくつもの選択肢が一気に出てきて、どれもちゃんと掴めないうちに、心臓が先に反応した。さっきまでカッター握っていた手のひらが汗ばんでくる。
「ちょ、待て。そういうの、さらっと言うなって」
「さらっとじゃないですよ。結構、勇気出しました」
「……やめろ、そういう追加情報」
心の準備ってもんがあるだろ。
いや、そもそも、そんな準備をする予定もなかったけど。
「顔、赤いです」
「うるさい」
「写真だと、赤くなるの分かりづらいんで、今の顔も撮っときたいんですけど」
「撮るな」
反射的に拒否したのに、湊は「ですよね」と笑った。
いつもの、ちょっとだけ意地悪そうな笑い方。でも、その目の奥に、微妙な緊張が残っているのが分かる。
「展示に使うのは、もっとちゃんとしたやつにします」
「ちゃんとしたやつって何だよ」
「先輩が、ちゃんと前向いてるやつです」
「前向きたくないんだけど」
「僕が撮るんで、心配しなくて大丈夫です」
そんな問題じゃない。
けど、まっすぐ言い切られると、これ以上は押し切れなかった。
「……一応、顧問にも聞いとけよ。人の顔出すの、許可とかいるだろ」
「もちろんです。許可、もらえますよね?」
「本人に聞け」
「じゃあ、今、聞いてます」
完全に追い込まれている自覚があった。
でも、不思議なことに、「嫌だ」と言い切る言葉が喉で引っかかる。
湊が好きだと言ったこの写真を、簡単に否定するのも、なんか違う気がした。
「……変な顔写ってないなら、別に」
「ありがとうございます」
ぱっと表情が明るくなった湊を見て、胸の奥がぎゅっとなる。
なんでそんな顔するんだよ。そんなに俺の顔が大事なのか。
いや、そんなわけ──。
「春日部ー、テープどこー?」
離れたところから佐伯の声が飛んできて、俺は反射的にそっちを向いた。
「はいはい、今行く!」
勢いよく返事してしまったのは、たぶん、これ以上ここにいたら心臓がもたないって直感したからだ。
湊の「好き」がどの意味でも、今の俺には強すぎた。
◇
その日の夕方、部室は一気に忙しくなった。
パネルに写真を貼る人、キャプションを書き込む人、レイアウトを確認する人。顧問が時々見回りに来て、ああだこうだ言って去っていく。
「陽斗、ここの間隔、もうちょい詰めたほうが良くない?」
「そうだな。三センチくらい詰めるか」
「湊ー、例のポートレート、どこ置くか決めた?」
佐伯の問いに、俺の耳が勝手に反応する。
「まだですけど、廊下の真ん中はどうかなって」
「真ん中って、かなり目立つぞ」
「目立っていいんで」
いつもよりほんの少しだけ強めのトーンだった。
っていうか、「目立っていいんで」って何だよ。
自分の写真じゃなくて、先輩の顔で目立つつもりか。
「春日部、いいのか、それで」
顧問が、レイアウト表を見ながらこっちをちらっと見る。
「え、あ、はい。一年の作品だし」
「ふうん。お前の顔だって、作品の一部なんだから、ちゃんと責任持てよ」
「顔に責任って何すか」
「そのまんまだよ」
顧問は意味ありげなことを言い残して、プリントの山へと歩いていった。
責任持てとか言われても。
自分の顔に責任持てる人間がどれだけいるんだよ。少なくとも俺は無理だ。
「先輩」
真横から声をかけられて、びくっと肩が跳ねた。
「お前、急に現れるなって」
「さっきからずっとここにいました」
「マジで? 全然気づかなかった」
「夢中でレイアウトいじってる先輩、結構レアなんで、邪魔しないようにしてました」
「レアって」
「いい顔してました」
そう言って、湊はパネルの前に立つ。
例のポートレートを、他の写真の間にかざしてみて、距離感を測っている。
「ここだと目立ちすぎですかね」
「十分目立つな」
パネルのど真ん中。
まるで主役みたいな位置だ。自分の顔なのに、笑えるくらい他人事っぽい。
「でも、ここがいちばん先輩っぽいです」
「先輩っぽいって、どういう」
「真ん中にいるくせに、ちょっと引いてる感じが」
「悪口?」
「褒めてます」
どこがだよ、とツッコみながらも、ちょっとだけ納得してしまう自分が悔しい。
俺は、中心に立つタイプじゃない。
でも、写真部のパネルの真ん中に、偶然でも立つことになった。
そのきっかけを作ったのが、こいつっていうのが、ややこしい。
◇
作業に夢中になっていると、突然、ぱちん、と音がして、部室の蛍光灯が一斉に消えた。
「え」
「うわ、停電?」
ざわっと声が上がる。
部室の窓から入る夕方の光だけが頼りで、急にあたりが薄暗くなった。
「誰か、ブレーカー見てこい」
顧問の声が飛んで、すぐに数人がばたばたと廊下に出ていく。
残った部室の中で、プリントの山がぼんやりと浮かび上がっていた。手元のカッターとか、うっかり踏んだら危ないやつがそこら中にある。
「陽斗先輩」
暗さに慣れない目の前で、急に手首をつかまれた。
「わっ」
「すみません。暗いとこでケガしたらやなんで」
湊の声は、いつもより少しだけ近くて、小さい。
「ビビらせんなよ」
「その場で変なとこ踏んだら、もっとビビります」
そのまま、ぐっと引かれて、俺は壁際に移動させられた。
背中が棚に軽く当たって、足元から危ないものが遠ざかる。
湊の手は、まだ俺の手首を握ったままだった。
指が、思ってたより細くて、熱い。
「もう平気だって」
「まだよく見えないんで」
「窓からの光あるだろ」
「それでも、心配なんで」
心配。
さっきから、こいつの言うことがいちいち真っ直ぐで、ずるい。
暗さに目が慣れてきて、湊の顔がなんとなく見える。いつもより近い。俺と同じように、少しだけきょろきょろしていて、それでも手だけは離さない。
「そんなに俺、危なっかしく見えるか?」
「危なっかしいっていうか」
「っていうか?」
「自分のこと、後回しにしそうなんで」
「は?」
「写真と、部員と、文化祭と。そういうの優先して、自分のこと一番最後にしそうだから、ちょっと怖いです」
暗がりの中で、湊の言葉だけがやけにクリアに聞こえる。
「……大げさだろ」
「大げさじゃないです」
手首をつかむ力が、ほんの少しだけ強くなった。
心臓の音が、急にうるさくなる。
さっきまでただの暗がりだったのに、今は、こいつの体温と呼吸と、距離の近さしか感じない。
「お前さ」
「はい」
「なんで、そんなに俺のこと気にすんだよ」
ずっと前から聞きたかった疑問が、ようやく口から出てきた。
コーヒー牛乳。
本屋。
屋上。
展示。
ポートレート。
ひとつひとつは些細なことなのに、積み重なったら、もう「たまたま」では片づけられない量になっている。
「なんでって」
湊は、少しだけ息を吸った。暗い中でも、それが分かるくらいに。
「……言ったら、困らせますよね」
「それは、お前が決めることじゃないだろ」
「僕は、困らせたくないです」
短い沈黙が落ちる。
どこか遠くで、ブレーカーをいじる音がかすかに聞こえた。
「先輩を困らせたくないし。嫌われたくないんで」
「嫌わねーよ」
反射的に出た言葉に、湊の指がびくっと動いた。
「なんで、そんな自信あります?」
「自信とかじゃなくて……」
そこまで言って、気づく。
俺は、こいつを嫌いだって、一度も思ったことがない。
むしろ。
むしろ、こいつが部室に入ってくるだけで、どこかほっとする自分がいる。
コーヒー牛乳を渡されると、嬉しい。
「先輩」って呼ばれるのが、当たり前になってきた。
そんな自分の反応を、「後輩に懐かれてるから」とだけで片づけてきたけれど。
「……嫌いなわけ、ないだろ」
気づけば、素直すぎる言葉が口から出ていた。
言った瞬間、自分で自分に驚いた。
でも、もう取り消せない。
湊の指先から、じわっと熱が伝わってくる。
さっきよりも、ずっと近い距離で。
「……ずるいですね」
「え?」
「そういうこと言われると、言いたくなります」
「何を」
「内緒です」
またそれだ。
でも、さっきまでと違って、今の「内緒」は、どこか苦しそうに聞こえた。
「湊」
「……はい」
「さっきの、『好き』ってやつ」
暗がりの中で、まっすぐ見られている気がする。
自分でも分かるくらい、声が震えていた。
「それって、その……写真として好きって意味、だけか?」
問い終わった瞬間、心臓が喉まで上がってきた。
答えを知りたいような、知りたくないような。
湊は、少しだけ沈黙した。その一秒一秒が、やたら長く感じる。
「……文化祭、頑張りましょう」
返ってきたのは、全然関係ない言葉だった。
「は?」
「展示、ちゃんと成功させたいんで。先輩の写真も、絶対、見てもらいたいし」
強引に話を逸らされたのは分かった。
でも、その声が、ほんの少しだけ震えているのも分かった。
「電気、そろそろ直りますよ」
湊はそう言って、ようやく俺の手首から手を離した。
急に涼しくなった感覚に、変な喪失感が追いかけてくる。
そのタイミングを見計らったように、ぱちん、と音がして、部室の蛍光灯が一斉に点いた。
「おお、ついた!」
「助かったー!」
周りの歓声に紛れて、俺はゆっくりと目を瞬かせる。
さっきまで暗がりで近かった距離が、光の中で、急に現実味を持って押し寄せてきた。
湊は少し離れたところで、パネルの位置を直していた。
さっきまで俺の手首を握っていた人間とは思えないくらい、普通の顔をしている。
でも、耳の先だけが、わずかに赤い。
◇
帰り道。
文化祭準備で遅くなった校門を出たところで、俺はつい、湊を横目で見た。
「お前、今日さ」
「はい」
「ずっと変だったぞ」
「どこらへんがですか」
「いつも変だけど、今日はさらに、って意味」
「ひどくないですか」
口では文句を言いながらも、湊は笑った。
今日はコーヒー牛乳じゃなくて、オレンジジュースを飲んでいる。俺は久々に、炭酸を選んだ。
「展示のこと、緊張してるんで」
「ポートレートのせいか?」
「それもあります」
それも。
じゃあ、残りの理由は何だ。
「なあ、湊」
「はい」
「お前さ。俺のこと、好きなのか?」
足が勝手に止まった。
言った瞬間、「バカか」と自分にツッコみたくなった。
聞いたら終わるかもしれないことを、俺は今、平然と聞いた。
でも、もう止められなかった。
屋上で「誤解されてもいい」と言われたときから、ずっと喉の奥に引っかかっていた疑問だ。
湊は、少し先まで歩いていた足を止めて、ゆっくり振り返る。
「それ、今、聞きます?」
「今しか聞けない気がする」
「どうしてですか」
「文化祭終わったら、なんか、全部普通に戻りそうだから」
俺は自分でも驚くくらい、ちゃんと言葉を選んでいた。
「展示の準備とか、屋上とか、部室の暗がりとか。そういうの全部含めて、今が一番、変だから」
「変って」
「いい意味で、だよ」
湊の目が、少しだけ見開かれる。
いつもの冗談じゃなくて、本気で驚いた顔だった。
「俺、ずっと、『後輩に懐かれてる』って思ってたけど」
「懐いてますよ」
「それだけじゃ、説明つかないだろ」
コーヒー牛乳。
オレンジジュース。
本屋。
屋上。
ポートレート。
暗闇の中の手首。
ひとつひとつが、ただの「いい後輩」で済ませるには、少しずつ重すぎる。
「今日、お前に『先輩の顔、好きなんで』って言われて」
言葉にすると、また心臓が騒ぎ出す。
それでも、目をそらしたくなかった。
「変なの。俺、ちょっと嬉しかったんだよ」
湊の喉が、小さく動いた。
「……ずるいですね、先輩」
「何がだよ」
「そういうこと言われると、本当にもう、黙ってられなくなるんで」
湊は、ぐっと数歩分、距離を詰めてきた。
さっき部室で感じた距離と、同じくらいの近さ。
「でも」
そこで、一度だけ言葉を飲み込む。
「文化祭までは、ちゃんと、写真部の後輩でいたいです」
「は?」
「変なこと言って、雰囲気悪くしたくないんで」
そう言って、湊は笑った。
さっきまでの、ちょっと苦しそうな笑いじゃない。いつもの、少しだけ甘えたみたいな笑顔。
「だから、文化祭終わるまでの間は、俺のこと、『ちょっと重い写真バカな後輩』だと思っててください」
「今もそう思ってるけど」
「ひどくないですか」
ちゃかすようなやり取りに戻ったのに、胸の奥にはさっきの言葉が残っていた。
文化祭までは、後輩。
じゃあ、その先は?
聞きたい。
でも、今聞いたら、こいつの「ちゃんとしたい」が壊れてしまいそうで、やめた。
「……分かった」
代わりに、別の言葉を選ぶ。
「文化祭終わるまでは、写真バカな後輩ってことにしとく」
「ちゃんと『ちょっと重い』も付けといてくださいね」
「図々しいな」
それでも、笑っていられた。
気づいてしまった。この気持ちに。
こいつに向ける視線が、いつの間にか、ただの「先輩と後輩」のそれじゃなくなっていることに。
でも、その名前をまだ口に出さないでいられる猶予を、文化祭がくれている気がした。
その猶予の中で、俺はたぶん、もう少しだけ、湊のレンズに撮られるんだろう。
そして、そのたびに、少しずつ、自分の気持ちを認めていくのだと思う。



