写真部の部室は、今日もいつもの薄暗さと、ちょっとだけインクとパソコンの匂いがしていた。

「陽斗、この前の文化祭のやつさ」

 先に部室に来ていたのは、同じ二年の佐伯だ。のほほんとした顔で、俺の隣の椅子に腰を下ろす。

「展示の並べ方、ちょっと相談してもいい?」

「お、いいよ。どの辺?」

「ほら、廊下側に出すパネル。人通り多いからさ、インパクトあるやつ置きたいじゃん。俺のより、お前の体育館のやつのほうが映えるかなって」

「いやいや、佐伯のも良かったじゃん。シャボン玉のやつとか」

「でもあれ、なんかふわふわしすぎてる気がしてさ」

 パソコンの中のサムネを二人で見ながら、ああだこうだ言っていると、ガラッとドアが開いた。

「お疲れさまです」

 聞き慣れた声がして、振り向く前から誰か分かる。

 湊だ。

「湊、おつ。今日ちょい早くない?」

「たまたま授業が早く終わったんで。その前に、これ渡しに」

 そう言って、湊は俺の机の上に、また紙パックを置いた。

「……コーヒー牛乳」

「はい。自販機、新しいのに変わってて、ちょっと味違いますけど」

「なんでそれを真っ先に俺に試させるんだよ」

「陽斗先輩の仕事ですから」

「いつからそんな仕事受けた覚えないんだけど」

 ツッコみながらストローを挿すと、佐伯がにやにやしながらこっちを見ていた。

「仲いいな、お前ら」

「いや、普通だろ」

「普通です」

 湊も即答する。タイミングぴったりすぎて、ちょっと笑ってしまった。

「でさ、湊。一年の視点から見て、どっちがいいと思う?」

 佐伯がパソコンの画面を指さす。体育館の逆光写真と、佐伯のシャボン玉写真。

「廊下側に出す展示で、人を立ち止まらせたいって話なんだけど」

「俺も気になってて。どっちが目引くかなって」

 湊は画面に近づいて、少しだけ身をかがめた。真面目モードだ。

「ぱっと見で足を止めるのは、シャボン玉のほうだと思います」

「お、マジで? だよな!」

「でも、写真部っぽいって意味では、体育館のほうが『何だろう』って気になって、近づいてくれる人、多そうです」

「どっちなんだよ、それ」

 思わず笑うと、湊は少しだけ俺のほうを見た。

「個人的には、陽斗先輩の体育館のを、廊下のいちばん奥にドンって置きたいです。奥まで歩いた人に、ご褒美って感じで」

「ご褒美って」

「部長の顔が立つだろ。な、陽斗」

 佐伯が肩をぽんと叩いてくる。

「いや、部長って言うほど仕事してないからな、俺」

「いやしてるよ。陽斗がいないと回んないって」

「そうですよ」

 当たり前みたいなトーンで湊も乗ってきて、なんかくすぐったくなった。

「じゃあさ、シャボン玉は入口側にして、体育館は奥のメインにする? ポスターにも使うし」

「いいと思います」

「俺の意見より湊の意見優先されてない?」

「一年のフレッシュな感性は大事だからな」

 軽口を叩き合っていると、ふと気づく。
 さっきまで普通に笑っていた湊が、一瞬だけ、視線を落としていた。

「湊?」

「はい?」

「なんか、さっきからテンション低くない?」

「そんなことないですよ」

「いや、いつもなら『先輩の写真が一番です』とか、もうちょい茶化してくるだろ」

「僕そんなこと言ってます?」

「言ってる」

 即答すると、佐伯が「分かる」と笑った。

「だよな。湊、陽斗の写真、すぐ褒めるもんな。分かりやすい」

「分かりやすいって何ですか」

 口では嫌そうにするくせに、湊の耳たぶがほんのり赤い。
 部員歴一年の俺と三ヶ月くらいしか違わないくせに、そういう顔の変化には妙に敏感だ。

「まあいいや。とりあえず、シャボン玉入口案でいこうぜ」

「おう」

「陽斗先輩、後でレイアウト案、一緒に作ってもらっていいですか」

「お前もか」

「だって先輩のほうがセンスいいんで」

 軽く笑って言うわりに、その目が少しだけ真剣だった。

     ◇

 その日の部活は、人が多かった。文化祭前で、一年生も三人くらい来て、部室はいつもより少しだけ賑やかだ。

「一年、プリントはそこな。フィルム派は暗室組でー」

 顧問の先生の号令で、みんながばたばた動き出す。
 そんな中で、ひとりの一年が、俺のところに駆けてきた。

「あの、春日部先輩」

「ん?」

「展示用のキャプションなんですけど、文章、どういう感じに書けばいいか分かんなくて」

「あー、タイトルと一言コメントのやつか。いいよ、見ようか」

 俺がプリントを受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間。

「陽斗先輩」

 横から、ぴしっとプリントをさらう手があった。

「それ、僕が見ますよ」

「え」

「あ、湊先輩。すみません」

「いいよ。僕もキャプション、悩んでたし。一緒に考えよう」

 にこっと笑って、一年の子を自分のほうへ連れていく湊。
 俺はぽかんとその背中を見送った。

 いや、今の流れ、普通に俺が見る感じじゃなかったか?

 少しおかしいなと思ったけど、暗室のほうから呼ばれたので、とりあえずそっちに向かった。

     ◇

 作業が一段落して、部室に戻ってきた頃には、人数もぐっと減っていた。顧問も帰って、一年も佐伯も片付けを終えて先に帰ったらしい。

 残っているのは、俺と湊だけ。

「静かになったな」

「ですね」

 パソコンの前の椅子に座ると、背中側から湊の気配がした。

「さっきの一年のキャプション、どうだった?」

「すごく真面目だったんで、『もっと自分の気持ち書いていいよ』って言いました」

「ふーん。良い先輩やってんじゃん」

「陽斗先輩がやってるの、見てたんで」

「見てたんかい」

「観察なんで」

 またそれ。
 笑いながら画面を立ち上げると、この前の体育館の写真が表示された。文化祭のメイン候補。夕陽とバスケ部のシルエット。

「やっぱこれ、いいですね」

 湊が、俺のすぐ隣に立った。肩と肩が軽く触れる。

「近い」

「画面、小さいんで」

「言うほど小さくはないけど」

 そう言いつつ、俺も画面に見入ってしまう。

 汗を飛ばしながらジャンプしてるやつ、ベンチで笑ってるやつ。その全部を、夕陽のオレンジが包んでいる。

「先輩、こういうとき、ちゃんと人の顔が写ってるの、選ばないですよね」

「え?」

「ボールとか、手とか、影とか。顔より、そっちにピント合わせること、多い気がします」

「そうかな」

「そうです」

 即答されると、否定しづらい。

「顔撮るの、苦手なのかもしれない。なんか、こっちが見られてる感じになってさ」

「へえ」

「へえって何だよ」

「じゃあ、僕が代わりに、人の顔、撮っときます」

「なんでそうなる」

「先輩が苦手なところは、僕が補完します」

「補完って」

「部活ですから。役割分担、大事です」

 さらっと言うわりに、その横顔はどこか満足そうだ。

「でも、先輩の写真、俺、好きです」

「急にどうした」

「人の顔あんまり写ってないくせに、その人が何考えてるか、なんとなく分かる感じするから」

「褒めてる?」

「めちゃくちゃ褒めてます」

 真顔で言われると、照れと同時に、変なむずむずが胸の辺りをうろついた。

「湊の写真も、上手いけどな。構図とか、俺より考えて撮ってる感じするし。被写体との距離感とか」

「え」

「この前の廊下のやつとか、奥行きすごい良かったし。ああいうの、俺には撮れないからさ」

 素直に思ったことを口にしただけなんだけど、湊はきょとんとした顔をした。それから、少しだけ視線を落とす。

「……先輩の写真だけは、なんか、うまく撮れるんですよね」

「は?」

「他の人だと、ちょっと距離感、迷うんですけど。先輩のときだけ、ここってちゃんと分かる感じがして」

 小さな声だったけど、しっかり聞こえた。

「いや、俺、そんな分かりやすいか?」

「分かりやすいです。表情も、どこに立つかも」

 その言い方は、ちょっとだけずるい。

 俺のこと、よく見てるんだって、自分で言ってるようなものじゃないか。

「……それは、カメラマンとして、ってことだよな」

 一応、確認してみる。
 湊は一瞬だけ黙って、それから、ふっと笑った。

「もちろん、それもあります」

「それも?」

「はい」

 そこから先は、言わない。
 もやっとした何かを残したまま、湊は画面に視線を戻した。

     ◇

 少しして、ふと窓の外を見ると、もう日が傾き始めていた。部室の中に、細長い光の帯が伸びる。

「今日の夕陽、きれいですよ」

 湊が窓際に歩いていく。
 その背中を追うみたいに、俺も立ち上がった。

「ちょっと屋上行く?」

「行きたいです」

 カメラを持って、二人で屋上へ向かう。
 鍵を開けてもらってる写真部は、割と自由がきくのがありがたい。

 屋上に出ると、風が少しだけ冷たかった。
 グラウンドが見下ろせて、その向こうに沈みかけの太陽。オレンジと少しのピンクが混ざっている。

「うわ、やっぱいいな」

「先輩の目、ちょっとキラキラしてます」

「うるさい」

 そう言いながらも、俺はカメラを構えた。
 ファインダー越しに見る世界は、やっぱり好きだ。余計なものが削ぎ落とされて、光と影だけが残る感じがする。

 何枚か撮ってから、カメラを下ろしたとき。

「先輩」

 横から、声がした。

「ん?」

「先輩が見てる世界、綺麗ですね」

 ぼそっと、しかしはっきりとしたトーンだった。
 湊は、俺じゃなくて、沈みかけの空のほうを見ている。

「世界って」

「さっきの写真も、体育館のも。先輩が切り取ると、なんか、人のこと、ちゃんと大事にしてる感じするから」

「そんな大層なもんじゃないって」

「ありますよ」

 湊は、そこで初めて俺のほうを見た。

「先輩、ちゃんと見てますもん。人のこと。気づいてないだけで」

「どういう意味だよ」

「そのまんまです」

 はぐらかされたような気がして、少しだけむっとする。
 でも、その「ちゃんと見てる」という言葉が、胸の中のどこかに引っかかって離れなかった。

「僕は、先輩が見てる世界、もっと知りたいです」

 さらっと、そんなことを言う。

「……大げさだろ」

「そうでもないですよ」

 湊は、フェンスに寄りかかって、空を見上げた。

「先輩がどこ見て笑ってるかとか。何見てるときがいちばん楽そうかとか。そういうの、知ってたいなって」

 風が、湊の前髪を少しだけ揺らした。
 夕陽が横から差し込んで、その横顔の輪郭をオレンジに縁取る。

 ズルいな、と思った。
 そんな顔で、そんなこと言われたら、意識するなってほうが無理だ。

「……お前さ」

「はい」

「そういうの、普通に言うなよ」

「なんでですか」

「なんでって……誤解されるだろ」

「誰にですか」

「俺に決まってんだろ」

 言ってから、自分で自分に驚いた。
 俺、何言ってんだ。

 湊は、一瞬だけ目を丸くして、それから、楽しそうに笑った。

「じゃあ、誤解されてもいいです」

「は?」

「先輩になら」

 心臓が、一拍、大きく跳ねた。

 ドラマだったら、ここで風の音が大きくなって、BGMが盛り上がるやつだ。
 なのに現実の風景は、遠くから聞こえるサッカー部の掛け声と、カラスの鳴き声で、妙にのんきだった。

「……何それ」

「秘密です」

「秘密ばっかだな、お前」

「秘密じゃなくなるほうが、怖いんで」

 ぽつりと落とされたその一言の意味を、俺はうまく拾えなかった。ただ、さっきよりさらに湊との距離が近くなっているのだけは分かる。

 肩が、さっきよりしっかりと触れ合っていた。

     ◇

 帰り道、校門を出たところで、いつものクセで自販機のほうへ足が向いた。隣を歩いていた湊が、当然のようについてくる。

「今日もコーヒー牛乳ですか」

「……やめてほしいんだけど、その『今日も』って前提」

「じゃあ、たまには違うのにします?」

「そうだな。たまにはオレンジジュースにでも」

 そう言って、オレンジのボタンを押そうとして、ふと気づく。

 百五十円しか入れてない。

「やべ、十円足りない」

「はい」

 湊が、すっと十円玉を差し出した。

「なんでちょうど持ってんだよ」

「先輩、さっき財布の中身見てましたよね。小銭少なかったから、たぶん足りないだろうなって」

「先回りすんな」

 文句を言いつつも、ありがたくそれでジュースを買う。

「コーヒー牛乳じゃない先輩、ちょっとレアですね」

「うるさい」

 ストローをくわえると、オレンジの甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。コーヒー牛乳とは違うタイプの放課後の味だ。

「どうです?」

「まあ、悪くない」

「顔、さっきとちょっと違います」

「どんな顔だよ」

「内緒です」

「またそれかよ」

 そう言いながらも、俺は少しだけ笑っていた。

 気づけば、さっきの屋上よりも、湊との距離は自然に近くなっている。歩幅を合わせるのにも、もうそんなに意識がいらない。

 こいつは、俺のことをよく見ている。
 飲み物、ルート、写真、表情。いちいち全部、覚えている。

 知りすぎているくせに、まだ「もっと知りたい」とか言ってくる。

 それが、ちょっとだけうらやましいと思った。

 俺には、そこまで誰かを見ようとしたことがないからだ。

「なあ、湊」

「はい」

「お前さ。俺のこと、いつからそんな観察してんの」

「いつからだと思います?」

「そういうクイズ形式やめろよ」

「じゃあ、いつかちゃんと、答え言います」

「いつかっていつだよ」

「秘密です」

 また、それだ。

 でも今日は、その言い方が、昨日までより少しだけ優しく聞こえた。
 夕陽の残りの光が、二人分の影を長く伸ばしていく。

 距離が詰まりすぎていることに、俺がちゃんと気づくのは、もう少し先の話だ。