写真部の部室は、今日もいつもの薄暗さと、ちょっとだけインクとパソコンの匂いがしていた。
「陽斗、この前の文化祭のやつさ」
先に部室に来ていたのは、同じ二年の佐伯だ。のほほんとした顔で、俺の隣の椅子に腰を下ろす。
「展示の並べ方、ちょっと相談してもいい?」
「お、いいよ。どの辺?」
「ほら、廊下側に出すパネル。人通り多いからさ、インパクトあるやつ置きたいじゃん。俺のより、お前の体育館のやつのほうが映えるかなって」
「いやいや、佐伯のも良かったじゃん。シャボン玉のやつとか」
「でもあれ、なんかふわふわしすぎてる気がしてさ」
パソコンの中のサムネを二人で見ながら、ああだこうだ言っていると、ガラッとドアが開いた。
「お疲れさまです」
聞き慣れた声がして、振り向く前から誰か分かる。
湊だ。
「湊、おつ。今日ちょい早くない?」
「たまたま授業が早く終わったんで。その前に、これ渡しに」
そう言って、湊は俺の机の上に、また紙パックを置いた。
「……コーヒー牛乳」
「はい。自販機、新しいのに変わってて、ちょっと味違いますけど」
「なんでそれを真っ先に俺に試させるんだよ」
「陽斗先輩の仕事ですから」
「いつからそんな仕事受けた覚えないんだけど」
ツッコみながらストローを挿すと、佐伯がにやにやしながらこっちを見ていた。
「仲いいな、お前ら」
「いや、普通だろ」
「普通です」
湊も即答する。タイミングぴったりすぎて、ちょっと笑ってしまった。
「でさ、湊。一年の視点から見て、どっちがいいと思う?」
佐伯がパソコンの画面を指さす。体育館の逆光写真と、佐伯のシャボン玉写真。
「廊下側に出す展示で、人を立ち止まらせたいって話なんだけど」
「俺も気になってて。どっちが目引くかなって」
湊は画面に近づいて、少しだけ身をかがめた。真面目モードだ。
「ぱっと見で足を止めるのは、シャボン玉のほうだと思います」
「お、マジで? だよな!」
「でも、写真部っぽいって意味では、体育館のほうが『何だろう』って気になって、近づいてくれる人、多そうです」
「どっちなんだよ、それ」
思わず笑うと、湊は少しだけ俺のほうを見た。
「個人的には、陽斗先輩の体育館のを、廊下のいちばん奥にドンって置きたいです。奥まで歩いた人に、ご褒美って感じで」
「ご褒美って」
「部長の顔が立つだろ。な、陽斗」
佐伯が肩をぽんと叩いてくる。
「いや、部長って言うほど仕事してないからな、俺」
「いやしてるよ。陽斗がいないと回んないって」
「そうですよ」
当たり前みたいなトーンで湊も乗ってきて、なんかくすぐったくなった。
「じゃあさ、シャボン玉は入口側にして、体育館は奥のメインにする? ポスターにも使うし」
「いいと思います」
「俺の意見より湊の意見優先されてない?」
「一年のフレッシュな感性は大事だからな」
軽口を叩き合っていると、ふと気づく。
さっきまで普通に笑っていた湊が、一瞬だけ、視線を落としていた。
「湊?」
「はい?」
「なんか、さっきからテンション低くない?」
「そんなことないですよ」
「いや、いつもなら『先輩の写真が一番です』とか、もうちょい茶化してくるだろ」
「僕そんなこと言ってます?」
「言ってる」
即答すると、佐伯が「分かる」と笑った。
「だよな。湊、陽斗の写真、すぐ褒めるもんな。分かりやすい」
「分かりやすいって何ですか」
口では嫌そうにするくせに、湊の耳たぶがほんのり赤い。
部員歴一年の俺と三ヶ月くらいしか違わないくせに、そういう顔の変化には妙に敏感だ。
「まあいいや。とりあえず、シャボン玉入口案でいこうぜ」
「おう」
「陽斗先輩、後でレイアウト案、一緒に作ってもらっていいですか」
「お前もか」
「だって先輩のほうがセンスいいんで」
軽く笑って言うわりに、その目が少しだけ真剣だった。
◇
その日の部活は、人が多かった。文化祭前で、一年生も三人くらい来て、部室はいつもより少しだけ賑やかだ。
「一年、プリントはそこな。フィルム派は暗室組でー」
顧問の先生の号令で、みんながばたばた動き出す。
そんな中で、ひとりの一年が、俺のところに駆けてきた。
「あの、春日部先輩」
「ん?」
「展示用のキャプションなんですけど、文章、どういう感じに書けばいいか分かんなくて」
「あー、タイトルと一言コメントのやつか。いいよ、見ようか」
俺がプリントを受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間。
「陽斗先輩」
横から、ぴしっとプリントをさらう手があった。
「それ、僕が見ますよ」
「え」
「あ、湊先輩。すみません」
「いいよ。僕もキャプション、悩んでたし。一緒に考えよう」
にこっと笑って、一年の子を自分のほうへ連れていく湊。
俺はぽかんとその背中を見送った。
いや、今の流れ、普通に俺が見る感じじゃなかったか?
少しおかしいなと思ったけど、暗室のほうから呼ばれたので、とりあえずそっちに向かった。
◇
作業が一段落して、部室に戻ってきた頃には、人数もぐっと減っていた。顧問も帰って、一年も佐伯も片付けを終えて先に帰ったらしい。
残っているのは、俺と湊だけ。
「静かになったな」
「ですね」
パソコンの前の椅子に座ると、背中側から湊の気配がした。
「さっきの一年のキャプション、どうだった?」
「すごく真面目だったんで、『もっと自分の気持ち書いていいよ』って言いました」
「ふーん。良い先輩やってんじゃん」
「陽斗先輩がやってるの、見てたんで」
「見てたんかい」
「観察なんで」
またそれ。
笑いながら画面を立ち上げると、この前の体育館の写真が表示された。文化祭のメイン候補。夕陽とバスケ部のシルエット。
「やっぱこれ、いいですね」
湊が、俺のすぐ隣に立った。肩と肩が軽く触れる。
「近い」
「画面、小さいんで」
「言うほど小さくはないけど」
そう言いつつ、俺も画面に見入ってしまう。
汗を飛ばしながらジャンプしてるやつ、ベンチで笑ってるやつ。その全部を、夕陽のオレンジが包んでいる。
「先輩、こういうとき、ちゃんと人の顔が写ってるの、選ばないですよね」
「え?」
「ボールとか、手とか、影とか。顔より、そっちにピント合わせること、多い気がします」
「そうかな」
「そうです」
即答されると、否定しづらい。
「顔撮るの、苦手なのかもしれない。なんか、こっちが見られてる感じになってさ」
「へえ」
「へえって何だよ」
「じゃあ、僕が代わりに、人の顔、撮っときます」
「なんでそうなる」
「先輩が苦手なところは、僕が補完します」
「補完って」
「部活ですから。役割分担、大事です」
さらっと言うわりに、その横顔はどこか満足そうだ。
「でも、先輩の写真、俺、好きです」
「急にどうした」
「人の顔あんまり写ってないくせに、その人が何考えてるか、なんとなく分かる感じするから」
「褒めてる?」
「めちゃくちゃ褒めてます」
真顔で言われると、照れと同時に、変なむずむずが胸の辺りをうろついた。
「湊の写真も、上手いけどな。構図とか、俺より考えて撮ってる感じするし。被写体との距離感とか」
「え」
「この前の廊下のやつとか、奥行きすごい良かったし。ああいうの、俺には撮れないからさ」
素直に思ったことを口にしただけなんだけど、湊はきょとんとした顔をした。それから、少しだけ視線を落とす。
「……先輩の写真だけは、なんか、うまく撮れるんですよね」
「は?」
「他の人だと、ちょっと距離感、迷うんですけど。先輩のときだけ、ここってちゃんと分かる感じがして」
小さな声だったけど、しっかり聞こえた。
「いや、俺、そんな分かりやすいか?」
「分かりやすいです。表情も、どこに立つかも」
その言い方は、ちょっとだけずるい。
俺のこと、よく見てるんだって、自分で言ってるようなものじゃないか。
「……それは、カメラマンとして、ってことだよな」
一応、確認してみる。
湊は一瞬だけ黙って、それから、ふっと笑った。
「もちろん、それもあります」
「それも?」
「はい」
そこから先は、言わない。
もやっとした何かを残したまま、湊は画面に視線を戻した。
◇
少しして、ふと窓の外を見ると、もう日が傾き始めていた。部室の中に、細長い光の帯が伸びる。
「今日の夕陽、きれいですよ」
湊が窓際に歩いていく。
その背中を追うみたいに、俺も立ち上がった。
「ちょっと屋上行く?」
「行きたいです」
カメラを持って、二人で屋上へ向かう。
鍵を開けてもらってる写真部は、割と自由がきくのがありがたい。
屋上に出ると、風が少しだけ冷たかった。
グラウンドが見下ろせて、その向こうに沈みかけの太陽。オレンジと少しのピンクが混ざっている。
「うわ、やっぱいいな」
「先輩の目、ちょっとキラキラしてます」
「うるさい」
そう言いながらも、俺はカメラを構えた。
ファインダー越しに見る世界は、やっぱり好きだ。余計なものが削ぎ落とされて、光と影だけが残る感じがする。
何枚か撮ってから、カメラを下ろしたとき。
「先輩」
横から、声がした。
「ん?」
「先輩が見てる世界、綺麗ですね」
ぼそっと、しかしはっきりとしたトーンだった。
湊は、俺じゃなくて、沈みかけの空のほうを見ている。
「世界って」
「さっきの写真も、体育館のも。先輩が切り取ると、なんか、人のこと、ちゃんと大事にしてる感じするから」
「そんな大層なもんじゃないって」
「ありますよ」
湊は、そこで初めて俺のほうを見た。
「先輩、ちゃんと見てますもん。人のこと。気づいてないだけで」
「どういう意味だよ」
「そのまんまです」
はぐらかされたような気がして、少しだけむっとする。
でも、その「ちゃんと見てる」という言葉が、胸の中のどこかに引っかかって離れなかった。
「僕は、先輩が見てる世界、もっと知りたいです」
さらっと、そんなことを言う。
「……大げさだろ」
「そうでもないですよ」
湊は、フェンスに寄りかかって、空を見上げた。
「先輩がどこ見て笑ってるかとか。何見てるときがいちばん楽そうかとか。そういうの、知ってたいなって」
風が、湊の前髪を少しだけ揺らした。
夕陽が横から差し込んで、その横顔の輪郭をオレンジに縁取る。
ズルいな、と思った。
そんな顔で、そんなこと言われたら、意識するなってほうが無理だ。
「……お前さ」
「はい」
「そういうの、普通に言うなよ」
「なんでですか」
「なんでって……誤解されるだろ」
「誰にですか」
「俺に決まってんだろ」
言ってから、自分で自分に驚いた。
俺、何言ってんだ。
湊は、一瞬だけ目を丸くして、それから、楽しそうに笑った。
「じゃあ、誤解されてもいいです」
「は?」
「先輩になら」
心臓が、一拍、大きく跳ねた。
ドラマだったら、ここで風の音が大きくなって、BGMが盛り上がるやつだ。
なのに現実の風景は、遠くから聞こえるサッカー部の掛け声と、カラスの鳴き声で、妙にのんきだった。
「……何それ」
「秘密です」
「秘密ばっかだな、お前」
「秘密じゃなくなるほうが、怖いんで」
ぽつりと落とされたその一言の意味を、俺はうまく拾えなかった。ただ、さっきよりさらに湊との距離が近くなっているのだけは分かる。
肩が、さっきよりしっかりと触れ合っていた。
◇
帰り道、校門を出たところで、いつものクセで自販機のほうへ足が向いた。隣を歩いていた湊が、当然のようについてくる。
「今日もコーヒー牛乳ですか」
「……やめてほしいんだけど、その『今日も』って前提」
「じゃあ、たまには違うのにします?」
「そうだな。たまにはオレンジジュースにでも」
そう言って、オレンジのボタンを押そうとして、ふと気づく。
百五十円しか入れてない。
「やべ、十円足りない」
「はい」
湊が、すっと十円玉を差し出した。
「なんでちょうど持ってんだよ」
「先輩、さっき財布の中身見てましたよね。小銭少なかったから、たぶん足りないだろうなって」
「先回りすんな」
文句を言いつつも、ありがたくそれでジュースを買う。
「コーヒー牛乳じゃない先輩、ちょっとレアですね」
「うるさい」
ストローをくわえると、オレンジの甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。コーヒー牛乳とは違うタイプの放課後の味だ。
「どうです?」
「まあ、悪くない」
「顔、さっきとちょっと違います」
「どんな顔だよ」
「内緒です」
「またそれかよ」
そう言いながらも、俺は少しだけ笑っていた。
気づけば、さっきの屋上よりも、湊との距離は自然に近くなっている。歩幅を合わせるのにも、もうそんなに意識がいらない。
こいつは、俺のことをよく見ている。
飲み物、ルート、写真、表情。いちいち全部、覚えている。
知りすぎているくせに、まだ「もっと知りたい」とか言ってくる。
それが、ちょっとだけうらやましいと思った。
俺には、そこまで誰かを見ようとしたことがないからだ。
「なあ、湊」
「はい」
「お前さ。俺のこと、いつからそんな観察してんの」
「いつからだと思います?」
「そういうクイズ形式やめろよ」
「じゃあ、いつかちゃんと、答え言います」
「いつかっていつだよ」
「秘密です」
また、それだ。
でも今日は、その言い方が、昨日までより少しだけ優しく聞こえた。
夕陽の残りの光が、二人分の影を長く伸ばしていく。
距離が詰まりすぎていることに、俺がちゃんと気づくのは、もう少し先の話だ。
「陽斗、この前の文化祭のやつさ」
先に部室に来ていたのは、同じ二年の佐伯だ。のほほんとした顔で、俺の隣の椅子に腰を下ろす。
「展示の並べ方、ちょっと相談してもいい?」
「お、いいよ。どの辺?」
「ほら、廊下側に出すパネル。人通り多いからさ、インパクトあるやつ置きたいじゃん。俺のより、お前の体育館のやつのほうが映えるかなって」
「いやいや、佐伯のも良かったじゃん。シャボン玉のやつとか」
「でもあれ、なんかふわふわしすぎてる気がしてさ」
パソコンの中のサムネを二人で見ながら、ああだこうだ言っていると、ガラッとドアが開いた。
「お疲れさまです」
聞き慣れた声がして、振り向く前から誰か分かる。
湊だ。
「湊、おつ。今日ちょい早くない?」
「たまたま授業が早く終わったんで。その前に、これ渡しに」
そう言って、湊は俺の机の上に、また紙パックを置いた。
「……コーヒー牛乳」
「はい。自販機、新しいのに変わってて、ちょっと味違いますけど」
「なんでそれを真っ先に俺に試させるんだよ」
「陽斗先輩の仕事ですから」
「いつからそんな仕事受けた覚えないんだけど」
ツッコみながらストローを挿すと、佐伯がにやにやしながらこっちを見ていた。
「仲いいな、お前ら」
「いや、普通だろ」
「普通です」
湊も即答する。タイミングぴったりすぎて、ちょっと笑ってしまった。
「でさ、湊。一年の視点から見て、どっちがいいと思う?」
佐伯がパソコンの画面を指さす。体育館の逆光写真と、佐伯のシャボン玉写真。
「廊下側に出す展示で、人を立ち止まらせたいって話なんだけど」
「俺も気になってて。どっちが目引くかなって」
湊は画面に近づいて、少しだけ身をかがめた。真面目モードだ。
「ぱっと見で足を止めるのは、シャボン玉のほうだと思います」
「お、マジで? だよな!」
「でも、写真部っぽいって意味では、体育館のほうが『何だろう』って気になって、近づいてくれる人、多そうです」
「どっちなんだよ、それ」
思わず笑うと、湊は少しだけ俺のほうを見た。
「個人的には、陽斗先輩の体育館のを、廊下のいちばん奥にドンって置きたいです。奥まで歩いた人に、ご褒美って感じで」
「ご褒美って」
「部長の顔が立つだろ。な、陽斗」
佐伯が肩をぽんと叩いてくる。
「いや、部長って言うほど仕事してないからな、俺」
「いやしてるよ。陽斗がいないと回んないって」
「そうですよ」
当たり前みたいなトーンで湊も乗ってきて、なんかくすぐったくなった。
「じゃあさ、シャボン玉は入口側にして、体育館は奥のメインにする? ポスターにも使うし」
「いいと思います」
「俺の意見より湊の意見優先されてない?」
「一年のフレッシュな感性は大事だからな」
軽口を叩き合っていると、ふと気づく。
さっきまで普通に笑っていた湊が、一瞬だけ、視線を落としていた。
「湊?」
「はい?」
「なんか、さっきからテンション低くない?」
「そんなことないですよ」
「いや、いつもなら『先輩の写真が一番です』とか、もうちょい茶化してくるだろ」
「僕そんなこと言ってます?」
「言ってる」
即答すると、佐伯が「分かる」と笑った。
「だよな。湊、陽斗の写真、すぐ褒めるもんな。分かりやすい」
「分かりやすいって何ですか」
口では嫌そうにするくせに、湊の耳たぶがほんのり赤い。
部員歴一年の俺と三ヶ月くらいしか違わないくせに、そういう顔の変化には妙に敏感だ。
「まあいいや。とりあえず、シャボン玉入口案でいこうぜ」
「おう」
「陽斗先輩、後でレイアウト案、一緒に作ってもらっていいですか」
「お前もか」
「だって先輩のほうがセンスいいんで」
軽く笑って言うわりに、その目が少しだけ真剣だった。
◇
その日の部活は、人が多かった。文化祭前で、一年生も三人くらい来て、部室はいつもより少しだけ賑やかだ。
「一年、プリントはそこな。フィルム派は暗室組でー」
顧問の先生の号令で、みんながばたばた動き出す。
そんな中で、ひとりの一年が、俺のところに駆けてきた。
「あの、春日部先輩」
「ん?」
「展示用のキャプションなんですけど、文章、どういう感じに書けばいいか分かんなくて」
「あー、タイトルと一言コメントのやつか。いいよ、見ようか」
俺がプリントを受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間。
「陽斗先輩」
横から、ぴしっとプリントをさらう手があった。
「それ、僕が見ますよ」
「え」
「あ、湊先輩。すみません」
「いいよ。僕もキャプション、悩んでたし。一緒に考えよう」
にこっと笑って、一年の子を自分のほうへ連れていく湊。
俺はぽかんとその背中を見送った。
いや、今の流れ、普通に俺が見る感じじゃなかったか?
少しおかしいなと思ったけど、暗室のほうから呼ばれたので、とりあえずそっちに向かった。
◇
作業が一段落して、部室に戻ってきた頃には、人数もぐっと減っていた。顧問も帰って、一年も佐伯も片付けを終えて先に帰ったらしい。
残っているのは、俺と湊だけ。
「静かになったな」
「ですね」
パソコンの前の椅子に座ると、背中側から湊の気配がした。
「さっきの一年のキャプション、どうだった?」
「すごく真面目だったんで、『もっと自分の気持ち書いていいよ』って言いました」
「ふーん。良い先輩やってんじゃん」
「陽斗先輩がやってるの、見てたんで」
「見てたんかい」
「観察なんで」
またそれ。
笑いながら画面を立ち上げると、この前の体育館の写真が表示された。文化祭のメイン候補。夕陽とバスケ部のシルエット。
「やっぱこれ、いいですね」
湊が、俺のすぐ隣に立った。肩と肩が軽く触れる。
「近い」
「画面、小さいんで」
「言うほど小さくはないけど」
そう言いつつ、俺も画面に見入ってしまう。
汗を飛ばしながらジャンプしてるやつ、ベンチで笑ってるやつ。その全部を、夕陽のオレンジが包んでいる。
「先輩、こういうとき、ちゃんと人の顔が写ってるの、選ばないですよね」
「え?」
「ボールとか、手とか、影とか。顔より、そっちにピント合わせること、多い気がします」
「そうかな」
「そうです」
即答されると、否定しづらい。
「顔撮るの、苦手なのかもしれない。なんか、こっちが見られてる感じになってさ」
「へえ」
「へえって何だよ」
「じゃあ、僕が代わりに、人の顔、撮っときます」
「なんでそうなる」
「先輩が苦手なところは、僕が補完します」
「補完って」
「部活ですから。役割分担、大事です」
さらっと言うわりに、その横顔はどこか満足そうだ。
「でも、先輩の写真、俺、好きです」
「急にどうした」
「人の顔あんまり写ってないくせに、その人が何考えてるか、なんとなく分かる感じするから」
「褒めてる?」
「めちゃくちゃ褒めてます」
真顔で言われると、照れと同時に、変なむずむずが胸の辺りをうろついた。
「湊の写真も、上手いけどな。構図とか、俺より考えて撮ってる感じするし。被写体との距離感とか」
「え」
「この前の廊下のやつとか、奥行きすごい良かったし。ああいうの、俺には撮れないからさ」
素直に思ったことを口にしただけなんだけど、湊はきょとんとした顔をした。それから、少しだけ視線を落とす。
「……先輩の写真だけは、なんか、うまく撮れるんですよね」
「は?」
「他の人だと、ちょっと距離感、迷うんですけど。先輩のときだけ、ここってちゃんと分かる感じがして」
小さな声だったけど、しっかり聞こえた。
「いや、俺、そんな分かりやすいか?」
「分かりやすいです。表情も、どこに立つかも」
その言い方は、ちょっとだけずるい。
俺のこと、よく見てるんだって、自分で言ってるようなものじゃないか。
「……それは、カメラマンとして、ってことだよな」
一応、確認してみる。
湊は一瞬だけ黙って、それから、ふっと笑った。
「もちろん、それもあります」
「それも?」
「はい」
そこから先は、言わない。
もやっとした何かを残したまま、湊は画面に視線を戻した。
◇
少しして、ふと窓の外を見ると、もう日が傾き始めていた。部室の中に、細長い光の帯が伸びる。
「今日の夕陽、きれいですよ」
湊が窓際に歩いていく。
その背中を追うみたいに、俺も立ち上がった。
「ちょっと屋上行く?」
「行きたいです」
カメラを持って、二人で屋上へ向かう。
鍵を開けてもらってる写真部は、割と自由がきくのがありがたい。
屋上に出ると、風が少しだけ冷たかった。
グラウンドが見下ろせて、その向こうに沈みかけの太陽。オレンジと少しのピンクが混ざっている。
「うわ、やっぱいいな」
「先輩の目、ちょっとキラキラしてます」
「うるさい」
そう言いながらも、俺はカメラを構えた。
ファインダー越しに見る世界は、やっぱり好きだ。余計なものが削ぎ落とされて、光と影だけが残る感じがする。
何枚か撮ってから、カメラを下ろしたとき。
「先輩」
横から、声がした。
「ん?」
「先輩が見てる世界、綺麗ですね」
ぼそっと、しかしはっきりとしたトーンだった。
湊は、俺じゃなくて、沈みかけの空のほうを見ている。
「世界って」
「さっきの写真も、体育館のも。先輩が切り取ると、なんか、人のこと、ちゃんと大事にしてる感じするから」
「そんな大層なもんじゃないって」
「ありますよ」
湊は、そこで初めて俺のほうを見た。
「先輩、ちゃんと見てますもん。人のこと。気づいてないだけで」
「どういう意味だよ」
「そのまんまです」
はぐらかされたような気がして、少しだけむっとする。
でも、その「ちゃんと見てる」という言葉が、胸の中のどこかに引っかかって離れなかった。
「僕は、先輩が見てる世界、もっと知りたいです」
さらっと、そんなことを言う。
「……大げさだろ」
「そうでもないですよ」
湊は、フェンスに寄りかかって、空を見上げた。
「先輩がどこ見て笑ってるかとか。何見てるときがいちばん楽そうかとか。そういうの、知ってたいなって」
風が、湊の前髪を少しだけ揺らした。
夕陽が横から差し込んで、その横顔の輪郭をオレンジに縁取る。
ズルいな、と思った。
そんな顔で、そんなこと言われたら、意識するなってほうが無理だ。
「……お前さ」
「はい」
「そういうの、普通に言うなよ」
「なんでですか」
「なんでって……誤解されるだろ」
「誰にですか」
「俺に決まってんだろ」
言ってから、自分で自分に驚いた。
俺、何言ってんだ。
湊は、一瞬だけ目を丸くして、それから、楽しそうに笑った。
「じゃあ、誤解されてもいいです」
「は?」
「先輩になら」
心臓が、一拍、大きく跳ねた。
ドラマだったら、ここで風の音が大きくなって、BGMが盛り上がるやつだ。
なのに現実の風景は、遠くから聞こえるサッカー部の掛け声と、カラスの鳴き声で、妙にのんきだった。
「……何それ」
「秘密です」
「秘密ばっかだな、お前」
「秘密じゃなくなるほうが、怖いんで」
ぽつりと落とされたその一言の意味を、俺はうまく拾えなかった。ただ、さっきよりさらに湊との距離が近くなっているのだけは分かる。
肩が、さっきよりしっかりと触れ合っていた。
◇
帰り道、校門を出たところで、いつものクセで自販機のほうへ足が向いた。隣を歩いていた湊が、当然のようについてくる。
「今日もコーヒー牛乳ですか」
「……やめてほしいんだけど、その『今日も』って前提」
「じゃあ、たまには違うのにします?」
「そうだな。たまにはオレンジジュースにでも」
そう言って、オレンジのボタンを押そうとして、ふと気づく。
百五十円しか入れてない。
「やべ、十円足りない」
「はい」
湊が、すっと十円玉を差し出した。
「なんでちょうど持ってんだよ」
「先輩、さっき財布の中身見てましたよね。小銭少なかったから、たぶん足りないだろうなって」
「先回りすんな」
文句を言いつつも、ありがたくそれでジュースを買う。
「コーヒー牛乳じゃない先輩、ちょっとレアですね」
「うるさい」
ストローをくわえると、オレンジの甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。コーヒー牛乳とは違うタイプの放課後の味だ。
「どうです?」
「まあ、悪くない」
「顔、さっきとちょっと違います」
「どんな顔だよ」
「内緒です」
「またそれかよ」
そう言いながらも、俺は少しだけ笑っていた。
気づけば、さっきの屋上よりも、湊との距離は自然に近くなっている。歩幅を合わせるのにも、もうそんなに意識がいらない。
こいつは、俺のことをよく見ている。
飲み物、ルート、写真、表情。いちいち全部、覚えている。
知りすぎているくせに、まだ「もっと知りたい」とか言ってくる。
それが、ちょっとだけうらやましいと思った。
俺には、そこまで誰かを見ようとしたことがないからだ。
「なあ、湊」
「はい」
「お前さ。俺のこと、いつからそんな観察してんの」
「いつからだと思います?」
「そういうクイズ形式やめろよ」
「じゃあ、いつかちゃんと、答え言います」
「いつかっていつだよ」
「秘密です」
また、それだ。
でも今日は、その言い方が、昨日までより少しだけ優しく聞こえた。
夕陽の残りの光が、二人分の影を長く伸ばしていく。
距離が詰まりすぎていることに、俺がちゃんと気づくのは、もう少し先の話だ。



