放課後の写真部の部室は、今日も夕日でオレンジ色だ。
パソコンの画面には、文化祭の展示用に撮りためたデータがずらっと並んでいる。教室、グラウンド、中庭。どれもそれなりにちゃんと撮れているけど、決め手に欠ける気がして、俺はマウスを握ったままうーんと唸った。
「先輩、砂糖切れてましたよ」
後ろから、のんきな声がした。
振り向く前に、俺の目の前の机に、ストンと紙パックが置かれる。
コーヒー牛乳。
「……え、なんで」
「今日、三本目ですよね、それ」
平然と笑っているのは、一年の後輩、湊だ。
制服のネクタイをゆるめて、カメラストラップを片手でくるくる回している。相変わらず、妙に絵になるやつだ。
「いやいや、今日コーヒー牛乳飲むの初めてなんだけど。ていうか、これ、俺の?」
「陽斗先輩のですよ。いつもそれ飲んでるから、売り切れる前に買ってきました」
「いつもって」
「自販機、四列目の右から二番目。先輩、百五十円入れて、ちょっと迷ってから、絶対それ押すじゃないですか」
「こわ」
思わず本音が漏れた。
そんなところまで見られてるとは思ってなかった。
「こわくないですよ。ただの観察です」
「観察って言い方がこえーんだよ」
笑いながら、ストローを挿して一口飲む。甘さとコーヒーの匂いが、一日の終わりって感じで、すとんと胸に落ちてきた。
「先輩、今『やっぱこれだわ』って顔しました」
「してない」
「しました。目がちょっと細くなって、肩の力抜けるやつです」
「細かいな!」
ツッコみながらも、俺は肩をすくめる。
確かに、放課後に飲むコーヒー牛乳は、俺の小さな楽しみだ。でも、それを一年の後輩に言ったことはない。言ってないのに、普通にバレてるのが問題だ。
「ていうかお前、なんでそんなに俺のこと知ってんの」
「写真部なんで。対象を知るの、大事ですよ」
「俺、被写体にされた覚えないんだけど」
「じゃあ、これから増やしていきましょうか」
さらっと言って、湊は俺の隣の椅子を引いた。
いつの間にか、モニターの前のスペースが、二人でぎゅうぎゅうになる距離感だ。
「近い」
「画面、一緒に見ないと選べないじゃないですか」
「いや、まあそうだけど」
肩が触れるか触れないかのぎりぎり。湊からシャンプーの匂いがした。男子校じゃないけど、こういう匂いにいちいち動揺するの、普通に人としてどうなのって思う。
湊はマウスを指でトントンと叩いた。
「この体育館のやつ、好きです」
「それか。逆光で選手がシルエットっぽくなってるやつ」
「はい。光がきれいです。先輩、こういう光、好きですよね」
「……まあ、嫌いじゃないけど」
「昨日の本屋でも、似た感じの写真、じーっと見てましたよ」
「待て。昨日の本屋?」
俺は思わず湊を見る。
昨日、家に帰る前に、駅前の本屋にちょっと寄った。写真雑誌の新刊が出ていたから、立ち読みで特集ページをぱらぱらめくって──確かに、夕日を逆光で使ったスナップ特集のところで手が止まった。
でも、それを誰かに話した覚えはない。
「先輩、三列目の真ん中にあった『光で撮る放課後スナップ』、めちゃくちゃ食い入るように見てました」
「見てたけど。っていうか、お前も見てたの?」
「先輩の斜め後ろから、です」
「ストーカーか?」
「違います。ただの観察ですって」
さらっと言い切るその声が、冗談と本気の境目ぎりぎりで、ちょっとだけ心臓が跳ねる。
こいつ、本当に、どこまで見てるんだろう。
俺が何を飲んで、どのルートで帰って、どんな光が好きか。
そんなの、自分でもちゃんとは整理してないのに。
「先輩って、光のあるところに行きがちですよね」
「どういうこと」
「教室でも、窓側の席の子に『ちょっと写真撮らせて』って頼むじゃないですか。グラウンドでも、日が傾き始めると、そわそわし始めるし」
「してないけど」
「してます」
即答された。自信満々だな、こいつ。
「まあ、なんというか。先輩のそういうところ、好きです」
「急に何」
「写真部的に、ですよ。被写体じゃなくて、撮る人として」
「ああ、はいはい」
変に胸が熱くなりそうで、俺は適当にごまかすように相槌を打った。
自分なんかが「好き」なんて言われる器じゃない、というセンサーが反射的に働く。昔から目立つタイプじゃないし、モデルみたいな顔でもない。ただの、よくいる写真好きな高校二年だ。
だから、湊みたいに、顔もいいし、コミュ力もあるやつにさらっと褒められると、冗談だと受け取るほうが楽だ。
「先輩」
「ん」
「ちょっとこっち、向いてもらっていいですか」
気づけば、湊は自分の一眼を首から提げなおしていた。レンズが俺のほうに向く。
「俺? なんで」
「テストです。文化祭で使うポスター、部員のカットもあったほうが楽しいかなって。顧問もそのほうがいいって言ってましたし」
「え、聞いてないけど」
「今、決まりました」
「勝手に決めるな」
言いつつ、椅子の向きを変えて湊のほうを向く。こういうとき、断り切れないのが俺の悪い癖だ。
「はい、そのまま。あ、でも、もうちょいこっち。窓の光、拾いたいんで」
湊が俺の椅子の背に手をかけて、ぐいっと方向を直す。距離が一気に縮まった。顔が近い。目の前に、黒目がちの瞳。
息を飲んだのを、自分でも自覚した。
「先輩、固いです」
「そりゃ固くもなるだろ」
「いつもみたいで大丈夫ですよ。コーヒー牛乳飲んでるときの顔でお願いします」
「そんな顔、知らないし」
「僕は知ってます」
どこまでも当たり前みたいな口調だった。
カメラの電源が入り、レンズの中の湊の瞳が、じっと俺を射抜く。
「じゃ、いきます」
カシャ、と軽いシャッター音が響いた。
部室の中に、夕日の光と、その音だけが落ちる。
「……はい、いいです」
「もう?」
「一枚で十分でした。先輩、いい顔してます」
「からかってない?」
「からかってないですよ。ほら」
湊はカメラの背面モニターをくるっとこちらに向けた。
そこには、窓から差し込む光に少し目を細めている俺がいた。思っていたより、ちゃんと人の顔をしている。いつもより柔らかい気がするのは、光のせいだろうか。
「こういう顔、誰にでも見せてるんですか?」
さらっと落とされた一言に、心臓が跳ねた。
「は?」
「先輩が、写真撮ってるときとか、こういう顔してるの、時々あるんですよ。ふっと力抜けたみたいな。すごく、いい顔で」
「いや、だから、それが?」
「それを、僕だけが知ってたらいいのになって、思います」
モニター越しの自分の顔を見ながら、湊は笑った。
軽い言い方なのに、その奥に、少しだけ重さがある気がする。冗談のようで、冗談じゃないライン。
「なにその、独占欲みたいなこと言うの」
「先輩がそう聞こえるなら、そうなのかもしれません」
「人のせいにするな」
そう言いながらも、耳のあたりが熱くなっているのが分かる。
俺なんかを「独占したい」なんて、普通、思わないだろ。思わないはずだ。そう言い聞かせるのに、さっきより心臓の音がうるさい。
「じゃあ、この写真のデータ、先輩にだけ送ります」
「いや、部誌に使うんじゃないの?」
「それはそれ。ちゃんと他のも撮りますよ。これは、僕だけと先輩の秘密で」
「勝手に秘密作るな」
口では文句を言いながらも、スマホを取り出してしまう自分がいる。
湊は手慣れた様子でデータを転送してくれた。
トーク画面に、俺の顔がぽんと現れる。
その下に、短いメッセージ。
『先輩専用』
「なにこれ」
「名前つけただけです」
「いや、名前の問題じゃないんだけど」
思わず吹き出すと、湊は少しだけ満足そうに目を細めた。
「先輩」
「ん」
「これからも、もっと撮っていいですか」
「俺を?」
「はい。先輩のこと、もっと知りたいんで」
真正面から言われて、言葉に詰まる。
いつもみたいに冗談で返そうとして、うまく言葉が出てこない。
知りたい、って。
俺なんかの何を。
「……まあ、写真部だしな」
結局、情けない返事しか出せない。
「やった」
湊は子どもみたいに笑った。
その笑顔を見ていると、「まあ、いっか」と思ってしまう自分がいるのが、また悔しい。
◇
文化祭の候補写真選びは、とりあえず途中で切り上げて、その日は部室を出た。
部活終わりの廊下は、人がまばらで、窓の外はもうすっかり夕方だ。
「先輩、いつものルートで帰ります?」
「いつものってなんだよ」
「階段降りて、職員室前抜けて、自販機でコーヒー牛乳買って、駅まで歩くルートです」
「やっぱりストーカーだろ、お前」
「違います。観察です」
またそれだ。
笑いながらも、俺は内心、少しだけぞわっとする。悪い意味じゃなくて、なんというか、自分の輪郭を誰かになぞられているみたいな感覚。
「じゃあ今日は変えるわ。コンビニ寄って帰る」
「じゃあ、僕もついていきます」
「なんで」
「先輩の新しいルートも、覚えないといけないんで」
「覚えなくていいから」
くだらないやり取りをしながら、靴箱で上履きを脱ぐ。
外は、部室よりもさらに西日が強くて、学校の影が長く伸びていた。
ふと横を見ると、湊がスマホで何かを撮っている。
「何撮ってんだよ」
「先輩の影です」
「は?」
「さっきの光とは違うけど、これも、放課後の陽斗先輩って感じがして、いいなって」
画面をのぞき込むと、アスファルトの上に伸びた二つ分の影が写っていた。俺と、湊。並んで、少しだけ俺のほうが大きい。
「本体撮れよ、本体」
「本体も、そのうち」
さらっと言って歩き出す背中を、俺は苦笑いしながら追いかけた。
◇
夜、自分の部屋でベッドに寝転がりながら、スマホをいじる。
今日、湊から送られてきた写真を開いた。
夕日の窓辺で、少しだけ目を細めている俺。
自分で見ても、不思議な感じがした。鏡で見る自分とも、証明写真とも違う、ちょっと知らない顔。
「こういう顔、誰にでも見せてるんですか?」
昼間の湊の声が、そのまま耳の奥で再生される。
「誰にでも、なんて」
思わず、ひとりごとが漏れた。
そもそも、こんなふうに撮られること自体、初めてだ。
写真一覧をスクロールすると、もう一枚、別のデータがあった。
あれ、こんなの、送ってもらったっけと思って開く。
そこに写っていたのは、部室の窓際で、カメラを構えている俺の横顔だった。いつの間に撮られたのか分からないくらい自然な角度で、夢中でファインダーを覗いている。
「……いつのだ、これ」
送信時間を見て、今日じゃないことに気づく。もっと前だ。何日かぶん、何気ない俺の横顔や後ろ姿の写真がフォルダに並んでいる。
ぞわっとした。
でも、それは嫌な感じじゃなかった。
俺が気づかないところで、湊のレンズが、俺を追いかけていた。
「知りたいんで、って」
あいつは、たぶん本気で言っていたんだろう。
自分のことを知りたいなんて言ってくるやつが現れるなんて、想像したこともなかった。
胸のあたりが、じんわりと熱くなる。
コーヒー牛乳の甘さが、今ごろになってもう一回広がったみたいだった。
「……知りすぎだろ」
苦笑いしながら、俺はスマホを胸の上に置いた。
目を閉じると、夕日の光と、カシャというシャッター音が、何度も何度も頭の中でリピートする。
その中心には、レンズ越しに俺を見つめる湊の目があった。
パソコンの画面には、文化祭の展示用に撮りためたデータがずらっと並んでいる。教室、グラウンド、中庭。どれもそれなりにちゃんと撮れているけど、決め手に欠ける気がして、俺はマウスを握ったままうーんと唸った。
「先輩、砂糖切れてましたよ」
後ろから、のんきな声がした。
振り向く前に、俺の目の前の机に、ストンと紙パックが置かれる。
コーヒー牛乳。
「……え、なんで」
「今日、三本目ですよね、それ」
平然と笑っているのは、一年の後輩、湊だ。
制服のネクタイをゆるめて、カメラストラップを片手でくるくる回している。相変わらず、妙に絵になるやつだ。
「いやいや、今日コーヒー牛乳飲むの初めてなんだけど。ていうか、これ、俺の?」
「陽斗先輩のですよ。いつもそれ飲んでるから、売り切れる前に買ってきました」
「いつもって」
「自販機、四列目の右から二番目。先輩、百五十円入れて、ちょっと迷ってから、絶対それ押すじゃないですか」
「こわ」
思わず本音が漏れた。
そんなところまで見られてるとは思ってなかった。
「こわくないですよ。ただの観察です」
「観察って言い方がこえーんだよ」
笑いながら、ストローを挿して一口飲む。甘さとコーヒーの匂いが、一日の終わりって感じで、すとんと胸に落ちてきた。
「先輩、今『やっぱこれだわ』って顔しました」
「してない」
「しました。目がちょっと細くなって、肩の力抜けるやつです」
「細かいな!」
ツッコみながらも、俺は肩をすくめる。
確かに、放課後に飲むコーヒー牛乳は、俺の小さな楽しみだ。でも、それを一年の後輩に言ったことはない。言ってないのに、普通にバレてるのが問題だ。
「ていうかお前、なんでそんなに俺のこと知ってんの」
「写真部なんで。対象を知るの、大事ですよ」
「俺、被写体にされた覚えないんだけど」
「じゃあ、これから増やしていきましょうか」
さらっと言って、湊は俺の隣の椅子を引いた。
いつの間にか、モニターの前のスペースが、二人でぎゅうぎゅうになる距離感だ。
「近い」
「画面、一緒に見ないと選べないじゃないですか」
「いや、まあそうだけど」
肩が触れるか触れないかのぎりぎり。湊からシャンプーの匂いがした。男子校じゃないけど、こういう匂いにいちいち動揺するの、普通に人としてどうなのって思う。
湊はマウスを指でトントンと叩いた。
「この体育館のやつ、好きです」
「それか。逆光で選手がシルエットっぽくなってるやつ」
「はい。光がきれいです。先輩、こういう光、好きですよね」
「……まあ、嫌いじゃないけど」
「昨日の本屋でも、似た感じの写真、じーっと見てましたよ」
「待て。昨日の本屋?」
俺は思わず湊を見る。
昨日、家に帰る前に、駅前の本屋にちょっと寄った。写真雑誌の新刊が出ていたから、立ち読みで特集ページをぱらぱらめくって──確かに、夕日を逆光で使ったスナップ特集のところで手が止まった。
でも、それを誰かに話した覚えはない。
「先輩、三列目の真ん中にあった『光で撮る放課後スナップ』、めちゃくちゃ食い入るように見てました」
「見てたけど。っていうか、お前も見てたの?」
「先輩の斜め後ろから、です」
「ストーカーか?」
「違います。ただの観察ですって」
さらっと言い切るその声が、冗談と本気の境目ぎりぎりで、ちょっとだけ心臓が跳ねる。
こいつ、本当に、どこまで見てるんだろう。
俺が何を飲んで、どのルートで帰って、どんな光が好きか。
そんなの、自分でもちゃんとは整理してないのに。
「先輩って、光のあるところに行きがちですよね」
「どういうこと」
「教室でも、窓側の席の子に『ちょっと写真撮らせて』って頼むじゃないですか。グラウンドでも、日が傾き始めると、そわそわし始めるし」
「してないけど」
「してます」
即答された。自信満々だな、こいつ。
「まあ、なんというか。先輩のそういうところ、好きです」
「急に何」
「写真部的に、ですよ。被写体じゃなくて、撮る人として」
「ああ、はいはい」
変に胸が熱くなりそうで、俺は適当にごまかすように相槌を打った。
自分なんかが「好き」なんて言われる器じゃない、というセンサーが反射的に働く。昔から目立つタイプじゃないし、モデルみたいな顔でもない。ただの、よくいる写真好きな高校二年だ。
だから、湊みたいに、顔もいいし、コミュ力もあるやつにさらっと褒められると、冗談だと受け取るほうが楽だ。
「先輩」
「ん」
「ちょっとこっち、向いてもらっていいですか」
気づけば、湊は自分の一眼を首から提げなおしていた。レンズが俺のほうに向く。
「俺? なんで」
「テストです。文化祭で使うポスター、部員のカットもあったほうが楽しいかなって。顧問もそのほうがいいって言ってましたし」
「え、聞いてないけど」
「今、決まりました」
「勝手に決めるな」
言いつつ、椅子の向きを変えて湊のほうを向く。こういうとき、断り切れないのが俺の悪い癖だ。
「はい、そのまま。あ、でも、もうちょいこっち。窓の光、拾いたいんで」
湊が俺の椅子の背に手をかけて、ぐいっと方向を直す。距離が一気に縮まった。顔が近い。目の前に、黒目がちの瞳。
息を飲んだのを、自分でも自覚した。
「先輩、固いです」
「そりゃ固くもなるだろ」
「いつもみたいで大丈夫ですよ。コーヒー牛乳飲んでるときの顔でお願いします」
「そんな顔、知らないし」
「僕は知ってます」
どこまでも当たり前みたいな口調だった。
カメラの電源が入り、レンズの中の湊の瞳が、じっと俺を射抜く。
「じゃ、いきます」
カシャ、と軽いシャッター音が響いた。
部室の中に、夕日の光と、その音だけが落ちる。
「……はい、いいです」
「もう?」
「一枚で十分でした。先輩、いい顔してます」
「からかってない?」
「からかってないですよ。ほら」
湊はカメラの背面モニターをくるっとこちらに向けた。
そこには、窓から差し込む光に少し目を細めている俺がいた。思っていたより、ちゃんと人の顔をしている。いつもより柔らかい気がするのは、光のせいだろうか。
「こういう顔、誰にでも見せてるんですか?」
さらっと落とされた一言に、心臓が跳ねた。
「は?」
「先輩が、写真撮ってるときとか、こういう顔してるの、時々あるんですよ。ふっと力抜けたみたいな。すごく、いい顔で」
「いや、だから、それが?」
「それを、僕だけが知ってたらいいのになって、思います」
モニター越しの自分の顔を見ながら、湊は笑った。
軽い言い方なのに、その奥に、少しだけ重さがある気がする。冗談のようで、冗談じゃないライン。
「なにその、独占欲みたいなこと言うの」
「先輩がそう聞こえるなら、そうなのかもしれません」
「人のせいにするな」
そう言いながらも、耳のあたりが熱くなっているのが分かる。
俺なんかを「独占したい」なんて、普通、思わないだろ。思わないはずだ。そう言い聞かせるのに、さっきより心臓の音がうるさい。
「じゃあ、この写真のデータ、先輩にだけ送ります」
「いや、部誌に使うんじゃないの?」
「それはそれ。ちゃんと他のも撮りますよ。これは、僕だけと先輩の秘密で」
「勝手に秘密作るな」
口では文句を言いながらも、スマホを取り出してしまう自分がいる。
湊は手慣れた様子でデータを転送してくれた。
トーク画面に、俺の顔がぽんと現れる。
その下に、短いメッセージ。
『先輩専用』
「なにこれ」
「名前つけただけです」
「いや、名前の問題じゃないんだけど」
思わず吹き出すと、湊は少しだけ満足そうに目を細めた。
「先輩」
「ん」
「これからも、もっと撮っていいですか」
「俺を?」
「はい。先輩のこと、もっと知りたいんで」
真正面から言われて、言葉に詰まる。
いつもみたいに冗談で返そうとして、うまく言葉が出てこない。
知りたい、って。
俺なんかの何を。
「……まあ、写真部だしな」
結局、情けない返事しか出せない。
「やった」
湊は子どもみたいに笑った。
その笑顔を見ていると、「まあ、いっか」と思ってしまう自分がいるのが、また悔しい。
◇
文化祭の候補写真選びは、とりあえず途中で切り上げて、その日は部室を出た。
部活終わりの廊下は、人がまばらで、窓の外はもうすっかり夕方だ。
「先輩、いつものルートで帰ります?」
「いつものってなんだよ」
「階段降りて、職員室前抜けて、自販機でコーヒー牛乳買って、駅まで歩くルートです」
「やっぱりストーカーだろ、お前」
「違います。観察です」
またそれだ。
笑いながらも、俺は内心、少しだけぞわっとする。悪い意味じゃなくて、なんというか、自分の輪郭を誰かになぞられているみたいな感覚。
「じゃあ今日は変えるわ。コンビニ寄って帰る」
「じゃあ、僕もついていきます」
「なんで」
「先輩の新しいルートも、覚えないといけないんで」
「覚えなくていいから」
くだらないやり取りをしながら、靴箱で上履きを脱ぐ。
外は、部室よりもさらに西日が強くて、学校の影が長く伸びていた。
ふと横を見ると、湊がスマホで何かを撮っている。
「何撮ってんだよ」
「先輩の影です」
「は?」
「さっきの光とは違うけど、これも、放課後の陽斗先輩って感じがして、いいなって」
画面をのぞき込むと、アスファルトの上に伸びた二つ分の影が写っていた。俺と、湊。並んで、少しだけ俺のほうが大きい。
「本体撮れよ、本体」
「本体も、そのうち」
さらっと言って歩き出す背中を、俺は苦笑いしながら追いかけた。
◇
夜、自分の部屋でベッドに寝転がりながら、スマホをいじる。
今日、湊から送られてきた写真を開いた。
夕日の窓辺で、少しだけ目を細めている俺。
自分で見ても、不思議な感じがした。鏡で見る自分とも、証明写真とも違う、ちょっと知らない顔。
「こういう顔、誰にでも見せてるんですか?」
昼間の湊の声が、そのまま耳の奥で再生される。
「誰にでも、なんて」
思わず、ひとりごとが漏れた。
そもそも、こんなふうに撮られること自体、初めてだ。
写真一覧をスクロールすると、もう一枚、別のデータがあった。
あれ、こんなの、送ってもらったっけと思って開く。
そこに写っていたのは、部室の窓際で、カメラを構えている俺の横顔だった。いつの間に撮られたのか分からないくらい自然な角度で、夢中でファインダーを覗いている。
「……いつのだ、これ」
送信時間を見て、今日じゃないことに気づく。もっと前だ。何日かぶん、何気ない俺の横顔や後ろ姿の写真がフォルダに並んでいる。
ぞわっとした。
でも、それは嫌な感じじゃなかった。
俺が気づかないところで、湊のレンズが、俺を追いかけていた。
「知りたいんで、って」
あいつは、たぶん本気で言っていたんだろう。
自分のことを知りたいなんて言ってくるやつが現れるなんて、想像したこともなかった。
胸のあたりが、じんわりと熱くなる。
コーヒー牛乳の甘さが、今ごろになってもう一回広がったみたいだった。
「……知りすぎだろ」
苦笑いしながら、俺はスマホを胸の上に置いた。
目を閉じると、夕日の光と、カシャというシャッター音が、何度も何度も頭の中でリピートする。
その中心には、レンズ越しに俺を見つめる湊の目があった。



