塹壕での待機任務は昼夜交代制だ。
 陽が落ちてからしばらくして兵舎に戻ると、中はいつものように薄暗かった。

 天井から吊されたランプが、ぼんやりした橙色の光を落としている。
 壁に掛かったランプも、風に揺れるたび影をゆらゆらと踊らせていた。
 まるで、部屋そのものが呼吸しているみたいだ。

「なぁ聞いたか?戦争が終わるかもって」
「デマだろ。敵が流してんじゃねえのか」
「でも大人も話してるの聞いたって」

 あっちこっちで木霊する噂話。
 小声のはずなのに、静かすぎる兵舎ではよく響いた。
 私は入口で立ち止まり、しばらく耳を澄ませた。
 噂が広まっている。まるで火のついた紙のように。

「アサ!」

 と、毛布を抱えたユキノが手を振ってきた。
 少し息を弾ませながら駆け寄ってくる。

「なぁ、アサ。やっぱり休戦の話、ほんとなのかもしれないぜ」
「……らしいね。さっき塹壕でもそんな話してて」

 そう言いながら、私は胸ポケットに触れた。
 新聞の切れ端は、そこにちゃんとある。それだけで心が落ち着く気がした。

 一方のユキノは目を輝かせていた。

「やっとだ。こんな戦争。もう、やってらんねーもん……」
「……うん」

 本当は“うん”だけじゃ済まない気持ちだった。
 胸に去来する想いは複雑怪奇で、形がなくて。それでいて誰を想っているのかはわかっている。

 ────リク。
 私と彼はどうなるんだろう。もし休戦となったなら。

 会える?
 話せる?
 名前を呼び合える?

 そんな未来が頭の片隅をかすめてしまう。
 危うくて幼稚な考えだ。でも一度浮かんだら、もう消せなくなっていた。

「……アサ?」

 ユキノがのぞき込む。
 ランプの明かりが揺れて、ユキノの影が壁に長く伸びた。

「アサ、どした?お腹痛い?」
「え、あ……ううん、なんでもないよ」

 私は誤魔化すように笑ってみせた。
 でも胸のうずきは隠せないままで、ユキノは勘がいいからバレそうで怖い。

 兵舎の奥では、誰かがスープの残りを温めていた。
 湯気がゆらゆらと揺れて、ランプの光を柔らかく歪ませている。
 その揺らぎはまるで、私たちの行き詰まった運命が分岐し始めたと告げているようだった。

「……行こう、ユキノ。晩ご飯、もうすぐみたいだよ」

 兵舎の外では、風が雪を巻き上げていた。
 その音が、今日も“銃声じゃなかった”ことに、私はひっそりと安堵した。