ここ数日、銃声を聞いていない。

 灰谷戦線に来てから、こんな静かな日が続くなんて思ってもみなかった。
 いつもなら、朝の点呼のたびに一人二人足りなくなって、お昼にはまた誰かの名前が呼ばれなくなる。
 それが、この三日間誰も死んでいない。

 信じられないほどの、穏やかな日々だった。

 塹壕の中にいても、敵の足音すら聞こえない。射線の向こうには、いつもの灰色の空と、朽ちた街がただ広がっているだけ。

「……静かだ」

 私は壁にもたれながら、ひざ掛けをマントみたいに羽織った。
 悴む手で胸ポケットをそっと触れれば、布越しに固い紙の感触が返ってくる。
 そこにあるのは、リクからもらった北部軍の新聞の切り抜きだ。

『政府と南部軍指導部、非公式接触か。年内の暫定休戦 “可能性あり”』

 そんな見出しが踊っている。

 最初は疑っていた。
 というより、信じてしまったら苦しくなる、と思っていた。
 だって、こんな戦場で“希望”なんか持ったら……それが裏切られたとき、きっともう私は立っていられなくなる。

 けれど────

 銃声のない朝。誰も死なない昼。静かな夜。
 こんな日が続くと……否応なしに信じてしまう。

「リクの言葉……本当なのかな」

 手紙の最後に書いてあった一文が、頭から消えない。

『この戦争、終わるかもしれない。』

 あのときは半信半疑だった。
 休戦なんて絵空事だと思っていた。
 でもいまは違う。じんわりと胸に宿っている温度がある。

「これが希望……なのかな」

 塹壕の外から、コムギの鳴き声が聞こえた。
 ぴょん、と飛び乗ってきて、私の肩に顔をすり寄せる。

「え、コムギ?ダメじゃない前線にきちゃ……もう、ユキノに頼んだのにぃ」

 それでも、凍えた指先はコムギの温もりを求めていた。そっと抱きしめれば、それ実感する。

「ねぇ、コムギ。もし、ほんとうに休戦になったら……」

 続きは言えなかった。
 言ったら、戻れなくなりそうで。

 遠くで風が雪を巻き上げた。一瞬身構える。
 けれどその音が、銃声に似ていなかったことに、私はほっとした。
 今日も誰も死ななかった。
 それだけで、胸が震えるほど嬉しいなんて。

 コムギの柔らかな毛に顔を埋めて、私は未だ慣れない感情を噛み締めていた。