「はぁ……はぁ……たぶん……大丈夫……かな」

 息が切れて、血の味がするまで走った。
 どこか身を隠さないと。そう思って、崩れかけた門を潜ってたどり着いたのは小さな教会だった。
 ステンドグラスが照明弾に照らされて、まるで天使が迎えに来たかのような錯覚を覚える。
 気づけば、私はそっと背筋を伸ばしていた。

「教会……そうだ。オルゴール……」

 私は腰の弾薬ホルダーを開けた。そして安堵する。ちゃんとそこに収まっていたオルゴールを取り出し、幻想的な光の下に晒した。
 ところどころ塗装の剥がれた、小さなオルゴール。
 “あの日”……ここではない別の教会で拾った……というより、“奪った”と言った方がいいかもしれない。
 そうだ。これは私の罪の証でもある。このオルゴールを修理するまで……それまでは死ねない。
 知った上で、私はさっき自決しようとしていた。もっと言えば、死に損ねたことにがっかりしていた。

「き……ぃよし……こ……の、よる……」
「にゃんっ」

 猫ちゃんが合いの手を打ってくれたみたい。
 音痴な私の歌とは違って、この子の(こえ)はまるで聖歌のように清らかに教会の中を反響していた。

「にゃにゃにゃっ」
「わっ、すごいジャンプ力。ふふ……可愛いね」

 音も無く飛び上がった猫ちゃんを、私は抱き止めた。柔らかな毛並みと暖かい体温。そしていい匂い……ずっとこうしていたい気分だ。

「んっ?あれ……首輪がついてる」

 出会いからして慌ただしかったから、ついぞ気づかなかった。
 この子に首輪が付いていたことを。
 絹……だろうか?光沢を帯びていてしっかりと編み込まれた白い首輪だ。

「アナタはどこから来たの?」
「ぶるるっ」
「女の子?男の子?」
「にゃんびっ」
「お名前は?」

「コムギだ────」

 突如、鷲掴みにされたかの如く、心臓が止まった。
 春の日差しみたいな温もりが。一瞬で氷点下に落ちてゆく。
 ────背後からの声。
 男の子の声だ。さっきの2人とは違う……と思う。でも……

「こっちを向け。ゆっくりとだ」

 言われるがまま。私は猫ちゃんを抱いたまま、振り返った。
 ツノの付いたヘルメット、迷彩の軍服。私に向けられた、我が軍とは違う小銃。
 ────敵だ。
 同じなのは、彼もまた“子ども”だということ。

「猫を下ろせ」
「え……えと……」
「盾にしてるのか?」
「盾……ち、違う。この子はその……」

 猫ちゃんはこの状況でも、私にだっこされてご満悦だ。喉をゴロゴロ鳴らして微笑んでいる。

「コムギ、こっちにこい。そいつは敵だぞ」
「にゃ?ふんがっ」

 猫────コムギちゃんは「断る」と言わんばかりに、少年兵にお尻を向けた。
 ……鈴カステラみたいな“にゃんたま”がプルッと揺れたのを私は見た。コムギちゃんは男の子なんだ。

「はぁ……しゃーねえな。おい、お前」
「え、あ、はいっ」

 少年兵が、私に向けていた銃をさっと下ろした。
 その表情からは、敵意が消えていた。
 涼やかな目をしている。でも優しげな……その顔はとても鬼畜とは思えない穏やかなものだった。

「猫を食うのか?お前たちは」
「……は?」
「猫を料理して食べる文化はあるのかって聞いてんの」
「あ……あるわけないでしょ!ヒトをなんだと思ってるのよ」
「ふーん。ま、嘘はついてなさそうだな。おい、コムギ!」

 なんだよ、うるせーな。と言った感じに憮然した表情で、コムギちゃんは少年兵を横目で見やった。

「その子が気に入ったのか?」
「にゃおん。あんまっ」
「……ったく。おい、あんた。捕虜になるか?」

 降伏しろって?それは無理だ。私は意識を腰にさしてある拳銃へ向けた。

「捕虜には……ならない。それが決まりだから」
「まぁ、そうだよな」

 少年兵はため息をひとつつくと、銃を肩に提げて、私に歩み寄ってきた。
 反射的に、私は後退りをする。

「待て待て、何もしねえよ。いや、するっちゃするけど」
「……え?」

 さっと視界から消える少年兵。見ると、うずくまって何かしていた。

「なに……?」
「手当だよ。包帯な。つーか、怪我してんの気づいてないのかよ」

 怪我……どうやら太もものあたりに裂傷を負っていたようだ。血が滲んで、軍服を染めていたのだろう。
 彼は服を破いて、患部を消毒し、慣れた手つきで包帯を巻いてくれた。

「これでよし、と」
「あ……えと……」

 正直、戸惑っている。なぜ治療などするのか。殺せばそれで済むのに。

「どうした!敵はいたか?」

 その時、教会の外から声がした。また違う少年兵の声だ。
 目の前の彼が、大きな声で返事をする。

「いや、誰もいねーよ。ここはもういい、次いくぞ」

 やれやれ。と肩をすくめて少年兵は私を見据えた。

「俺が出てしばらくしたら、ここから大通りを目指せ。デカいおっさんの銅像があるから、そいつを横切ってまっすぐ進めば、あんたらの陣地に着く。わかったな?」

 見逃して……くれるの?
 私はきょとんとしていた。

「なんだよ、その顔」
「……殺さないの?」
「殺さねえよ」
「……なんで?」

 彼はヘルメットを外し、ぽりぽりと頭を掻いた。
 ついで胸ポケットを弄ると、袋に入った板状の何かを私に放ってよこした。

「え……なに?」
「やるよ。腹減ってんなら食うといい。すっげー不味いから覚悟してな」

 そう言うと、イタズラっぽい笑みを残したまま、彼は私に背を向けて立ち去ろうとした。

「ま、待って!」

 私は無意識に、彼を呼び止めていた。
 腕の力が少し強まったようで、抱かれたコムギが小さく鳴いた。

「私……アサ。アサっていうの。あなたは……?」

 呼び止められた彼は、一瞬だけ驚いた表情を浮かべたが、振り払うようにしてヘルメットを被り直しながら答えた。

「リク」

 リク。その名前を、私は胸の中で反芻した。
 いまになって、脚の傷が痛みだした。胸の鼓動に合わせるかのように。

「あーそうだ。なぁ、アサ。せっかくだからさ」
「へっ?」
「無事にそっちの陣地に戻ったら。連絡くれよ。猫のことも気がかりだしな」
「れ、連絡?」
「ああ。生きてますよーってさ。俺も返事すっから」
「いや……そう言われても……だってEMPでほら、無線とか使えないよ?」

 すると、リクは少しはにかんだ笑顔を向けてこう言った。
 
「コムギが繋いでくれるよ」