静かだった。

 塹壕の縁を越えた瞬間、私は撃たれる覚悟をしていたのに弾は飛んでこない。
 だから、ゆっくりとヘルメットを脱ぎ、両手を頭の高さまで掲げた。

「何をしている!戻れ!!」

 背後から督戦隊の叫び声が飛んできたが、私は振り返らなかった。
 振り返ったら、きっと歩けなくなる。
 だから、ただ前へ。

 一歩。
 また一歩。

 雪がぎゅ、と弱く鳴るたびに、戦場の張り詰めた空気が身体に染み込んだ。
 
「敵だ!」
「こっちに向かってくるぞ!」

 私の接近に気づいた北の少年兵たちが慌ただしく臨戦体制に移行する声が聞こえた。
 銃口が複数、私に向けられたのが夜目にもはっきりわかる。
 ────撃たれる。
 もう恐怖はないつもりだった。それでもやはり本能ではしがみつきたい命があるのだろう。
 もっと彼らに近づかなければならないのに。
「戦うつもりはない。だから塹壕から出てきて」そう訴えるつもりだったのに。
 いまや足は竦んで立ち止まり、私は無意識に目を閉じてしまっている。

 まるで撃たれるのを待っているかのように、私はその場に立ち尽くしていた。
 いったいどのくらいそうしていたのかわからない。
 数秒か数時間か。
 気づけば、前からも後ろからも聞こえていた少年兵たちの色めきだった声も聞こえなくなっていた。

 ────その理由は、すぐにわかった。

「アサ。寝てんの?」

 それは、ずっと待ち侘びていた声だった。
 手紙を読むたび、なんとか思い出して脳内で再生していた声。
 促されるようにして、私はそっと目を開けた。

「リク……」
「おう。久しぶり」

 リクだった。
 リクが私の目の前に立っていたのだ。ヘルメットを外して。

「もう無理だって、手紙で言ってたくせに。抜け駆けして、手柄も独り占めか?」
「え……?」
「周り。見てみろよ」

 そう言われ、横を向いた。
 南軍の兵士たちだ。右にも左にも、そして振り向けば後ろの方からも。みんな塹壕から出てきたのだ。
 誰ひとり銃は持っていなかった。ただゆっくり、ゆっくりと一歩一歩歩みを進めていた。

「お前らだけじゃねえぞ?」

 リクの言う通り。北の少年兵たちも銃を置いて塹壕から身を晒している。
 どうすればいいのかと戸惑っている彼らを、リクが「こいよ」と手招きをした。それを合図に一人、また一人とこちらに向かって歩いてくる。

 やがて、双方の兵士たちが向かい合った。
 互いに困惑し、恐怖を浮かべ、中には塹壕に置いてきた銃を振り返る者もいた。
 そんな中、私よりもさらに背の小さい南軍の少女兵が、一歩踏み出した。たぶん、12歳くらいの子だ。
 彼女は何かを手のひらに載せて、向かい合っていた北の少女兵に手渡した。

「それ、チョコレート。美味しいから、あげる」

 袋に包まれた小さなチョコレート。それを受け取った少女は、一息置いたあとおもむろに包みを開けると、そっと口に運んだ。
 そして俯き、ぐすっと鼻をすすってから、顔をあげることができずに涙を拭ってこう言った。

「……ありがとう」

 私とリクは、視線を交わして微笑んだ。
 もう言葉はいらない。ここにいる全員が、同じことを考えていた。